第4話 三すくみ
つかさが、三すくみについて思い出すようになったのは、山陽道の取材旅行から帰ってきて、締め切りに原稿を間に合わせてから三日くらいが経った時だった。それまで三すくみの関係について忘れていたわけではなかったと思ったが、ひどく意識していたわけでもなかった。
学生時代までは、ことあるごとに三すくみについて考えていたような気がしたが、仕事があるわけではなかったので、そういう意味ではいろいろと頭の中で考えることができたのであろう。
人間関係の中での三すくみというのは、意外とありそうなのだが、なかなか聞くことはない。男女関係におけるいわゆる、
「三角関係」
と呼ばれるものは、三すくみとして考えることはできないのだろうか?
だが、この場合の三角関係が明るみに出た時は、不倫あるいは浮気をされた方が一番強く、自分の旦那か奥さんに対してと、不倫をした相手に対しても証拠さえ掴んでいれば、言い訳できないだけの力を持つことができる。もちろん、精神的な苦痛は伴ったのだから、相手から傷つけられたという意味では、精神的な弱さがあるので、一緒の三すくみなのだろう。この解釈は難しいところである。
相手との関係を精神的に考えた場合と、それを裁判などによって金銭に変えたりする場合とでは、相手との関係も変わってくる。
そういう意味では、三すくみと三角関係は、比較する次元が違っているのかも知れない。
今回つかさが頭に残ったのは、井倉洞と後楽園で見たその男性であり、その人がなぜ自分の前に一度ならずも二度までも現れたのかを気にしたからだった。
そのことがあったせいなのか、エレベーターに乗った時、上昇する時と止まる時などが気になって仕方が無くなっていた。普段は意識することもなく身体に力を入れていたのだが、最近では身体は勝手に動くのだが、その動きに対していちいち考えてしまう自分がいる。
――もし、子供の頃だったら、思わず飛び上がってみたかも知れない――
と感じるほど、頭の中は実際に飛び上がった感覚を思い描いていたようだった。
誰から教えられたわけでもないのに、エレベーターの感覚を不思議なものだという認識を最初にしたはずなのに、それ以降気にすることはなくなっていた。だが、最初にエレベーターに乗った時に感じた意識は、
「前にも感じたことがあったような」
という感覚だったような気がする。
初めて乗ったはずなのに、どうして以前にも感じたことがあるようなと思ったのか、まるでデジャブではないか。
しかし、それをつかさは、
「後になってから思い出したので、時系列に錯覚を生じているんだ」
と思うようになった。
つまり、二度目以降に感じた、
「前にも感じたことがあったはず」
という思いを、最初の時に感じたものだとして意識が持っているということである。
「意識の中で辻褄を合わせるために、記憶を操作した」
と言えるのではないだろうか。
だから、最近のつかさは、
「意識は簡単に変えることのできないものだが、記憶は意外と簡単に変えられる」
という思いを持っていた。
ただ、意識も絶対に変えることのできないものではない。自分を納得させることができれば、意識も変えることは可能であろう。
それを思うと、記憶と意識の間には、意識が上であるという従属関係が生まれるのではないかと思えてきた。
――じゃあ、意識と記憶以外に何か他の感情で、三すくみを形成できるのではないだろうか――
というおかしな発想がつかさの中に生まれてきた。
その時に思い出したのが、井倉洞で見た上下で距離が違っているという感覚に陥った時に感じた、電車の中の感覚、
「垂直に飛び上がった時、密室の中の電車の中では、同じスピードで走っていれば、飛び上がった場所と同じところに着地するはずだ」
という理論だった。
もし、この密室の中に三すくみの感情があるとすれば、記憶と意識、そしてもう一つは何かをいろいろと考えてみた。
――潜在意識ではだろうか?
と考えてみると、潜在意識の代名詞とでも言えることを、
「夢である」
と考えると、強い方である意識よりも、夢の方が強いという感覚を持つことがまずできるであろうかということである。
夢というのは、あくまでも本能というべき無意識によるものである。無意識というと意識していることよりも明らかに幅は広い。幅という意味で考えれば、意識よりも強いと言えるだろう。
だが、今度は夢は記憶よりも弱いおのでなければいけない。果たしてその理屈は成立するであろうか。
記憶というのは、意識が過去に変わることで記憶という別の場所で格納され、意識のように自分を操ることのできるものではなくなる。ただ、記憶というものは時と場合によって思い出すことで、励みになったり、逆にその人を制約してしまう力を持っている。その力は無限のものに感じる。なぜなら、記憶が引き起こす自分への影響は、あまりないことなだけに想像の域を出ないわけではなく、想像に値しないものだと思えるからだった。
そう思うと夢という範囲は果てしないもので、いくら意識によって変えられたとしても、まったく触ることのできない場所もある。それがいわゆる、
「記憶の封印」
と言われるものではないのだろうか。
封印する場所があることで、記憶はある意味では意識よりも強いと言えるのかも知れないが、人間の考えの中心は記憶ではなくあくまでも意識なのだ。それは変えることのできない事実である。
では、夢というものはどうなのだろう?
夢は潜在意識と呼ばれる本能が見せるものである。
「夢なんだから、何でも可能であろう」
という発想になるだろうが、実際に夢の中で意識をすることは難しい。
夢を見ているという意識を持ってしまうと、場合によってはそこで目を覚ましてしまうこともある。特に夢というのは、覚えている夢はほとんどないという。これは、
「無意識の中の意識」
とでも言えるかのような潜在意識によるものだからである。
要するに、自分に都合のいい夢というのは見ることなどできないのだ。
ただつかさは今までに夢を見ていることを意識しながら、夢を見続けたことがあった。
「これは夢だ」
と思って、思わず空を飛んでみようと思った。
高いところから飛び降りるような危険であれば、たぶん、途中でせっかくの夢が覚めてしまわないとも限らないので、普通に宙に浮くところからやってみようと試みると、実際には宙に浮くことまではできた。しかし、そこから自由に空を遊泳できるようなことはなく、まるで空間が水中であるかのように、空気を漕ぐことでやっと進めることができたのだ。
それは、以前子供の頃に見た、SFアニメで同じような光景があったのを覚えていたからだというのも、すぐに理解した。つまりは、
「夢というのは、しょせん想像の域を超えることはできずに、自分にとって都合よく見ることなどできないものだ」
という結論に陥る。
そうなると、自由に変えることのできる夢に対して、実に弱いものに感じられる。
意識との比較では、変えられる方が弱かったのは、あくまでも、
「意識が介在することで記憶が変わる」
という力関係があるからだ、
「夢と記憶の間には、記憶の内容を変えられるだけの力を、夢が持っているわけではない」
という関係から、力関係においては、記憶の方が強いと言えるだろう。
そう考えてみると、
夢と記憶と意識、この三つには三すくみの要素があると言えるのではないだろうか。
ただし、これはかなり強引な理論に基づいているものなので、どこまで信憑性があるものなのか分からないが、つかさの中では納得のいくものだった。他の人との人間関係だけではなく、一人の人間の中にも三すくみが存在していると考えると、実に面白いと言えるのではないだろうか。
そんなことを考えていると、取材旅行で見た不思議な男性への感覚は、それが夢なのか、それとも意識なのか、記憶なのかのどれあろうか?
と思わずにはいられなかった。
元々三すくみというと、じゃんけんのようなゲームであったり、ヘビ、ナメクジ、カエルというお互いにけん制し合うような関係をいう。つまり一種の密室のような感覚を抱くのはつかさだけであろうか。
それぞれに自分が積極的に自分より弱い相手に向かっていけば、そこで自分が苦手な相手に隙を作ってしまうのではないだろうかと考える。
しかし、相手も同じことを考える。相手が動いたのだから、こっちも動くと今度は横から?っ攫われてしまうのではないかと思う。
つまり、自分がどちらかに注意の重きを置けば、もう一方が疎かになってしまい、命取りになりかねない。だから、双方に対して均衡に注意力を保っておく必要があるのだ。そうでないと、足元をすくわれないとも限らないからだ。
自分の中にある、三すくみの関係だと思っている、意識と夢と記憶の関係も、もしそれぞれで相手を「意識」するとすれば、均等にしなければいけないだろう。ちなみに、ここで書いた「意識」という言葉は、三すくみの中にある意識でもあるのだが、その中で突出したものでなければ、この発想を抱くことはできないのだろうと思うのだった。
つかさは、自分が三すくみを意識するようになったのは、小学生の頃だったのだが、あの時はもちろん、三すくみなどという言葉も知らず、じゃんけんを知っているだけだった。それは他の子供と同じことで、じゃんけんが孕んでいるところに従属関係など感じていなかった。
それなのに、中学になってから感じた三すくみの関係では、つかさは、自分の中でハッキリと、
「従属関係」
というものを感じていたのは、間違いのないことだった。
つかさは、井倉洞で見た男が、同じ次元でスピードが違うという発想を考えてみた。
いろいろと考えてみたが、思い浮かんだのは、
「温度差の違い」
というイメージだった。
人は奇しくも、同じ光景を見ていて違うものを想像したり、同じ状況下で立場が違う時など、
「温度差が違う」
という表現をする。
若者用語のようにも感じ、最近の言葉のように感じるが、果たしてそうだったのだろうか?
言葉として普及していなかっただけで、同じことを考えていた人はたくさんいたのではないかと思うと。その温度差に、つかさは色の違いを感じるのだった。
つまり、青く氷のような色は時間も空間もそして人間の感覚もすべて凍らせてしまい、時間自体を遅くしてしまうことになるのではないか、凍ってしまったかのように見える人も実際には微妙にゆっくりと動いていて、決して止まっているのではないという発想である。
だから、全体の色を明るくすれば、空間も時間も少しずつ早くなってくる。
つかさは、この三つ、つまり、
「時間、空間、人間」
で三すくみを形成してみようと思った。
そこで考えられるキーワードとして、つかさは、「支配」をイメージした。
そうなると、考えられる従属関係は、まず時間は空間よりも強い。理屈としては、空間までは三次元で一つの感覚だが、その外に覆いかぶさっているのが四次元を形成する時間というものである。
そして次に、空間と人間の感覚であるが、人間は空間を乗り越えることはできない。時間のように架空の感覚ではなく、実際に見えているものであるにも関わらず、空間を思うように扱うことができないからだ。それに比べて、人間は時間を自分の行動に合わせてコントロールすることができる、だから人間の方が従属しているのではないかと考えられるのだ。
これが、人間を三角形の頂点として考えた時の発想であるが、他にもたくさん似たような三すくみは存在することであろう。
人間一人の中の発想として、
「夢、意識、記憶」
でも三すくみができたではないか。
三すくみという発想はどこでも作ることができ、そして、そこには何かのキーワードが存在している、
「夢、意識、記憶」
という三すくみに存在しているキーワードを考えると、つかさは、
「呪縛ではないだろうか」
と考えた。
縛ることに強い因縁を感じる。それが、人間一人の中に存在しているものであるとすれば、呪縛という言葉が当てはまるのではないかと思うのだった。
そういう意味では、電車の中の密室という発想、これも一つの呪縛と言えるのではないだろうか。
基本的には人に対しての言葉なのだろうが、自由を束縛するという意味では、決まった空間の中だけで繰り広げられるもの。そう考えると、三すくみと言うのも、決まった範囲の中でそれぞれがけん制し合って、表に出るのを抑制しているとも言えるだろう。
そうなると、
「三すくみにはキーワードが存在する」
と考えているが、そのキーワードというものには限りがあり、特に大きく分けると先ほどの、
「支配」と「呪縛」
という発想になるのではないだろうか。
つかさにとってその考えは。今までに考えたことが一度はあったような気がした。
しかし、考えたことを一瞬にして打ち消したのか、それともすごいことを閃いたと思って、
――覚えておかなければいけない――
と思ったことが却ってあだになってしまい、余計な意識がそのまま記憶として封印されてしまったのではないだろうか。
つかさは、そんな三すくみのことを友達に話そうかと思ったが、話ができるような信用してくれる人もいないし、話をしてはぐらかされようものなら、そのショックが結構大きいことを感じていた。
もし、話をできる相手がいたとしても、どのように話せば理解してくれるかなどということも分からない。出版社で雑誌記者をしているくせに、しかも文学部を出ているのに、語彙力という意味では他の人に遥かに劣るというのは分かっていた。だからといって、他に勝るものがあるのかと言われると難しいのだが、せめて、人がしないような発想、今回のように三すくみのような発想をできるというのが、自分の中での強みであり、最終兵器のように思っていた。
「いざとなれば、奇妙な話をどんどん思いつけばいいんだ」
などという発想はまるで子供のようでもあるが、実際に今までの経験は、きっと他の人にはないものだと感じていた。
「もう少し、語彙力があれば、奇怪な話をテーマにした特集でも組めたのかも知れない」
と感じたが、逆にあまり奇怪な話に語彙力を表に出して表現すると、
「読んでいる人が混乱するのではないか?」
と思うのだった。
今までいくつか、観光スポットの記事を書いてきたが、奇怪な話を書いたということはなかった。編集長からも、
「読者が行ってみたいというような楽しい記事を書いてほしい」
と言われていたので、言葉から判断すると、
「無難な記事で纏めなさい」
と言われているようにしか見えなかった。
それだけ編集長はつかさの記事を、
「無難にしか書けない編集者」
あるいは、
「冒険をさせてはいけない編集者」
として見ていたのかも知れない。
冒険をさせられないというのは、奇怪な話が面白いというわけではなく、下手に話をいじって、禁止ワードに触れないようにしないといけないという考えからだったのだろう。
編集者としての力はそれほどでもないが、無難にまとめる記者としては、貴重な存在だと思われているとすれば、どうにも微妙な気持ちにさせられてしまう。
確かに取材をしてきて自分の記事を起こすのは嫌いというわけではないが、これは誰にも言っていなかった自分だけの願望なのだが、
「いずれは小説家になりたい」
という思いがあった。
本当はそういう意味では出版社に入って、自分で記事を書くというのは、不本意な気がする。なぜなら、自分のなりたい小説家は、あくまでもフィクション作家であり、ノンフィクションのようにすでにあったことをただ文章にするというだけのことは嫌だったのだ。
しかし、作家になると言っても、すぐになれるものではない。自分で勉強して少しずつ書けるようになっていくものだと思っている。最初は出版社に入社して、
――小説を書けるようになるための勉強をさせてもらおう――
と思っていたが、それが自分の本当の意志に逆らっていることに、次第に気付いてきたのだ。
実際に好きで、やりたいことを掠めるような仕事についたことで、やりたいことを横目に見ながら、自分は別のことをしなければいけないという大きなストレスを、自らで担ぐとになってしまうとは、思ってもいなかった。
「我慢できることとできないことがあるとすれば、出来ないことなのかも知れない」
と、特に最近はそう思うようになっていた。
それを強く感じたのが、山陽道の取材旅行から帰ってからのことだったのだ。
――このことを感じさせてくれたのが、井倉洞や後楽園で見た、あの人だったのかも知れないな――
何がそんなに前と違ったのかは分からないが、明らかに違う思いが頭の中によぎっていて、今まで忘れていたはずのない、
「小説家になりたい」
という思いに再び火をつけてしまったのだ。
ひょっとすると、今回の旅行で今まで自分の中で燻っていた思いが、三すくみへの思いとして形になってきたのかも知れない。
三すくみというものが、つかさに対してどのような思いをもたらすのか、ハッキリとは分からないが、気持ちの中にあるモヤモヤが、今であれば、自分独自の言葉として形づけることができるような気がして仕方がなかった。
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