第9話 結界と限界
つかさは子供の頃から、友達と三すくみを形成しているという感覚を持っていた。特に小学生の頃にあった三すくみは、しばらく経ってから思い出して、
「あれが三すくみだったんだ」
と感じたのだが。その思い、つまり既視感のような感覚が初めてではないと思ったのは、それ以前から似たような思いを感じていたからだろう。
一体誰に対して、いや、三すくみだから、誰と誰に対して感じていたことなのだろうか?
と感じたが、相手が分かったのは、小学生の時の三すくみの相手が分かった時よりもアロのことだった。
だが、時系列的には小学生の時の友達との三すくみではなく、それ以前に感じた三すくみだった。つまりは、小学生の一、二年の頃に感じたことだったのである。
その相手というのは、友達ではなかった。もっと自分に親近感があるはずの家族だったのだ。
家族と言っても、自分は一人っ子で、兄弟はいない。ということは必然的に両親ということになる。ずっと子供の頃から三人暮らしが続いていた。その時に感じた「三すくみ」だったのだ。
父親は、母親に対しては強いが。つかさに対しては弱かった。母親は、父親に対しては弱かったがつかさに対しては強い。そしてつかさは必然的に、父親に対しては強いが、母親には弱かったのだ。
父親が母親に対して強いのは当たり前で、家族の大黒柱なのだから、これはどこの家庭でも一緒だろう。そして母親が子供に対して強いのも、母親が父親に対して弱いため、教育のすべてを母親が押し付けられているということもあって、子供に対しては強くないと務まらないというのも理屈である。
父親が子供に弱いというのは、どこの家庭も同じというわけではないが、特に娘が相手であれば。父親は娘に弱いものである。そうやって考えると、この関係は、どこの家庭にもあるものかも知れないと思った。
しかし、三すくみなどという感覚は、そんなに皆が感じているものではない。言葉は知っていても、その意味まではよく分かっていない人も多いことだろう。まさかそんなあまり自分たちに直接関係のないような言葉が、無意識に人間関係を形成しているなど、想像もつかないに違いない。
つかさが、この関係を知ったのは、小学四年生の時だった。三年生の時の友達との三すくみで、過去に覚えのある既視感を感じたことで、それ以前の自分を顧みてみたのだろう。そう思うと、小学生の頃に、
「果たして何度、三すくみという関係を感じたことだろう」
と考えると、まだ他にもあったのではないかと過去の自分を顧みてみる。
しかし、それ以上は考えることができず、小学生の頃は二度だけだったと思えてきたのだ。
中学生になると、また友達に感じたものと同じような三すくみを感じた。
今度は中学生になってからなので、思春期に入っていた。女教師が絡んでいることもあって、何か羞恥の思いが頭をもたげたが、これを果たして三すくみの中の一つとして考えた時、特殊な感覚だったのではないかと思っていたが、実は思春期が転換期で、それ以降の大人になってくると、この時の三すくみが頭の中から離れず、
「これが大人の三すくみな関係なのかも知れない」
などという考えが頭に残ってしまったりする。
それ以降、高校時代にもあったような気がしたが。今では記憶の奥に封印されてしまったように思う。この感覚は、
「あまりにも平凡に思える三すくみの関係だったので、思い出したくないことの一つではないか」
と感じたことで、封印されているのではないかと思った。
とにかく、二十戯歳までの今までに、果たして何度三すくみを感じたのかということを思い出していると、この間の岡山で見かけた人にインタビューをした時のことが頭によみがえってくるくらいだった。
小説を書きたいと思ってミステリーを読んでいると、その中にハッキリと見えてはいないが、
「今までに感じた何かに似ている」
と思った時、三すくみを感じた。
特に、犯人が共犯を欲する時に感じるものだった。つかさが読んだミステリーのほとんどには共犯を必要とした。しかもその共犯というのが、一つのパターンに収まらず、
「こういうのも、一種の共犯と言えるのだろうか?」
という関係もあったくらいだ。
普通の冊人事面などの共犯というと、思い込むのは、大きな犯罪を二人で共同に行うというのが、ピンとくる共犯の持ち方であるが、実際にはそれよりも、お互いに相手のアリバイを証明するというような共犯の方が多いのではないだろうか。虚偽の証言をすることで、犯人のアリバイを証明する。これだと、相手は虚偽供述という意味で、偽証罪になるかも知れないが、殺人犯として逮捕されることはない。いきなり、
「絞首台行き」
ということはないだろう。
そうなると共犯くらいにはなってくれる可能性は高いというものだ。
またよくあるパターンとしては、どこかに襲撃したりする時の共犯などであるが、これは実際の事件にはあることであるが、逆にミステリーという小説の世界では少ないのではないだろうか。
共犯というものを最初から必要としていなかったのに、共犯の方で勝手に、殺害幇助をしている場合もある。犯人としては、相手を殺害することが目的で、別に逃げも隠れもしないと思っていたのかも知れないが、犯人に対して愛情のある、例えば親だったり、恋人だったり、子供だったりが、その人が犯人だということを分かって、敢えて本人が知らない間に死体に細工などをして、犯行をくらませようとするパターンである。
また逆のパターンもある。これは厳密には共犯ではないが、犯行を目撃し、それを幇助してやるという約束で、犯人を脅迫するというパターンである。絶対的な立場が強い共犯者なので、犯人も逆らうことができないというパターンだ。
そして、立場的に逆な場合もある。犯行を見られたことで、見た人間を脅して、共犯に引き込むという手段である。こちらは稀ではあるが、まったくないわけではない。
要するに、犯人を巡っていろいろな立場の共犯がいて、一つの殷ステリ―小説の中で、犯人は一人だが、いくつか犯罪を犯す中で、共犯者がバラバラだということを描いたものがあった。
普通、犯罪事件において、共犯者が多ければ多いほど露見しやすく、危険であると言われるが、いくつもの犯罪を犯す中で、共犯者が何人もいれば、共犯者の中で裏切ろうなどと考える人はいないと思ったのが、この犯人の考え方だった。
いくつかの犯罪の中で一つには自分が関与しているのだから、他の犯罪にも別の共犯者がいるということは、その共犯者には分かるはずだ。
しかも、それを隠して分からないように犯行を繰り返しているということは、犯人と他の共犯者との関係がよく分からない。自分にも教えてくれない相手だと思うと。共犯者は疑心暗鬼になってしまう。
そうなると、もし自分が突出した行動を取ると、今度は自分がターゲットになってしまい、他の共犯者から殺されてしまうかも知れない。犯人はすでに何人も殺しているのだから、
「一人殺すも二人殺すも同じ」
という感覚になっていることだろう。
どうせ捕まれば、確実に主犯は、
「絞首台行き」
である、
それが分かっていて連続殺人を犯すのだから、何をするか分からない。しかも、自分が知らない共犯が他にいると思うだけでm本当に不気味だ。それぞれでそうけん制し合うことで、主犯は安全な位置に身を置くことができるというような小説だった。
最後はどのようにして捕まるのかまでは覚えていないが、確かやはり誰かの裏切りがあったはずである。
「共犯が多ければ多いほど、犯罪はすぐに露呈する」
というのは、本当なのであろう。
この場合は、
「策士、策に溺れる」
とでもいうべきであろうか、捕まる時はアッサリだったようだ。
この場合の共犯者たちの関係は、三すくみのような関係とは言えないだろうか。確かに皆が同じ立場で、三人でなくとも成立するものであるが、ただ気になるのは、主犯が真ん中にいて、この主犯がよくも悪くもこの状況をすべてにおいては悪しているというのが事実だった。
犯罪事件の共犯において、三すくみの理論を押し込めるのは、かなり強引なのかも知れないが、その小説を読んでいると、三すくみが感じられたというのも、まんざらでもなかった。
考えてみると、今まで読んだミステリーで、半分以上の作品に、それぞれの形で共犯者が存在したような気がする。
一番少なかったのは、犯人の計画を知って、脅迫されるか何かして、共犯に引き入れられたというパターンだったが、一番多かったのは、共犯にさせられた人が知ってか知らずか、犯人のアリバイ証人に利用されるというものであった。
どちらにしても共犯としてはオーソドックスで、ありえそうなパターンであるが、中には、主犯と共犯の利害の一致というのもある。
被害者が死んでくれることで、恨みを晴らすという復讐であったり、遺産が転がり込んでくるという財産目当てであったり、理由は違うが、殺人によって、それぞれの利益を得られるというものだ。
ミステリーで探偵や警察が最初に疑うのは、動機である。
「殺害することによって、利益を得るのは誰だ?」
という考え方であったり、さらにアリバイがある人、ない人を選別し、犯人を割り出そうとする。
それが犯罪捜査の定石と言ってもいいだろう。
これらの共犯を、それぞれに三すくみの関係に落とすこともできるのではないだろうか。
その三角の頂点というのは、
「犯人と共犯者と被害者」
である。
犯人は被害者に弱かった。脅迫か何かを受けていた。しかし、共犯者には強い。共犯者は、被害者には強い。別に利害がない場合のことであるが、そして犯人には弱いというパターンだ。
だが、三すくみが成立しない共犯もある。
例えば、犯人側の利害が一致した場合、この場合は二人の犯人は被害者に対して弱かったということになる。これでは三すくみの入り込む隙間は崩れてしまった。
つかさは、小説を書いていて感じることのなかった別の意味での三すくみを、
「性格的なドッペルゲンガー」
に見出したのだった。
だが、他の人の小説で、これ以外にも三すくみがたくさんあると思って見ていると、昔から読んできたミステリーに三すくみが絡んでくることに気が付いた。
そのキーワードが、
「共犯」
であり、そう思っていまさらながら思い出してみると、結構共犯がいたことに気付かされたのだった。
犯罪露呈の危険がある共犯ではあるが、どうしても共犯の存在がないと成立しない犯罪も多いということではないだろうか。そこにミステリというジャンルの限界のようなものがあり、その限界が、三すくみによって作られる、
「結界」
というものとどこか似ているのではないかと、つかさは思うのだった。
この間のインタビューでは、かなりいろいろなことを学んだ気がした。
「人の考えにもいろいろあるし、二人で話に花を咲かせていけば。気付かなかったことをまるで堰を切ったかのように気付くことができる」
という発想である。
それにしても、あのドッペルゲンガーの話を、二度、三度と読まなければ、本当にインタビューしていても、淡白に終わってしまっていたかも知れない。
これから書いていきたいと思っているジャンルは、これからも変えていく気はないのだが、その中で三すくみという考え方を織り交ぜることで気付かなかったことが気付いてきたり、どこか繋がらなかった話の結末が見えてくるのではないかと思うようになった。
「現実は小説よりも奇なり」
などとよく言われるが、つかさとしては、
「現実には限界というものがあるが、小説にあるのは、結界なのではないだろうか?」
という考えがあった。
それはきっと三すくみという考えが生み出したものであり、小説にある結界を、いかなる形でぶち破ろうとするかが問題だと思っている。
「結界なのだから、破ることはできないものなんだ」
限界とどこが違うのか、少し考えてみることにした。
これはあくまでも、つかさの私見であるが、
「限界というのは、人間が決めるもので、結界というのは、誰にも決めることのできない、最初からの決定事項である」
というものである。さらに、
「結界は確かに決定事項であるが、それを決定できる人がいろとすれば、それは神でしかない」
ということになるのだろうと思う。
よく、
「限界を自分で決めるんじゃないと、アスリートや芸術家などは言われたりするが、まさにその通りで、自分で決めることができるものなのだ。だから、現実というのは、決めてしまわなければ、基本的には無限であるという考えだ。
しかし、小説などには、
「犯してはならない領域があり、それを犯してしまうと、小説としての様をなしていないように見られるだろう。人の人生を他人が評価することはできないが、小説などは他人が評価する。そのために、侵してはならない領域が存在するのは当たり前のことである」
と言えるのではないだろうか。
プロであれば、さらにそこに、収益という足枷もついてくる。他にもいろいろな束縛があり、その束縛を判断するのが、出版社の人間であろう。そうなると、どこまでが作家の意志なのか分からなくなってしまい、矛盾と現実のジレンマに悩まされることになるに違いない。
つかさはそこに新たな三すくみを創造していた。
「限界と結界、そして常習性」
である。
限界と結界は、今の話で理解していたが、常習性というのは、循環的な考え方で、三すくみとしての限界と結界が常習的にやってくるという発想だ。
「限界よりも結界の方が拘束性という意味で強いが、常習性を孕むことがないという観点から、常習性には弱い。しかし、限界には強いというのは、何度も限界を感じていると、限界が見えてくる」
という発想だ、
少し強引な組み合わせにも思えるが、そうやって考えると、二つしか見えていなかったキーワードのどちらかに関係のあるキーワードを見つけて、この三つの関係性を考えてみると、意外と三すくみというものが形成されるのではないかとも考えられる。
三すくみというのは、気付いていないだけで、どこにでも、いくつでも存在している。それを認識することで、三すくみを今までに何度も感じてきた自分が、おかしいのではないということも理解できるだろう。自分を納得させることで、気が付けば三すくみを形成していたのであれば、それは、三すくみが自分の中で情勢のあるものとして認識しているということになる。
つかさは、この三すくみを小説にしようと思った。この間の、「性格的なドッペルゲンガー」の作者の人も言っていたではないか、
「あなたになら、この三すくみについての小説を書けるんじゃないですか?」
「そうですか? あなたが書く方がいいのかな? って思ってましたけど」
と、本音をぼかしていうと、
「私には書けないと思うんですよ。私にはすでに三すくみを意識して書いた『性格的なドッペルゲンガー』という小説がありますからね」
と彼が言った。
「確かにあの作品には三すくみを思わせる描写もありましたが、だからと言って書けないというのはどういうことなんでしょう?」
と聞くと、その時に、初めて彼が結界について語った。
「それは私があの小説を書いた時点で、すでに結界を目の前に迎えてしまったのだと思うんですよ。小説というのは、『超えてはならない結界』というものが存在していると思っているんです。つまり、その結界を超えると、二度と戻ってこれないか、見てはいけない世界を見てしまったことで、ただでは済まないという考えですね」
というのだ。
「結界というのは、そんなに恐ろしいものなんですか?」
「私は恐ろしいものだと思います。昔戒律を示した『十戒』というのがありましたね。神との約束のようなもので、それを破ると、災いがもたらされるというものですね。それに近いものだと思います。あと具体的なところでは、生と死の世界ですね。絶対に覗けない世界でしょう? 死んだら絶対に生き返ることはない。生まれ変わることしかできないということです。生まれ変わってしまうと、前の意識はまったくなくなっていて、新しい人間として生きていくことになるます。もっとも生まれ変われるのは、人間とは限らないという説もありますけどね。要するに、死ななければ、死後の世界を見ることはできない。そこには絶対的な結界が存在しているからですね」
「なるほど、結界というのは、本当に人間ではどうすることもできないものなんですね?」
「ええ、そうです、。でもあなたは、それを無意識に分かっているんじゃないですか?」
と彼はいった。
「どういう意味でしょう?」
少し訝しい表情を示したつかさだったが、別に苛立っているわけではなく、自分でも分かっていないということを、目の前の人に看破されたことに訝しさを感じたのだ。
「あなたは、限界というのはその人が決めることができるけど、結界というのは、才子所から決まっているものだということを暗に匂わせていたではないですか。それを聞いて私は、あなたに対して、自分と同じ発想を持っていると感じたんですよ」
と言われた。
またしても、目からウロコが落ちた感じだった。
――そうなんだ、私は最初から分かっていたのかも知れない――
それを自分で最初から理解していたのか、それとも彼との話の中で、自分で理解し始めたことだったのか、ハッキリとは分からなかったが。
――そのどちらもなのかも知れない――
とも思った。
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