かたえの痕

十余一

かたえの痕

一真かずまちゃん!」

 砂利道を行く少年を呼び止める声がする。よく通る声の持ち主はあぜの草刈りでもしていたのだろう。手ぬぐいを被り、ひたいには玉のような汗が浮かんでいる。せかえるような夏の気配が、もうすぐそこまで迫っていた。

 一真と呼ばれた少年は雪駄せったを履いた足を止め、小さな声で「おすみさん」と少女の名をこぼした。清々しい風が青稲せいとうを波立たせ、学帽を被る少年の幼い頬と、少しばかり大人びた少女の頬を撫でる。澄は一真の二つ上だ。

「怪我は? もう、大丈夫なの?」

 心配を滲ませた澄の問いかけに、「うん、平気」と、一真は着物の袖を捲って見せた。少年の細腕に刻まれた火傷痕が太陽の元にさらされる。

あとが残ってしまったのね、可哀想に。燃えさしの炭を投げつけるだなんて、本当に馬鹿げたことだわ」

 澄はまるで自分のことのように悲しみ怒る。幼少期から共に過ごしてきた弟分が謂れのない暴力を受けたことが許せないのだろう。

「気にしなくていいのよ、あんな噂も、そんなことをする奴等のことも」

 近ごろ集落では、“一真の母は人ではない、畜生だ”という噂話がまことしとやかに囁かれていた。畜生の子は多胎児であるからして、一真と同時に生まれた子どもがいる。それを隠すために彼らは秘密裏に入れ替わって日々を過ごしている、と。火傷は、そんな言説を真に受けた学友から受けた傷だ。

 噂、という言葉に一真は少しばかり動揺したが、澄はそのまま話を続ける。

「きっと嫉妬しているんだわ。一真ちゃんはこの村でいっとう勉強ができるんだもの。中学校※旧制中学に行って将来は偉くなるんだろうって、みんなに期待されてる。だから有りもしないことを言われてしまうのよ」

 最後に「そうでしょう?」と付け足し、いくらか背の低い少年を覗き込むように見つめた。少女の目には、どうかそうであってほしいという願望が籠っていた。しかし疑念と怖気が隠し切れずに染み出し、確信めいた光を灯す。

 一真は汗ばむ手ではかまをきゅっと握り、誤魔化すように口元だけに笑みを浮かべた。

「そうなのかも、しれないね」



 金色の三日月が西の空に昇る頃、一真は土蔵を訪れた。母屋おもやから離れたそこは生垣と庭木に囲われ、彼以外に訪れる者はいない。

 引き戸をわずかに開け体を滑り込ませると、暗がりに向けて「ただいま」と声をかける。

「おかえり。今日はどうだった?」

「算術が楽しかったよ」

 蔵の奥から現れた少年は、今しがた来たばかりの少年と今日という日を分かち合う。高窓から差しこむ薄明かりに照らし出されたのは、鏡映しのような二つの顔だった。

 二人は血を分けた兄弟だ。双子として生まれ、片方は殺される定めだった。が、禁忌タブーを侵し、二人で一人の人間を演じ生きながらえている。

「そういえば、お澄さんがまたあの噂を気にしていたよ」

「お澄さんは何かとおれたちに世話を焼いてくれるからね」

「違和感を感じてしまうのかな」

「他の人より騙せない」

「あれは確信しているかも」

「せっかく火傷の痕も同じにしたのに」

 二人は袖を捲り上げ、互いの腕を見せ合った。片や学友に、そしてもう片方は自らの手で付けた傷だ。月光に照らし出された青白い肌に、赤黒い痕が残る様は痛々しい。彼らは引きつった皮膚を、労わり慰めるように指でなぞり合う。痛みも苦しみも憂いも、全てを共有してきた。そうして今まで生きてきた。

 片割れが、ふと思い出したように言う。

「それにしても、いったい誰が噂を流したのだろう」

「おれたちを育てた乳母も、この家に仕えていた下男も、不慮の事故で喋れなくなったのに」

「産婆もとうに召されているね」

「他にも、おれたちのことを知っている人がいる?」

「どうしたって人の口には戸が立てられない」

「お澄さんも事故に遭ってしまうのかな」

「父様はおれたちを守るために必死だから」

「おれたちではなくて、おれたちを産んだ母様のことを、だ」

「チクショウバラなんかじゃなかったって、母様はちゃんと人間だったって、そういうことにしたい」

「父様はきっと、心の奥底ではおれたちのことを憎んでる」

「だって、母様はおれたちを産んだせいで死んでしまったから」

 自問自答のような会話を繰り返していた二人の間に、暫しの沈黙が訪れる。覚えていない母のぬくもり、暴走する父の狂気、姉のように慕っていた存在の行く末。しかしそれらは重要なようで、実は些末なことなのかもしれない。

 一真の目には、互いの存在しか映っていなかった。

「おれたちはずっと一緒だよ」


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