あなたとわたし

夏休みに入って数日。

部活も何もすることのない私は

宿題と面と向かっては

面倒くさくなりベッドに転がる

生活をしていた。

たった1か月しかない休暇だというのに

一体何をしているのだろう。

もうちょっとマシな過ごし方が

あるはずなのだけど、

ゲームをするにもすぐに飽きてしまい、

動画を見るにも数十分で耐えきれず、

結局オーケストラやピアノの音が

折り重なって構成された睡眠音楽を

流すのみとなっていた。


本を読むにも今日は気が向かない。

せっかくなら何かしら

思っていることを

文字にしてみようかと思ったが、

自分の感情の痕跡が残ると思うと

手を出すことができなかった。

今後それを手にして

嗚咽を出すだろうことが予想できるから。

所謂黒歴史になりかねないのだ。


結華「…暇。」


絵を描く…ことは、数年前までしていたけれど

今更やる気にもならない。

絵はやめた。

無駄だし。

それなら音楽も無駄でしかないけど。


悠里の部屋に入って

ギターやトランペットを

持ってこようかと思ったが、

そんなの悠里になってしまうような

気がしてしまって寒気が襲った。

どうしても音楽に手をつけることが

できなくなっていた。


悠里の欠けた部活では

今頃どんな会話が

繰り広げられているのだろう。

夏休みでもほぼ毎日活動のある

吹奏楽部のことをぼんやり思う。


悠里はトランペットの中でも

ソロのある重要な部分と聞いた。

1年生でソロを勝ち取ったらしい。

それ自体前代未聞と言っても

過言ではないだろう。

周囲からは羨望の眼差しが

向けられただろうか。

それとも、憎悪や嫉妬の眼差しが

向けられただろうか。


他の吹奏楽部員によると、

3年生は受験後の3月に

最後の公演があるらしい。

そこでは人数やパートによるが

3年生全員がソロパートを

もらえるらしい。

だからこれが最後じゃないなんて

耳にしたことがある。

とはいえ、悔しいことには


変わりないはずなのだ。

3年生だって、自分が主役だと

思いたかったはずだ。

それを、ふと湧いて出た1年生に

もぎ取られてしまうなんて。


もし私だったら。

例えば、美術部に入っていたとして、

そして今3年生だとして。

これまでは部内で1、2位を争うくらいには

絵が上手だったとしよう。

でも、急に入ってきた1年生に

その座を突如奪われる。

皆、その1年生のことを褒める。

ちやほやする。

でも、1年生の子はそんなのどうでも良くって、

絵にしか興味がない。

すいすいと絵の中を泳ぐように

どんどんいい絵を生み出していく。

それを見続けることしかできなくて、

私だったらいつか手が止まる。

絵を描くのをやめる。

上には上がいるとは知っていた。

知っている。

だって、コンクールで毎回

入賞しているわけじゃなかったし。

でも、それほどまでに目の前で

才能の差を、努力の差を見せつけられたらー。


結華「私だったら…。」


だからか。

だから、絵をやめたのか。

やめたんだ。

槙結華は、絵を。


吹奏楽部の人たちは

心が折れなかったのだろうか。

美術とは違ってチームで

行うものだから相談とかできたのだろうな。


上半身を起こす。

何故だろう。

やる気もなく何もしたくなかったはずなのに

手際よく着替えてはリビングに降りた。


食べるのを諦めていた朝食が

冷蔵庫の中に眠っている。

両親の2人ともが外に出ていて

悠里もいない家の中。

悠里が入院していようが

入院してなくて部活に行っていようが、

同じような生活を送っていただろう。

悠里に振り回されていると思ったこの生活は

案外何も変わっていなかった。


朝食を温めて1人食卓に並べる。

ああ。

長期休みの時は私、1人で食べてたんだっけ。


結華「いただきます。」


手を合わせる。

ふと気づく。

裸足のまま過ごしていたからかな、

夏だというのに足の指先が冷えていた。





***





ふらりふらりと気の向くまま

制服を着用しては、

身なりを整えて学校に向かった。

昼間に家を出たせいで

すぐに絞れるかと思うほど

汗が滴っていた。

32℃でまだマシだと思えるなんて、

人間どれほど作り変えられれば

及第点に達するのだろう。


焼けるコンクリートの上を

へばりながら進むと

やっと学校が視界に入った。

白い校舎は光を反射して

目には随分と痛みが走る。

校舎の奥には雲ひとつない

異常なまで綺麗な青が澄み渡っていた。


ぱー、と楽器の音が耳を掠める。

あ、これはトランペットだ。

耳が自然と音を掴んで離さなかった。


校舎に入ると、午前から人がいたのだろう、

冷房が効いていて汗を瞬時に乾かした。

10分もすれば汗は引き、

突然の寒気に襲われるようになった。

靴箱の中の空気は温暖のままで、

足熱の状態で上履きを鳴らす。


勉強道具を持ってくればよかった。

そうすれば、まだ学校に来た意味が

あるというのに。

今更そう思いながら

気の向くまま音楽棟に向かった。


階段を上がりしばらく進むと、

音楽室が見えてくる。

離れた場所から扉の窓を覗くと、

合奏練習をしているのか

全員が扇状になって先生を囲んでいた。

楽器を構え、いくつかの音が重なっている。

心地のいい音が耳に届く。

また、自信ありげなトランペットが鳴る。

少し不安定なオーボエが鳴る。

フルートがぐっと支えて。

トロンボーンがふと顔を出す。


しばらく演奏を聴き入る。

何度も聞いたことのある曲だったもので、

原曲とどの部分が違うか

何となく掴むことができた。

やっぱりオーボエが弱いな、と思う。

少しして、先生がふと指揮を止めた。


「第二楽章のところが少し弱いです。特にオーボエ。」


「はい。」


「ここは掛け合いの部分なので、この楽曲の元となった人たちは何を思っているのか、何を伝えたいのか。それを音に乗せてみてください。」


相変わらず難しいことを言うな、と

思っていると、

オーボエのリーダーだろう人は

わかったのかわかってないのか知らないが

「はい。」ともう1度返事をした。


そこで休憩が言い渡され、

パートごとに集まって

わいわいと騒ぎ始めた。


先生が近づいてくると思えば扉が開かれ、

咄嗟に離れたものの

しっかりと目があってしまった。


「あ、槙さんの…。」


結華「はい、悠里の妹の結華です。」


「ああ。どうしたの、こんなところで。何か用事?」


鋭い目つきが私を刺す。

長く、ストレートの髪が肩にかかっている。

夏だというのに、

冷房の効いた部屋にいたからだろう、

涼しげな顔をしていた。


結華「…いえ。たまたま通りかかって見に来ただけです。」


「そうだったのね。槙さん、残念だったね。」


結華「もうすぐ夏の大会でしたっけ。」


「そうなの。でも、トランペットは3年生たちが頑張ってくれてなんとかなりそうなの。」


結華「そうっぽいですね。」


「他の生徒から聞いてた?」


結華「いえ。音を聞いてそう思っただけです。」


「あら、双子揃って耳がいいのね。」


結華「そんなことないですよ。私には音楽の才能はないですし。」


「そうかな?うちはいつでも入部OKだからね。」


結華「勧誘ですか?」


「ふふ。決まり文句なだけ。」


先生にしてはやけに素直じゃなく、

裏表がありそうだと思った。

どこか悠里に似たような部分を感じながら

私に背を向ける先生の姿を眺む。

ちらと教室内にいる

生徒たちを見ると、

わいわいとパートごとに集まって

楽しそうに会話をしているのが見える。


それらを横目に、やっと音楽棟を離れた。

かつん、かつんと靴裏が鳴っている。


結華「…。」


なんだ、と思った。

…。

悠里がいなくても成り立つんだ、と。


その瞬間、悠里に勝ち誇ったような。

それでもって同時に同情のようなものが

湧いて出てきた。


結華「……私たち、必要とされないもの同士だったんだね。」


最近のお母さんとお父さんは、

悠里のことを1番に考えるようになった。

これまで私のことだって

気にかけてくれていたのに。

むしろ私のことの方が

可愛いと思ってくれていたのに。

悠里には表面上の愛しか

手渡していないと知っていたのに。


けれど、悠里が事故に遭った結果がこれだ。

鬱陶しく思っていたはずなのに、

差し詰めある意味娘を失ってから

気づいた、というところだろう。


家での会話は、親は口を開けば

「悠里は」「悠里が」と言うようになった。

私は必要とされていないんだと実感した。


私は、親から。

悠里は、学校から。


私たち、双子同士似てたんだよ。

似てたんだ。


結華「…可哀想。」


まるで人ごとかのような言葉が

ほろりと項垂れて滑り落ちた。


何となく。

何となく、寂しくなった。

何となく。

何となく、申し訳なくなった。

何となく。

何となく、自分を責めてみた。

それらの感情が癖になりそうで、

恐ろしくなって手放したくなった。

けど手のひらにくっついた負の感情は

そう簡単に離れてくれない。

手を振り払っても、

もう片方の手で強く引っ掻いても、

離れてくれないのだ。

悠里の手が、離れてくれない。

私を掴んで離さない。


…。

本当にそれが悠里なのか、

確かめることをしなかった。

知ってるから。

答えは知ってるから。


それから何となく外をぶらつき、

何となく電車に乗っては、

何となく病院に向かった。

全て何となくで済ませたかった。

今日だけは、今だけは

全ての言動に理由を

つけたくなかったのだと思う。

理由なんて放っておきたかったのだと思う。

あれだけ理由を求めていたのに、

理由が鬱陶しく映った。


病室に入るのには毎回躊躇う。

悠里に会ってしまうことが怖くて、

1度、足を止めるのだ。

それでも踏み出す。

どうしようもなく、自分は馬鹿なのだろう。


からら。

乾いた室内に乾いた音が鳴り響く。

咄嗟に顔を上げて

こちらを凝視する悠里。

そしてそっと微笑んで

緩やかに手を振っていた。


悠里「やっほ。」


結華「…。」


悠里「外暑かったでしょ。ほら、涼んで涼んで。」


そう言っては近くにあった

ノートをとっては

私のことを仰いでくれた。


結華「…いいよ。疲れるでしょ。」


悠里「元気は有り余ってるんだけどね。」


結華「そうみたいだね。」


悠里「うん。」


結華「そのノート、何?」


悠里「あ、これ?持ってきて欲しいってお願いしたんだよね。」


じゃーん、と普段の彼女であれば

口に出したであろう言葉は

発せられなかった。

表紙には「わたしのにっき」と書かれている。

全部ひらがなだったのには

理由があるのだろうか。

単に面倒くさかっただけだろうか。


部屋が涼しいせいで

すぐに汗は引いていく。

温度差で風邪をひいて

しまいそうなんて思いながらも、

立っているのもおかしいかと思い

ベッドの近くにあった椅子に腰掛けた。


悠里は嬉しそうに

少しばかりこちらに体を寄せた。

布の擦れる音がした。


悠里「病院で本読むのも飽きたから、日記書こうかなって思って。白紙のノートを持ってきてもらったの。」


結華「へえ。」


悠里「すぐに持ってきてくれてね。助かっちゃった。」


結華「本読むのってそんなすぐに飽きるの?」


悠里「うーん、私が持ってたらしいものは全部読み終わっちゃってさ。」


結華「そっか。悠里は動いている方が似合うし仕方ないね。」


悠里「あ、やっぱりそんな感じなんだ、私って。」


結華「体が覚えてる?」


悠里「そんな感じ。手を動かしてたくって仕方なかった。」


ふと部屋でギターを弾いたり

トランペットを吹いていたりする

悠里の姿が思い浮かぶ。

小さい頃はその近くで

私が絵を描いていたっけ。

一緒に手を動かしていた記憶が霞む。


結華「そっか。どんなこと書いてるの。」


悠里「えっとねー。」


つい先日、私が怒鳴ってしまったことを

忘れているかのように

近い距離感で話していた。


悠里は日記を開いて

恥ずかしげもなく私に見せてくれた。

仰々しいことは書かれておらず、

リハビリを頑張って褒めてもらえただとか

私と喧嘩して申し訳なく思っただとか

悠里の感情のそのままが書き記されていた。


結華「私が見てもよかったの?」


悠里「うん、もちろん。」


悠里は即答する。

迷うそぶりなど一切見せなかった。


悠里「だって私たち双子じゃん。」


結華「…!」


悠里「結華は1番頼れる人だもん。16年間一緒にいたんでしょ?なら、何を明け透けにしたって全然気にならない。」


結華「…。」


悠里「むしろ、私は嬉しいな。」


知ってくれて、結華の記憶の一部に

私が残るのだから。


そう付け加えて、悠里は笑っていた。

記憶がなくなったことなど

何ひとつ気にしていないみたいだった。

今を生きる。

それしかできないもの。

そうすることしか道がない。

それなら、いっそのこと全力で

駆け抜けてやる。

誰よりも楽しんでやる。

第2の人生だと思えば何ともない。

昔の私?

知らない、そんなもの。

今の私が私だ。


そう言っているように見えた。

幻想だろうか、

昔の悠里と仲良くなれた未来が

見えたような気がした。


悠里「結華?」


悠里が顔を覗き込む。

不安げ…というよりかは

疑問に思っているのだろう、眉を顰めていた。

その顔が間抜けで、面白くて。

それで、愛おしくて。


ああ。

私、大きな過ちを犯したんだ。

今になってその重大さが

嫌というほどわかってきた。

わかってしまった。


悠里は日記をめくり続ける。

堅苦しいことが何ひとつ書かれていない。

上からの指示があったとか

そういうこともひとつもない。

病室に入ってから上からの干渉が

ないのかもしれない。

はたまた口止めされているのかも

しれないけれど。


でも、何故か自然と

今の悠里を信じても

いいかもしれないと思ってしまった。

今の悠里はきっと何も指示されていなくて、

等身大の、悠里で。


悠里「どうかしたの?」


結華「…悠里は、記憶、取り戻したい?」


悠里「…。」


結華「…好きに決めて。」


悠里「前に結華は言ったよね。昔の私は最低なやつだったって。」


結華「うん。」


悠里「どんなふうに最低だったのか考えて見たの。例えばお皿を何度も割るドジな最低だったのか、宿題を忘れて叱られてもやってこない意地悪な最低だったのか、とかね。」


結華「…うん。」


悠里「でもね、考えるだけ無駄だなって思ったの。」


結華「…。」


悠里「結華に言われたからってわけじゃないけど、私ね、このままでもいいかなって思ったの。」


結華「…そう。」


悠里「思ったっていうか、思えるようになってきた、かな。」


結華「…。」


悠里「それも、看護師さんや病院の先生や、家族や…結華のおかげ。」


結華「…。」


悠里「昔の私も今の私も、たくさんの人に支えられて生活してたんだなってわかったから。」


これが本来の彼女だったのだろうと、

口を開く前に通り過ぎていった。


悠里は今になってやっと

普通になれたのだろう。

重圧もあっただろう。

それからやっと免れて、普通の女の子にー。


いや、普通などないか。

私たちは特に、初めからおかしいじゃないか。

2年前からは特段と。


普通の暮らし?

そもそもそんなものないに決まってる。

決まってるんだ。

ただ時に多数なだけで。

ただ時に理想なだけで。

普通は何かと問われると

みんな答えられないじゃないか。


普通なだけで幸せになれるのなら

世の中に逸れものなんて存在しない。


そこにあるものに気づけば

幸せなのだから。

きっと悠里はそれに

気づいたのだと思う。


悠里は。


悠里「夏のね、お盆あたりには退院できるかもだって。」


結華「…。」


悠里「そしたらさ、いろんなことして遊びたいんだよね。」


結華「…。」


悠里「今なら私記憶ないし、全部新しい思い出で埋め尽くせるよ。」


結華「…。」


悠里「何をしても新鮮かも!だってまず、海に行きたいでしょ、夏祭りも行きたいし、あとプールも!って海とほとんど一緒か…。」


結華「…。」


悠里「それからそれから…」


結華「学校から宿題、あるよ。」


悠里「うげ…でも、自分がどのくらい勉強を覚えてるか知りたいしちょうどいいかも。」


結華「そっ…か。」


悠里「じゃあ、お盆明けたら図書館でもいって、1日で宿題を終わらせてやろうよ。」


結華「…。」


悠里「それまで病室には宿題持ち込み禁止!」


結華「…あはは、今が遊び時だね。」


悠里「ねー。スマホ使ってもいいって言われたし、ゲームでもしようかな。」


悠里は遠くを見ていた。

キラキラした眼差しで、

先の未来ばかり見ていた。

過去を振り返らなかった。

必要ないと思われていることも知らないで、

そもそも必要とされていたことも忘れて。


悠里は。


…。

また、私を置いていくんだろうな。


悠里「それからそれから」


結華「悠里。」


悠里「ん?」


相変わらずくりっとした目でこちらを眺む。

私たち、顔だって似てるはずなのに

何故か悠里の方が可愛く見えたっけ。

愛嬌があるってこういうことなのだろうな。


ふと、冷房だろうか、

冷ややかな風が吹いて

机の上に広がったままのノートが

はらりと捲られた。


結華「…っ!」


そこには、黒のシャープペンシルだけで

描かれている悠里の景色が残っていた。

今悠里の座っている場所から

見える景色を模写しただけのようだったが、

そこにまっすぐ進めと

暗示しているかのような

標識がいくつも建てられている。

正面の壁は敢えて描かれておらず、

道がずっと遠くまで続いている。

分岐していないその道は、

それから先も過去を振り返らずに

今の悠里として生きていくと

決めているかのように見えた。


悠里「なあに?」


結華「………絵、上手だね…。」


悠里「え、本当!?やった、初めて描いたんだけどいい感じだなって自分で思ってて!」


結華「…本当、悠里って何でもできるよね。」


悠里「そうかな。ほら、手が寂しくて勝手に動いちゃってさ。」


だから楽器も上手で

MIXもできて、人付き合いも

上手かったんだろうな。


悠里ってば、器用だから。

だから。

私から絵だって奪って…。


悠里「でも、結華に褒められて勇気がー」


結華「………ごめんっ…。」


悠里「え?」


結華「……ごめんなさい…っ。」


無意識のうちに、

口が勝手に動いていた。

止まることを知らないかの如く

体が動いてしまっていた。


結華「あなたの全てを、全て…奪ってしまって……ごめんなさい…っ……。」


ぎ、と音がなりそうなほど

膝の上で強く握りしめて

拳を作っていた。

手汗がどんどんと滲み

気持ちの悪い感触が広がる。

それでも手を開けずにいた。


だって、私のせいで。

私のせいで、悠里は。

悠里は。

記憶を。

全てを。


私のせいで。


瞬時に何度反芻しただろう。

頭の中すらも止められずにいると、

そっと私の手の甲に指が触れた。

そして、許すかの如く

優しく重ねられた。


はっとして顔を上げる。

頬に妙な感触が伝って溢れた。


嫌だな。

こんな予定じゃなかったのに。


悠里は変わらず安心させるような

春のような笑みを浮かべていた。

彼女の左手が伸びている。

私の右手に重ねられていた。


悠里「大丈夫だよ。だから、そんな顔しないで。」


指先を取られ、手を握られる。

手汗が酷いというのに、なんて

考えられもしなかった。


悠里「これから沢山思い出つくろうね。」


約束。

そう最後に一言言って、

少し間を空けてから

満面の笑みを浮かべた。


きっと私が小さく小さく

頷いたからだろう。


悠里はきっとこれから

知らない世界を歩いていく。

戸惑うことも、怖くなることも

沢山あると思う。

知らないこと、わからないことだらけで

困惑してばかりになるだろう。

それでも、悠里ならどこかに

光を見出して歩いていける。

今の悠里なら、きっと。

きっと、大丈夫。


それでも。

私が良くとも周囲がそれを

よしとするかどうかなんて、

この時の私は全くわかっていなかった。


みんん、みん、と

窓越しに夏の背が聞こえてくる。


結華「…蝉の声が聞こえるね。」


悠里「本当だ!退院、楽しみだな。」


夏の足音はいつの間にか

ここまで辿り着いていた。










わたしとあなた 終

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