ひらと甲
悠里の部屋に入って数日後のこと。
私たちは何も変わらず
日々を過ごしていた。
ひとつ言えるとするのであれば
悠里がふざけて上の人のことを
ツイートしたことだ。
もこちゃんがどうとか、
本来であれば行ってはいけないはずなのに
悠里はあろうことか許されている。
加えて、煽るような文章を
立て続けに書き込んでゆく。
結華「…うざ。」
それが私には理解できなかったし、
悠里だけが許されている事実に
苛立ちを抱え出していた。
先日、悠里がおかしくなったのには、
家族がおかしくなったのには
理由があると思って部屋まで突入した。
悠里すらも被害者だと思った。
けれど、もしかしたらそうでも
ないかもしれない。
悠里自身望んで、天狗になっていただけなら。
環境ががらりと変わったせいで
そう思えなくもないのだ。
結華「…はぁ。」
重たい足を引き摺りながら
教室からだらだらと退出する。
うだうだしながらも
6時間目までしっかりと
授業を受けた自分を褒めてやりたい。
今日ばかりは何もしたくない。
何もしたくなかったし、
本音を言ってもいいのであれば
学校にだって行きたくなかった。
けれど、休めなんて指示はあるわけがなく
どれほど嫌でも学校に
行かなくちゃいけないのだ。
例えば気分が落ち込んでいても。
例えばいじめられていたとしても。
こういう時、普通の家庭なら…だとか、
もしも一人暮らしだったら…だとか
余計なことが頭をよぎる。
…。
普通の家って何なのだろう。
理想とされる家族像はあるとしても、
普通の家族はわからない。
ペットがいて、子供が2人いて、両親がいて。
それが世間一般でいう理想の幸せだろう。
なら普通はどうか。
片親の人だって、毒親と呼ばれる人だって、
ペットを飼っていない人だって、
兄弟のいない人だっている。
両親がいない家だってある。
そもそも家がない人だっている。
結華「…普通…。」
「おーうい。」
のめっとした甘ったるい声が
耳に届いた。
その声を聞いただけで
苛立ちが募るなんて
彼女には一種才能があるだろう。
こんな状態でよく半年間以上も
活動できたものだ。
無視してそのまま帰るつもりが、
あろうことかどんと衝撃が
首元に巻き付いてくる。
暑いのにくっついてこようとする
陽キャのノリも理解できなければ、
嫌いな相手にくっついてくる
悠里の考えも理解できなかった。
悠里「ういー、どお、調子はー」
結華「くっついて来ないで、気持ち悪い。」
悠里「あれあれ、学校ではそんなに口悪いキャラじゃないでしょー。」
周囲には数人の生徒が
いるといういるというのを
分かった上で大きな声で言っていた。
何人かがこちらを見るのがわかる。
けれど、ありがたいことに
興味なさそうにそっぽを向いた。
そうだよな。
ただ姉妹がいちゃついているようにしか
見えないのだから。
結華「何の用。」
悠里「えー、うちは用事がないと近づいちゃいけないってわけー?」
結華「近づいてくる時は何かしら用事がある。」
悠里「へー、経験からの憶測ねー。」
結華「どうせ今回もそうでしょ。」
悠里「ま、せいかーい。」
言葉尻を伸ばして話す者だから
鼻について仕方がない。
やっとのことで首から手を離し、
今度は気怠げに背伸びをし出した。
悠里「今日は一緒に帰るよー。」
結華「…は?」
悠里「は?じゃなーくーてー。」
結華「部活は。」
悠里「休みまーすって言ってきたしー。」
結華「昨日も休んでたでしょ。」
悠里「なになに?うちは休んじゃダメって?結華は帰宅部で毎日休みのくせに?」
くせに、と言われかちんときたのか、
その場で胸ぐらを掴んでやりたくなった。
けれど、不意に先日お父さんに
同じことをされたのを思い返す。
…。
…私はどんどんと嫌な人間に
なっているのかもしれない。
目の前にいる、こいつよりも。
さっさといなくなってくれ。
私の前から消えてくれ。
何度目だろう、
またそう願っている自分がいる。
そうとは願っているくせに、
死んでくれとは願わない自分が
不思議でならなかった。
悠里「思い出話でもしながら帰ろーよー。」
結華「嫌、何で悠里と…」
何でお前と帰らなきゃ
ならないんだよ。
そう言いかけた時、
悠里の顔が迫ってきては
耳元の近くで口を開いた。
周囲の喧騒でかき消されるかと
思うほど小さな声だった。
悠里「これ、指示だから。」
結華「…。」
顔を離し、見下すようににんまりと笑った。
…。
私にはもちろんそんな指示は来ていない。
悠里だけに届いた、特別な指示。
それこそ、選ばれたからこその。
…。
ぎり、と歯の鳴る音がした。
悠里「んじゃあかーえろっ。」
結華「…。」
無言で悠里の後をついていく。
こんな屈辱的なことがあるだろうか。
悠里の方が幾分も悪徳を積み重ねているのに、
周囲からは何故か信用されたまま。
人に大切にされる。
重要なことを任される。
生きたいように生きている。
どうして、悠里だったのだろう。
私はどうして、駄目だったのだろう。
私と悠里の違いは何だったのだろう。
ぐるぐると思考は渦を巻く中、
悠里は一方的に話しかけてきた。
そのほとんどが愚痴だった。
時折悪意のこもった悪口もあり、
こちらとしては気分が滅入るだけ。
例えば、奴村さんのことを話題に出しては
声をなくしたことを「可哀想」と笑ったり、
国方さんのことを話題に出しては
やりたいことなくなっててウケる、
と人とは思えない言葉ばかりを吐いた。
吉永さんのことも、いじめたら
不細工な顔してて面白かったとか、
でも吉永さんに関わったら
病気になるからあいつは病原菌だとか、
聞けば聞くほど酷い内容だった。
悠里「んでさー。」
結華「聞きたくない。」
悠里「はー?」
結華「その話をしろというのも、全て指示?」
何分間だろう、たったわずかな
時間だったのかもしれないが
あまりに腹の底で怒りが沸騰するものだから
ついに声を上げてしまった。
悠里が立ち止まり、
緩やかにこちらを見る。
…。
空が曇ってきたからだろうか。
…光の宿っていない目だった。
悠里「は?んなわけないじゃん。」
結華「…!」
悠里「うちさぁー、最近立て込んでてイライラしてんのー。まじ愚痴を他人にぶつけたり、人見下してるとスカッとすんだよねぇ。」
結華「…そこまでクズだとは思ってなかった。」
悠里「見直してくれた?あーりーがとっ。」
結華「…。」
悠里は何とも思っていないらしい。
むしろ、お前もその見下してる人の
一部だからなと言われたような気分だった。
どうしてこんなにも心が
悪い方に揺さぶられているのだろう。
自分で自分がわからなくなる。
もしかして、心の隅では
悠里は双子なのだから自分の半身とでも
思っている節があるのだろうか。
…。
…無意識とは怖いものだと
嘆くしかない。
私と悠里は、幼少期はそう変わらなかった。
性格といい、見た目といい。
同じ環境で育ち、同じことで笑い合った。
私たちはどこで変わったんだろう。
…無論、2年前から。
なら2年前。
選ばれた方と選ばれなかった方。
何の違いがあったのだろう。
結華「…。」
悠里「なになにー。しょげちゃったのー?」
結華「私と悠里は、何が違ったと思う。」
悠里「え?何急に。」
ふふ、と嘲るように鼻で笑っている。
目が笑っていない。
こういうのを怖い、というのだろうな。
悠里「可愛さかなー、愛嬌かなー。」
結華「選ばれた理由。」
悠里「はい?」
結華「私と悠里は何が違って、何でお前が選ばれたのかがわからない。」
悠里「そんなこともわからないから選ばれないんだよ。」
結華「じゃあ悠里はわかってんの?」
悠里「もっちろんっ。」
悠里はすいすいと歩いて
横断歩道へと寄っていく。
私も黙ってついていくことしかできずに。
赤信号が目に痛い。
そういえばどこかで
世界中全ての信号が危険を知らせる
赤に染まった時、
その世の中は1番安全になるという
言葉を見たのを思い出す。
悠里「それはねぇ。」
結華「…。」
悠里「残念、教えなーい。」
結華「…だろうね。」
悠里「はにゃー?だんだんうちの性格がわかってきたかにゃー?」
結華「…わかってるよ、とっくの昔に。」
悠里「ふうん。」
とっくの昔からわかってた。
ずっと一緒にいたんだし。
2年前からは
わからなくなってしまったけれど、
それ以前は確実にわかってた。
端的にいえばいい子だった。
確かに家庭環境は大変なことが多くて
まともに暮らしているとは
いえないくらいだったけど、
明るくて、周りの人とも仲良くできて。
双子とはいえど姉なんだって
何となく頼りにして生きていた。
そして何より家族思いだった。
家族を、私を大切にしてくれた。
守ってくれた。
今でも覚えている。
…覚えてたって仕方のないことなのに。
°°°°°
結華「お、お姉ちゃ…。」
「ワン、ワンっ!」
結華「た、たす…け…。」
「こらーっ!」
結華「…!」
悠里「あっちいけ、あっちいけ!しっしっ!」
「ワン、ワンワン!」
悠里「ああ、もう!せっかく拾ったお菓子だけど…ほら、向こう行け!」
「バウバウ、ワンッ…。」
結華「………お姉ちゃ…。」
悠里「もう大丈夫だよ。あの犬、おっかなかったねえ。」
結華「怖かったよぉ…。」
悠里「うんうん。もう怖くないよ。助けにきたからね。」
°°°°°
当時は大きく見えた犬。
お菓子を投げては姿を消したけど、
あの犬も噛み付いてはこなかったから
環境が故にそうなっちゃったんだろうなと
今となっては思う。
それから、悠里も。
悠里はあの時、確実に人を見下して
見放すような人間じゃなかった。
無視せずに、手を伸ばしてくれた。
小さい頃はそうだった。
なのに。
悠里「じゃあうちは最後まで嫌な姉になろうかなーっと。」
結華「…。」
悠里「結華ぁー。」
信号が青になる。
痛いほどの赤の場所が移動して、
今度は車を止める係になった。
悠里が数歩前を歩くことすら
気に障ってしまう。
前を歩くな、と。
私にだって感情はあるんだ。
その全てを制して、
私の全てを塞いで前に出ないで。
何を考えるにも、悠里と私の
関係に結びついてしまうほど
心は困窮していた。
そのことに、自分も気づいてはいた。
気づいている上で、
見ていないふりをしたのだ。
悠里はちらとこちらを見るのがわかった。
そして、すぐには止めなかった。
悠里「お前にはね、全て捨てるくらいの勇気がなかったんだよ。それが何を意味しているのか、わかったらよかったね。」
結華「…?」
何を言っているのか全くと言っていいほど
理解ができなかった。
それもそのはず。
だって青信号だというのに、
向かいからは大型のトラックが
こちらに突っ込んでくるのだから。
とん、と誰かの手が触れる。
悠里、だろうか。
ぱっと目の前が真っ白に染まっていく。
光のせいだろうか。
それとも、天気がいいから?
…。
あ、いつの間に。
さっきまで曇りだったのに、
信じられないくらい晴れている。
そのせいか。
そのせいか。
4月からは少し伸びた
私の髪がはらりと揺れた。
そこで私の意識はぷつりと途切れた。
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