深い深い眠りから

ふと意識が湧き上がってくる。

重い瞼を開くと見慣れた天井が

いつものようにずんぐりと

立ちはだかっている。

大きなあくびをひとつ漏らし、

やっとのことでベッドに腰掛けた。


結華「…。」


ぼうっとする中、

家の音へと耳を傾ける。

防音設備が整っているせいで

無音が耳に響いて痛い。


結華「ふぁ…ぁ…。」


再度あくびをしながら

リビングへと顔を出した。

まだ朝の6時だと言うのに、

お母さんは既に起きており

朝食の準備をしている。

香ばしいシャケの香りが鼻をくすぐる。


結華「おはよ。」


お母さん「おはよう。早いね。」


結華「目が覚めちゃって。」


お母さん「うるさかったかしら。」


結華「ううん。平気。」


お母さんも防音設備が充実していることを

知っているはずなのに、

そうやって気遣っているあたり

不思議な気分になる。


お母さんやお父さんにとって

私よりも悠里の方が大切なはずなのだ。

なのに、私にも気を遣うことに

違和感すら覚える。

あくまで娘なのだから、

ということなのだろう。


お母さん「悠里を起こしてくるから、火を見ててくれない?」


シャケを焼くと同時に

味噌汁も作っていたらしい。

火の番を代わり

くるくると数回かき混ぜてみた。

具がたくさん入っている。

手作りだなとは思ったが

それ以上には思わなかった。

思えなかった。


2年前に全てが変わってから

私は心をどこかに落としてしまったらしい。

それは悠里も同様なのだ。

これで良かったはずなのに、

現状に疑問を抱く回数が増えていく。

たった今、朝食の準備をしているだけなのに

何故こんな気持ちに

ならなきゃいけないのか。


ぐるりぐるりと昔のことばかり

思い出しては感傷に浸ろうとした

その時だった。


お母さん「悠里、悠里!」


遠くから声が響いてくる。

いくら防音とはいえ、

部屋の中に入っていないと意味がない。

廊下で叫んでいるのだろう。


只事ではないと思い慌てて火を消す。

2階へ向かうとばたばたと

お母さんが降りてくるではないか。

体を隅に寄せながら

お母さんが通りゆくのを待とうとした。


結華「どうしたの。」


お母さん「悠里がいないのよ。」


結華「え。」


お母さん「こんな朝早くにいないなんて。いつから…。」


お母さんは悠里のことが心底心配らしく、

いつの間にいなくなったのか、

身の安全を確認しなきゃと

何やらぶつぶつ呟きながら降りてゆく。

そのまま玄関の扉が

開かれる音を耳にした。


結華「…。」


探しに行ったんだろうな、と

ただ漠然と思った。


お母さんもお母さんで

変わってしまったと思う。

これまで、そんなに悠里のことが

大事で大事で仕方なかっただろうか?

いや、確かに大事にしてくれてはいた。

ただ、私と同等にといえば

いいのだろうか、

私と悠里に差はなかった気がする。


悠里だってお母さんに怒られていた。

その記憶は確とある。

悠里も悠里で、今ほどに問題行動を

起こすような人間ではなかった。


変えたんだ。

私たちの家族を、根本から。

何もかも全て。


ぞくりと嫌な予感が

背筋を這い上がってくる。

疑問を抱かなければ。

知らなければ。

気づかなければ。

きっと、私は今の状態に

不快感を覚えながらも

これまで通りの生活ができるだろう。

わざわざ知る必要だってないんじゃないか。

悠里に対しては酷い嫌悪感を覚えるだけで。

彼女の存在に憤りを覚えるだけで。


…。

それが、大問題なのだろうけど。

それを「たったそれだけの問題」と

思える時はないだろうけど。


お母さんも悠里もいない家は

これまで以上にしんと

静まり返っているような気すらした。


今だ。

今なら。


そう思って悠里の部屋に入る。

1歩を踏み出してしまった。


結華「…。」


悠里の部屋は思っている以上に

整理されていた。

ベッドの上の布団は綺麗に畳まれ、

机の上も、中心にタブレットがある以外

物はぱっと見当たらない。


そんな中、弦の切れたままのギターと

床に置かれたままの鋏が目に入った。


隣の本棚にはこれまでの教科書や

私の見たことのない本が

ずらりと並んでいる。

背表紙を見てみれば、

歴史の本や伝記などといった

過去に直結するものが多くあった。


それから意外だったのは

プログラミングやITについての本が

並んでいたことだった。

悠里は文系科目が得意と知ってはいる。

だからこそ信じられなかった。


結華「…変。」


そう。

静まり返っていることもあってから、

その異質さはより一層引き立たれている。


人が暮らしている雰囲気がないのだ。

もちろん悠里はこの家から学校に行き、

この家に帰ってきている。

が、生活感がない。

ミニマリストといえばそうなのだろうが、

悠里がこんな綺麗に、

且つ丁寧な暮らしをしているはずがない。


もし本当にそうなのだとしたら。

…。

…。

自分を律せる心はある、ということだ。

そうなれば、いじめはどうなる。


結華「…………。」


あえて答えを口に出さないまま、

懐疑心をタブレットに向ける。


上から支給された共通のもの。

もしかしたら、私の知らない情報が

たんと詰め込まれているかもしれない。


例えば、選ばれた先のこと、とか。


そっと手を伸ばす。

たん、と指が触れる。

すると、ふんわりと

待ち受け画面が表示された。


ロック番号は。

誕生日?

違う。

親の結婚記念日?

…違う。

家族の誕生日も?

……違う。


この家に来た日…?

………違う。


なら、何が。

適当か?

それならあり得る話だ。


よくあるゾロ目等を

試そうとしたその時だった。


「そこまで。」


結華「…!」


人の気配はしていなかったはず。

心臓がとんでもないほど強く跳ね打った。

振り返ると、そこには白い影。

季節関係なく身に纏っている白いワンピース。

間違いない。


先生の…。

…。

人生で最大のミスを

犯してしまったのかもしれないと

ぼんやり考える。


一叶「こんなところで何をしてるの。」


結華「……どうしてこんなところにいらっしゃるのでしょうか。」


一叶「ボクが質問をしてる。」


結華「…。」


一叶「違反だと気づいているよね。」


結華「……別に、解除したわけでも中身を見たわけでもありません。」


タブレットから手を離す。

すると、画面は息絶えるように

そっと光を失った。


一叶「もし解除できていたら?」


結華「…それは……。」


一叶「これまでの全てを台無しにしていたね。」


結華「…っ。」


淡々とした声で告げられる。

今話されているのは

あったかもしれない可能性の話だ。

それなのに、胃がぴりぴりする。

それだからこそ、かもしれない。


でも、ここで聞かなきゃ。

次いつ会えるのかがわからないのだから。

全てを捨てる覚悟で聞かなきゃ。

悠里の秘密を。

家族の変化の理由を。


結華「何故…。」


一叶「…。」


結華「何故、悠里は人を虐め、蔑むようになったのですか。」


一叶「…。」


結華「どうして私の家族はこんなにも変わってしまったんですか。」


一叶「それを望んだのは君たち家族だからでしょう。」


結華「…確かに、生活できているのはあなた方のお陰です。けれど……。」


一叶「不満でもあるの?」


結華「…っ!」


一叶「家族みんなで話して、みんなで納得したんでしょう?」


結華「…でも……。」


一叶「自分だけが不遇な扱いを受けていると思ってる?」


結華「…。」


一叶「それは、子供の考えだね。」


ずしん、と腹部に圧を感じた。

子供の考えだ、と。

冷淡な声が頭の中に響く。


わかってる。

わかってるんだよ。

悠里が嫌いな自分が嫌いなことも、

嫉妬しているだけで

何もできていない自分が嫌いなことも。

悠里の性格が悪くなって、

汚点ができて安心している自分すらも

いたことなんて前々からわかってる。


この変化を受け入れられなかったのが

私だけだったのだとしたら。


…。

…私だけが子供だったのだとしたら。

選ばれなかったことだって当然なのだ。


一叶「忠告。いや、報告かな。」


結華「…。」


一叶「これから数日以内に起こること全ては、今日の出来事が理由で起こるわけじゃない。」


結華「…それは、本当に私宛てですか。」


一叶「話は最後まで聞いてね。聞かないなら聞かないで、最初から話を止めてね。」


結華「…。」


一叶「これは、元から決まっていたことだから。全ては予定通りに進んでる。」


結華「…。」


一叶「今日のその行動が間違いじゃなくてよかったね。」


結華「正解でもないですよね。」


一叶「そのくらい、君はどうでもいいってことだよ。」


結華「…。」


嫌な言い回しをするものだ。

自然と右手には力が入り、

拳を作っていた。

今殴り掛かれば、その全てがまた

崩れてしまうのだろうか。


…いや。

今、この人は言った。

私はどうでもいいって。


…それなら、何をしたって…。


刹那、地面を蹴り上げた。

向かう先は、もちろん彼女。

普段から鍛えておけばよかった。

こういう時に思い切って

相手を殴れるのだから。


きっと悠里よりも私は性格が悪くて、

手際も悪くて、人ともうまく関われない。

何もかもが下手なのだ。

下回っているのだ。

この実験全てにおいて、

私は重要な役回りなんてものではなく

ただ優秀なコマについてきた

おまけでしかないのだ。


拳に力を入れる。

そのまま、彼女の綺麗な頬へー。


……。

…。

力強く殴りを入れるも、

その感触は明らかに

彼女のものではなかった。


ぐにゃり、と固くない感触が

手の甲をなぞる。


視界には1歩も動いていない白色と、

私と同じ色の髪の毛。

そこには、髪を下ろしたままの悠里がいた。


悠里は勢いのあまり

そのままどすん、と尻餅をついた。

けれど、お尻より頬の方が痛むようで

上半身を少し丸めて頬を抑えた。


悠里「…。」


結華「…悠里…。」


悠里「…はぁー…いってぇー。」


結華「どうして。」


悠里「もこちゃんに手を出すな。」


結華「…っ。」


悠里「お前もさっき言われて気づいてんだろ。邪魔なんだよ、邪魔。」


結華「…お前の方が」


悠里「さっきのでうちらの生活、全部無くなりかけたってわかってる?」


結華「見てたの?」


悠里「わかってんのかって。」


結華「…。」


悠里「2度と逆らうんじゃねーよ。」


ゴミが、と吐き捨てた後、

どたどたと足音が聞こえ出した。


…そっか。

防音とはいえどそりゃあ

振動までは防げないよね。


ふと部屋を見渡した時には

既に白色の彼女の姿はなかった。


お父さん「何の音だ。」


悠里「パパ…。」


お父さん「何があったんだ。」


悠里「こいつが…ギターの弦を急に切って、暴れて…。」


はっとしてギターに目を向ける。

そのためか、と妙に腑に落ちた。

だってそれ以外、特段汚いだとか、

雑然としていると

思うところがなかったんだから。


お父さんが私の胸ぐらを掴み上げる。

ああ。

お父さんもそうだ。

みんな、変わっちゃったんだ。


何故だろう。

夢のように過去が降ってきた。





°°°°°





悠里「ねえねえ結華。」


結華「なあに。」


悠里「将来さ、一緒に歌を歌う人になろ!」


結華「歌?」


悠里「うん!あ、でも私よりも結華の方が歌上手いし…じゃあ私がギターする人になる!」


結華「ギターもして歌も歌おうよ!」


悠里「んー、じゃあそうする!」





°°°°°





まだずっと小さくて、

空から隠れるように

大きなアルミ缶の中に入って

話していたんだっけ。

周りにはダンボールが重なっていて。


…。

覚えてる。

私、覚えてる。


ちゃんと悠里にも

心のある時代はあったんだ。


それなのに。

…。

…。


血相を変えて怒るお父さんと

視界の隅で泣いているふりをする

悠里が映っていた。

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