2-6 転機

 蒼白な顔で、オイゲン卿を見詰める公妃殿下を、公王陛下は一度だけ見た。

 公妃殿下、糾弾される敵国の姫君。怯えていようとも静かに座すその姿を。


 そして、開戦を主張する老人を、玉座の上から見下ろした。


「そうですね。ええ、そういう声があることは、私も承知しています。ですが、開戦はあり得ません。戦争は終わりです。既に和平は成りました」


 以前は前公王の言いなり、即位に際しては公女である姉に言われるがまま。気弱で軍部の両総団長を従えることはできず、文官には舐められている。

 そう、噂され侮られている公王陛下の、それはあまりにも強い、宣誓にも似た宣言だった。


 荒げる声ではない。

 だが、オイゲン卿にとっては予想外の手向かいであったのだろう。


 共和国の息がかかった者が、公王陛下に刃を向ける。分かっていたはずだ。その刃が決して届かないことは。

 それでも皆が知るだろう。その憎悪を、自分たちに向けられる殺意を。受け止めるには余りにも恐ろしいその感情を。

 この場に集う全ての者が証人となる。貴族達が思い知り、多くの者が戦果を上げるべしと望む。


 膨れ上がる戦争への機運、それを御しきれる王ではない。そう、侮っていたのだろう。


「なぜ!? なぜです陛下! なぜお分かりいただけないのです!? 彼の国を許すことが、どうしてできましょうか!」


 オイゲン卿の主張は、この国で未だ大きな派閥を作る者たちの声だ。

 終戦に至ってなお止むことのない、徹底抗戦すべきである、という。


「許せとは言っていません。許せないことはあるでしょう。憎しみも、恨みも、水に流せとは言いません。ですが、我々は互いに血を流し過ぎました。その血は全て、本来国の庇護の元にあるべき民の血です。私はもう、誰にも血を流して欲しくありません」


 オイゲン卿に語り掛ける公王陛下の声に動揺はない。

 僅かも揺るがぬ王の静かな声が、大広間に響き渡った。


 揺るがすことができない。

 簡単に操作できるはずだった、老人から見て子どもでしかなかった王が、些かの揺るぎも見せず玉座にいる。


 その命を賭して、開戦の狼煙にしようと画策した、その目論見が外れた。


「いまさら……っ! いまさら何を申されるか! 長く戦争を続け多くの者を犠牲にして、何故、今なのです! 今さら何を得ることもないまま、なぜ和平などと仰るのか。何故、今になって、それならもっと早く、もっと早くそうなっていれば、私の父や弟たちは、息子たちは……皆、皆死んだ、散々死地に送っておいて、今になって、なぜ……! 彼らは何のために死んだのだ! その死によって、何を得たのだ!」


 それは、血を吐くような慟哭だった。

 戦争によって多くを失った者達の。数多くの犠牲の上に立ち、引き返す道を持たない者達による、魂の叫びである。


「血を流した民の声を聞かれよ! 戦場から遠く、玉座にあるあなたには分からないか! 大切な者を殺された我らの声が、届かないのですか! あちらとて、和平など考えてはいない! 騙されてはならない! 攻め滅ぼされる前に! 奴らを殺してくれ!」


 それは、利己と呼ばれるべきものだろうか。


「この娘を見よ! 声を聴け! 共和国の、これが本音だ!」


 きっと、間違ってはいない。

 オイゲン卿は、決して戦争による利権を望んでいるわけではない。

 今は文官であろうとも、一度は戦場に身を置いた元騎士である。戦場を知り、その残酷さを理解し、それでもなお声を上げ続ける。


 真実、愛国の士であろう。国を想い、憂う。奪い、奪われ続けた一人の民。

 

 長きに渡る戦争が根付かせたもの。無辜の命を奪い続けた、これが、その代償。

 戦争を望む、民の声が聴こえる。


「確かに、そう考えている者も多くいるのでしょう。この国の多くの者が共和国を憎むように、共和国の者も我が国を憎んでいる。我らは憎み合っています」


 玉座の前にその身を晒さすのは、敵国の憎悪。その象徴にも見える者。たった一人の女の存在が、仮初の平和に波紋を呼び起こした。

 そして同じように、彼の国を憎み、掃討を望む者。望む者達がいる。


「ですが、その娘の背後に何がいようとも、誰の差し金であろうとも、戦争はしません。我らは憎まれている。当然でしょう。承知の上です。あちらにも、この国を滅ぼしてやりたいと思う者は多くおりましょう。それでも、これから先いかなることがあろうとも、例え私の命がどれだけ危険に晒されようとも、戦争はしません」


 公王陛下が繰り返す。

 この場の全ての者達に。この場にはいない者達にも。

 全ての者に、届くように。何度でも、彼はきっと繰り返す。己に言い聞かせるように。


「戦争はしない。私が玉座に在る限り、絶対に」


 多くの犠牲の上に立つ今を、姉に託されたこの国を、必ず平和へと導く。


「何があろうともそれだけは許しません。例え姉上が共和国で命を落としても、戦争はしない。姉上も、覚悟のうえで嫁ぎました。アドラ姫もまた、同じです。全て覚悟の上でこの国へ来られた。和平の証です。平和の象徴なのです。もし、万が一、彼女達が殺されても、それがどれだけ惨たらしい死であったとしても、それを戦争の理由にはしません。その覚悟を戦争の旗印になど、絶対にさせてはならない。例え私が共和国の手により傷つき倒れることがあったとしても、同じことです。絶対に、戦争はしません。


 我らは五十年戦争を続けました。五十年戦い続けたのです。この中に、戦争のない世を知る者がどれだけいるでしょうか。途方もなく長い時を殺し合い、清算は最早不可能です。数えきれないぐらい殺して殺されて、憎しみも恨みも悲しみも、深く高く降り積もり重なりあっている。


 祖母にも、父にも、私は祖国を愛せ、それはすなわち敵国を根絶やしと願うことと同義であると、そう教えられて育ちました。共和国を滅ぼすことができるならと、何度思ったかしれません。本音を言えば、私とてそうしたかった。


 しかし、それをしてどうなるというのでしょう。滅ぼして、殺して、焦土と化した領土を得て、何になるのです。これよりさらに多くの犠牲を出してその果てに共和国を滅ぼして、そうまでして、得るものにどんな価値があるというのですか。それは、犠牲に見合う価値でしょうか。いいえ。私には、その価値を見出すことはできません。


 ゆえにこれ以上、私は民を死地へ送らないと決めました。


 私は、公王です。この国の頂に在り、決して自ら戦地へ赴くことはありません。その代わり、ひとたび戦争となれば親しい者達を、名も知らぬ者達も、多く戦地へと送ります。たくさんの時代は違えば、国が違えば、友と呼べたかもしれない誰かを、敵兵と呼び、殺し武功を立てよ、と。敵兵は、共和国の民です。民が民を殺し、誉れを与えること、それが戦争です。喉を掻き切り、腹を裂き、骸となったものたちを踏みつけ、それを、手柄とせよ、と。私は、私の民にそれを望みたくはありません。


 ここから先の未来では、あなたたちの息子も、娘も、戦争へ駆り出されることはありません。そういう未来を描きます。戦地で喉首を掻き切られない、掻き切ることもない。魔法士の炎に焼かれることもない、焼くこともない。殺されない、殺さない。戦場での殺し合いなど、もう必要ありません。


 不満があるなら今この場でのみ聞きましょう。名乗り出なさい。今、ここで、戦争の意義を語ることを許しましょう。ここで、その口で、語って聞かせるがいい。騎士たちの前で、魔法士たちの前で、血に濡れた手で、これから先の己の未来を憂う者達の前で、これから先、誰かの父となり、母となるであろう者達の前で、語るがいい! まだ戦争を続けたいと! その口で、言ってみろ!」


 猛る公王の声が響く。

 最早、他に上がる声はなかった。

 全ての者が公王に膝を折り、首を垂れた。


 エルゼも、ヴィルヘルムも、跪いた。

 そうさせるだけの、何かがあった。


「結構。では、よく聞きなさい。オイゲン卿だけではありません。この場にいる全ての者が聞き、この場にいない全ての者に、今から言う私の言葉を届けなさい。私に膝を折る全ての者が、私の望みに応えなさい。


 我が名はエミル・フォン・ケーニヒ。ヴァイス公国公王の名において命じます。


 公王である私の理想に殉じ、恨み嘆く口を閉ざしなさい。そのために、禍根となる全てに目を瞑りなさい。彼の国を愛せとは言わない。憎いでしょう。憎むがいい。だが、表には決して出さないでください。これから先の世に、その憎しみは不要です。口を閉ざし、盲目となれ。これは、王命である」


 公王の声が、平和への誓いに変わる。

 全てを背負うその覚悟が、多くの者の胸を打った。


 そしてこれが、この国の転機となったのである。




〈 Episode.2 了〉

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元最強騎士様と天才根暗魔法士様のピースフル徒然日録 ヨシコ @yoshiko-s

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