2-5 戦禍の炎

 考えるより早く、右脚が前に出た。利き足を踏み込んだと同時に腰の剣に手を掛ける。


 誰よりも速く、神速と謳われたエルゼの剣は、短剣を構えた侍女の手首を狙った。

 公王陛下の背に向け武器を構えた女に剣を振るう。

 首を狙うこともできるが、それはすべきではない。

 腕を落とす。

 殺すことはしない。少なくとも今は。


 鞘から抜き放った剣を、そのまま最小の動きで振るった。


 皮膚の表面に刃が触れ、何千何万と繰り返した肉と骨を断つ感触を受け入れる。


 しかし、その僅か手前、刃で触れた皮膚の硬度が変わった。

 硬質化した皮膚に、剣を止める。


 いや、硬質化ではない。女の皮膚が、凍り付いた。

 短剣を握った手から、腕、肩を伝い腰から下を床に縫い留め、視覚で確認できるほどの氷と霜が女の身体を覆っていく。


 女の悲鳴すらもが凍り付き、首から上は生身のままの女の氷像ができ上がった。


 その時になってようやく、周囲から悲鳴が上がった。

 人垣が割れ、その中央にこちらを振り返る公王陛下とその腕の中に守られた公妃殿下、そして従者であるエルゼとクルトが残された。

 公王夫妻の前に、盾の如く立ったクルトの視線が、あらぬ方へと向けられる。


 その視線の先、危険を避けしかし顛末を見届けるため端に寄った人波の中から、歩み出る者があった。


 掌をこちらに、凍り付いた侍女に向けた者。

 剣を握った手を下ろし視線を向けると、魔法で侍女を凍り付かせたヴィルヘルムがエルゼを注視していた。


 エルゼの剣より速く展開させた魔法に対する感嘆、そして獲物を取られたという苛立ち。


 魔法士の視線がエルゼに問うた。

 どうする? と。


「エルゼ、その者と、話をさせてください」


 白い顔で震える公妃殿下を玉座の隣に座らせて、公王陛下がヴィルヘルムではなくエルゼに言った。


 王と貴族たちが見守る中で、ヴィルヘルムが表情でエルゼへと問う。

 凪いだ瞳がエルゼを見ていた。


 エルゼに従う、とヴィルヘルムの行動が示している。

 従わせろ、と公王陛下が語っている。


 まずは、想像の血に酔いかけた己を御す必要がある。

 大きく息を吐き、ヴィルヘルムと公王陛下を見た。

 恐らくどこかに、シュランゲ総団長もいるはずだ。あの魔女はいざという事態にない限りは出てこない。静観に徹するだろう。


 知らしめることができる。あの魔女を含む、今この場にいる全ての者達に。

 この誰にも従えることが叶わない強大な力を持つ魔法士を、エルゼなら御せることを。


 冷静に、なるべき場面だ。

 例え中途半端に振るったこの剣が、血を求めていようとも。


「……拘束を、解いて」


 ヴィルヘルムに言って、剣を手に侍女の横に立つ。

 頷いたヴィルヘルムが、手を払うように動かした。その動きを合図に、侍女の身体を覆っていた氷が霧散して消える。


 その手から短剣が落ち、床を鳴らした。

 次いで侍女の身体が崩れ落ちる。


 その様が、エルゼに平静さを取り戻させた。


 言葉もなく、床に蹲ったその身体が震えている。

 普通の女だ。エルゼより、幾つか若いだけの。

 服の上からでも分かる小さな肩から伸びる華奢な手は、きっと武器を持ったことなどなかったのだろう。


 肉を裂くための武器なんかより、普通の平穏、ありきたりな日常を容易く掴むことができそうな手だ。


「……話を、聞かせてください。なぜ、こんなことを?」


 玉座に腰を下ろした公王陛下が、そう、問いかけた。

 声一つ、上げることなくガタガタと震えていた侍女が、ゆっくりと、顔を上げた。

 その鼻先に、エルゼは刃を突きつける。


 しかし女は、自身に向けられた白刃を気にする様子もなく、表情を大きく歪めた。


「………………なぜ? …………なぜ? なぜ、と、そう言ったの? 今、そう言ったわね。なぜ、と。本気で言ってるの?」


 言われた公王陛下は、ただ静かに女を見返している。


「自分たちが、何をしたのかも分からない? 知性のない、獣共。下等な獣が、服を着て、王の真似事とは笑わせるわ」


 不敬な、という声が上がった。

 続いて広間が喧騒に包まれる。女を詰る声で溢れる。


 公王陛下が、女から視線を外すことなく無言で片手を上げ衆目を黙らせた。


「殺しなさい。私を、さっさと殺すがいい。獣と話す言葉など、私は持ち合わせていない。死など恐れない。私はもっと恐ろしいことを知っているわ」


 公王陛下を見上げる女の目から、涙が零れた。

 溢れた涙が頬を伝い、床を濡らす。


「殺すがいい! 私を惨たらしく殺すがいい! 殺して首を晒すがいい! 公国の獣共! 町を焼き払い、共和国の民を虐殺した悪魔どもめ! あの国でそうしたように、蹂躙の限りを尽くしたあの時のように、私を殺せ!」


 その目が、玉座の隣に座す、公妃殿下に向けられた。

 それは決して、自らの主に向けられるものではない。


「国を売り渡す売国者。お前達共々、共和国は、必ずやこの国を亡ぼす! 私の大切な人たちを殺し尽くしたお前たちと同じ様に、ここにいる全ての獣共を根絶やしにしてやる! 共和国は決して諦めない! 和平などというまやかしに騙されたりしない! 私が死んでも、また何度でもお前たちを殺しにやってくる! 大陸に蔓延る害獣共め! 知性のない、下等な者達! 死ね! 死ぬがいい! 滅びろ! 悪魔どもめ!」


 糾弾の声が、静まり返った大広間に響き渡った。

 肩で息をした侍女が、歪んだ口元から笑みを零す。不気味な笑い声が、この国を、仮初でしかない平和を嘲笑する。


 女は狂ったように笑い続けた。


 エルゼが血に酔うのと同じように、憎しみに支配されている。


 大切な者を戦争によって失ったのだろう。

 一矢報いてやりたいと思うほどの、憎悪があったのだろう。


 そしてそれはきっと、エルゼたちが戦場で生んだもの。

 殺した分だけ、誰かの中に遺恨を生み出した。

 エルゼも同じように、殺した分だけ生み出したに違いない。


 貴族達は息を呑んで成り行きを見守っている。


 じっと女を見ていた公王陛下の視線が、僅かに逸れた。


「陛下! ああ……! ああ、なんと、なんと恐ろしいことを……!」


 その視線の先、静まり返った大広間の中央に、一人の老人が前へ進み出る。

 ふらふらとその身体を揺らし、苦悶に満ちた表情で蹲る侍女の横に膝を突き並んだ。


「なんとお詫びを申し上げればよいか……! 申し訳ございません、陛下。この者は、我が縁者でございます。家族を亡くし、私を頼ってきた姉上の忘れ形見を、放り出すことはできず、受け入れたばっかりに……!」


 オイゲン卿は、そう言って大仰な身振りで後悔を口にした。

 公王陛下はまだ、静かにそれを聞いている。


「杞憂となるべきを恐れ隠しておりましたが、その娘の夫は共和国の者。大切な者を共和国が戦場に送り込んだせいでと、その恨み言を信じてしまいました。恥を知らぬ共和国の者どもの、卑劣さを見誤った私の落ち度です。覚悟はできております、如何様にも裁かれたし!」


 無言のままの衆目が、僅かに興奮を帯びていくのを感じる。

 

 なんと恐ろしい奸計か。

 このようなか弱き者すらも利用する、彼の国の卑劣さの、なんと悍ましきことか。


「ただ、その娘だけは! 家族を亡くし、卑劣な共和国の者どもに唆されたに相違なく! 全ての罪は、なりふり構わずこのような女にまで罪を唆す共和国と、愚かなる私にある!」


 彼の国を、許してよいものか。

 許せるだろうか。

 いや、許すべきではない。

 許してはならない。


「やはり、共和国を許してはならない! 和平などとうそぶき、奴らは今もこの国を、公王陛下のお命を奪おうと考えている!」


 白熱していくオイゲン卿の演説に、それまで黙って聞いていた公王陛下が口を開いた。


「……だから、再び開戦せよ、と?」


 静かな、声だった。


 興奮に水を差された熱気が、その矛先を一斉に、和平を望み推し進めた現在の公家こうけ、その頂に立つ公王陛下へと向けられたのが分かった。


 衆目の熱を従えたオイゲン卿が、ゆったりと微笑む。

 まるで祖父が孫に言い聞かせるような、それは慈愛すらも感じさせる笑みであった。


「陛下、これはこの国の、多くの者が望んでいることでございます」

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