2-4 平穏でありきたりな日々
乳白色の床の上を、白い衣装を纏った公王陛下が進んでいく。
その歩みに合わせ、そこに集う人々が順に膝を折り首を垂れる。
公王陛下の背後に付き従い、全身黒服で並ぶエルゼとクルトの両名は、まさに公王陛下の影に違いなかった。
公王陛下が足を掛けた
面従腹背、という言葉が頭に浮かんだ。
この場にいる貴族たち、そのうちの何人が、真に国を想っているだろう。公王陛下に忠誠を誓っているだろう。
儀礼的に下げられた頭、床に向けられ見えない表情に浮かぶのは、如何なるものか。
でも、この者達も、この国に住まう者。
公王陛下の庇護下にある者達。
ユリアが敵国に嫁いでまで守ろうとしたもの。
戦場で、エルゼやヴィルヘルムが命を懸けて、背後で守った者達だ。
◇◆◇
空はよく晴れている。
普段は中庭との間を遮っている巨大な開き戸が開け放たれているため、大広間にも風が吹き抜けた。
一年に一回、この国では定例の貴族議会が開かれる。
五日間、この国で領地と爵位を有する全ての家から、最低でも一人がこの王都へと召集されるのだ。
報告や陳情を国が聞き届け、貴人たちによってパワーゲームが繰り広げられる。
昼日中、王宮の中庭へと続く大広間で行われるこの催しは、貴族議会の云わばレセプションパーティーである。
用意された立食形式の軽食を摘まみながら、そこかしこで貴族議会の前哨戦が始められていた。
本来は遠方から訪れる者達を
既に形骸化した本来の目的は押しやられ、根回しと牽制の場と貸している。
もちろん、それに加わらない者達もいる。貴族議会であろうとも家長本人が中央にはやって来ない、辺境伯を始めとする、力と影響力を持つ家の者。
その場合、この場にいるのは家長の名代であり、普段から武官や文官などとして中央にいる者達である。
貴族ではなかったエルゼにとっては、初めての場。
といっても、公王陛下に付き従い、その身辺警護が役割である。議会については他人事でしかない。
エルゼにとっては他人事で、しかし参加者の中にアルツト医師や、シュミットの姿もあった。
その二人以外にも騎士団や魔法士団で見知っている顔が、いかにも貴族っぽい出で立ちで、それらしく貴人たちに混じっている。
そういえば、彼らは皆貴族階級の出だ。
分かっていたが、分かっていなかった事実がそこにある。
男でありながら壁の花と化している、エルゼの夫、ヴィルヘルムのことも含めて。
今日のヴィルヘルムは、魔法士のローブを着ていない。
それは、魔法士としてではなく、伯爵家の者としてこの場にいることを示している。ヴェンデル家の家長、ヴェンデル伯爵の名代として。
他の大半の貴族男性と同じく、丈の長いコートの下にウエストコートとブリーチズを身に付けている。
以前は卑屈で陰気に見せていた丸めた背中を、最近は伸ばすようになった。元々ある上背も手伝い、その姿を堂々たるものに見せている。
安定した睡眠時間が、ヴィルヘルムのトレードマークのようになっていた濃いクマを薄くし、常に青白かった顔色も良くなった。
いつもフードの下に隠している顔は、元々とても整っている。
通った形の良い鼻筋、長い睫毛に縁取られた鮮やかなグリーンの目元は涼し気で、顔全体の印象は男性的な精悍さを持ち合わせてもいるのだ。
本人はコンプレックスらしいストロベリーブロンドも、今日はきちんと櫛を入れ、整えているせいだろう。陰気どころか、その出で立ちを華やかに見せるのに一役買っている。
どこからどう見ても、色男だ。文句なしに格好良いと思う。
しかも同伴者無し。会場でひとりきり。
少し前までは、そのヴィルヘルムの姿に気付いた女性の幾人かが果敢にも声を掛け群がる様子が見られた。
声を掛けられたところで、ヴィルヘルムはその全てに鋭い一瞥を返すのみ、口を僅かも動かすことなくまるで無関心、最終的には一瞥すらもしない完全なる無視を決め込んで次々と撃退したが。
料理にも飲み物にも手を付けず、ただじっと壁に背を預け、時間が過ぎ去るのを待っているのだろう。
その姿を遠巻きにチラチラと見る者は多くいるが、既に声を掛けようとする者はいないようだ。
その多くの者が見惚れる男性は、エルゼの旦那様です、という誇らしい気持ちが五割。残りの五割は、いっそのこと壁と同化してくれればいいのに、という気持ちである。
正直、エルゼは気が気ではない。
ヴィルヘルムは見目も家柄も良いし、多少分かりにくい部分はあるが、エルゼには過分な人だ。
その夫に、着飾った見知らぬ女が声やら粉やらを掛けるのをただ見ているのみ、というのは実に精神に支障をきたす。
とはいえエルゼ自身は護衛の任務中。
「……本当に、仲良いんですね」
公王陛下が小さく笑って呟いた。
「あなたたち二人共、お互いしか気にしてないようです」
玉座から立ち上がる気配がして、そして
エルゼとクルトの間に立った公王陛下は、そう言って、少し大人びたような穏やかな笑みを浮かべた。
「とはいえ、ここから先はもう少しだけ、他にも注意を向けて欲しいところです」
恥じ入る気持ちで赤面したエルゼを余所に、公王陛下のその視線は初めからエルゼには向けられていなかった。
大広間に入ってきた女性に、公王陛下の全てが向けられている。
女性は周囲に小さく頭を下げながら、勿体ぶった足取りでこちらへと向かって来ている。
あどけなく、ぎこちない笑みを浮かべた可愛らしい姫君である。
長らく敵国であった、ブランカ共和国筆頭執政官の妹。
公王陛下の妻、アデル。
この国の次の国母となるべき公妃殿下。
その背後には侍女を一名連れている。
エルゼには、見覚えのある侍女である。先日、シュミットと見て話をした女だ。
戦争続行を強固に主張して憚らない、軍務書記官オイゲン卿の縁戚にあたる人物。
侍女は、平素であれば心配になるぐらい、その顔色を悪くしていた。
強張った口元に、瞳孔の散大。手足が小さく震えている。
どう見ても明らかに、過度の緊張状態にある。
公王陛下を出迎えた時と同じように、公妃殿下の歩みに合わせ、人々が順に膝を折って首を垂れていく。
「……頼みますよ」
小さく呟かれたそれは、エルゼとクルトへと向けられたものだろう。
穏やかそうに見える表情は崩さないままで、公王陛下は自身の妻を迎えるための一歩を踏み出した。
手筈通り。失敗は許されない。
横に立つクルトが、微動だにしないまま臨戦態勢を整えた気配がした。
エルゼも同じように、いつでも剣を抜き踏み出せるよう呼吸を整える。
視界の隅で、見慣れたストロベリーブロンドが身動いだのが分かった。
公王陛下に迎えられたアデル公妃が、緊張のためか強張らせていた頬を僅かに緩める。
頭を下げて、差し出された夫の手を取った。
その一連の動作の後ろで、件の侍女の顔は既に蒼白に近いものになっている。
そのままいっそ倒れてくれればいいのに、そんな考えが頭を過った。
侍女がその顔を公王陛下に向ける。
その瞳に映るのは、衆人環視の中、妃の手を取り玉座へとエスコートするこの国の王の姿。
多少のぎこちなさはありつつも、どう見ても仲睦まじい、この国の頂に立つ夫婦の姿だ。
公王陛下を映すその瞳に、絶望と、憤怒の色を見た気がする。
公王陛下が公妃殿下の手を取り、白いマントに覆われた背を侍女に向けた。
その直後、侍女の姿が一瞬沈むように低くなる。
不可解なタイミングで、頭を深く下げた侍女が再び顔を上げた時、その手には光るものがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます