2-3 家族になる、ということ
公王陛下と従者、二人分の視線を受けてエルゼの気持ちがやや怯んだ。
「……エルゼ、ヴェンデル伯爵との面識は……?」
恐る恐る訪ねてきた公王陛下の質問に泣きたくなった。
返答は言葉にできなかった。無言で首を振るエルゼから、二人がそっと視線を外す。
ヴェンデル伯爵、とは言葉から察するに恐らくヴィルヘルムとは別の人間だろう。
面識どころか、今初めてその存在を認識した。
家族、というエルゼにとって縁遠い言葉が容赦なく圧し掛かってくる。
ヴェンデル家の屋敷には家族なるものは影も形もなかったし、使用人たちもヴィルヘルムを屋敷の主人として扱っていたので、そういうものだと思い込んでいた。
家族はいない、と。
「ヘルムート・フォン・ヴェンデル。ヴェンデル魔法士団長の兄君が、ヴェンデル家の家長、現在のヴェンデル伯爵です。伯爵領の本邸にご家族でお住まいになられているはずです。家長の許しを得ずしての婚姻はあり得ませんので、あちらはエルゼ殿を認識されておいでかと」
公王陛下の従者、クルトがエルゼの欲しい情報を淀みなく寄こしてくる。
情報に溺れそうだ。いっそ溺れて意識を失いたい。
「えー……っと、まあ、あそこの家もね、色々あるし……ねぇ?」
「ええ。陛下の仰る通りです。婚姻については御兄弟で話し合われ、手続き含め全てを済まされた、ということでしょう。エルゼ殿が気になさる必要はありません」
中途半端な慰めっぽい何かがかえって堪える。
結婚が、当人同士だけの話で済まないことぐらい、エルゼだって知っている。すっかり浮かれて失念してたけど。
「……家族」
ぽつりと自分の口からこぼれたそれは、まるで掌からも零れ落ちたように感じられた。
もしかしたら、ヴィルヘルムも失念していただけかもしれないし、何か事情があるのかもしれない。
別に、ヴィルヘルムがエルゼに対し含む何かがあるとは思わない。冷静に考えれば、ちゃんと分かる。
それなのに、一番自分が傷つく可能性に飛び付いてしまうのは、本当の意味では傷付かないための予防線、だろうか。
ヴィルヘルムと、家族になるんだと思ってた。エルゼにも、家族と呼べるものができるのだと。
家族は、いつでも助け合って、きっとなんでも話せて、なんでも話してくれるんだと、そう思ってた。
少なくともエルゼの中で、今まで想像するしかできなかった家族というものは、そういうものだ。
まあ確かに、エルゼの方にも、ヴィルヘルムに話せないことはある。
秘密にしたいわけじゃないけれど、どこからどう話すべきかが少しも分からず、結局言えずじまい。
例えば、ひと月前にシュランゲ総団長から聞かされたこととか。
でも、と考えてしまうのは、エルゼの悪い癖だと思う。
エルゼには、話してくれなかった、お兄さんのこと。それは、本当は大事なことではないだろうか。お兄さんのこと、家族のこと。
ヴィルヘルムにとって家族なら、エルゼにとっても、家族になるのではないのだろうか。
それとも、生みの親にさえ拒まれ捨てられた、出自すらも定かではないエルゼでは、家族などという上等なものには――
「エルゼ」
エルゼの思考を中断させたその声は、潜めてはいたが思いの外強いものだった。
エルゼの名を呼んだ公王は、顔は正面に向けたまま、言い聞かせる。
「それは、よくない。今よくないこと、考えてたでしょう」
エルゼ達三人の前で、議会は紛糾している。
その紛糾する貴族達を意に介す必要は感じていないらしい公王陛下は、エルゼに向けて滔々と言葉を紡いだ。
かつて彼の姉、ユリア公女がそうしたように。
ユリアがそうしていたような、圧力も暴力も伴ってはいないけど。
「エルゼ、あなたは私と同じ、幸せいっぱいの新婚さんです。そんな顔も、思考も、すべきではありません。それとも、ヴィルヘルム・フォン・ヴェンデルは、あなたにそんな顔をさせるような不甲斐無い男ですか? ならば私は、叱責や謹慎以上の目に、彼を合わさねばなりません。必要ならヴェンデル伯爵共々、今すぐこの場に呼びつけ申し開きをさせましょう。それに、親友のあなたがそんな風では、姉上が心配されます。心配のあまり戻って来られても怖いので、ちゃんと新妻らしくしていてください」
公王陛下の言葉が突き刺さる。
そう、エルゼは、そうでなければならない。
新妻らしく、平穏で、ありきたりな日々を、過ごさなければ。
◇◆◇
以前、家族について話したことがある。
まだ、結婚も何もかもが影も形もなかった頃。エルゼにとって、それらが平和よりも遠かった頃。
相手は公王陛下の姉、ユリア公女。
ブランカ共和国に嫁いでいってしまった。今は遠くにいる、エルゼの親友。
思えばあの時、既にユリアは共和国に嫁ぐことを決めていたのだろうと思う。
先代の公王の崩御に伴い始まった権力争い。
その決着の方法として、戦争を終結させ、平和を求めるために。
ユリアは公女でありながら誰よりも喧嘩っ早く、そのくせ、誰よりも国を想い、未来を憂い、平和を願っていた。
そのユリアが、エルゼに言ったのだ。
大切なものをもっと作れ、と。家族を作り、共に生きる未来を描け、と。
その時は、なんでそんなことを言われているのか、正直に言うとよく分からなかった。
分からないなりに、当たり前の普通の感覚を持て、そういう意味かな、と解釈した。
家族というものはあまりにも縁遠く、戦場に身を置く騎士のエルゼにとって、男性は異性ではなく共に戦う仲間だった。
ユリアに対し、何と返したのかは思い出せない。
ただ、その後ユリアが何と言ってきたかはよく覚えてる。
「すまない」
そう、ユリアはそう言って謝ったのだ。
エルゼに親がいないこと、騎士として戦って生きるしかなかったこと、戦場に身を置いていること、それら全ては、この国の、この国の頂に立つ者達に責任がある、と。
エルゼが頑なでいると、この優しく勇ましい親友を気に病ませることになるのだ。
エルゼにとって、大切なものは、そう多くはなかった。
親友であるユリアと、ユリアが大切に想うこの国。彼女の大切な弟君。
かつて、ユリアだけを守りたいと言ったエルゼを、𠮟りつけた親友を想う。
生きることは、大切なものを増やすことだと、ユリアに教えられた。
大切なものを増やして、長く生きて欲しいと言われた。
あれからエルゼの大切なものは少しずつ増えている。
夢に見た、エルゼにとって最も遠い存在だと思っていた家族までできた。
そんなこと、自分には許されないと思ってた。
たくさんの命を刈り取ってきた自分には、許されないと。
以前はよく、戦場にいる夢を見た。戦争が終わって、和平が成って、それでもずっと。
蹄の音が聴こえたような気がして、夜中に何度も跳び起きて、枕元に剣を置かないと安心して眠ることもできなくて、常に自分から、血の匂いがするような気がしていた。
そんな状態で家庭とか、子どもとか、そんな大それたこと、考えることすら罪深いような気がしていた。
でも最近、きちんと眠ることができる。
ヴィルヘルムの腕に包まれて、安心感を得ることができる。枕元に剣を置く必要もなくなった。
血の匂いも、感じなくなった。
こうやって、少しずつ、平和というものを身体に馴染ませていけば、いつか、自分を許すことができるような気すらしている。
もちろん、忘れることはできない。
多くの者を殺したことは事実で、その事実を変えることはできない。
彼らの家族が、いつか敵を討ちにやって来るかも知れない。その時どうすべきか、それはまだわからない。
でも、それら全てを心に留めて、自身の未来について考えてみるのも悪くないのかもしれない、そう、思っている。
かつて親友が望んでくれたように、今はエルゼ自身が望んでいる。
平和で、平穏で、ありきたりな日々を。
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