第4話 夢の代償

 マイナンバーシステムでは、勝手に誰かの存在を消すなどありえないことであり、最高国家機密と個人情報の両方から、セキュリティは万全だった。マイナンバーの個人情報に入り込むには少なくとも複数の人間が介在しなければ、入り込むことはできない。もちろん、政府はそのことを国民に公表し、

「マイナンバーは絶対に安全です」

 という触れ込みで始まった。

 中には心配している人もいたが、元々政治に興味を持っていない国民性なので、大多数はさほど気にしていない。国民の意見をあまり聞かずに国会だけで簡単に決まってしまうのも、この国の特性でもあった。

 きっかけは、週刊誌のスクープが問題だった。

 その時の見出しに、

「消えた存在! 本当にマイナンバーは安全なのか?」

 という文字が躍ったことだった。

 ただマイナンバーで存在が消えてしまった人物を特定することはできない。それを思うとどこかウソっぽい気がしたのだが、存在が消えてしまったことに対して疑心暗鬼になった国民の一部が市町村の役場に殺到したことで火が付いた。

 全体的に殺到したわけではなく、一部の地域で殺到しただけなのだが、それだけでも効果は十分だった。一部の地域というのは、昔から比較的政治に対して注目しているところで、全国的に政治にあまり興味がない人が多いことで、多数派がそのまま国民性とされたが、一部の地域では政治に興味を持ち続けた地域もあったのだ。そんな彼らがこの話を目にして、黙っているはずがないではないか。

「私はちゃんとマイナンバー登録されているんでしょうね?」

 そういって窓口は大混乱に陥っていた。

 窓口の人もまさかこんなに殺到するなど想定外もいいところで、元々公務員なので、普段から、

「目の前のことをこなしていればそれだけでいいんだ」

 と思っていたはずだ。

 しかも、田舎の村や町といったところでは、それほど仕事があるわけではなく、午後五時になれば、節電名目で、ほとんどの電気が消えていた。夜中にいる人間も当番で賄える程度で、夜間はほとんど仮眠しているだけだった。

 パニックは避けられなかったのである。

 困ったのは、町長だった。

 県に対策を求めたが、県の方も当然前例のないことで、せめて人を派遣する程度だった。派遣された方も、まったく何も知らない土地に、しかもパニック状態のところに行かされるのだから、貧乏くじもいいところだ。

「何をどうしたらいいんですか?」

 と聞こうにも、皆それどころではない。

 それどころではない状態なので派遣されたのだから当たり前だが、指揮命令系統確立されていないのだから、派遣された人も、

「いい迷惑」

 である。

 危機管理マニュアルというのはあるにはあるが、まさかこんなことまで想定されているわけではない。

「お調べしますので、しばらくお待ちください」

 というしかない。

 待たされる方が、

「いつまで?」

 と聞いても、前例がないので、何とも答えられない。少なくとも数日は掛かるに違いないと思うので、

「調査が終了しましたら、ご連絡いたしますので、お待ちください」

 というしかない。

 質問してくる人はまだいい方だ。

「お待ちください」

 と言われて、

――待っていれば、回答がもらえるんだ――

 と思い、混乱している窓口を遠目に見ながら、じっと待合室で待っている。

 しかし、回答には数日かかるのだ。待っていても仕方がない。だが、そのことを待っている人に告げれる人は誰もいない。皆窓口を離れることができないほど混乱していた。

 さすがにこんな状態で午後五時に窓口を閉鎖できるはずもない。緊急で午後八時まで窓口を開けていることにしたのだが、ギリギリまで人の列が減ることはない。

 午後八時になって、痺れを切らせた待合室にいた人たちが、

「まだなんですか?」

 と聞きに来た。

「あの、調査には数日が必要なんです」

 というと、

「バカ野郎。それならそれで最初から言えよ」

 と罵声を浴びせる。

 待たされた人からすれば、文句の一言を言いたいという気持ちも当然であろう。しかし、罵声を浴びせられた方も、ここまで神経をすり減らして、

――やっと一日が終わった――

 と思っているところでこの罵声では、怒りが込み上げてくるのももっともだった。

 ここでトラブルが起こることもあった。責任者が出てきて詫びをする。窓口対応の人も責任者へ文句タラタラである。こんな状態がひと月ほど続いただろうか。

「人生の半分をこの一か月で過ごしたような気持ちですよ」

 と、口を開けば、口々に聞こえる愚痴であった。

 だが、調査の結果としては、この町の人から、マイナンバーが抹消されたという結果は出なかった。それが全国に公表されたところで、今度は他の市町村でも、同じようなことが起こり始めたのだ。

 元々、ウワサの出所がどこにあるのかも分からない。信憑性も疑わしい上に、もし本当であったとしても、どれだけの情報が消えたのか、まったく分からない。

 一人だけなのかも知れないし、一万人単位で消えているのかも知れない。あまりにも漠然とした状態だったので、他の市町村の人たちは騒ぎ立てるよりも、最初に殺到した町の動向を見守ることにしたのだ。

 その町の混乱が一か月続いたとして、自分の住んでいる自治体の規模を考えると、どれほどの期間、混乱に見舞われるかも分かる。そしていつ頃に行けばいいのか、さらには調査結果が出るまでに、おれほどのものなのか、見当がつくというものだ。

 しかし、その考えは甘かった。

 最初は、小さな町の数か所程度だったので、調査もさほど重複せず、結果は二、三日でもたらされた。しかし、今度は全国に火が付いたのだ。どこの自治体からもマイナンバー照合の依頼を受けると、数か所でも少し時間が掛かったのに、完全にキャパシティの範囲を超えていた。

「回答までには、早くて一か月、集中してしまうと、数か月かかる場合もあります」

 という返事だった。

 マイナンバーの照合依頼があるとしても、一日最大で数百件と見積もっていたこともあって、全国から殺到するなどありえない状態では、パンク目前だった。しかも、時々休ませてあげないと、いつ壊れるか分からない。壊れてしまうと、いくらバックアップがあるからといっても、毎日更新が掛かっているのだから、その間の情報は元に戻ってしまう。いつの時点に戻ったかを検証し、それを更新のあった記録と照合させるのだから、実際問題として不可能だった。

 マイナンバーの抹消疑惑が起こった時、

「バックアップから戻せばいいじゃないか」

 という素人の政治家からの意見だったが、

「そんな簡単なものではないです」

 として、専門家は語気を強めながら話した。

 その迫力に圧倒された政治家もそれ以上何も言えなかったが、政治家というのがどれほど自分のことしか考えていないのかということを、その時専門家は、あらためて知った気がしたのだ。

 そんな政治家連中も、ここまでくればさすがに専門家の言葉が分かってきた気がした。事の重大さにやっと気が付いたというところだろうか。

 それだけ政治家に危機管理の意識がないのだから、対策も当然、後手後手に回ってしまう。

「大丈夫なのか? この国は」

 と、誰もが口にするようになった。

「とにかく、まずは噂の信憑性を確認するのと並行して、もし実際に抹消が事実だとした場合の対策を検討するよう、研究所に依頼しました」

 と、国家安全省は大臣の名前で発表した。

 これは国民に対してのものではなく、各自治体であったり、警察機構、さらには官庁関係にも発令された命令だった。

 ここでいう研究所というのは、「フロンティア研究所」だった。

 ここは半官半民の研究所で、半分はマイナンバーの個人情報のサーバー置き場でもあった。

 ここでマイナンバーと照合依頼のあった個人との照合を地道に行っていた。それと並行して、現在のキャパがあまりにも低いので、急遽、バージョンアップが急務とされた。他の研究をすべて棚上げして進められる作業は、体力的にはギリギリの状態で進められたのだ。

 研究員の中には精神的に参ってしまった人も少なくない。ただでさえ限られた人数で進められている作業がどんどん脱落者を出すと、出来上がりの精度の問題にも微妙に影響する。

 何とかできあがってみたが、実際に使ってみると、期待していたよりもかなり低い状態での稼働だった。それでも、いままでよりも数段よくなっているので、それで行うしかなかった。

 最高に過密な時には数か月だと考えられていたことが、ひと月も掛からずに回答ができるようになり、

「収集がつけられるようになるまで、数年かかるのではないか?」

 と試算されたものが、

「これなら半年くらいで収集するかも知れないな」

 ということになり、政治家はホッと胸を撫で下ろした。

 しかし、専門家はそんな政治家にまたしても失望を感じる。

――何言ってやがるんだ。収集してからが問題なんじゃないか。もし、本当に存在が消えていた人がいたら、どうするつもりなんだ?

 と思っていた。

 しかし、政治家の方も、さすがにそこまでバカではない。

 というよりも、悪知恵は専門家よりも上手なのかも知れない。

「もし、存在が消されていた人がいれば、バックアップから戻せばいいんだ。大した問題ではないではないか」

「そうですね。たくさん人がいれば問題だけど、数人なら、何とでもごまかすことができる」

 というのが政治家の考え方だった。

 専門家は、まさか政治家がそんなことを考えているなど想像もしなかった。

「一人でも内容が違っていれば、マイナンバーというシステム自体、失敗なんだ」

 という考えでまとまっていた。

 確かにその通りである。

 番号を使って国民を管理するのだから、一人でも違っていれば、その一人の違いがどのように他の人に影響を与えるか分からない。

 たとえば、一人の男性の存在が消えていて、元に戻したとしよう。その人は今結婚して子供もいる。しかし、戻した時点では独身ならどうなるのだろう?

 子供の存在、奥さんの存在、一つの家庭で矛盾が生じる。どちらが正しいのか確かめなければいけない。仕事にしてもそうだ。転職していて、しかも、前にいた会社がすでに存在していなかったりすると、大きな問題だ。さらには親が亡くなっていたりすれば、相続の問題が絡んでくる……。

 本当に一人だけの問題で済むわけではない。

 この問題は、タイムパラドックスに精通するものであった。

 そのことに気づいていたのは、他ならぬ「フロンティア研究所」の人たちと、一部の専門家だった。

 研究員は、自分たちが核爆弾のスイッチに手を掛けているような気分でいるかも知れない。

 開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまう恐怖を味わいながら、マイナンバー照合を行っていた。

――もしかすると、これは自分で自分の首を絞めるようなものなのかも知れない――

 分かっているだけに怖かった。

「知らぬが仏」

 この時こそ、研究員であることを怖いと思ったこともなかった。

「こんなことならマイナンバーを承認なんかしなければよかった」

 政治家の中にでも、そう思っている人はいたが、本当の恐ろしさを分かっているわけではない。専門家と政治家はどうしても敵対しているので、専門家の考えが分かるはずなどない。研究員の誰かが政治家を説得できればよかったのかも知れない。

 実際のマイナンバーの登録に関しては、国家だけの問題ではなく、各自治体にもその責務を負わせることになった。元々マイナンバーのシステムは、最高国家機密だった。たとえ自治体と言えど、そのデータベースを覗くことはできなかった。しかし、事ここに至っては、そんなことは言っていられない。

 今までは自治体が窓口になって、国家に照会申請を上げることで調べてもらっていた。そのため、優先順位も曖昧で、ひと月で照会してもらえる人もいれば、数か月経っても、いまだ順番待ちの人もいた。そのことも、マイナンバーの記事を書いた週刊誌に叩かれることになったのだ。

 週刊誌では、

「マイナンバーのシステムに疑問。照会殺到のデータベース、パンク寸前か?」

 と書かれていた。

 問題は、すべてを国家が一括集約していることにあり、国家機密になっていることが一番の原因だと書かれていた。

 討論番組でもかなりの時間を割いて、報道されたが、当然のことながら、山本教授も引っ張りだこだった。

「私が危惧していた通りになりましたが、まさかここまでの混乱になろうとは、想定外のことです」

 と、さすがの山本教授も神妙だった。それだけ国家の一大事であることは間違いないことである。

「それにしても、マイナンバーのシステムがここまで閉鎖的だったとは思ってもいませんでしたね」

 と司会者がいうと、

「確かにこのような騒ぎになると、閉鎖的だったということがクローズアップされますが、セキュリティや管理の面においては、一元管理することが本当は一番望ましいことなんです。あくまでも結果論ですがね」

 と山本教授は、擁護の側に回った。

「でも、この騒ぎは一体どういうことなんでしょうね?」

「これには私も驚いています。厳重なマイナンバーのシステムの中で、誰かの情報が消えてしまうということは、本当であればありえないことなんですよ。つまりは、消えてしまったということの信憑性も、最初からあったのかどうか、それも疑わしいと思っています」

「それは私も最初に思っていたことなんですが、ここまで騒ぎが大きくなると、いまさら信憑性などどうでもいいような気がしてくるんですよ。それよりも、誰もが思うのは、自分だけのこと、『自分は大丈夫だろうか?』と感じるということなんですよ」

「ここが群集心理と、自分中心主義という一見平行線のような心理が交錯することになる。収集のつかない状態が暴走を始め、何が正しいのか、分からなくなってしまうんですよ」

「一人が疑い始めると、自分も気になって仕方がない。でも、気になるのは自分のことだけなんですよね。もし、存在が消えてしまった人というのが、自分にかかわりのある人だったらどうなんでしょうね?」

「そこなんですよ。きっと自分の存在が確認できさえすれば、完全に安心しきってしまうでしょうね。まわりがどうであっても、その時点で狂ってしまった自分の生活を何とか元に戻すスイッチが入ってしまう。でも、まだまわりは混乱している。安心したのに、状況がそれを許さない。今度は新たな不安が募ってくる。これが第二段階となって、さらなる不安を誘発し、世間をさらに混乱させることになる」

「なるほど、この混乱には、いくつかの段階があるとお考えなんですか?」

「ええ、その通りです。だから全員のマイナンバーの確認が取れても、この混乱は収まらない。いや、却って混乱が深まりますね。今度は自分だけのことでは収まらず、まわりを見ることで、次第に自分のまわりが疑心暗鬼に感じられてしまう」

「すると、この混乱はしばらく収まりそうもないですね」

「ええ、私はそう思います。ただ、その間に何かがあった時の方が心配ではあるんですけどね」

「何かというと?」

「今は国内のことで精いっぱいという感じじゃないですか。でも世界に目を向けると、刻一刻と変わる世界情勢に果たして対応していけるかどうかというのも気になるところではありますね」

 山本教授の話ももっともである。

 その時、アナウンサーはゾッとしたものを感じた。

――まさか、この混乱は、他のどこかの国からもたらされた攻撃だったりしないだろうか?

 というものだった。

 そのことを山本教授も分かっていた。分かっていて敢えて触れないのは、このことを話題にすると、デマや中傷が飛び交ってしまい。必要以上に懐疑的な様相を国家ぐるみで呈してしまうことを恐れたからだ。特にテレビなどのマスコミの前で余計なことを言って、混乱を招くことは、評論家として一番やってはいけないことだった。

 その時間の討論は、それ以上の新たな発想を口にすることなく終了した。だが、山本教授の予感は半分当たっていた。そのことをアナウンサーは後になって思い知らされることになったのだ。

 自治体に調査を任せることで、意外と早くマイナンバーの確認は進んでいった。ひと月も経った頃には、約半分の人の確認は終わっていて、

「このままなら、案外と早く確認ができるかも知れないな」

 と、政治家連中も考えていた。

 ただ、

「抹消されていた人の数が想定よりも多かったらどうしよう?」

 という思いは、誰もが持っていた。

 本当なら、そのことに対しての対策もそろそろ考えておかなければいけないのに、なかなかいい案が浮かばないし、出てきても、すぐに打ち消されて、堂々巡りを繰り返すだけになっていた。

 そういう意味では、あまり早く自治体の調査が進んでくれるのも善し悪しだった。

「どうすればいいんだ?」

 誰もが、各々口にしていて、堂々巡りを分かっていながら、どうしようもない状態に、苦悩の毎日だった。

――既成観念に凝り固まっているからなのかも知れない――

 そう感じている人が一番多かった。

 まさしくその通りなのだが、その通りであるからこそ、堂々巡りが抜けられない。分かり切っていることを当たり前として受け止めて考えるのだから、抜けられないのも当然のことである。

 そして誰もが自覚していることとして、

――いくら時間があったとしても、解決にはならない――

 という思いだった。

 全貌が明らかになるにつれ、まるで自分で自分の首を絞めているような気がしてくる。

――どうして、こんな時に政治家になんかなったんだ――

 と、政治家になったことを後悔する人も出てきた。

――それなら辞めればいいじゃないか――

 と自分に問うてみるが、辞められるはずもない。辞めてしまうと、自分が自分ではなくなってしまうからだ。

 そんなことを考え始めると、時間が経つのは早いもの。

――なんて無常なんだ――

 と考えないわけにはいかなかった。

 だが、もう少しで全貌が明らかになるという寸前、今度はなかなか照会に時間が掛かるようになった。

 今回の調査は、依頼してきた人だけを調査していたのではいけなかった。全貌を完全に明らかにしなければ、問題は解決しない。

 消されたかも知れないという人が誰なのか、そして、どれだけの規模のものなのか、そもそも、消されたという噂に信憑性があるものなのかということを考えると、調査依頼してきた人だけを調べていたのでは、問題解決にはならないのだ。

 依頼者のほとんどの確認が終わってくると、今度は依頼してきていない人がどれほどいるのかということへの調査に入ることになる。

 それは相当な困難であった。政治家連中は、そこまでは想定外だったようで、

「依頼者のほとんどの調査が、まもなく終了します」

 という報告を受けたことで、自分たちの焦りは最高潮に達した。

 そして彼らは腹を決めて、いよいよ開き直っていたのだ。

「そろそろ結論を出さないといけなくなりましたね」

「ええ、我々も腹をくくりましょう」

 と、政治家同士で話し合われていた。

 彼らも百戦錬磨を潜り抜けてきた人たち、修羅場は覚悟の上だった。開き直ることで、何とかなってきた経験も過去には持っている連中ばかりだ。それが、政治家としての「命」と言えるのではないだろうか。

 だが、この問題では何度目の想定外の出来事なのか、

「いよいよだ」

 としてせっかく腹をくくったのに、なかなか全貌が明らかにならない。

 完全な肩透かしだった。

「どういうことなんだ?」

 部下をなじる姿が事務所の中を駆け巡る。

 ほとんどの政治家の事務所で、同じような光景が見られたことだろう。

「はい、依頼者以外の確認には、かなりの困難が見込まれています」

「というと?」

「実際の住民票とマイナンバーの照合をしていますが、元々の住民票は古いものです。身元不明の人も中にはいて、住民票もないような人もいました。マイナンバーはそんな人たちにまで仮の番号をつけて、管理するようになった。新たな試みです。しかし、元々の住民票にないのだから、マイナンバーから消えていたとしても、それは分かりません。しかも、それ以外にも、非合法で住民票を不正に取得していた人もいました。そんな人は元々の住民票が細工されているので、その人の存在自体が怪しいものです。そこまで照合するとなると、至難の業となります」

「そんな連中は放っておけばいいじゃないか?」

「そんなわけにはいきません。週刊誌の内容としては、誰か分からないが、マイナンバーから抹消された人がいるというかなり曖昧なものです。それに対して、マイナンバーの正当性を訴えるには。完璧に調べ上げる必要があるんです」

「だが、そんな連中は、前のシステムでは存在自体怪しい人だったわけだろう? マイナンバーになって便宜上取り込んだというだけで、そこまで面倒を見る必要はないんじゃないか?」

「先生、それは違います。マイナンバーはそれらの人々も国家として管理するということが一つの触れ込みだったんです。いいですか、『国家として』という言葉を明記してある以上、国家ぐるみで掛けられている疑いを解消するには、この問題は避けて通ることのできないものなんです。そのあたりはしっかりとご理解ください」

 部下と言っても、将来は立派な政治家を目指している。実務に関しては誰よりも分かっているので、今の状況を一番理解しているのは、政治家の部下たちではないだろうか。

 住民票は、自治体管理だった。実際には、国家が携わることのないもので、マイナンバーは逆である。

 このあたりがマイナンバーの構想が始まって最初にぶち当たった壁だった。

 中央集権と、地方分権とでは、それぞれに一長一短がある。時として中央集権であり、場合によっては地方分権と、それぞれに汎用性を持たせることが国家運営には必要であった。

 ほとんどの国はそれで成り立っている。よほどの独裁国家でもないかぎり、地方の意見を無視することはできない。下手をすると、どんなに強大な独裁国家であっても、翳りが見えると、クーデターが起こりかねないのが、世界情勢だった。

 一旦クーデターが起こってしまうと、まわりの国から干渉されてしまうことも少なくなかった。

「この機に乗じて、あの国の体制を、我が国と同じにしてしまおう」

 という密偵チームが入り込んで、内部から国家分裂、さらにはクーデターを支援するという状況に持っていこうとする。独裁国家であれば、内部だけではなかなかクーデターは成功しないが、外部からの切り崩しには弱い部分がある。独裁国家としては、内部に目は光らせているが、外部からの干渉にはあまり気が付かない場合があるのではないだろうか?

「我が国がこんな状況なので、他国の状況も把握しておくように」

 と、内閣府の命令が、海外の領事館に届いていた。

 もちろん機密の命令だが、領事館の調査では、他国に不穏な動きはなかった。それを考えると、今回の騒動が他国からの干渉であるという可能性は、ほとんどなかったと言っていいだろう。

 国会は頻繁に開催された。マスコミは注目していたが、国民はそれどころではない。

 マスコミの中には、

「これが目的か?」

 と考える人もいた。

 確かに国民の政治への関心は、この国では最悪だが、それをさらに強固なものにするために、今回のマイナンバーの問題が引き起こされたとも考えられる。元々がウワサなので、誰が悪いというわけではない。曖昧なウワサだけに、曖昧な内容を一つ一つ整理していくことは困難を極める。それが狙いだったのだとすれば、本当の目的は他にもあるのではないだろうか?

――時間稼ぎ?

 そう思っている政治家もいたが、決して口にはしない。混乱を招くことになるだろうし、それ以上にいずれ自分の立場が危うくなるのではないかという危惧が、その人の頭を巡ったからだ。

 世の中は、裏と表で成り立っている。それは政治の場面でも、国民一人一人でも同じことだ。冷静に考えることのできる人の中には今回のこの騒動は、

「誰かの存在が消えてしまったと言っているが、実際には消えたわけではなく、裏の世界に持っていかれただけなのかも知れない」

 これは、存在が消されたというよりも、問題としては大きなものだった。

「消されただけなら、誰なのかが確定できれば、また一から作ればいい。しかし、裏の世界に持っていかれたのなら、裏の世界でどのように使われるかということを思うと、想像もできないだけに、恐ろしいことだ」

 裏の世界が存在するというのは、我が国だけの問題ではない。どこの国にでもあることで、裏世界の国交も存在するくらいだ。

 しかし、今ここに一人の男が、裏世界と表世界の両方に存在している。このオトコ、表の世界での名前は譲二といい、裏世界では、正彦という。そう、千尋に里穂の勤めているバーを紹介したオトコだった。

 実は千尋はその時知らなかったが、最初に出会ったバーのカウンターにいたバーテンダー、彼の名前を正彦という。

 正彦は、譲二がカウンターに座っている時、カウンターの奥でバーテンダーをやっている。そして正彦がカウンターに座っている時、譲二がバーテンダーをしているといいう間柄だった。

 お互いにバーテンダーをしている時、一言も自分から発しようとはしない。あくまでも、表に出ているのはカウンターに座っている人だからである。もし、あの時正彦がカウンターに座っていれば、正彦と関係を持っていたかも知れない。いや、譲二と関係を持ったのだから、正彦とも持ったはずなのだ。何しろ裏と表の違いだけであり、二人は同じ人間だと思ってもいいからだ。

 裏世界と表世界の両方の存在を知っているのは、限られた人間だけだが、彼らのほとんどは、裏の世界に自分と同じ人間が存在していることを知っている。そして裏世界は表の世界とは正反対の世界で、個人個人の性格もまったく違っている。

 裏世界の存在は最大範囲を国家単位でしか知ることができず、外国がどうなっているのかを知ることはできない。それがどうやらこの世界の「掟」のようだった。

 しかし裏世界と表世界の両方を知っていて、もう一つの世界の自分は、今の自分と同じ性格であることを分かっている。

――同じ性格だから、向こうの世界を見ることができるんだろうか?

 裏世界を知っている人はそう思っている。

 ただ、一つの疑問として、

――向こうの世界の自分は、俺の存在を知っているのだろうか?

 という思いだった。

 裏世界の存在は知っていて、その世界を覗くことはできても、実際に会話をすることや、裏世界に自分が関わることはできない。それはまるでタイムパラドックスのようで、

――自分が裏世界に関わってしまうと、裏世界の秩序が崩れ、ひいては、表世界にもその歪が襲ってくるのではないか?

 と思えるからだった。

 なぜなら、裏世界の存在を知ることができるのは、夢の中だけだからである。

 他の人も、ひょっとすると夢の世界で、もう一人の自分の存在を知ることは可能なのかも知れない。しかし問題は、

――信じることができるかどうか――

 ということである。

 信じられないのであれば、どんなに頑張っても裏の世界を見ることはできない。一番否定したいことが、

――もう一人の自分という人間の存在――

 だからである。

 譲二も最初、夢を見ても信じることができなかった。頻繁に同じ夢を見ることと、いつももう一人の自分が夢に出てくることで、

「一番怖い夢というのは、もう一人の自分が出てくることだ」

 と感じ、友達にも漏らしたことがあった。

 その時友達は、

「なんだよ、それ」

 と言って、まるでバカにしたような言い方をしたことで、譲二は誰にもこの話をすることはなくなった。

――どうせ、誰もまともには聞いてくれないさ――

 それが、実は裏世界と表世界の境界を厳守するための理だったのだが、その時の譲二に分かるはずはない。逆に言えば、そのことを理解できたことで、やっと裏世界の存在を現実のものとして受け入れることができるようになったと言っても過言ではないだろう。

 その時の友達とは、それから一線を画してしまい、会話をすることもなくなってしまった。お互いに気を遣っているつもりだったが、それ以上にぎこちなさが優先して、結局、和解することもなく、二人の間の結界は決定的になってしまった。

 実はその時の友達というのが、和人だったのだ。

 和人は、その時に曖昧な答えをしたこと、それよりも、そんな話をされたということすら忘れてしまっていたが、その頃から、

――世界には裏表が存在するのではないだろうか?

 という思いが芽生えていた。

 最初のきっかけは鏡を見た時だと思っていた。鏡に写った自分の姿を見ていて、本当であれば、左右対称の動きをするはずの自分の動きが、一瞬遅れたように思えたからだ。動き自体に不自然さはなかったが、時間差を感じた瞬間、まるで、

――見てはいけないものを見てしまった――

 と感じたのだ。

 そして次の瞬間、

――鏡の中に、もう一人の自分がいる――

 と感じた時、鏡の中の自分が不敵な笑みを浮かべているのを見てしまった。

――これは夢なんだ――

 必死で否定しようとする自分がいた。しかし、その否定は実際のものであり、気が付けば、布団の中で汗をグッショリと掻いた状態で目を覚ますことになった。

――よかった。夢だったんだ――

 と、安心したが、次の瞬間、違った感覚も同時に感じることになった。

――もう一人の自分がいたという思いだけが、どうしても夢の中から離れない――

 夢から覚めれば、夢の世界だったという意識から、覚えている夢でも、

「怖い夢」

 として、意識に残るが、時間が経てば、記憶として封印することができた。

 しかし、その時の和人は、もう一人の自分の存在を、記憶として封印することができない気がした。

――意識を記憶に持っていくことはできるけど、封印してしまうことはどうしてもできないような気がする――

 という思いが頭をもたげたのである。

「フロンティア研究所」に入所してから、一人コツコツ研究をしている時、いつももう一人の自分に見られているような気持ち悪さに見舞われていたが、ある時から、急に意識が飛んでしまった気がしていた。

――慣れてきたということだろうか?

 ずっと封印することができなかった記憶なのに、そんなに簡単に慣れるなんて考えられないはずなのに、そう思ったのは、それだけ自分を納得させたいという思いが強かったということだろう。

――自分を納得させるってどういうことなんだろう?

 そう思うと、

――自分を納得させるために必要なのが、もう一人の自分という存在なのではないか?

 と思うようになった。

 ここまでくれば堂々巡りである。

 いや、まるで自分の尻尾から自分の身体を食べて行こうとしているヘビのような気持ちになっている自分を感じる。まるで「メビウスの輪」を想像しているようだ。

 今回のマイナンバーで抹消された人というのは、実は和人だった。和人の存在がマイナンバーの中で抹消されていたのだが、そのことを、和人が分からないわけがなかった。

 和人は、マイナンバーの内部に侵入できる数少ない人であり、それは「フロンティア研究所」職員の特権でもあった。

 特権と言っても、当然厳格な規則がある。勝手にアクセスしたり、ましてや改ざんはできないようになっていたはずだ。しかし、和人は自分の存在を抹消することによって、「フロンティア研究所」内部にいることで、自由にアクセルができるようになった。いわゆる「なりすまし」ができるからだ。

 もちろん、外部から侵入したのではなりすましはできない。研究所内部だからこそできることだ。

 和人の目的は、

「譲二という人間の抹殺」

 であった。

 譲二は、千尋のことを利用した。その目的がどこにあるのか分からないが、このまま放っておくわけにはいかない。そのことを教えてくれたのは、他ならぬ里穂だった。

 里穂は、和人の初めての相手、さらに里穂が整形していることに気づいたことから、彼女に関わっていたのが譲二であることを突き止めた。

 しかし、里穂に関わっていたのは本当は譲二ではない。裏世界にいるはずの正彦だったのだ。

 正彦がこちらの世界に来たのは、山本教授に近づくためだった。そして手始めに教授の娘に近づくことにした。それが里穂だったのだ。

 里穂は正彦が思っていたよりも従順で、まさかここまで自分のいう通りになるとは思っていなかった。整形を施すことは作戦であり、彼女の中に里穂という女性を作り出し、山本教授と、和人の間に、それぞれ違うオンナとして近づけようという計画だった。

 里穂というのは裏の世界のオンナであり、山本教授の娘としての美穂がこの世界でも千穂としての、「もう一人の自分」を作ることができたのと同様に、裏の世界にも美穂が存在している。

 正彦は里穂を愛していた。

 裏世界に存在している美穂は、正彦にとっては邪魔な存在でもあったのだ。

 裏社会で、正彦は美穂の存在を抹殺した。抹殺しておいて、表世界のもう一人の自分である譲二に、里穂を操らせ、千尋に近づいた。千尋が、表世界で里穂と関係を持つことで、裏社会の里穂に変な影響を与えないようにするためである。

 そのため、千尋に正彦として近づき、和人の存在の抹消を考えた。

――千尋の心の中に、和人という男性の存在が大きく影響している――

 ということを感じた正彦は、まずは和人の抹殺を考えた。

 しかし、和人は先手を打って、自分の存在を抹殺ではなく、抹消したのだ。そして、自由な存在として、正彦と譲二、そして里穂と美穂のことを探った。そして、その奥には山本教授という存在があり、正彦が教授を必要以上に意識していることを感じた。

 教授も裏表の世界の存在を知っていた。そして、マイナンバーの存在が、いずれ自分のまわりを脅かすことを予見していた。ただ、立場上、個人的なことを口にできるわけではない。

 ただ、だからといって、表世界において二人のオンナを自分の思い通りに動かしていいというわけではない。

――裏社会には、人権などないんだろうか?

 と思うほどだったが、

――裏社会というのが、表社会とは鏡のような関係で、まったく違った世界を形成しているとしたら……

 と考えると、国民の政治への関心はかなりなものだろう。

――ひょっとすると、完全個人主義国家なのかも知れないな――

 とも思えた。

 そのため、自分のことは自分で守る世界であり、人権そのものというものもないのかも知れない。

 しかし、裏世界を知っている人間は、裏の世界の自分も、ほぼ同じような考えを持っている。きっと裏世界の中では異端児的な存在なのだろう。彼らが肩身の狭い思いをしているかも知れないと思うと、こちらの世界を操作しようと考えた正彦の考えも分からなくはない。ただ、許されないことではあるが……。

 同情できる点を差し引いても、許しがたい。和人は、正彦の野望を打ち砕くには、一旦自分の存在を消すしかないと思ったのだろう。

 マイナンバー消去事件の騒動は次第に収束していった。結局は、

「誰も存在は消えていない。あれは世間を騒がせただけのデマだった」

 として、国民に発表されたのだ。

 これで、和人は晴れて自由になれた。

 裏世界でも夢の中で存在することができる。和人が夢だと思っているだけで、実際には裏社会にいるのだ。

 和人は裏世界を覗くことで、正彦の考えが分かってきた。山本教授へその話をすると、

「私もある程度までは分かっていたが、まさか自分の足元を掬われるなどと思ってもみなかった。ありがとう、君のおかげだ」

 と言って、和人をねぎらってくれた。

「いえ、お言葉には及びません。教授のお気持ちは分かるつもりです」

 と、二人の間に熱い絆が結ばれた。

 いや、結ばれたはずだった。

 和人は、夢を見ていたのだ。千尋、里穂、そして譲二に正彦、どこまでが現実でどこからが夢の世界なのか分からない。

「裏の世界というのは、夢の世界なんだ」

 と思っていること自体、どこかウソっぽい。

 ただ、本人もその思いを若干抱いていた。抱いてはいたが、他の人が、

「なんだ、夢だったんだ」

 として、簡単に片づけられない性分の自分を子供の頃から、

――他の人とは違う――

 と思っていたことで、裏の世界の存在を知ったと思い込んでいた。

 裏の世界を創造することが夢の夢たるゆえんなのだとすれば、

――夢を見ることは鏡を左右に置いた時に見える無限の自分の姿に似ている――

 と感じていた子供の頃と、矛盾があった。

 夢だと思ってホッとできない自分が夢について考えた時、ワンステップ上がったところで、そこが終点だと勘違いしてしまう可能性は大いにあった。

 そして、その思いにたがうことなく、

「夢というのは、裏社会への入り口なんだ」

 という結論に達してしまった。

 本当は結論ではなく、そこからさらに思いを巡らせるべきなんだろうが、それができなかったことが、結果的に正彦のターゲットになりえたのかも知れない。

 和人は、今夢を見ている。

「本当にこれでいいのか?」

 自分の中で生じる疑問を打ち消すことはできないでいたが、マイナンバーを操ることで、自分と表世界の住人である千尋、里穂、山本教授、さらには、悪人だと思っている譲二にまで自分の影響を及ぼすことで、裏社会からの影響を遮断できたと思っている。

「これで、夢を見ても裏社会とはかかわりがないんだ」

 と感じることができた。

 それでも和人には不安が残る。

「裏社会とは、これで隔絶できたと私は思うよ」

 と山本教授は語った。

 安心していいのか分からない状態で、和人は安心しきってしまう自分を止めることができなかった。

「夢を見ても、そこには裏社会は存在しない」

 この思いを抱いている時、今までのように裏社会の存在を知っていたはずの数少ない人が、今度は裏社会の存在を完全に否定し、それ以外のすべての人が裏社会を意識するようになっていた。完全に見えないところで逆転してしまったのだ。

 この時、裏社会と表社会の結界は破壊されていた。そのことを一体誰が知っているというのだろうか……。


                  (  完  )

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表裏の結界 森本 晃次 @kakku

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