第3話 消えた存在

 譲二は、千尋に対し言葉巧みに誘い、一軒のスナックを紹介した。

「大丈夫。ここのママさんは僕の知り合いで、いろいろよくしてくれると思うし、お客さんも悪い人はいないということなので、そんなに心配することはない。ただお酒に付き合って、いろいろ話を聞いてあげればいいだけだよ」

 もっと過激なところであれば、さすがに拒否して、譲二の元を去ることも考えられたが、スナックなら、水商売としてもアルバイトでしている友達もいたりするので、それほどの抵抗はなかった。

 ただ、初めてのことなので、とても自信はなかった。しかも、理由が、

「彼氏の借金のため」

 である。

 千尋は、譲二が自分のことを彼女として認めてくれているかどうか分からないという思いをずっと抱いていたことで、

――これで、譲二の彼女になることができる――

 という思いの方が強かった。

 しかも、譲二は誰が見てもイケメンで、彼のことを女性は放っておかないだろう。もしこのまま自分が彼を突き放してしまったら、彼はすぐに他の女性のところに行くに違いない。

 千尋は自分では気づいていなかったが、ここまで来ると、彼に対しての想いというよりも、まわりのライバルとなるであろう女性に対しての意識が強くなっていたのである。

「分かったわ。私が何とかする」

 とため息交じりで千尋が言うと、

「あ、ありがとう」

 と、必要以上に大げさな喜びを表現し、本当なら、まずは、

「本当に大丈夫かい?」

 と相手を労ってしかるべきなのに、それをしない彼に少し疑問を抱いた。

 しかし、そこで自分のことを心配する素振りを見せたとしても、それはそれでわざとなのかも知れないとも思える。

 要するにどう考えても、見ようによっては、いいようにも悪いようにも取れるのだ。それを思うと、その表情を信じるしかないということなのだろう。

 千尋は、彼に連れて行かれたスナックで、初めてその場所が思ったよりも狭いことに驚かされた。カウンターには十人も座ることができず、テーブル席も二つほどだ。

 今までにスナックに行ったことがないわけではない。これと同じような間取りの店も実際には知っている。しかし。狭く感じたのは営業時間ではなく、まだ開店前のバタバタした時間だったからだ。部屋はそんなに明るくなく、奥でママさんが用意をしていた。

「こんにちは。女の子、連れてきました」

 譲二はそう言って、奥に話かけると、奥からママさんが出てきた。

 新人になる女性が来てくれたことを歓迎してくれるのかと思った千尋だったが、ママさんの冷徹とも思える視線にビックリした。

――そうか、私は彼の借金を何とかしなければいけないということで、ここで働くんだった――

 ということは、本当は女の子は足りているのに、譲二の方からあっせんしたのかも知れない。それを思えば、相手にとって、

「招かざる客」

 だったのかも知れない。

「相変わらず、ママさんは無表情だな」

――無表情?

 千尋には、ただの無表情には思えない。明らかに冷徹な視線を浴びせている。

 千尋は、反射的に譲二の顔を見た。その顔は何事もなかったかのような普通の顔をしていた。

――ああ、この人は何があっても、何もなかったかのような顔ができる人なのかも知れない――

 と思った。

 しかし、そう思うと、あの時の泣きついた顔は何だったんだ?

 彼の今見せている表情を見てしまうと、とてもあの時のような取り乱したような不安な表情ができるはずはない。

――一体、どっちが本当の彼なんだ?

 もし、今の彼が本当の彼なら、千尋は取り返しのつかないことをしたのかも知れない。

 その時、一人の男性の顔が目の前をよぎった。

――和人さん――

 どうして彼の顔がよぎったのかすぐには分からなかったが、すぐに否定した。今の自分を彼には到底見せられないと思ったからだ。

 千尋はその日、それなりに化粧を施し、今日からでも店に出れるような恰好をしてきた。案の定、

「今日から出れるんだろうね?」

 というママからの質問に対し、

「ええ、もちろんですよ」

 という譲二の返事。

 明らかにママの方が立場が上に見えるのに、なぜか譲二も負けていない。

 千尋は何も言えずに、そこに佇んでいるだけだったが、本当に短い話が終わると、

「じゃあ、一旦引き上げるね」

 と言って、千尋の手を取り、店を出た。

「ママは、全然私に何も言いませんでしたけど?」

 と不安を彼にぶつけると、

「大丈夫。ママは初対面の人にはあんな感じでぶっきらぼうなだけだ。付き合っていれば、すぐに慣れる」

 千尋は、彼の返事にまったく不安が払拭された気がしなかった。

 二人は、一時間ほど近くの喫茶店で時間をつぶし、

「そろそろ行こうか?」

 と、再度店に連れていった。

「俺は、最初の一時間ほどしか一緒にいられないけど、後は他の女の子も来るので、彼女にいろいろ聞くといいよ」

 と、言っていた。

 確かに、一時間もしないうちに、

「俺はこれで」

 と言って席を立った譲二は、そのまま店を後にした。

 三十分ほどママと二人だったが、会話があるわけではなく、ママは奥でいろいろ経理のことをしているようで、千尋は洗い物に精を出していた。

 そのうちに彼が言っていた、

「もう一人の女の子」

 が出勤してきた。

「あら? 新しい女の子?」

「ええ」

 二人の会話はそれだけだった。

 それがツーカーの中での周知の会話なのか、それとも会話をする必要のないほど冷めた関係なのか分からなかった。

「私、里穂っていうの。もちろん、本名じゃないけどね」

「初めまして、私は千春といいます」

 ここでは本名ではない名前を付けなければいけないと思っていたが、それについてママも彼も話をしなかったことで、最初は本名でいこうかと思ったが、彼女が自分も本名ではないということを告げたので、名前を変えたのだ。

 里穂は千尋に優しかった。

「あなたを見ていると、昔の自分を思い出すようだわ」

と、里穂は千尋を見つめながら言った。

「どういうことなんですか?」

「私は子供の頃から背も小さかったし、発育が遅れていたの。それがコンプレックスになって、女の子と一緒にいるより、男の子と一緒にいる方が多くなったの」

「でも、今の里穂さんは、どう見ても、『大人のオンナ』ですよ」

 というと、里穂は苦笑いをしながら、

「私は、自分の身体に手を加えているのよ。親からもらった本当なら大切にしなければいけない身体にね」

 と言いながら、寂しそうな表情になった。

 さすがに里穂にも彼女の言いたいことが分かってきたような気がした。千尋の困惑したような表情を見ながら、里穂は続けた。

「あなたにも、たぶん、その時の私とは違ったコンプレックスがあったと思うのよ。今プラックスというのは、本当はその人にしか分からないことなんだけど、でも本当は誰かに知ってもらいたいと思っていることなのかも知れないわね。でも、コンプレックスがイコール、『誰にも分かってもらえないこと』として頭の中にこびりついてしまっていることで、コンプレックスという言葉が、その人を自分の殻に閉じ込める要因になっているんじゃないかって思うのよ」

 里穂の話を聞いていると、千尋に対して、それなりの説得力があった。

 最初は、

――この人の身体は私のように大人のオンナなんだけど、私とはどこかが違う――

 と思っていた。

 どこが違うのかまったく分からなかったが、こうやって話を聞いてみると、最初から違っていて、結果として同じような大人の身体を手に入れたということのようだ。結果が同じでも、プロセスが違っていれば、同じに見えることでも、少しでも視線が変われば、まったく違ったものに感じてしかるべきではないだろうか。

「私は、子供の頃から発育が早くて、それがコンプレックスになってきたの。男子からは好奇の目でしか見られないし、女性からは妬みの視線でしか見られない。何が嫌と言って、自分の実力で手に入れたことでも、この身体のおかげだって思われることだったのよ。今だったら、そんなことはないと思えるのかも知れないけど、子供の頃はそんな理屈を分かるはずもなかったのよ」

「でも、本当に、そんなことはないって言えるのかしら?」

「えっ、どういうこと?」

「あなたはその身体のおかげで実力以上のものを手に入れたのではないかという意味なんだけどね」

「じゃあ、私は知らず知らずに自分の身体を武器にしていたということなの?」

「でも、それは悪いことじゃない。問題なのは、あなたがそのことを悪いことだって思っていることなのよ」

「……」

 千尋は言い返すことはできなかった。

 里穂は続けた。

「あなたという人間は、きっと物心ついた頃から、コンプレックスを持っていたのかも知れないわね。だから、あなたのスタートラインは最初から他の人とは違うの。絶えず後ろから見ていて、人の背中ばかりを見ているんでしょうね。だからなかなか正面に回ることはできない。それがあなたという人間を正直にできない原因なんじゃないかって思うのよ」

「そうかも知れない」

 千尋は里穂の言葉に、そう答えるしかなかった。

 すると千尋は、

「別に無理して答える必要はないのよ。今納得したつもりになっているようだけど、本当に納得していれば、言葉が続いてくると思うの。言葉が続かないということは、まだまだ頭の中が整理できていない証拠なんじゃない?」

 つくづくその通りだった。

――中途半端な相槌は、相手の話の腰を折るようで、余計なことは言わない方がいいのかも知れない――

「私は、高校生の頃まで、いつも目立たない女の子だった。男の子の視線も女の子の視線も感じることはない。まるで石ころのような存在だったの」

 石ころというと、道端に落ちていても、それを気にすることはない。

――あって当然――

 という意識さえも人に与えることはない。

 意識して見なければその存在を感じることはない。そんな気配を消すことのできるものがこの世に存在しているということすら、想定していることではないのだ。

 考えてみれば、石ころというのは恐ろしいものだ。目の前にあって視界は捉えているはずなのに、存在としての意識を感じることはない。まるで石ころによって、催眠術を掛けられているような感じだ。しかもそれが、

「気配を消す」

 ということであり、間違いなく存在しているものなのに、気配を感じないという想定外のものとなるのだ。

 気配と存在は、切っても切り離せないものであり、

「存在しているものには、必ず気配があり、気配を感じるものは間違いなく存在しているのだ」

 存在があって気配があるから、気配は消すことができるのだろう。

 昔の忍者が、気配を消すための訓練を重ねていたということなのだが、どこかで気配を消すことができたのだろう。相手がまわりに気を配って、気配を必死に感じようとしていることで、気配を消そうとしている人間を逆に助けていたのかも知れない。狙われている方も、まわりに気を配っておかなければ、いつ殺されるか分からない。そんな状態は日常の必然だったのだ。

 だが、もし相手がまわりの気配にまったく意識を持っていなかったらどうだろう? 気配を消そうとしている人間がいれば、却ってその存在を感じることになるのではないだろうか。

 千尋は、里穂を見ながらいろいろな発想が頭を駆け巡った。

――こんなことは久しぶりだわ――

 子供の頃には結構あった。

 いつも一人でいた千尋には、いつも何かを考えていることしかできなかったのだ。それはそれで楽しかった。自分の世界を作り上げるというよりも、出来上がっている世界に入り込み、自分用にカスタマイズするような感覚だった。

 千尋は、自分で作り上げるものにさえ、自信が持てなかったのだ。

 千尋は、里穂の話は確かにスタートラインが違うことを示唆していたが、似たところがあるとも言っていたことが気になっていた。しかも、里穂の話は、どうやら整形に関係しているように聞こえてならなかった。いくら自分が里穂の立場だったとしても、まさかそこまではしないだろうと思っているのは、里穂が自分とは違うというよりも、その考えが里穂だけのものによるとはどうしても思えなかったのだ。

「私は、高校の頃まで本当に暗い女の子だったのよ。それがある日学校の帰りに一人の男性が話しかけてきて、その人がいうには、『君は自分の美しさに気が付いていないんだよ』って。急にそんなこと言われても、私はきょとんとしてしまったわ」

 もし、それが自分でも同じだろうと感じた千尋だった。

「私は、無視しかかったんだけど、さらにその人は、『美しさというものは、まわりから全体を見て感じるものでしょう? バランスだったり表情だったり、いくつもの判断基準があって、それに沿って見る人は即座に総合判断を下す』って言いだしたのね」

「それで?」

「私はまだ意味が分からなかったんだけど、全体を見ての判断なんだから、パーツを見ているわけではない。逆にいうと、目立たない女の子でも、どこかのパーツを一つ弄っただけで、まったく違ったイメージになるっていうの。それは、相手が全体からしか見ていないという盲点をついていることだって」

「分かるような気がします」

 千尋は、まわりからの視線を浴びていて、嫌というほど自分の全体を見られていることを感じていた。男性からのいやらしい目は、余すところのないと言わんばかりに舐めるように上から下まで見つめられる。パーツを見つめているつもりでも、最後には全体を見るのだから、パーツについての意識は、全体を見た瞬間に消えてしまうに違いない。

――だったら、どうしてパーツを見るのよ?

 と感じたことがあった。

 ただ、それは相手が千尋だったからであって、目立たないどこにでもいるような普通の

女の子だったら、パーツを見ることなく、全体を見た時点で、気持ちは萎えるというものである。

 里穂は続けた。

「その人は芸能プロダクションの人で、本当なら、アイドルになれそうな目立つ女の子を探すのが仕事だったんだけど、どうして私に声を掛けてきたのか分からなかった。でも、本当は仕事とは関係なく、私が気になったから声を掛けてくれたって話してくれたのよね」

「それって、里穂さんを好きになったってこと?」

「そういうことだって言ってたわ。だけど、今のままでダメだっていうの。それは、私の性格が殻に閉じこもっているからだって。だからその殻を取っ払うには、外見でも私が綺麗にならなければいけない。だから、自分好みのオンナに変えてあげるって言ったのよ」

 どこか胡散臭い気がした。

 胡散臭いというよりも、相手の態度がどこか高圧で、普段から殻に閉じこもっている女の子の心理に付け込んでいるように思えたからだ。

 もっとも、これは冷静になって相手の話を聞いているから分かることで、ひょっとすると、話をしている里穂も、

――私に分かってもらいたくて、わざとそんな話し方をしているのかも知れない――

 と感じる千尋だった。

「その人のいう通り、整形をするために、お金もためた。最初はコンビニでアルバイトしていたんだけど、それだけでは足りずに、そのうちに紹介するからと言われて、スナックでアルバイトをするようになったの」

「未成年でしょう? 学校は?」

「すでに私は彼の言いなりだったの。彼のいうように学校も辞めたし、家も出た。私は、元々自分のことを知っている人が誰もいない世界に行ってしまいたいという願望があったので、彼が進める世界がそういう世界だって思って、彼について行ったの」

「それで整形を?」

「ええ、徐々に作り変えて行ったわ。もちろん、一気になんかできるはずもないからね」

「それで彼の望み通りになったの?」

「ええ、最初の彼の企み通りにね」

「えっ?」

「元々彼は私のことなんか好きじゃなかったのよ。私に働かせて、貯めたお金を整形に使わせる。もちろん、整形の医者とはグルよね。私は何も知らずに彼のいいなりだったわけ」

「なんてひどい」

「最後に彼に言われたわ」

「なんて?」

「綺麗なオンナは一週間で飽きるが、ブスなオンナは一週間で慣れるってね」

「ひどい……」

「確かにひどいわよね。でも、彼のいう通りなのよ。私の悲劇はそれを分かっていなかったことに始まったの。でも、今ではせっかく整形したんだから、今度はそれを武器にしようって思っているけどね」

 里穂は開き直っているようだ。

 千尋は、今の話を聞いて、分かった気がした。

――私の苦悩は、まわりから飽きられることだったんだ――

 好奇心の目がいやらしいということで、それが嫌だとばかり思っていたが、本当はそうではなく、好奇の目で見ていた連中が、途中から急に千尋を意識しなくなる。それが怖かったのだ。

――どうしてなの?

 いくら考えても分からない。

 今だったら、少し考えれば分かったことなのかも知れないと感じる。飽きられるということがまったくの想定外のことだったのだ。

 しかし、考えてみれば。千尋自身、飽きっぽい性格だった。

「自分のことは一番自分が分かっているようで、実は一番分かっていないんだ」

 と言っていた人がいたが、確かにその通りだ。

 自分の顔を見るには鏡のような媒体がなければ見ることができない。そして声を聞くには録音したものを聞くしかない。どうして、声に関してそう感じるのかというと、

「自分で感じている声おと、録音した声とでは、ここまで違って聞こえるものだったなんて」

 と、一度録音してもらったテープを聞いた時、自分でビックリしたものだ。

「そんなに違ってるの?」

 録音してくれた人は、千尋があまりにも意外だと感じていることにビックリしていた。

「ええ、二オクターブくらい録音した声は高く感じられるくらいだわ。本当にビックリだわ」

 と言ったが、本当んビックリしたのは、これだけ違う声を聞かされたことよりも、自分がこれほどビックリしていることを意外そうに見ていたまわりだった。

――誰も私のように不思議に感じないのかしら?

 そう思うと、どんどん今までの自分の孤独がウソではなかったことを証明しているように思えてきたのだ。

 千尋は里穂が素直ですぐに何でも信じてしまう人間に思えた。いいなりという言葉を口にしていたが、自覚はあるのだろう。しかし、それでもしたがってしまうのはオンナとしての性なのか、それとも彼女自身の問題なのか、そこまでは分かっていないような気がする。

「その男性とは?」

「もう別れたわ。今はどこで何をしているのか分からない」

 里穂の表情が寂し気だったが、彼女は普通に話をしている時でも、寂しそうな表情をすることがある。寂しそうな顔をしているからといって、彼女がいつも寂しいと思っているとは限らない。

 もちろん、初対面のその時に分かったわけではないが、寂しさの奥に何か違うものを感じた。そして、その表情の意味を分かるのは自分しかいないのではないかとさえ思うようになっていた。

 里穂を見ていると、自分がなぜこの店で働かなければいけないのかということを考えさせられる。だが、

――深くは考えたくはない――

 という思いも強く、

――騙されているのかも知れない――

 他の人が見れば誰もがそう思うであろうことを、自分で認めたくなかったからだ。

「私はね……」

 里穂は少し声のトーンを落として話始めた。

 千尋は固唾を飲んで、次の言葉を待った。

「その男と別れてから、ずっと一人でいたの。男の人はもういいって思ってね。私が彼から離れたのは、彼が私以外の女性に手を出したのを見たからなの。でも、他の女性と浮気したという事実だけで彼が嫌になったわけではないのよ。彼が言った一言が私のすべてをリセットさせたの」

「何て言ったの?」

「俺が何か悪いことでもしたのかい? って言ったのよ。まったく悪びれた様子もなく」

「それで?」

「どうしてそんなに平気な顔ができるのかって聞くと、『悪いことをしたとは思っていない、むしろ、俺を好きになってくれた人に報いているだけだ』って言ったの。だから私もね。『じゃあ、私に対しても報いているだけだっていうの?』って聞いたら、『ああ、そうだよ』って平然として答えたの」

「そこに居直ったような様子はなかったの?」

「ええ、まったくなかったわ。当然って顔で、私が詰め寄ったことに対して悪びれた様子がなかったの。それを見た時、私は急に全身の力が一気に抜けて、完全に自分がリセットされていくのを感じた気がしたわ」

「そうだったんですね」

 千尋は、自分が里穂の立場だったらどうであろうか? 自分なりに考えてみた。

 今、自分は一人の男性のために、お金を稼ごうとしている。

――なんて健気なのかしら?

 と自分で自分にそう感じていた。

 それが自分に酔っているだけだということに千尋は気づいていない。いや、気づこうとはしないのだ。余計なことを考えて、知らなくてもいいことを知ってしまうのが怖い。千尋は今里穂の話を聞いて、

――やっぱり余計なことを考えるのはやめよう――

 と思った。

 本当なら、ここで里穂の話を聞けたことが、大きなターニングポイントだったのかも知れない。千尋は自分がいつも一歩踏み出せず、そのためチャンスを逃したことがあるのを自覚しているつもりだった。しかしそれでも失うものもあるはずなので、それがどれほどの大きさなのか分からないことで、一歩踏み出すことができないでいた。

「私は、あれからしばらくは男の人をそばに寄せ付けないようにしていたの。近寄ってくる人には睨んでみたり、まわりに分かるように大げさなリアクションを起こすことで、相手の男が近づけないようにしたりしていたの」

 なるほど、里穂の立場からすればそうなのだろう。

「じゃあ、友達は女性ばかりですか?」

 というと、里穂は首を大きく振って、

「友達なんかいなかったわ。男性も怖いけど、女性はもっと怖い。信じるとロクなことがない。女の人って、同性だから相手のことを分かると思っているでしょう それだけに相手のいいところよりもまず悪いところから先に探すのよ。だからすぐに自分には受け入れられないと思うと、もう無理。口では差し障りのないことを口にしながら、心では睨みつけているのよ。憎悪剥き出しでね」

 里穂の話を聞いていると、どんどん怖くなってきた。同じ女性として分からなくもない。話の内容は自分にも当てはまることだった。

 千尋は自分が男に騙されているということを想像したことがなかった。テレビドラマなどで男性に騙される女性を見ると、嫌悪しか感じなかった。

――私はそんなことない――

 完全に他人事としてしか画面を見ていない。

 そして次第に男性に騙される女性を見て、

「あなたの方にも騙されるだけの理由があるのよ」

 と、騙される側を非難していないと、画面を見ていることができなくなってしまう。

――私って、二重人格なのかしら?

 と初めて感じたのはその時だった。

 子供の頃にお化け屋敷に行ったことがあったが、

「私は、本当はお化けや幽霊って怖いのよ」

 と言いながら、率先して入って行った。

 その友達は、それを、

「怖いもの見たさなのかも知れないわ」

 と言ったが、千尋はそれを、

――本当は好奇心旺盛だって言わなければいけないんじゃないのかしら?

 と感じた。

 怖いもの見たさと言ってしまうと、それ以上でもそれ以下でもなくなってしまう。しかし、

「好奇心旺盛だ」

 と言えば、それ以外にも汎用性を持って聞くことができる。その人の可能性を感じることができるからだ。

 それなのに、彼女は自分を怖いもの見たさだと言った。

 大人であれば、謙虚さから出た言葉なのかと思うが、子供はそこまで分からない。もちろん、今感じていることも、子供の頃に感じたことではない。大人になって思い出した時に、ふと感じたことだった。

 怖いもの見たさという言葉は、怖いという自分の性格が根底にあって、それでも見たいという思いは、普段の自分からでは感じることのできない思いだったに違いない。だから自分の性格の大きな部分として、

「怖いもの見たさ」

 という表現をしたのだろう。

 そういう意味で、

「彼女は二重人格だったんだ」

 といまさらのように感じた。

 確かに今までまわりに、

――この人二重人格なんじゃないかしら?

 と思える人は何人かいたが具体的にそのことを証明できる確固たる何かがあったわけではない。

 考えてみれば、自分を二重人格だと思ったこともなかったくらいで、まずは自分の性格を疑うものだ。

 しかし、千尋は自分に対しては甘い考えを持っていた。

 必要以上に余計なことを考えたくないという思いは、自己防衛そのものである。

 特に自分のことを見つめる男性の目というのは、嫌らしい目以外の何ものでもなかった。好奇心などという綺麗な言葉で言い表せることではなく、舐めるような視線は嘔吐を催すほど、深刻なものだった。

 千尋は、見つめられている自分を、何とか自分ではないと思いたかった。この時ほど、

――自分が二重人格だったらいいのに――

 と感じたほどだ。

 自分でありながら他人事のように自分を見ることができるのが二重人格と言えるかどうか分からなかったが、少なくとも他人事というキーワードは二重人格という性格と密接に結びついているように思えてならなかった。

 二重人格者というと、ジキルとハイドのように、自分という一つの身体に二つの性格が宿っていて、定期的に入れ替わっているという認識しかなかった。だから、お互いの存在を知らないまま過ごしているが、それは自分だけしか知らないことであり、まわりの人は気づいているだろう。

 しかし、同じ人間だと思えないほどまったく違った性格になってしまうと、同じ肉体であっても、表情はまったく違っている。果たして見る人間に、

「同一人物だと認識できるだろうか?」

 という疑念が湧いてくる。

 そういう意味では、二重人格者をまわりが認識できるとしても、かなり本人に近しい人でなければ難しいだろう。それは肉親においても言えることで、いくら親であっても子供であっても、認識するのは無理があるかも知れない。なぜなら、血の繋がりという情があるため、

――そんなことはありえない――

 と、自分が認識している悪いことはどうしても否定しようとするからである。

 里穂の話を聞いていると、彼女は相手が二重人格であるかどうかというところから探っているような気がする。

 というのは、相手をまずは全体から見渡してみるのが普通の人なのだろうが、里穂の場合は全体を見渡しているように見えて、絶えずその人の性格の根源を探ろうとしている。根源を見つけたところから、今度はまわりを見つめていく。つまりは、客観的に見るのではなく、主観的に見ようとしているところが里穂の他の人と違うところで、怖いところでもあったのだ。

 そんな性格にしたのは、やはり以前に付き合っていた男性から裏切られたからだろう。

 彼女に限らず、誰かから裏切られると、人を見る目は完全に変わってくる。それは見方というよりも、見る角度と言った方がいいのかも知れない。

――少なくとも裏切られた人は正面から見るようなことはしない――

 というのが、千尋の考えだった。

 そう思っていると、千尋は自分の将来が怖くなった。

――このまま彼を信じていっていいのだろうか?

 最初にい疑わなければいけなかったことだ。

 一度スルーしてしまうと、なかなかその時点に戻るのは難しい。特に

――必要以上のことを考えるのはやめておこう――

 と思う千尋には、好奇心はおろか、

「それ以上、それ以下」

 ということを考えることはできない。

 何とか浮かんだ疑念を打ち消そうとして努力をするのだが、本当なら、努力をする場所が違っているはずなのに、気づかないふりをするしかなかった。

「私、男性なんて、誰でもいいって思うようになったの。そのせいもあってか言い寄ってきた男とはほとんど寝たわ。どうでもいいような男もいて、どうしてこんな男としちゃったんだろう? って思うこともあったし、逆にこの人なら信じられそうだと思った男もいた。でも、私はベッドから出てしまうと、その男性とはそれで終わりにするようにしているの」

 割り切りとでもいうのだろうか、そんなにアッサリとしたことは自分にはできないと思いながらも、どこか羨ましく感じられた千尋だった。

 子供の頃、友達の中には親が共働きで、自分も一人っ子だったので、たまに外食することになり、家のリビングの上には、その日の食費が置いてあるらしい。それを持って、近くのレストランで食事をするのだが、千尋にはそれを羨ましいと思った時期があった。もちろん、その友達の気持ちになれば、そんなことを思えるはずないのだが、どうしても他人事として自分の中で処理してしまうので、羨ましいなどという感覚が芽生えたのだった。

 そんな千尋だったので、彼女のように相手を自由に選べる立場の人を羨ましく感じるようになったのは、その時からのくせとでもいうのだろうか。

――きっとこのくせは治らないわ――

 と思っていた。

「私、童貞キラーになったのよ」

 里穂はそう言って、ほくそ笑んだ。

 その言葉の裏には、

――してやったり――

 という思いが見え隠れしているように思え、さらに彼女に対して怖さが感じられた。

 普通なら、初めて会った相手にいう言葉ではないのだろうが、これから一緒に過ごしていこうとする相手に対しての、挑戦状のようなものだろうか?

――いや、もしそうなら、最初にあんなに長い前置きはないはずだわ――

 と思うだろう。

 いきなり、自分のことを童貞キラーだと言ってしまった方がインパクトが強く、他の話は間を置いてゆっくりと話せばいいことだったはずだ。

「私は最近になって、人間が分からなくなったの。元から知っていたというわけではないんだけど、自分の想定外のことが起こりすぎるというか、そのために、いろいろ転々としたものだわ」

「じゃあ、スナック勤めはここが初めてではないということ?」

「ええ、いくつか経験したわ。最近では、休みを多くもらうようになったこともあってか、以前いた店から、たまに応援に入ってほしいって言われることもあるくらいなの」

「それだけ期待されているのね」

「こういう業界は、どうしても不況なので、絶えず女の子を複数置いておくというわけではないの。店側は、自分のお店の女の子を呼び出すよりも、普段いない人に来てもらう方が、お客さんにとっても新鮮だし、声を掛けられた女の子も、気分転換になっていいって思っている娘は結構いるみたいなの。自分のお店での仕事ではないのでお手当はそれほどないんだけど、喜ばれる分、来る方も楽しみというものなのよ。それにね、女の子としても自分の顔を売っておくことで、今度は自分を訪ねて自分のお店に来てもらうということもできるでしょう? 一石二鳥ってわけなのよ」

「なるほどですね。里穂さんは、そこでも人気があるんでしょうね」

「私がいくお店は、スナックの中では比較的低料金なところなので、一度来た人がリピーターになるということは多いの。しかも年齢層は結構若い人が多くって、ママさんがいい人なので、若い男性の悩みとか、結構聞いてあげているのよ。もちろん、アドバイスができるというわけではないので、聞いてあげるという程度なんですけどね」

「里穂さんも居心地いいお店なんですね」

「ええ、私のように男に言われるまま整形をしてしまって後悔しているような女の子がママを頼ってくることも多いの。このお店は私が勤めた初めてのお店。結構居心地よかったんだけど、どうしてなのか、ある日飛び出してしまったの。ママにはちゃんと話をしたので、飛び出したというのは言い過ぎかも知れないけど、飛びだしたことには変わりないわ。でも、そう思っていたとしても、またここに戻ってくる。やっぱりそこは居心地がいいのね」

「そうなんですね」

「その時、私は何人かの童貞の男性としたんだけど、その中の一人の男性がちょっと気になってね。普段は自分のことをほとんど話さないんだけど、その人にはウソ言っちゃった」

「どういうことですか?」

「全部が全部ウソではないわね、いや、ウソというのもおかしいかも知れない。言葉が足りないのをウソだと言わないのなら、私はウソを言ったわけではないのかも知れないわ」

 千尋は里穂の話に耳を傾けた。

「不倫をしているって話しているうちに、その男性のことが気になってきてね。しかもその時に流れてきた曲が『別れの曲』だったというのも印象的だったのよ。私はその時、本気でその人のことを好きになるんじゃないかって思ったほどなの」

 もちろん、千尋には分かるわけはないが、里穂の相手は和人だった。これを偶然という言葉で言い表していいのかどうか分からないが、千尋の知らない和人を、里穂は短い時間で知ることができた。それだけ和人の方で千尋には心配かけたくないという思いがあるからなのかも知れないが、和人自分が自分から弱い部分を見せた瞬間だったのだ。

 千尋は、里穂の話を聞きながら、相手の男性をいろいろとイメージしていた。千尋が想像できる男性は和人と、自分の処女を奪った譲二という男性しかいない。さすがに人の話を聞きながら二人のことをイメージするのは難しい。まずは一番記憶に近い譲二をイメージしてみた。明らかに違うイメージしか浮かんで来ない。

 譲二のイメージが今の千尋の中で大きな存在だった。一緒にいた時期は短かったが、バーテンダーという彼の颯爽たる姿、それなのに、友人のために保証人になったという優しさを持ち合わせた彼、何よりも、人のために何かをするなど、今までの自分には想像できなかった千尋が、男のためにスナックでアルバイトするなどという健気な姿にした彼の存在は、もう千尋にとって、自分の身体の一部になってしまったかのようであった。

 今もまだ、譲二という男性の全貌が見えてくる気配のない千尋にとって、一緒にいる時はもちろん、一緒にいない時の方がいろいろと想像してしまうことで、どんどんと大きな存在になっていった。

 かと言って、今までずっと一緒だと思っていた和人の存在が消えているわけではない。確かに譲二の存在の後ろに追いやられたことで、直接見ているという感覚が薄れてきていた。

――和人は、譲二さんとは違う。譲二さんは、和人でもない――

 と自分に言い聞かせていた。

 和人とは時間を掛けてずっと一緒にいたのに、広がっていくことはなかった。

――ただ、そばにいればそれでいい――

 言い方を変えれば、まるで空気のような存在だった。

――和人もきっと同じ思いに違いない――

 と考えていた。

――私の考えていることは、和人にだけはすべて分かってしまいそうな気がする――

 と思っている。

 しかし、その思いを譲二には感じない。和人が影のような存在なのに、譲二は日の光にしか思えない。

 しかし、影というのは光がなければ存在することができない。

 ということは、和人は譲二という存在がなければ存在することができないことになるが、そんなバカなことはない。譲二を知る前から、和人は和人だったのだ。

 では、譲二を知ってからの和人は、千尋の中で変わったのだろうか?

 そんなことはない。やはり和人は和人なのだ。それも、

――千尋が知っている和人――

 という存在なのだ。

 里穂の話はいろいろと脱線していった。童貞を奪った相手の話も中途半端に、違う話を始めたのだ。

「そういえば、『別れの曲』で思い出したんだけど、私は中学生、高校生の頃、じっと私を見つめている目を意識していたの」

「ええっ、それってストーカーということですか?」

「ストーカーというわけではないの。別に何かされたわけではないし、ただ視線を感じるだけなの」

「でも、それだけでも十分にストーカーなのでは?」

 この国のストーカー犯罪は、年々急増していた。最初は何もされなければ警察も動くことはできなかった。

「毎日、つけられているみたいなんです」

 というだけでは、警察の方も、

「じゃあ、通勤時間帯の行きと帰りの時間、あなたのまわりの警備を強化しておきましょうね」

 という程度で、実際にその人自身を直接守ってくれるということはなかった。

 しかし、警察へ通報していたにも関わらず、ストーカーがさらに過激になったり、実際に傷害事件が起こったりすることから、警察も遅ればせながら動き始めた。

 実際に殺人事件にまで発展すると、さすがに警察も本腰を入れるようになり、社会問題になってからは、ストーカーに対しての法律もできたりした。

 それでも、犯罪と法律のいたちごっこは昔からのこと。法律がどうしても後手後手に回ってしまう。

 ストーカー被害を訴えていた人が、ある日、死体になって発見された。殺人事件ではなく、自殺だった。遺書には、

「ストーカー行為を受けていて、警察にも相談したけど、警察は何もしてくれなかったから、私は自らで決着をつけます」

 としたためられていて、覚悟の自殺だった。

 この問題は、ストーカー殺人とは別の意味で物議をかもし、新たな社会問題を引き起こした。警察の言い分としては、

「法律の範囲内で、できるだけのことはしましたが、こんなことになって残念です」

 という警察署長の記者会見だった。

 どう考えても、他人事にしか見えない警察の態度に、マスコミも黙っていない。警察組織に対してのバッシングは一時期ひどいものがあったが、ある日を境にバッタリと批判がやんだ。

「人の噂も七十五日」

 ということわざがあるが、それにしても、急にピタリとやんでしまうのはおかしなことだった。

「国家権力が働いたのか?」

 という噂が飛び交ったが、それも、

「言論の自由」

 という憲法の基本方針を無視したものである。

 だが、そのことを言及するはずのマスコミが黙り込んでしまったのだから、どうしようもない。それ以降何も話題に上ることはなかったが、人々の心の中にはモヤモヤとしたものが残った。

 ストーカーに対しての法案も、中途半端な状態で成立したままになっていた。

 それでも、殺人や凶悪犯に対して、ストーカー行為が重複していれば、刑罰は極刑に近いものだ。さすがに死刑になる事例は少ないかも知れないが、無期懲役くらいにはなるだろう。

 さらに、ストーカーが絡む事件に関しての時効は存在しないという法案が通過した。だが、時効がないというだけで、ストーカー関係の事件は速攻解決でなければ、犯人逮捕にしても、その後の立件にしても他の犯罪に比べて難しいのは事実。時効の撤廃は、それほど大きなことではなかったのだ。

「要するに、スピード解決でなければ、検挙は難しいということになるんですね」

「そういうことになります」

 テレビのワイドショーで、この法案に対しての話があったが、

――どうせ国民は政治などには無関心なんだ――

 と感じている評論家には、適当な話でお茶を濁そうとしていた人が多かったのだが、一人だけ、時効撤廃に対して苦言を呈した人がいた。

 その人というのは他ならぬ山本教授だというのも、面白い話だった。

「どうしても、今の国民は政治に興味を持っていない人が多すぎる」

 というのは、どの評論家も感じていることだった。

 そのことを討論番組では、誰も口にしない。まるでタブーとなっているようだ。

 しかし、山本教授だけは違った。誰もが口を拭っていることに対してこそ批評している。

 陰でウワサしている人の中には、

「あの人は、怖くないのか?」

 と国家権力の恐ろしさを語っている人もいれば、

「自分だけ他の意見を言って、目立ちたいと思っているのか」

 と、あからさまな皮肉を言っている人もいる。

 しかし、その心の奥では、少なからずの羨ましさがあるのではないだろうか。

 それでも山本教授は、

「ストーカー行為で苦しんでいる人は、本人だけではなく家族だって同じことなんだ。また同じ家族という意味では、被害者にも家族はいるし、被害者にも家族がいる。犯罪が起こるということは、被害者側だけが可愛そうなわけではなく、加害者側にだって被害者は出るんだ。犯罪を犯す人間にも、それなりの事情があるはず。自分の家族が自分が犯罪を犯すことでどうなるかというのは想像がつく人もいるでしょう。それでも犯してしまうというのは、よほどのこと。『罪を憎んで人を憎まず』という言葉がありますが、まさしくその通りですよ」

 討論会場は、一同一瞬シーンとなった。かなり説得力があったのだろうが、放送番組としては、重たすぎる。

「あっ、山本教授のお話はもっとものことだと思いますね」

 と何とか、司会者が口を開いたが、他のパネラーは誰も口を開くことができなかった。それだけもっともな話であって、これに適う話をすることは不可能で、もし何か口にしようものなら、完全に自分で墓穴を掘ってしまうことは誰もが分かっていた。

 司会者の機転で、別の話題に振り替えられたが、その日の討論会の雰囲気は重たいまま終わってしまった。

 それからというもの、討論番組に山本教授が呼ばれることは少なくなったが、山本教授は発言した番組の終了後、司会者にボソッと語った。

「私にも娘がいるんだ。私は娘を愛している」

 この言葉を聞いた司会者と、その後ろにいたプロデューサーはゾッとしたという。

「もう、この話題で山本教授を呼ぶのはやめた方がいいかも知れないですね」

 司会者がプロデューサーに話すと、

「そうだな」

 と、一言山本教授が立ち去る後姿を見つめながら呟いた。

 二人は、教授が柱の影に隠れるまでその後ろ姿から目を切ることはできなかった。

「あんなに哀愁に満ちた男性の後姿は初めて見た」

 と、お互いに感じたが、口にはしなかった。お互いに感じていることは分かっていたのだろう。

 千尋は、その話を大学時代の知り合いから聞いたことがあった。その友達は政治には詳しく、特に討論番組は好きだったのだ。ただ、元々は討論のバトルが面白いというだけで見ていただけなのだが、見ているうちにネットでも討論番組に対しての記事を見るようになり、ネットでこの話題が一部加熱していることを知っていた。千尋は興味はなかったが、話題の一つとして聞いていただけだった。里穂の話を聞いてこのことを思い出したのが偶然だったのかどうか、千尋には分からなかった。

 ただ、千尋も自分の身体を昔からジロジロ見られていたこともあって、ストーカーというものには敏感だった。

――私が子供の頃にもあったのに――

 と、いまさら問題になっていることに釈然としない思いを抱きながら、友達の話を聞いていた。

 千尋は自分ではあまり気にしていなかったが、ストーカー被害を届け出たことがあった。大学時代に友達と一緒に帰っている時、物陰から千尋を見つめる目があったのだ。

 発育のいい千尋は、男性のいやらしい視線には慣れていた。

――どうせまた――

 という思いでウンザリしていたが、感覚がマヒしてしまっていることで、ストーカー行為に対しても、それほど意識が強かったわけではない。

 ただ、自分以外の人が被害に遭うことには敏感だった。自分に対しての感覚はマヒしているくせに、他の人が被害に遭っていると、いかにも自分が被害に遭っているかのような主観的な目で見ることができる。自分に対しては、客観的な目で見るのに、他人に対しては自分のことのように見えるのは、千尋の特徴だった。

 だから、まわりの人から見ると、

「冷めたところがあるように見えるのに、そうかと思うと、親身になって話を聞いてくれる時もあるの」

 という見方になるようだ。

 自分に対して客観的に見てしまうのは、やはり発育の早さが影響しているのだろう。これは彼女の長所であり短所でもある。

「長所と短所は紙一重」

 と言われるが、まさしくその通りだった。

 千尋には大学時代、いつも一緒にいる親友がいたが、物陰からの視線について最初に気づいたのは千尋だった。

 千尋はいつものことだと思いながら、その視線の先が自分だと思っていた。千尋は冷めた目でこちらを見つめる目を友達に気づかれないように浴びせた。そうすれば、ストーカー行為がやむことが多かったのだ。

 千尋の魅力は、肉体の発育に比べてあどけない表情にあった。アンバランスな雰囲気が、余計淫靡に見えるのだろう。

 そんな千尋が普段見せない睨みを利かせるのだ。物陰から隠れてこっそり見ているくらいのことしかできない連中には、効果的だった。睨みつけられた方は、

「彼女のそんな表情見たくはなかった」

 と思い、すごすごと退散していき、二度と盗み見るようなマネはしなくなるのだ。

 しかし、その時のストーカーは、千尋がいくら睨みを利かせても、やめようとはしなかった。千尋はゾッとした。

――こんなこと初めてだわ――

 と感じ、その時になって初めて友達に告白した。

 男はサングラスに帽子をかぶっていて、誰だか分からない。知っている人かも知れないし、まったく知らない人かも知れない。

「警察に通報しましょう」

 友達はそう言って、千尋を警察に連れていった。

 警察がどこまで面倒を見てくれるか分からなかったが、通報したという事実だけでも安心に繋がった。

 男の出現回数は減っていったが、警察に通報したことで、最初は安心した気分になっていたが、次第に不安も募ってきた。

「警察に通報したということは、ストーカー被害に遭っているということを自分で認めたことになるのよね」

 千尋は友達にそう言った。

「ええ、そうよ。通報するということはそういうこと。それだけ身の危険を感じたから警察に通報した。そういえば、あなたはいつ頃からその男の存在に気づいていたの?」

 と聞かれて、

「半月くらい前かしら? いつもは睨みつければ、相手はストーカーをやめてくれるんだけど、いくら睨みつけてもあの男はやめようとしない。それにあの変装でしょう? やっぱり怖いわ」

「確かに、変装するということは、自分の身元がバレないということなんだけど、それ以上に目立つということも間違いないよね。そのリスクを犯してまでするんだから、やっぱり警察に通報して正解だったんじゃない?」

「警察にもいろいろな被害や通報があると思うので、その男が私たち以外の誰かの前に現れている可能性もあるわ。だから警察の捜査で、その男が誰なのか分かっているかも知れないわね」

 警察の捜査に関しては分からなかったが、話をしているうちに次第に安心してきた。一人で考えていると余計なことばかり考えてしまい不安が募ってくるんだけど、逆に他の人と話をしていると気が紛れるというのもあるけど、それ以上に、自分が思ってもいなかった発想が、安心に繋がるということに気が付いた。

 しばらくして、犯人が捕まったと警察から連絡があった。男はやはり自分たち以外にもストーカー行為をしていて、部屋には盗撮写真がいっぱい貼ってあったということである。だが、取り調べが進むうちに、担当の刑事さんから意外なことを聞かされた。

「どうやら犯人の狙いはあなたではなく、お友達のようでした」

 千尋は拍子抜けし、友達も複雑な表情をした。

「まさか、私?」

 自分に指を差して、ホッとため息をついてはいたが、困惑しているのは、目が泳いでいるのを見ればよく分かった。急に気持ち悪さが襲ってきたのか、腰が砕ける様子がよく分かった。

 千尋の本音は、

――なんだ、私じゃなかったんだ――

 と感じたのだが、それは自分が被害者でなくてよかったというよりも、友達にとっては自分のことなのに、人のことだと思って自分のことのように心配してくれたであろうと思うと、その心配が余計なことだったということに対して、

――もし、自分が彼女の立場だったら、それ以外のことは考えられない――

 と思った。

 千尋は、自分のことではなかったことで、急に気持ち悪くなった。自分のことであれば、他人事のように思えたのに、本当は友達のことだったと思うと、いつの間にか、ストーカーの狙いが自分だったと思わなければ納得がいかないような心境になった。

――このことは、警察と友達しか知らないんだわ――

 と思うようになり、千尋は自分の記憶の中に、

「本当の狙いは自分だったんだ」

 と言い聞かせて、格納させてしまったのだ。

 時間が経つにつれ、どんどんウソのはずの記憶が本当のように思えてならなくなった。今までにストーカー行為に遭ったことは、この時が最初で最後だ。

 ひょっとするとあったのかも知れないが、警察に届けたのはこれが最初で最後、千尋の記憶の中でも唯一のストーカーだったのだ。

 千尋は、この話を他の誰にもしたことがなかった。実際に警察に通報したとはいえ、何か具体的な被害に遭ったわけではない。犯人が他の人に対してもストーカー行為を繰り返していたことで墓穴を掘った。

 ただ、犯人の方としても、友達に対して何か事を起こそうと思っていたわけではない。他の女性に対してもストーカーはしていたが、ただ物陰から見ているだけで、何かを仕掛けようというわけではなかった。

 逮捕され、家宅捜索の時、初めてこの男の盗撮が暴露されたのだ。

「ストーカー行為というのは病気のようなもので、そういう菌が侵入することで、その男の性格を覚醒させるものだっていう研究家もいますが、それだけで納得できるほど、世の中は単純じゃないですからね」

 と、刑事は話していた。

 犯人が警察に逮捕されてから、友達の態度は少し変わった。

 どうやら、ストーカーに狙われたことが、彼女の中にあるコンプレックスを解消したのか、それまで自信がなさそうな自分に対して、無意味とも思えるほどの自信をみなぎらせた。男性に対して積極的になり、そうなると、彼女は結構モテた。表情もそれまでと違って、

「笑顔が似合う女性」

 として、まわりからも一目置かれるようになった。

――自信を持つって、ここまで女性を変えるものなのかしら?

 と思った。

 逆に千尋は、それまでの自分の当たり前だと思っていた感覚が驕りであることに気づくと、人に対して親身になって考えることはなくなってきた。

 その頃から友達は減っていき、一人でいることが多くなってきたのだ。

 そんな千尋が初めて心を開いたのが譲二だった。

 譲二は、千尋のような女の子を手玉に取るのはお手のものだった。千尋以外にも何人もの女性をスナックで働かせて、お金を搾り取っていた。ある意味チンピラよりも低俗なゲス野郎と言えなくもない。

 譲二は女をスナックに手数料をもらっていた。スナックで働く女の子も、それまで知らない世界だったこともあり、貰う給料が見合っているかどうかも分からない。疑われないだけのギリギリの給金で彼女たちを働かせていたのだ。

 働くオンナたちも、

「好きな男のため」

 と思っているので、給料の額など二の次だった。

 人のために何かをすることの喜びをずっと知らずに過ごしてきた女性にとって、好きな男のために尽くすことは、自分にとって至高の悦びだったに違いない。

 千尋はスナックで働きながら、友達が遭っていたストーカーのことを思い出していた。今までは、そのことを自分のことのように感じないと納得できないと思っていたのに、スナックで身を置いている自分を客観的に見ていると、思い出すのは、

――ストーカーされていたのは、友達だった――

 という事実だった。

 そしてスナックで知り合った里穂という女性。彼女の気の毒な生い立ちを聞かされると、彼女に対して、他人事のように思えなくなる。

 話を聞きながら、どこか気持ちの中で引っかかっているものがあると思っていたが、それがストーカー事件のことだった。

 そんな彼女から、自分もストーカーに遭っている話を聞いた。そして思い出したことのもう一つとして、山本教授の、

「加害者側の悲哀」

 の話だったのだ。

 里穂がその話を続けた。

「私、その時、両親に思い切って話をしたんだけど、母親は警察に届ければいいって言ってくれたんだけど、父親は頑なに拒んだの」

「どうして?」

 千尋はビックリして聞き返した。

「ハッキリとは分からないんだけど、世間体を気にしてのことなんだって思う。でも、その時の父親の話は少し違ったの」

「どんな風に?」

「お父さんはね、『お前が訴えてそのオトコが捕まれば、相手の家族はどうなるんだ? しかも相手が逆恨みをして、被害者に復讐しようと考えるかも知れないんだぞ』って言ったの。まだ中学生の頃の私にはよく分からなかった別々の話を一つにして話すんだから、分かるはずもないわよね。でも今はそれが繋がっているような気がしているんだけどね」

 千尋は、その話を聞いて、

――なんて無責任な父親なんだ――

 と感じた。

 そして、まるで、

「言いたいことは顔に書いてある」

 と言わんばかりに、千尋を見つめる。

 その視線は思ったよりも冷たくて、時間が経つにつれて、どこまでも冷徹になっていくような気がした。

――その話は先ほど思い出した山本教授の話のようじゃないか?

 と思うと、意外と少数派だと思っていることも、自分が思っているよりもたくさんの人が感じているのかも知れないと感じた。

 千尋にとって、山本教授の話は、

「ひどい話だとは思うけど、そう思えば思うほど忘れられなくなってくる」

 と感じることだった。

 それだけ話にはインパクトがあり、その話をしたのが政治評論家だというところも気になっていた。

――あの人は、政治の裏側を知っていて、本当は憎むべき相手なのかも知れないけど、擁護しなければいけない立場にいるのかも知れない――

 とも思った。

 千尋の頭をその時、和人の存在がよぎった。

――何とかいう研究所で働いているって言っていたわね――

 ということを感じた。

 そういえば、和人ともだいぶ会っていない。彼が今何を考えて何をしているのか知りたくなってきた。もちろん、それは自分が譲二のために今していることとは別の頭が考えていることだ。

 しかし、店にいて里穂と話をしていると、なぜか思い出すのは過去のことばかり。ここで和人のことが頭をよぎったとしても、それは無理もないことだった。

 和人がマイナンバーのことを気にしていることなど千尋には分かるはずもない。しかし、この時二人は、

「近い将来再会できるのではないか?」

 とほぼ同時に感じているということを知る由もなかった。

 そのことが一人の人間を抹殺してしまう遠因になるということも、分かるはずなかったのである……。

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