第2話 初めての相手

 片倉和人が勤めている「フロンティア研究所」では、これから導入が決定しているマイナンバーのデータベースが保管される場所が増設された。

 元々、研究所のまわりは田畑が広がっていて、増築するにはいくらでも可能なことだった。

 しかも、「フロンティア研究所」は元々の民間企業から、国家が買い取り、半分は国家機密の保持を目的とした建物に生まれ変わっていた。もちろん、ここがそんな施設になっていることは政府でも一部の人間しか知らないことだ。元から研究所にいた人たちも、ここが公営となり、国家が何かを研究するための施設であることは分かっていたが、詳しくは分かるはずもなかった。ただ厳重な警備体制に、

「まさか核施設なんじゃないだろうか」

 と噂されるほどだったが、装備は普通なので、核施設や細菌研究所のような物騒なものではないことは分かった。それでもここが国家機密に抵触するような場所であることは想像がついていた。

 特に最近では、人の出入りが激しくなっていた。黒い高級車が出入りしていて、SPが警備を怠らない。どうやら、新しい部署が新設されるのか、それに合わせて、増築していた新社屋が完成していた。

 そこがマイナンバーを保管する場所であることは明らかだった。表には一切そのことは公表していないが、同じ研究所にいる人たちには、別に隠そうとしているわけでもなかった。もちろん、一番問題となる個人情報が詰まっているのだから警備は厳重であろうが、表に対しての慎重さと、内部に対してはそこまで気にしていないこの落差は、和人には少し気がかりだった。

 和人たち、元々の研究員は、この建物で生活をしているが、別に外部との接触ができないわけではない。外出も門限さえ守れば自由だし、セキュリティがしっかりしているので、外部のものの持ち込み、外部への持ち出しこそ厳重だが、それ以外は別に何でもない。内部のことを漏らすことは当然のタブーであり、彼らにはレコーダーを持つことを義務付けられている。

 プライバシーを侵すことはできないが、禁止ワードを口にすれば、レコーダーのセンサーが働き、その後の運命は保証されないと、脅かされている。

 しかも、そのレコーダーを開発したのはこの研究所のメンバーだった。

 民間企業では採算が取れないとして生産化には至らなかったが、国家機密を保守するという意味では、これほどしっかりした研究はない。

「俺たちは、自分で自分の首を絞めたようなものだ」

 元々は、浮気を心配する夫婦の猜疑心を解消するためとして開発されたものだったが、今から思えば、却って波風を立てるものでもある。開発している時はあれだけ、

「世の中のため」

 と思っていたにも関わらず、それが自分たちに向けられると、

「こんなもの、研究しなければよかった」

 と後悔の念でいっぱいだった。

「フロンティア研究所」は、あくまでも民間企業が表向きだった。しかし、この場所に国家が介入しているということを嗅ぎつけたマスコミもいた。

 一部の週刊誌でスクープされ、最初は国家も、関与を否定していたが、ある時期になると、取って返したように、

「今まで、あの研究所は国家とは何ら関係ないと言ってきましたが、申し訳ございません。あの施設は国家予算が使われております」

 という爆弾発言が飛び出した。

 新聞は号外を出し、政府を糾弾したが、政府は一人の高官を部署替えするという形の責任の取り方だけで、それ以降問題を収束させようとした。

 最初は政府のやり方に憤慨していた国民だったが、元々政治に興味を示さない国民性で、しかも、

「あの研究所の目的は、マイナンバーのデータベースを保管するための、個人情報保護施設として利用しています」

 と言われたら、国民も納得するしかなかった。

「そういうことなら仕方がないか」

 マイナンバー制度の導入に最初は賛否両論あった国民だが、一旦成立してしまうと、今度は、国家がどれほど真剣に個人情報を守ってくれるかということが大切だった。それは、制度の存在意義の中でも最重要課題のはずだったからである。

 マイナンバーの管理に関しては、この時点で、

「国民の信任を得た」

 と、政府は解釈した。

 国民の方も、

「政府に一任した」

 と思っている人が多く、自他ともに認める存在に、「フロンティア研究所」は格上げになったのだ。

「国家というのは、国民を欺くためにあるものだ」

 ということをいう政治家がいたが、当然そんなことをいう政治家に国民が耳を貸すわけはない。

 しかし、これは巧みな作戦だった。

「木を隠すには森の中」

 という言葉があるが、ウソを隠すには、本当の中に紛れ込ませるのが一番いいというものだ。

 この場合も、バカげている発言をさせて、

「そんなことはありえない」

 と、国民に再認識させる狙いがあった。

 幸いにも、国民は政治に無関心な人が多い。問題発言をしても、議員辞職にまで追い込まれることはなかった。何しろ、こういう発言に関しては野党もグルなのだから、どうしようもない。

 そういう意味では、この国の制度としての、

「政党政治」

 は少しおかしいのかも知れない。

 攻撃する側の野党がグルになることもあるのは、どの国も同じだが、国民を欺くために野党がグルというのは、やはり異様と言えるのではないだろうか。

 しかし、それもこの国が世界の大国の傘の元にしか生きられないという運命を背負っているから、仕方のないことである。国民を欺く国家体制が、ひいては国民を守ることに繋がってきたのも事実である。今回導入されるマイナンバー制度、うまくいくかいかないかというのは、本当はこの国にとって、今までにないほどの大きな問題だったのだが、そのことにまだ誰も気づいていなかった。

 それは政府高官も同じことで、すべての秘密を知っている人にさえ、分かるものではなかった。

 いや、すべてを知っているからこそ、想像もつかないことなのだ。最初から想像がついていれば、大きな問題になるようなことを画策するのに、もっと慎重に進めていただろう。少なくとも専門家をたくさん研究チームに入れていれば違っていたのだが、それをしなかったのは、この国の伝統がそうさせたのだ。

 問題となることは、昔からこの国では頻繁に行われてきた。問題になるどころか、それがあったからこそ、制度が円滑に機能して、うまく行ってきたのだ。まさしく、この国だからこその法策と言えるだろう。

 逆に言うと、

「それがなければ、この国は存在できなかった」

 ということになるのだが、この問題はこの国だけではなく、歴史的には頻繁に行われていたことだった。

「小さな国は大きな国に与して、そして生き残っていくには、どうしたらいいか?」

 それを考えれば、おのずと見えてくるものがある。

 しかし、国民のほとんどは、この国が安全保障上、大国の傘の元に存在していることは分かっていたが、まさか、内政干渉までされているということは知らない。

 それだけは、どうしても国民に隠しておく必要があった。

 実際に、経済がマヒした時も、本当であれば、大国が支援をしてくれればもっと早く立ち直れたかも知れないのだが、おおっぴらには支援はなかった。それは、支援をしてしまうことで、裏でこの国が大国から内政干渉を受けていることが分かってしまうからだ。

 実は、内政干渉の事実を知られたくないのは国民に対してではない。体制の違う他国に知られたくないというのが、一番の問題だった。

 もし、そのことを知られてしまうと、他国からも国家転覆を狙った暗躍部隊が、この国に入ってきて、国家内で、静かな戦争が巻き起こることは目に見えていた。

「我が国の領土内で、体制の違う国家が衝突するということは、主権存続や、国体維持はおろか、戦争に勝った相手の植民地にされてしまう」

 という危惧があった。

 国民は、そんなことは分からない。

 もし、そうなったとしても、ずっと他人事だとして真剣に国家について考えることもなく、いずれは奴隷扱いされてしまうなどという危惧を抱くこともない。

 そこまで気づかないまでも、この国が大国の内政干渉を受けているかも知れないということを感じていた人は一部にはいた。

 世の中はすべてが他人事のように見えていたのだが、中には真剣に国家のことを考えていた国民もいる。あまりにも少数派なので、大っぴらに話すこともできないが、この国の政治家のノウハウだけで、ここまで国家を存続できるはずがないと思っている人たちであった。

 政治評論家のほとんどはそのことを分かっていたが、国家に逆らうことなどできるはずはない。彼らこそ、理屈は分かっていても、分かっているだけに、国家に逆らえないということを実感している連中であった。

 やはり、何かを感じるとすれば一般国民でしかない。

 しかし、ただの一般国民ではそこまでは分からない。直接、国家権力を振りかざされた人ではないと分からないことだ。そういう意味では、「フロンティア研究所」の連中は外出時に、レコーダーを持たされる。しかも、それは自分たちが開発したものであり、自分で自分の首を絞めるものだった。

 これほどの屈辱はない。

「この感覚、最近どこかで」

 と感じたことがあった。

 それを思い出したのは、かつて評論番組で山本教授が話していた、

「人間が国家から支配されるというのは恐ろしいことだ」

 という言葉だった。

 あれはマイナンバーに反対意見として言った言葉で、

「大げさな人だな」

 と、研究員は感じていたが、それは、まだその時、研究以外のことはすべて他人事だと思っていた時だった。

 今のように、レコーダーを持たされる立場になると、明らかに国家に支配されている自分を感じることができる。

「他人事ではなくなってしまった」

 レコーダーを持たされる全員が、そう思ったに違いない。

 何事も他人事だと思っていた自分たち、そして、国家に支配されて自分たち、そう考えていくと、

「俺たちに未来なんかないんじゃないか」

 と感じても仕方のないことだった。

 和人は、半年に一度の割合で、実家に帰っていた。実家に帰ったところで何かがあるというわけではないのだが、研究所の方針で、実家のある人は年に二回の休暇が与えられる。そして、その休暇中には実家に帰ることが義務付けられていた。

 もちろん、これは個人のことを思っての規定ではない。そうでもしなければ、彼らの中には、研究所から出ない人が結構いるからだ。研究所がいいというわけではなく、表に出るのが怖いと思っている人が多い。それならば、実家に帰ることを奨励することで、少しでもリフレッシュさせようというものだ。それだけ、この施設にずっといることは、精神的にどこかに害をきたす条件が揃っているということだろう。

 和人は実家に帰ってきても、ずっと家にいるというわけではない。研究所で一つの場所にとどまることには問題ないのだが、研究所以外のところになると、いくら実家でも落ち着かない。それだけ研究所が今では自分の家のような存在になっていた。

 和人には、幼馴染で、子供の頃から気になっていた新宮千尋という女性がいた。

 彼女も和人のことがずっと気になっていて、高校時代に一度付き合うことになったのだが、なぜか数か月で別れてしまった。中学の頃までは、お互いに自分の気持ちに正直になれなかったことで、付き合うという発想が生まれなかった。どちらかというと、兄と妹という感覚が強く、いつもどうでもいいようなことであっても相談してくる千尋に対して、

「しょうがないな。まったく」

 と言ってため息をつきながら、それでもまんざらでもないと思いながらも相談に乗っていた和人は、まさに、

「お兄ちゃん」

 だったのだ。

 これが本当の兄妹だったら、鬱陶しいと感じることもあるのだろうが、妹ではない妹を得たことは、彼女ができたことよりも新鮮だった。

「俺は、誰も経験したことのない感情を抱いているんだ」

 相手が彼女だったら、誰もが感じる彼女に対しての想いを感じているだけにすぎないと思った。

 和人は、

「俺は他人と同じじゃあ、嫌なんだ」

 という思いが人一倍あった。

 その思いが、「フロンティア研究所」のような施設で孤独な業務に耐えられる性格を形成したのだろうが、自分では、コツコツと一人でこなすことが性に合っていると思っている。

「お前は天邪鬼だからな」

 と、中学時代によくクラスメイトから言われたものだが、相手は皮肉のつもりで言っているのに、

「ありがとう」

 と言って返事をする和人に、友達は、

――やっぱりこいつ、天邪鬼だわ――

 と感じたものだった。

 しかし、実際に和人の返事は本心だった。本人は誉め言葉だとして受け取ったのだ。

 本当に和人の性格を熟知している人であれば、彼がこんな皮肉を言えるような人間ではないことは分かるだろう。それほど器用な方ではない和人は、人に誤解を与えることもいとわないほど、実に自然に返事をしている。無表情で無関心を表に出した態度は、人によっては反感を買うだろうが、本当の意味での裏表がないだけに、損得勘定を前面に出して話をするような連中には理解不可能なのだろう。

 幼馴染の千尋もそのことを理解している。いや、一番の理解者だと言ってもいいだろう。

 しかし、それも大学を卒業するまでだった。

 大学を卒業して和人は就職した会社で、すぐに「フロンティア研究所」への配属が決まり、なかなか表に出ることもなくなっていた。

 彼のことを大学時代から中途半端に知っている人は、

「あいつらしいや」

 と、孤独な世界でコツコツ仕事をする和人を思い浮かべて、誰もが納得していたことだろう。

 しかし、千尋は違っていた。

――あの人にとって、きっと地獄だったに違いないわ――

 今でこそ、何事もなかったように、研究所での仕事に打ち込んでいたが、最初に赴任した時の彼の心境を思い図ると、

――和人さんらしくない――

 と感じたに違いない。

 彼がひとりで孤独に仕事ができる環境は、あくまでも自由の元に成り立っているものだ。会社から缶詰にされて世間から孤立するような状態に、彼が最初から馴染めたとは思えない。その時、彼がどこまで我慢できたのかという程度までは想像できないが、かなりの苦悩があったことだけは他の誰よりも分かっているつもりだった。

 特に天邪鬼の彼のこと、日々の葛藤の中で、毎日一日として同じ感情の日はなかったはずだ。揺れ動く感情の中で、一体どのようにして自分を制御したのか、千尋には興味があった。

 だが、さすがにそのことを確かめようとは思わなかった。確かめることが怖いという感情もあったが、今となっては確かめるすべはなかった。感情が流動している時の感情は、千尋にも理解できる。まるで血が逆流しているのが分かるような気持ち悪さが身体を襲った。寒気もないのに震えが止まらない。震えが止まってからも、別に身体がだるいというわけでもないのだが、念のためにと思い熱を測ると、自分でも信じられないほどの高熱に見舞われていた。

「よくこれで意識が朦朧としないわ」

 と思うほどで、本来なら頭痛や吐き気、嘔吐などの症状を通り越して、意識が朦朧としてしまうほどの高熱を発していたのだ。

 千尋はそんな時期を就職してから数か月の間、過ごしていた。

――これが五月病なのかしら?

 学生時代には感じたことのない思いだった。

――私には、五月病は無縁だわ――

 と感じていたが、実際にはそうではなかった。

 千尋が今まで感じていたのは、

――私は、和人とは違う。かと言って私が普通の人間で、和人が変わっているだけだとは思わない。私も十分変わっている。お互いに普通の人間を挟んで、遠いところの存在なのかも知れないわ――

 という思いだった。

 遠いところに位置している二人が幼馴染でずっと一緒にいたというのも面白いものだが、和人もそのことを分かっていて、お互いに、

――他の人とは違う――

 という暗黙の了解の下、いつも一緒にいたのかも知れない。

 だからと言って、共通点がないわけではない。むしろ、共通点はかなりあると思っている。共通点がなければ気が合うということもないだろうし、一緒にいるだけで落ち着いた気分になれるということもないだろう。

――お互いに感じていることなんだわ――

 千尋は、和人も同じことを感じていると思い、疑わなかった。

 ただ、二人の感情は微妙なところで噛み合っていなかった。どうしても交わることのない平行線がそこには存在した。

 和人はそのことを意識していた。

 ただ、それが平行線だとは思っていなかった。

――千尋と俺とでは、似すぎるくらいに似ている性格だと思う。その中でどうしても交わることのない平行線のようなものが存在するのなら、すべての面において平行線が効いてしまい、すれ違いばかりが起きることになる――

 と考えると、彼の中では千尋との関係は、

――平行線であるわけはない――

 という思いだった。

 そこで生まれた発想が、

「結界」

 だったのだ。

 結界というのは、どうして尊重し合うことのできない考えがあった時、相手に知られたくないという思いから、無意識に作られるものだと思っている。それを本当に結界という言葉で表していいものなのかどうかは分からなかったが、今考えた中で一番適切な言葉というのは、

「結界」

 でしかなかったのだ。

 そう思うと、和人には千尋との間で分からないことがあっても、気にすることはないように思えてきた。それは、

――千尋も分かっているんだ――

 いくら無意識だとはいえ、結界を作るということは、相手に知られたくないという思いがあるからで、知られるとどうなるかが想像できたからだろう。

 そんな思いは、誰にだってある。いくら幼馴染で自分のことを一番よく分かっている人だとはいえ、他人なのだ。

――この他人という意識、絶対に忘れてはいけない――

 と感じたのは、

「親しき仲にも礼儀あり」

 という言葉があるが、お互いに気を遣っている間はいいのかも知れないが、少しでもぎこちなくなって、気を遣うことが億劫になったり、気を遣うことを忘れてしまっていたら、今まで一番付き合いやすいと思っていた相手が、

――一番付き合いづらい相手だ――

 と思うようになるだろう。

 なぜなら、気を遣うこと以外で、相手との接点が感じられなくなるからで、そうなってしまうと、元の仲に戻すことは、容易ではないと思うに違いなかった。

 それでもさすがに結界という言葉は抵抗があった。

――そこにあるのはただの壁であって、見えないことが問題だ――

 見えないことで、まさかそこに壁があるなど思いもしないので、自分では近づいているつもりだった。本当は見えないのは、

――目の前にある壁のはずなのに、いつの間にか千尋を見ていたはずなのに、見ていたことが自分の意識から消えてしまう――

 それが、結界の本当の恐ろしさなのではないだろうか。

 そう思うと、千尋が結界に気づいていないことに複雑な思いを感じた。

――本当なら、そのまま気づかないでいてほしい――

 という思いをずっと持っていた。

 和人が結界という発想を感じたのは、大学に入ってからだった。

 それまでは、千尋と同じように平行線だと思っていた。もっとも平行線という意識を最初に持ったのは千尋だった。

 千尋はかなり早い段階から、

――二人の間には平行線が存在している――

 と思っていたのだが、そのことを一番知られたくないと思っていたのが和人だっただけに、時々和人が、

「おや?」

 と感じるような素振りを見せることがあった。

 まだまだ幼かった和人には、その思いは伝わらない。

 和人は思ったよりも晩生だった。

 高校生になるまで、異性に対しての意識は持っていなかった。千尋に対してもただの幼馴染という意識があるだけで、女性はおろか、女の子としても意識していなかったのだ。

 逆に千尋は早熟だった。

 身体の発育はまわりの女の子に対しても進んでいて、小学生の低学年の頃から、すでに胸は目立ち始めていた。

 今ではファッションモデル級の体型を維持していて、街を歩いていると、たくさんの男性が寄ってきて、ウンザリするほどだった。その中にはスカウトの人もいたが、千尋は一切相手にしなかった。

 一度興味本位でスカウトを名乗る男性の話を聞いてみようと思い、喫茶店で話を聞いたことがあったが、途中までは乗り気で話をしていたスカウトの男性が、途中から急に態度を変えて話を切り上げ始めた。千尋にもその様子が分かったが、別に嫌な気はしなかった。ただ、どうして急に豹変したのかは分からなかったが、どうも何を言っても興味を示さない千尋に冷めてしまったというのが真相だろう。

 友達にその話をすると、

「せっかくいい話なのにね」

 と言われたが、

「だって、興味ないんだもん」

 としか言いようのない千尋にとって、スカウトマンもそのあたりにいる軽薄な男性以外の何者でもないようにしか映らなかったのだ。

「でも、それはそれで正解かもね」

「どうして?」

「だって、千尋はすぐに顔に出るから、たくさんの人の前に出るなんて、しょせんは無理なことなのよ」

 と言われて、頷くしかなかった千尋だった。

「そんなことは、最初から分かっていることだからね」

 と、

「もう、この話はおしまい」

 として、打ち切ってしまいたかったのだ。

 スカウトマンとしても意外だったのだろう。

 彼らなら、どんな雰囲気の女の子が、どんな反応を示すかということまで分かっているだろう。

 それもほとんど外すことがなかった人なら、千尋のような雰囲気の女性がここまで冷めているとは思っていなかったに違いない。

 千尋はチャラチャラした雰囲気ではないが、好き嫌いはそんなに激しい感じではない。友達も適当にいて、男性からチヤホヤされている千尋をやっかむような女性は、差し当たってまわりにはいなかった。

「どこか、天性なところがあるのかも知れないわね」

 それは、人から恨まれることのない性格で、持って生まれたものではないかと思われていた。人から恨まれない性格というのは、自分で作ろうと思ってもなかなかできるものではない。天性のものだと思われても無理のないことだろう。

 千尋は、極端なところがあった。自分が興味を持ったものにはトコトン調べるが、興味のないものは、まったく見向きもしない。スカウトマンが見た彼女は、ちょうどその時、興味を持って前を見ていた。きっと何か他に興味のあることができたのかあったのだろうが、スカウトマンにはそれが自分の持ってきた話だと思ったのだろう。

 千尋は、スカウトマンから声を掛けられた時、普段なら相手にもしないのだろうが、その時は、

「別に聞いてもいい」

 と思ったのだろう。

 さして興味があったわけでもないのに、スカウトマンの話を聞いた。

――この娘、どこかおかしい――

 すぐに気づいたのだが、どうやら上の空であることが分かった。しかし、彼もプロの端くれだと思っているので、何とか興味を持たせようと必死だったに違いない。

 何といっても、自分の第一印象が間違っていたということを認めたくなかったのだ。認めてしまうと、今後の自分のプライドが傷つけられると感じたからだ。スカウトに成功するしないは二の次で、興味を持たせることに集中した。

 それでも千尋は興味を示さない。それなりに持っていた自信が音を立てて崩れていくのを感じたと同時に、自分が冷めてしまっているのに気が付いた。初めて感じた思いだったが、誰が悪いわけではない、こういうこともあるということだと割り切るしかなかったのだろう。

 千尋のそんな性格を、和人は子供の頃から知っていた。

 千尋の発育が、他の女の子よりも早いのも分かっていて、次第に自分を追い越して大人になっていくのも分かっていた。しかし、身体の発育とは別に、サバサバした性格がとても女の子だとは思わせないように感じ、

――自分が好きになる女の子って、どんな感じなんだろう?

 とても、千尋を見ていると、自分が好きになれるようなタイプではなかった。

 正直、身体の発育だけを見ていると、そばにいるだけでドキドキしてしまう自分を感じていた。身体がムズムズしてきて、身体が反応しているのを感じた。

 しかし、話をしてみると、そのサバサバした性格から、とても女の子だとは思えない。思春期であれば、そんなアンバランスな雰囲気も好きになれる要素を含んでいるのだろうが、まだまだ子供の頃のことなので、身体だけで好きになることはなかった。

 千尋を女の子として見ることができなかったのである。

 和人は、千尋以外の女の子の友達はおらず、意識したこともなかった。彼が晩生である理由は、千尋と幼馴染だったところから繋がっていたのだ。

――俺は今までに、本当に女性を好きになったことがあったのだろうか?

 童貞というわけではないが、童貞を捨てた時、

「別にどうってことないな」

 童貞というものを重たく感じたことはなかったが、まわりの男子が皆必要以上に気にしていることを、和人は不思議に思っていた。

 一番まわりが意識していたのが中学時代だった。本当であればまだ早熟なのだろうが、すでに中学生というと思春期の真っただ中である。しかし、その頃はまだ、和人は思春期に入っていなかったのだ。

 まわりからは、経験もないくせに、セックスの気持ちよさを耳打ちされた。

――一体何がそんなにいいんだ?

 としか思わなかった。

 それまでに和人が性的興奮を感じたのは、子供の頃にずっとそばにいた千尋の身体だけだった。

――どうしてこんなにムズムズするんだ――

 と不思議に思っていた。

 その場所が口に出していうのが恥ずかしい場所であり、隠さなければいけない場所であることは分かっていた。それだけに神秘的であり、ムズムズしているのが興奮しているからだということだけは分かっていた。

 手が勝手にズボンの上から抑えている。普段ならまわりを気にしながらのはずなのに、気がつけば、まわりを気にすることもなく、無意識に弄ってしまっている自分にハッとして、顔が真っ赤になったのを思い出した。

 だが、その思いも嫌ではなかった。

――大人になって思い出すんだろうか?

 という思いの中、なるべく忘れてしまおうとしている自分に気が付いた。

 大人になるまでもなく、定期的に思い出していた。しかし、思春期でもない和人には、思い出しても、それがセックスに直接結びつくものではなかった。友達から耳打ちされた話とは別の世界で、自分の身体が反応していたのだ。

 しかも、和人はセックスというものを軽蔑していた。

 表に出して大っぴらに話をするものではないはずなのに、どうして皆、あんなに興味を持って話題と言えばそれしかないのか、本当に疑問だった。

 もし少しでも、子供の頃に感じた下半身のムズムズした感覚と結びついていれば、思春期は他の人と同じ時期にやってきたのかも知れない。

 だが、思春期がやってくると、和人はそれまで感じていたムズムズが、千尋に感じたものであることを思い出した。今まで思い出していたのは、身体が思い出していただけで、頭の中で思い出したことではなかった。思春期になると、身体が感じているムズムズ感を、頭でも理解しないと我慢できなくなるのだった。

 思春期になると、女の子の存在がどうしても気になってくる。その時に思い出すのが、中学時代に自分の耳元で囁かれたセックスの話だった。

「あんなに気持ちいいことってないらしいぞ」

 経験もないやつが、いかにも経験者のように、相手が興味を持つように話をする。和人はそれが不思議だった。

――どうせ人から聞いた話をそのまましているだけなんだろうが、どうして、こんなにリアルに話ができるんだ?

 と思ったからだ。

 思春期の想像力は、自分が思春期にいるという意識を持っていれば、まわりが感じているよりも、かなり広く深く、たくましくなるものだ。自分が想像していると、どんどん膨れ上がってきて、自分の仲だけで処理できなくなってしまう。そんな時、他の人に話して、自分もさらに興奮することで、気持ちを最高潮に高めようとするのだろう。高まった興奮は勝手に表に出ていく。問題は、どのように自分の気持ちを最高潮に持っていくかだ。

「思春期は想像力あっての思春期だ」

 心理学を専攻しているやつが大学時代に話していたが、やつらには遠い過去でも、晩生の和人にはまだまだつい最近のことだっただけに、その言葉はリアルで新鮮だった。

 和人が初めて童貞を失ったのは、本当に偶然だった。

 相手は、まったく知らない女性。雨の日に、傘を持っていなかった二人がちょうど同時にシャッターの閉まった店の前で雨宿りをしたという、実にベタな場面だった。

 和人は高校三年生。中学時代まではまだまだ子供だった体型が、高校二年生くらいになると、急に発育も進んだ。ちょうど思春期に突入したのとほぼ同時だったのだ。

 顔にはニキビが溢れていて、目はギラギラと輝いていただろう。学生服も中途半端な着こなしで、同級生の女の子に意識されるというよりも、年上の女性から意識されることが多かった。

 その時一緒に雨宿りした女性もそうだった。

 Tシャツにデニムのミニスカート、雨に濡れたので、ブラジャーの線もハッキリと見えていた。仄かな香水も汗に混じって香ってくると、和人の身体は反応し、目のギラギラも普段よりも激しかったことだろう。

 しかし、相手は大人の女性である。さすがにまだまだ大人の女性を相手にできるほどの自信などあるはずもない。特に童貞である意識が強いので、自分から踏み出すことはできない。

 そんな和人の雰囲気が、大人の女性を引き付けるのだ。

 その時いた彼女は、失恋した後だった。スナックに勤める彼女は、年上の男性と不倫をしていた。相手の男性に妻子がいるのを知っていて付き合っていたのだ。

 彼女の中では、不倫を悪いことだとは思っていないところがあった。

「不倫されるということは、相手の奥さんに悪いところがあるのよ」

 と嘯いていたほどで、それだけ自分にも自信があった。

 不倫する男性の精神的な弱い部分を可愛いと思い、いとおしく感じている彼女は、不倫相手の男性に対しても、いとおしさの目で見つめていた。

 精神的に弱っている男性にはそれだけで十分だった。彼女の身体に溺れ、貪るように抱き着く男性に対し、彼女はすでに上から目線だったのだ。

 次第に女性の方が態度が大きくなる。立場から考えればそれも当然のこと、相手には妻子があって、自分は独身で自由なのだから。

 彼女は、自分が相手の男性に惚れているという意識はなかった。むしろ、

――好きになったら、私の負けだ――

 というくらいに思っていたほどだった。

 そういえば、彼女は今まで男性を自分から好きになったことはないと思っているほど、男性から好かれることに対して快感を覚えていたのだ。

――相手をいとおしく思えたり、可愛く感じるのは、好きになったからではない――

 と感じていた。

 では、

――好きになったら、どんな感覚になるんだろう?

 と、自問自答をしてみたが、彼女には分からなかった。

「分からないくらいだから、男性を好きになることなんかないんだわ」

 と、自分に言い聞かせていたのだ。

 スナックで勤めていると、いろいろな男性から声を掛けられる。どの男性に対しても胸がときめいたことはなかった。その理由に、

――自分のことを好きになってくれた人を、私が好きになるということはないんだわ――

 という思いがあった。

 これも、

「他人と同じでは嫌だ」

 という性格を隠し持っている和人を見た時、彼女がドキッとした理由だったのかも知れない。

 今まで男性を好きになったことがない女性と、思春期を過ぎてからの和人は、知り合ったことがなかった。しかも相手は年上でスナックに勤めている女性だった。

 スナックに勤めているということまでは分からなかったが、少なくとも大人の世界にいる女性であることは分かっていた。大学生の和人には、とても新鮮な出会いだった。

 雨宿りをしながら、最初二人に会話はなかった。

――何か、気まずいぞ――

 と最初に感じたのは和人だった。

 彼女の方とすれば、和人を見ていて、

――この子、童貞のようだわ――

 ということはすぐに分かった。

 相手を気にしていないような素振りを見せながら、実はチラチラと見ている。それも下手くそな見方であり、すぐに童貞だと看破されて当然だった。

 この時点では、上から目線は女性側。しかし、普段なら口説いてみようなどと思うはずもなかった。

 失恋というのは、少しずつ癒えてくると、普段したことがなかったようなことをしてみたくなるものである。せっかく上から目線で見ることができる相手が目の前にいるのだから、このまま放っておくのももったいないという気がしたのだ。

 彼女の悪戯心に火が付いたと言ってもいいだろう。

 目の前にいる男の子が、自分によって弄ばれる姿を想像すると、ゾクゾクしてきた。今まで感じてきた男性に対しての、

――可愛い、いとおしい――

 という感情を、自分中心に感じることができると思うと、それだけでゾクゾクしてくるのだ。

 しかも相手は童貞、今までに童貞を相手にしたことがなかっただけに、彼女の方も初めてであり、上から目線でありながら、ドキドキした気持ちを同時に味わうことが本当にできるのかという感情が、さらにゾクゾクさせるのだ。

 まわりはシーンとしているにも関わらず、彼女の耳だけに、ピアノ曲のクラシックが流れていた。ショパンの別れの曲だったが、自分が失恋したから流れてきたわけではない。

――この曲は、雨が降っている時に聞く曲だわ――

 といつも思っていたからだろう。

 ピアノ曲が、彼女の感情を後押しする。

 和人も、彼女の積極的な態度に少しドギマギとしていたが、それ以上に童貞の和人は落ち着いていた。

――俺はここで童貞を失うんだ――

 という思いが最初からあったかのような感覚だったのだ。やはり、童貞を失う時というのは、他の時と違って特別な思いがその時に存在しているのだと思っていたが、その通りだったのだ。

 事が終わってからというのは、こんなに気が抜けてしまうものだとは思ってもみなかった。

「魂が抜けてしまった」

 という表現をよくするが、そんな感じだったのかも知れない。高まった快感を一気に吐き出した時、一瞬目の前が真っ白になったのを感じた。

――ここは天国なのか?

 とも感じたほどだが、すぐに真っ暗な状態が戻ってきて、そこには激しい吐息が混じり合った世界があるだけだった。

 湿気に溢れた空間に、頭の中で、

――こんなものだったんだ――

 と、感じてはいけないと思いながら、ボーっとした頭が勝手に感じていた。そして、キーンという耳鳴りが襲ってきたかと思うと、身体から力がスーっと抜けてくるのを感じた。

――こんなものか――

 という思いは、正直な思いだった。快感を吐き出した瞬間、すべてが身体の中から出てしまったような気持ちだったのか、結果的には残っているのは虚しさに似た思いだったのだが、これまで過剰に想像していた童貞喪失のイメージが音を立てて崩れていくというよりも、

――本当は、分かっていたんじゃないか?

 という思いがあったのも事実だった。

 テレビドラマなどでよく見るベッドシーンの後、気だるそうに仰向けになってタバコを燻らせている男性に、甘えるかのようにしがみつく女性の姿が焼き付いていた。悪い男というイメージを抱きながらも、どこか憧れを感じていた思い、そこには愛し合った後に残るものが、サバサバした思いになるのではないかという思いを抱いていたからではないだろうか。

――俺はあんなにサバサバしないぞ――

 と思っていたが、快感をすべて吐き出した後に感じる虚しさは何となく分かるつもりでいた。その思いが、童貞喪失の瞬間に的中してしまったのだ。

――俺は一体何をしていたんだろう?

 という思いが頭を掠めた。その時に最初に感じた正直な思いだった。

 彼女は、いとおしそうに和人の髪を撫でている。和人はただでさえ恥ずかしいという思いがある中、主導権を握られっぱなしだったことに少し不満があった。自分は初めてであり、相手は経験豊富なのだから、背伸びすることなく素直に相手に主導権を握らせればいいのに、どうしてもそう思えない自分がいた。

――それを認めてしまうと、自分ではなくなってしまうのではないか――

 という思いがあったからだ。

 だが、別に背伸びをしているわけではない。彼女もそのことは分かっていたようだ。もし、少しでも背伸びしようという素振りを見せれば、彼女の性格からすれば、いとおしそうに髪を撫でるなどしなかったことだろう。

「あなたって、本当に素直なのね」

 吐息が落ち着いてきた時、初めて彼女が口にした言葉だった。

「えっ? 素直?」

 意外な言葉に和人はビックリした。

「あなたは好きな子いるの?」

「いいえ」

 かなりの即答に、和人は自分でビックリしたが、逆に彼女は驚いていないようだ。

「やっぱりね。たぶん、そういうと思ったわ」

「どうしてですか?」

「あなたのような男性に好きな人がいないというのは、私には信じられないのよ。でもね、あなたは今即答でいないと答えたでしょう? それは、本当にいないとしか思っていないからなのよ。それだけあなたは素直なの。でもね、それは時として、自分の本当の気持ちに蓋をしてしまうことになりかねないのよ。つまり、あなたは誰か好きな人がいるんだけど、そのことに気づいていないの」

「そんなことってあるんですか?

「ええ、あるわよ。それは、本人が自分のことを素直だという意識を持っているからなの。でもそれをいつも感じているわけではない。素直なことが一番だという思いを絶えず持っていると、自分の性格がピッタリ当て嵌まる時、えてして、その思いが邪魔をして、本当の自分を見失うこともあるの」

「じゃあ、あなたは、僕が自分を素直な性格だって分かっているというんですか?」

「ええ、私はそう思っているわ」

 和人は、確かに自分には素直なところがあると感じたことがあり、素直が一番だという意識も持っている。だが、いつの間にか、その感覚を忘れてしまっているのがいつものことで、

――自分を素直だって感じることは、長い時間できないことなんだ――

 と思ってきた。

 そのことを彼女に話すと、

「それは違うわ。いつの間にか忘れているわけではなく、あなたは、いつも何かを考えているの。その時にいろいろ考えてしまって、結局、最初に感じていたところに戻ってくるのよ。でも、すでに時間は経ってしまっていて、最初の場所はその時には存在しない。だから戻る場所がなくなってしまったことで、あなたは、いつの間にか忘れてしまったと感じてしまうんだわ」

 彼女の話を聞いていると、何でもその通りに感じられる。

――何という洞察力なんだろう――

 と感じる。

 そういえば、女性とここまで立ち入った話をしたことなどなかった。普段がどれだけ形式的な話しかしなかったのかということを思うと、身体をともにした相手とは情を交わすだけではなく、本音を素直に話せる相手になるということを初めて知った。女性と身体を重ねることは、身体の快感だけではなく、気持ちの上でも重ねるものがあるのだと感じたのだ。

「あなたは、きっとこれからいろいろな経験をして、いろいろ感じると思うの。でも、今日のことはきっと忘れないと思うわ。私のことを忘れてもね」

 そういって、彼女は微笑んだ。

「忘れたりなんかしないさ。それに君のことだって、忘れないさ」

「そうかしら? それなら嬉しいんだけど」

 またしても彼女は微笑んだ。今度の微笑みは最初に比べて、さらに含みが感じられ、その表情を、これからも時々思い出しそうな気がして仕方がなかった。

 確かに、その後、彼女の表情を思い出すことはあったが、なぜか顔までは思い出せなかった。

――顔を思い出せないのに、表情だけ思い出すなんて――

 そう思ったが、納得はできた。なぜなら彼女のその時の表情を思い出す時というのは、夢を見ている時だったからだ。

 しかも、思い出す時というのには、共通点があった。それは、思い出した次の瞬間、目が覚めるということだった。

「夢だったんだ」

 夢から目が覚める時というのは、目が覚めた瞬間、自分が一体どこにいるのか分からないくらいの時が多い。それは夢に見たことがかなり過去のことだったり、夢というのが今のことを見ているわけではないと感じさせる時だった。

 夢というのは、覚えている時と、まったく覚えていない時がある。夢を見なかったと思っている時でさえ、

――本当に夢を見なかったのだろうか? ひょっとすると、夢を見たのに、まったく記憶にないことで、夢を見ていないと思っているだけではないか――

 と感じることがあった。

 しかし、夢を忘れていたり、見なかった時というのは、

――過去の夢ではなく、今現在のことだったり、未来に見る予知夢だったりすることで、覚えていないのかも知れないな――

 と思えてきた。

 予知夢の存在に関しては別にして、今現在の夢を見ている時というのは、夢を見ていても、現実の意識と混乱してしまい、夢の中では、現実なのか夢なのかの混乱があるため、それを避けようとして、夢を見なかったことにしてしまおうという意識が働いているのかも知れない。

 これは、自分が考えすぎる性格と結びついているということに繋がってくるのだが、彼女の話を聞いて、この夢と通じるものがあるのだと気が付いた。

 この共通点に気が付いたことで、それからの和人の人生は大きく変わった。

 高校では理数系を選択していたので、大学も理数系の学部に入ったのだが、何かになりたいという具体的な目標があったわけではない。

 しかし和人は、この時、夢や記憶について初体験の時に感じた思い、そして、彼女に教えられた思いとを総合し、

「俺は将来、記憶や意識、そして夢などを研究できるようになれればいいな」

 と思うようになっていた。

「今からでは間に合わないかも知れないけどね」

 と思いながら、しっかりと勉強を重ねてきた。

 大学に残ることはできなかったが、大手電機メーカーの研究室への入社が決定し、コツコツと研究を進めていくことができたのだ。

 ちょうど和人が就職した頃、社会は政治に無関心であり、それ以外のところでの文化は結構発達していた。

 科学分野以外でも、この国発祥の文化がたくさんあり、そういう意味でこの国は、

「文化最先端の先進国」

 だったのだ。

 ゲームや漫画、さらにはドラマなどの一般的な文化以外でも、マニア受けしかしないと思われたことが、世界中を駆け巡ってみたりと、文化最先端でありながら、

「先進国というよりも、まだ発展性の伸びしろを残した発展途上とも言えるのではないか」

 と言われてきた。

 そんな国を支えてきたのは、やはりハイテク産業だった。和人は就職した会社もハイテク産業では最先端を行っていて、誰もが認める第一人者的な存在だった。

 そんな和人を影から見つめていたのは、千尋だった。

 千尋は子供の頃から、男性からの特別な視線を浴び続けていた。同級生の男性からは、一線を画するような視線で、相手が感じている遠慮のせいで、相手が千尋を見る視線よりも、千尋の方が、こちらを見る目を遠くに感じていた。その思いが見つめる男性に、さらなる近づきにくさを与え、どうしても交わることを許さなかった。

 大人の男性からは、子供そのままのあどけない表情に比べ、大人顔負けの豊満な肉体とのアンバランスさに、どうしても、卑猥な視線を送ることになる。

 子供の千尋には耐えられるものではない。

 そのうち千尋は、大人の男性の視線を敢えて浴びるようにして、相手が浴びせる卑猥な視線に対し、いかに自分が、

――あなたたちは私の足元にも及ばないわ――

 と言わんばかりに、心の中で、

「私の前にひれ伏しなさい」

 とばかりに、上から目線を浴びせた。

 中には、そんな千尋の視線にさらに興奮を覚える変態もいたが、千尋の中では、

「どうせあなたは変態なのよ」

 とばかりに、自分が相手を弄んでいる感覚に酔っていることもあった。

 だが、しょせんは自己満足であった。そんな感覚がそんなに長くは続くはずがない。

 次第に千尋は男性の視線を感じなくなった。別に無視していたわけではない。敢えて甘んじて受けることで、それをいかに自分の快感に結び付けるかということを選択したことが千尋を恥辱の視線から自ら救ったのだ。

 ただ、、

「本当は、私も変態だったのかも知れない」

 と自分に思わせることにも繋がった。

 その思いがあってか、千尋は大学時代、スナックでアルバイトしていたことがあった。もちろん、まわりには内緒だった。和人でさえ知らないのだ。もっとも、千尋が子供の頃からこんな悩みをずっと抱いて成長してきて、まわりの視線に対してどのように対処したかなど、和人が分かるはずもなかった。

「あの人は、私が知っている中でも、本当に鈍感で空気も読めない人だわ。でも、なぜか気になってしまうのよね」

 と感じさせたのが和人だった。

 だが、千尋には和人が自分と同じようなところが多いのを分かっていた。そのことを和人が知っているかどうか分からない。

「知るはずないわね」

 知っていれば、もう少し鈍感じゃなくなるはずだったからだ。 スナックでアルバイトをしていると、いろいろな男性がいる。それは分かっていたが、男性の相手をする女性もそれ以上にいろいろな人がいることが分かった。

――私は、誰よりも変わっているんだわ――

 と思ってきた千尋だったが、それ以上に変わっている人がたくさんいて、自分など、まだまだひよっこだと思えてならなかった。

 千尋がスナックで働くようになったのは、千尋が二十歳になってからだった。その頃には和人は童貞を卒業していて、その時の彼女とはたまに会っていた。

 呼び出すのはいつも彼女の方からで、和人から呼び出すことはなかった。

「私の方が、あなたを必要とするようになるなんてね」

 というのが彼女の口癖だった。

 本当は、童貞喪失の相手とは二度と会わないというのが彼女の中での決め事だったようだが、あっさり崩れてしまったのは、和人の中にある何かの魅力に憑りつかれたからだろうか?

 千尋は、まわりの中でも突出して他の女性に比べて発育が早かった。子供の頃から思春期の男性の視線をくぎ付けにしていたが、さすがに手を出してくる男性はいなかった。それでも時々気持ち悪い視線を感じては、ゾクッとしてしまい、まわりを見ることが怖くなってしまうことが結構あった。

「千尋が羨ましいわ」

 六年生くらいになると、他の女の子も発育が目立ってきて、どんどん千尋に近づいてくるというのに、そんなことを言う。

「どうして? あなたも発育が目立ってきたわよ」

 というと、一瞬苦み走った表情になった相手に、千尋は気づいていた。

 その真意がどこにあるのか分からなかったが、平静を装った表情をしながら、

「あなたにはとても及ばないわ」

 と言われたことを千尋の中では、

――自分も発育が目立ってきたのに、それ以上に相手が先を行くのだから、いつまで経っても追いつけない――

 と感じていると思っていた。

 しかし、そうではない。相手が苦み走った表情をしたのは、何も肉体的なことを言われたからではない。

「あなたも発育が……」

 というところの、「も」という言葉に反応したのだ。

 ここから先は千尋の感じた通り、この人には追いつけないという意識に繋がるのだが、ここで「も」という言葉を使ったということは、

「あなただけではなく私も成長しているのよ」

 と言っているようなものだと感じたからだろう。

 最初の掴みのちょっとした部分を感じるか感じないかだけのことなのだが、この部分が大きい。

 もちろん、千尋に悪気はないのだろうが、心の奥で、

「自分はあなたたちとは違うのよ」

 と言わんばかりの態度に苛立ちを感じさせるのだ。

 言う方も小学生なら、感じる方も小学生だ。千尋に悪気がないのと同様に、言われた方も、大人の対応ができるほど、成長していないのだ。子供の頃に受けた傷がトラウマになってしまったりすることは往々にしてあるもの、二人の間に生じた溝は、そう簡単に拭い去られるものではなかった。

 千尋は、子供の頃からそういう意味では敵が多かった。他の人とは違うということが孤独に直結し、開き直るしか、トラウマから逃れる方法はないと思えた。

「私は他の人とは違う」

 肉体的なことだけでは、その思いは自己満足にしかすぎないことは分かっていた。肉体の発達は持って生まれたものであり、自分の努力によるものではない。もちろん、維持していくことは自分の努力によるものだが、そもそも人にないものを最初から持っている時点で、スタートラインが違っていた。

 千尋は、勉強に励んだ。元々、勉強は嫌いではなく、ただ、勉強ばかりしている人は、存在感が薄れてしまうのではないかという危惧があったことで、どうしても、勉強に打ち込む気にはならない時期があった。

 実際に、クラスに勉強ばかりしている地味な女の子がいるのだが、

――彼女とは生理的に合わないわ――

 と感じていた。

 自分からそんな女の子になるなど、ありえないと思ったのだ。

 だが、中学に入ると変わってきた。まわりが思春期に突入したのである。誰もが大人びてきて、明らかに集団意識がさらに深まったのが見えてきた。

――あんな集団意識だけの中にいて、どうやって目立とうというのかしら?

 皆が皆、目立とうとしているわけではない。それは千尋も分かっていることなのだが、千尋自身は目立ちたいという意識が強い。その思いの表れが、

――他の人と同じでは嫌だ――

 という心境なのだろう。

 その頃の千尋は、男の子が怖かった。子供の頃はあどけない少年だったのに、中学に入ると、顔には汚らしいニキビという吹き出物が現れ、女の子に対しての視線もいやらしさに満ちていた。特に千尋に対しては特別で、大人の女性を感じているのは千尋にも分かっていた。

「手軽に手に入るかも知れない大人の女性」

 そんな目で見ていたのかも知れない。

 告白してくる男の子も多かった。そのほとんどは、小学生時代には大人しく、いつも端の方にいた男の子たちばかりだ。目立ちたいと思っている連中が告白してこないのはどうしてなのか分からなかったが、彼らには、自分たちでは千尋のような大人のオンナを相手にできないと思ったのか、それとも、千尋の中にある精神的に子供なところと、発育した肉体との間にあるアンバランスさに冷めてしまっているのではないだろうか。

 千尋は、最初の頃は前者だと思っていたが、途中から後者を感じるようになった。目立ちたがりの男の子たちの視線が微妙に変わってきたのを感じたからだ。

 その違いは、明らかだった。視線の中に冷めた目を感じたからだ。

――どうしてなの?

 別に彼らの視線を楽しみにしていたわけではない。ねっとりとした視線に気持ち悪さを感じ、自分の中で拒否をする体勢を無意識に取っていた。だが、その視線が取って返したように冷めた目に変わったのだ。混乱してしまっても無理もないことである。

 中学時代の千尋は、後半、まわりの男性からの冷たい視線を浴びて過ごしていた。しかも同性である女性からも肉体の発育に対して妬みの視線を浴びていた。まわりからは、

「あんな身体、憧れるわ」

 と言われているのは分かっていたが、皮肉とは違ういやらしさしか感じない。それは皮肉よりもきついもので、元々のトラウマを作ったものだった。子供の頃から変わらないそんな視線に、

――いつまで私はこのトラウマに悩まさられければいけないのかしら――

 と果てしない苦悩の予感に、打ちひしがれる思いだった。

 中学三年生くらいになってくると、まわりの男女は次第にくっつき始める。両想いの人の告白、思い切って片想いを打ち明けて、見事成就した人。誰が見てもアンバランスな男女が、何がきっかけだったのか、恋愛に発展している。しかも、そんな二人の仲が一番熱かったりするのだ。

 千尋自身には無縁なことだったが、なぜかまわりの男女の関係に関しては、よく見えていた。

――見たくないと思っていることが一番よく見えるなんて、こんな皮肉なことはないわ――

 と思い、もしこれが自分の運命なら、恨まずにはいられない。

 千尋は、いつの間にか運命という言葉を忘れていた。

 いや、忘れていたというよりも、他人事としてしか感じていなかったのだ。

――自分には関係のないこと――

 そう思うことが、トラウマから逃れることであり、こんな発育のいい身体に生まれてしまったことへの恨みを少しでも軽減したいと思っていた。

 これが人から羨ましがられないことであれば、ここまではなかったのかも知れないが、子供というのは実に罪なもので、相手が何を言えば傷つくのか分からない。思ったことを言ってしまっても、許されるのが子供だった。

 それだけに、千尋はこのやるせなさを誰にぶつけていいのか分からなかった。本当なら女としての最大の武器になることなのに、それがトラウマになってしまうというのは、皮肉を通り越して、運命のいたずらと言えなくもない。

――運命がイタズラするなんて――

 運命とは決まっているもので、悪戯を含めたところで運命なのに、言葉が重複しているのに、深く感じられないのは、運命のいたずらという言葉が、普及しているからではないだろうか。

 千尋は、高校を卒業するまで、中学時代とほとんど考えは変わっていなかった。肉体の成長も中学の三年生のあたりから止まってしまって、高校になった頃には、他の人とあまり変わらなくなった。高校から一緒になった人には、中学時代までの彼女を知らないということもあり、

「なんて、暗い人なのかしら?」

 というイメージしか湧いてこなかった。

 もちろん、その暗さがどこから来るものなのか分からない。しかし、考え方は中学時代から変わっていないので、

「子供のような考えしか持っていないんだわ」

 としか思われていなかった。

 しかも、勉強だけはできたので、まわりからは頭でっかちというイメージしか持たれておらず、彼女のトラウマの存在は分かっても、それがどこから来るのか、考えようとする人はいなかった。

 高校に入ると千尋の孤独はさらに加速した。

 和人がたまに話しかけてくれるのがありがたかったのだが、そんな和人も千尋に対して、どこか遠慮のようなものがあった。それが和人の煮え切らない性格から来るものなのに、千尋にはそこまで考える余裕はなかった。

「話しかけてくれるのは嬉しいけど、どうしてそんなにぎこちないの?」

 と一度訊ねたことがあったが、その時和人からは、明確な答えを得ることはできなかった。

 その頃の二人は、処女と童貞だった。

 和人は、童貞を意識していたが、千尋は処女に対しての意識は和人ほどなかった。二人とも、それほど喪失に対して執着があったわけではない。

「そのうちに、時期がくるさ」

 と考えていた和人、

「そのうちに時期が来るとは思うけど、今は考えられない」

 と感じていた千尋。

 本当は、千尋の方が、潜在意識としては、処女に対してのこだわりは和人よりも強かったのかも知れない。

 和人は自分が考えていたように、突然にそんな時期がやってきた。

 では千尋はどうだったのだろう?

 千尋は、相手に対してのこだわりがあったわけでも、シチュエーションをあれこれ想像していたわけではない。まったく想像できないと言った方がよかった。だから、自分が処女を喪失するその時になっても、まだその実感が湧いてこなかったのだ。

 相手の男性は、海千山千のナンパ師のような男性で、今までに何人もの処女を喪失させてきたという自負を持っていた。

 しかも、処女を喪失させた相手は、彼のことを忘れられず、しばらく付き合うことになる。この男は決していい男ではない。だが、相手を惚れさせるテクニックがあるのか、彼と寝た女は、しばし、彼に溺れてしまうことが多かった。千尋はそんなことも知らずに、近づいてきた彼に身を任せた。

――この人は、私に対して正面から接してくれた人なんだ――

 という思いがあったからだ。

 千尋は、四年生の大学に進み、相変わらず勉強に勤しんでいた。合コンの誘いもそれなりにあり、参加していたが、それは頭数の一人としてカウントされていただけで、結果は頭数以上でも、それ以下でもなかった。千尋に話しかけてくれる男性もいるにはいたが、千尋の反応に対して、すぐに見切りをつけて、話しかけるのをやめたのだ。

 一人、千尋に対してしつこく話しかけている男性がいた。

 彼は決してイケメンというわけではない。他の女性も相手にしないような男性で、無駄な贅肉が目立っているような、ブサイクに近い男性だった。

 千尋にとって、生理的に受け付けられない男性の一人で、誰かに助けを求めようにも、他の人は皆自分たちの話で必死だった。

――こんなことなら来るんじゃなかった――

 と思って、思い切って幹事をしてくれている同級生に耳打ちし、

「ごめんなさい。今日はこのまま帰ります」

 というと、彼女もやっと千尋の置かれている立場に気づいたのか、

「あ、ごめんなさいね。私が気づいてあげなければいけなかったわね。いいわよ。気を付けて帰ってね。今度、埋め合わせはさせてもらうわ」

 と言ってくれた。

 幹事の女の子は決して悪い女の子ではない。幹事をするほどの女の子なので、まわりを見る目はあるのだ。千尋も、別に埋め合わせをしてもらいたいわけではないので、そのことを言おうかと思ったが、彼女に対してそれを言うのは野暮だと思い、

「ありがとう、そうさせてもらうわね」

 と言って、席を立った。

 出口に向かってそそくさと歩き、表に出ると安心したのも束の間、さっきの男が追いかけてきた。

「どうしたんですか? 急にお帰りになるなんて」

 と言ってきたので、さすがに千尋も切れてしまった。その顔を見て、相手の男性も逆上したのか、

「何してるんですか、戻りますよ」

 と、手を引っ張ろうとしたので、千尋は必死に抵抗し、

「何するんです。大声を出しますよ」

 ここまでくれば、痴漢と被害者だった。険悪なムードは必至だった。

「どうしたんだい?」

 一人の男性が颯爽と、千尋の肩を抱くようにして、相手の男性を威嚇した。その表情に痴漢と化した男性も臆したように見えた。

「いえ、何でも」

 と言って、男はそそくさと踵を返した。

「大丈夫かい?」

 そういって千尋を見つめる彼の顔を見上げたが、千尋には、彼が白馬に乗った王子様に見えたのだった。

 生理的に受け付けない男性は、すごすごと引き下がった。顔には不満が漏れていたが、助けてくれた彼は、そんなことを一切気にしていないようだった。

――なんて頼もしい人なのかしら?

 恋愛感情というのを意識したことのない千尋は、その時の感情をどのように表現していいか分からない。

 しかし、自分を助けてくれたとはいえ、いきなり初対面の人に恋愛感情を抱くなどありえないと思っていたので、このまま彼に主導権を握られてしまうことを予測できた。予測はできたが、その予測に抗うつもりもなかった。

――その場に流されてみたいなんて感じたことなかったのに――

 風も吹いていないのに、身体に当たる空気の心地よさに酔っていた千尋は、彼の顔をまともに見ることができないと思いながらも、しっかりと見つめている自分が信じられなかった。

 もし、これが運命でないとするならば、本当であれば、この状況を偶然として片づけられないことから、少なからずの疑念を抱いてもいいはずなのに、まったく疑うことはなかった。元々、男性に対しては疑い深いはずだった千尋が、完全未防備とも思える感情を抱くというのは、本当に特別な時間を彼女は過ごしていたということだろう。

「じゃあ、俺はこれで」

 と、言って助けてくれた男性は踵を返して立ち去ろうとした。

「えっ」

 こんな時、女性から背を向けて立ち去るという選択肢は。千尋の中にはなかった。まったくの想定外の行動に、千尋はたじろいでしまった。

「あの、お礼がしたいのですが、お時間ございますか?」

 このまま彼を返してしまうことは、千尋には到底できることではなかった。少なくともお互いの連絡先を聞くか、次回の約束を取り付けるかのどちらかしか、今の千尋にはなかった。

 彼が自分の想定外の行動をしようとしたこと。そしてそれが紳士としての彼の株を上げることになるという二つのことが、千尋に思い切った行動を取らせたのだ。

 彼はニッコリと笑顔で、

「いいですよ」

 と、快諾してくれた。

 さっきはあれだけ、何事もなかったかのように立ち去ろうとした彼が、笑顔で快諾してくれたというのも、千尋の中では少し意外だった。

――何もなかったかのように離れていこうとした人が、何の抵抗もなく快諾してくれるなんて――

 確かに彼を見ていて、遠慮の言葉が出てくるような雰囲気には見えなかった。この場面での遠慮というのは、すぐに快諾してしまうと、下心が見え見えになってしまうので、それをごまかすような、いわゆる社交辞令でしかない。そんなことは煩わしいことだとでも言わんばかりの彼に、千尋は潔さを感じ、爽快さが滲み出ていると感じた。

「では僕が知っているバーにでも行きましょう」

 彼は、千尋の前に立ち、歩き始めた。最初は助けてくれたという印象から、ガッチリとした体格をイメージしたが、彼の背中からは華奢な雰囲気しか感じられない。

――まるで女性のような雰囲気だわ――

 金髪でのイケメンタイプ、華奢な雰囲気から、まるでホストクラブの男性のように思えてきた。

 そう思うと、急に不安が込み上げてきた。

――しっかりしていれば、溺れるようなことはない――

 と千尋は感じた。

 それにホストクラブに溺れる女性は、もっと熟年の女性で、自分をオンナとして見てくれていて、自分に従順な男性から離れることができないからだというイメージを千尋は持っていた。あくまでも映画やドラマでのイメージだが、

――自分は大丈夫だわ――

 という思いに駆られるには十分だった。

 彼が連れていってくれたバーは、地下に入っていくところで、あまりバーになど来たことのない千尋には新鮮な感じがした。流れてくるジャズの音楽も、聞いたことがあるようなムーディなもので、クラシックなイメージが好感を抱かせた。

「いいお店でしょう?」

「ええ」

 二人はカウンターの中央に座り、マスターに対峙していた。他に客はおらず、彼が中央を選んだということは、その後も他に客が来ることはないと思ったからなのかも知れない。

「僕の名前は譲二。一応、バーテンダーなんだ」

「えっ?」

 言われてみれば分かる気もしたが、そんな彼がバーに連れてきてくれるというのは、どういう心境なのだろう?

 千尋はマスターを見た。マスターはその視線に気づいて洗い物をしている手を休めることなく、千尋を見上げ、

「ええ、彼は僕と同じバーテンダーですよ。でもここのお店ではないんだけど、バーテンダー仲間として、贔屓にしてもらっています」

「そうなんですね」

 千尋は納得し、再度横にいる譲二を見つめた。

 譲二はやはり笑顔のまま、千尋を見つめ、

「彼とは、フランスに一時期修行に赴いた時に知り合ったんだけど、意気投合してね。お互いに切磋琢磨できる間柄ということで、気心も知れているので、親友と言っていいんじゃないかな?」

 千尋は横目でマスターを見たが、彼も頷いていた。

「羨ましいは、そういうお仲間の方がおられるなんて」

「女性の間では、なかなかそういう関係にはなりにくいんですか?」

「女性というのは、少しでもお互いに我を通そうとすると、それが相手の競争心を掻き立てるようなところがあるんでしょうね。ぎこちなくなってしまって、修復が難しくなる時があります。ある程度の距離を保つことが女性の場合は大切なのかも知れませんね」

「それは言えると思います」

「私はそれだけ、女性って不器用なのかって思っていますよ」

「きっと、異性に対しても同じような感覚なんじゃないですか? 男性の場合は、相手が同性か異性かで違ったイメージを持つものですが、女性はどうなんでしょうね」

「女性も違うと思います。でも、それは感覚というよりも対応という意味で違っているのを勘違いしているからではないかと思うんですよ。対応と思った時点で、違うとは言えないのかも知れませんね」

 千尋は、こんなことを自分が口にしていることにビックリしていた。

 一人で考え事をしている時には、こういう発想を思い描くことはある。しかし、口に出していうことではないという思いと、こういう話ができる相手が自分のまわりにはいないという思いがあり、

――心の中にしまっておくものだ――

 と考えていたのだった。

 千尋は、普段から考えていることを口に出していると、次第に警戒心などどこにもなくなり、解放感という快感に包まれていた。心地よい解放感は解き放たれたものであり、開いたところから抜け出したなどという他力のものではなかった。

 気づかぬうちに時間は過ぎていく。まるで、バーの中だけ時間を食べる何かが潜んでいるかのようだった。それに入った時よりも部屋が暗くなってくるのを感じた。それは同時に部屋が狭く感じられるという錯覚を呼び起こすことに繋がっていた。

 千尋は気づかなかったが、時間が短く感じられたのは、部屋の狭さを感じたからだった。部屋の狭さを感じたのは、暗さが影響している。それはマスターの粋な演出であり、このバーの特徴でもあったのだ。

 この日はほとんど二人だけの貸し切りのようになっていた。誰も他に客がやってくることもなかった。後から聞いた話だが、この店の客はほとんどが常連客で、しかも、他に客がいることを嫌う人が多かった。したがって、皆暗黙の了解で、来る曜日を決めていた。この日誰も客がいなかったのも、そのせいだ。一見の客が来るなどほとんどありえないと言ってもいい隠れ家のようなこの店は、女性客にとって酔いしれる時間を与えてくれる不思議なところでもあったのだ。

 すっかり酔っぱらってしまった千尋だったが、

――こんなに心地よい酔いなんて、今までになかったわ――

 と、まるで夢心地の自分に酔っていた。

 アルコールに酔い、自分に酔う。一度味わってみたかった感覚だったのだ。

「そろそろ行こうか」

 と言われ、

「ええ」

 と答えて席を立ったところまでは覚えているのだが、その後の千尋は自分が前後不覚に陥ってしまうことを自覚しながら、次第に意識は薄れていったのだった。

――私、夢を見ているのかしら?

 横になっている自分を感じながら、起きることができず、そのまま横たわっていると、身体に力が入らないことを自覚し、

――そうだわ。酔いつぶれて、意識がなくなったんだわ――

 というところまで思い出した。

 その時に、誰の声もしなかった。スーッと消え行く意識の中で、耳鳴りを感じたかと思うと、その耳鳴りは今もなお、耳に響いていた。

――私は、バーのソファーに横たわっているのかしら?

 とも思ったが、それにしては、身体が重たくて仕方がなかった。最初は身体に力が入らないだけだと思っていたが、そうではない。確かに手足の指先は痺れていて、力が入らない状況だったが、それ以上に羽交い絞めにされている自分の状況に、焦りを感じずにはいられなかった。

――この匂いは?

 汗臭さの中に、タバコの臭いも混ざっている。あまり好きではないタバコの煙だったが、この時に感じた汗臭さと一緒になっていると、タバコの臭いも嫌ではないように感じたのは実に不思議な感覚だった。

 しかも、その汗の臭いは一種類ではなかった。真っ暗な中にある湿った空気の中に二種類の汗の匂いを感じた。一つは馴染みのある匂いで、それがすぐに自分のものだということが分かった。

 ただ、この匂いは、自分が悦びを感じている時の匂いだということも分かったことで、急に恥ずかしくなり、顔が真っ赤になったのを感じた。それがさらに焦りを誘発し、夢心地から次第に意識が戻りつつあるのを感じた。

――いや、このまま夢心地でいたい――

 と、意識が戻るのを拒否している自分がいた。

 しかし、そんな感情などお構いなしに、意識はどんどん戻ってくる。そして一気に現実に引き戻されると、自分の上には男がいて、必死で自分の身体を貪っているのを感じたのだ。

 急に恐ろしさが込み上げてきた。抵抗しようにも身体にまったく力が入らない。それを思いと、身体の痺れだけで力が入らないわけではないと思った。

――私は、この人を求めている?

 夢心地から覚めたくないという思いに繋がる感覚だ。

 自分に折り重なっている男性が譲二であることは分かっていた。

――処女だということがバレてしまう――

 襲われることよりも、処女がバレてしまうことの方が恥ずかしいという感覚に陥ったのは、どういう心境からであろうか。

 真っ暗な部屋の中で、男の吐息が漏れていた。ただ、その合間に、もう一つの吐息も感じられた。その正体をすぐに看破した千尋は、

――いやだ、恥ずかしい――

 と感じた。

 無意識のうちに悦びの声を挙げていたのだ。

 自分はその状況がどのようにして引き起こされたものなのか分からない。

 自分から彼を誘ったのか、それとも、酔いつぶれたのをいいことに、強引にどこかの部屋に連れ込んだということなのか、どちらにしても、自分が処女である時間が、刻一刻と短くなってきていることを実感していた。

「いずれは、処女を失うんだわ」

 という程度にしか処女に対して意識していなかった千尋にとって、このシチュエーションはあまりにもセンセーショナルすぎるものである。

 しかし、この状況は千尋が今感じている、

――流される感覚――

 として流してしまったことが、いずれ自分の運命を大きく変えてしまうことになろうとは思ってもいなかった。

 しかも、その運命は自分だけのものではなく、少なくとも他に一人は影響を与えてしまうことになる。それを千尋の罪だと言ってしまうと千尋が気の毒だが、運命が変わってしまう時というのは、えてしてこういうものなのかも知れない。

「いや、運命は変わってしまったものではなく、分岐点を迎えただけだ」

 運命についてのテレビ討論で、大学教授が話をしていたのを見たことがあったが、なぜかその時、千尋の頭をその言葉がよぎった。少なくとも、千尋はこの時に、自分の運命が変わってしまうのではないかと直感したようだった。

 男によって女の運命が変わるというのは往々にしてあることだが、中には、

「自業自得だ」

 と言われることもあり、

「自分は男で運命を変えるようなことをしたくない」

 と嘯いていた千尋だった。

 千尋はこれを運命だと思った。今まで、自分には運命などというのを信じていないと思っていたが、それは実感が湧かなかっただけであって、運命らしきものを感じてしまうと、

――こんなものか――

 と、アッサリとした気分になった。

――これなら過去にも感じたことがあったのかも知れないわ――

 あまり深く考えない千尋は、自分から運命という言葉を遠ざけていたのだ。運命だと思えるようなことであっても、勝手にスルーしてしまって、そんな自分を、

――冷めた人間だわ――

 と思うことで納得させてきた。

 そういう意味で、千尋は世間知らずである。しかも、そのことを自覚していないことが千尋には致命的だった。

 そのことを忠告してくれる人もいない。なぜなら千尋は思ったことを自分からすぐに口にするタイプということもあって、自分の意識しない間に、敵を増やして行ったのだ。そのことを知っているのは和人だけだったが、下手に千尋にそんな忠告をしようものなら、逆上されると思ってなかなか口にできない。

 千尋が自分の肉体に自信を持ちながら、同時にコンプレックスを持っているということに和人は気づいていなかった。

 それは、千尋も和人も二人とも、処女であり、童貞だったからだ。

 どちらかが、先に初体験を済ませていれば、済ませた方が冷静になって見ることができ、対等な目のバランスが崩れることで、お互いの立場が確立することになるだろう。

 どちらも遠慮してしまうことで、ぎこちなくなってしまった二人の関係は、言いたいことも言えないという交わることのない平行線を描くことになってしまっていた。

 千尋はその日を境に、譲二のオンナに成り下がってしまった。譲二は最初のうちこそ千尋に優しく、お金も気にすることなく使っていたのだが、途中から、急にお金の羽振りは悪くなった。

「どうしたの?」

 千尋は、それまでに譲二に感じたことのなかった不安を感じた。これまで全幅の信頼を置いていた相手が急に不安を帯びるのだから、その不安の度合いは、自分でも想定外だったことだろう。

「あ、いや。少しお金に困ったことがあってね」

 申し訳なさそうにしている譲二を見て千尋は、

――私が何とかしてあげなければいけないんだわ――

 と感じるようになった。

「実は、友達の保証人になってしまったことで、僕がその保障を担ぐことになってしまったんだ」

 よくある話ではあるが、世間知らずの千尋には、聞いた話があまりにも唐突すぎて自分の、いや、自分たちが置かれている立場が分かっていなかった。

「一体、いくらなの?」

 とにかく、どれほどの金額なのか、それが一番の問題だった。

 まず、千尋が金額のことを聞いてきたことで、譲二としては、ほくそ笑んでいた。

――やっぱりこのオンナ、世間知らずだ。騙すことはそれほど難しいことではない――

 と感じた。

「百万円ほどなんだけど」

 あまり高い金額を言ってもうそ臭いし、かといって、低すぎても深刻さが伝わらない。百万程度がちょうどいいだろう。

 譲二は、下を向いたまま顔を上げようとしない。それを見た千尋は、さらに不安が募ってきた。しかし、すでに彼との逢瀬に溺れかけていた千尋は、自分の中にある、

「何とかしてあげなければいけない」

 という母性本能に似た感情を抑えることもできなくなった。

 さらに、ベッドの中では主導権を完全に握られているので、それ以外で自分にも握ることができる主導権を欲していたのも事実だった。

 二人は、その日、結論が出ることもなかった。

 そしていつものように、自然とベッドに入った。

 ベッドの中では完全に主導権を握っていたはずの譲二が、まったく元気がない。どこか上の空で、何よりも、身体が反応しないのだ。

――ここまで思い詰めているんだわ――

 千尋は何とか頑張って彼を力づけようと努力してみたが、やっと最近処女を失った程度の千尋では、到底彼を元気にすることはできなかった。

 それから数日、譲二から連絡はなかった。今までは千尋の方から連絡を入れていたのだが、譲二の気持ちを察すると、自分からどうしても連絡することはできなかった。

 だが、千尋の方も、連絡ができないことは苦痛でしかなかった。

――厄介なことを背負い込んだ彼から離れるなら今しかないのかも知れないわ――

 という思いが頭をもたげた。

 これが千尋が考えた、彼に対して唯一ともいえる「まともな」考え方だったのだ。

 この時に自分の思いに忠実になれなかったことが千尋にとっての分岐点であり、この後の行動を大きく作用するのだった。

「頼む、千尋。何とかしてくれ」

 と言って泣きついてきたのは、話を聞いてから一週間が経ってからのことだった。

 ただ、その時はすでに譲二の計画はできていて、言葉巧みに千尋をこちらの手の内に取り込む段階に来ていた。

 その点では、譲二は慣れたものだった。

 最初から女性を自分の懐に取り込み、その中で弱いところを見せることで、相手の女性としての本能を呼び起こすという作戦は、ある意味「ベタ」とも言えるだろう。

 しかし、そんな作戦に引っかかる女もまだいるのであって、譲二の作戦勝ちというところであろうか。

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