第43話 北の大地の即位式(二)

  白蘭は他の商人達に「今の蘇王が権勢を増せば伝統的な価値観がはびこり商人が蔑まれてしまう」と説いた。だから蘇に対して経済封鎖をしなければならないのだ、と。


 しかし、それは琥の商人に対して蘇に財宝を売って利益を得る機会を棄てろということでもあった。


 戴家との誼や、以前に白蘭から投資を受けたことのある商人たちは説得に応じてくれたが、そうでない商人たちは

「なんで戴家にそこまで指図されなきゃならんのだ!」といきり立った。「戴家のご令嬢は何か勘違いをしているようだ。大店だからって他の商人の上に立つなんて道理はねえ。商人には自由が必要だ。なんで俺らがそれを奪われなけりゃならんのだ!」と痛罵されたこともある。


 冬籟がいたわるような声で言う。


「海の憂いは消えても大陸では琥と蘇の軋轢があった。琥商人白蘭も苦労があったと聞きます。なんでも泥の中で土下座したとか……」


 沙月姫は心の中で「ああ、その話も伝わっているのか」と思う。


 蘇との取引を止めてもらう代わりに、戴家の白蘭は充分な補償をした。彼らが蘇に売って儲けるはずだった利益を、白蘭が全て支払ったのである。正直、今の白蘭の手元には、かつてあった巨万の富はほとんど残っていない。すっからかんだ。


 卓瑛が心から感嘆したものだ。


「沙月姫、いや白蘭。貴女が動かす金額は董王朝の国家予算の何年分にあたることやら……。我が後宮出入りの女商人はなんと豪胆であることか」


 それでも白蘭に従わずに蘇と取引を継続しようとする商人もいる。白蘭の隙をついて、その商人が南へ向かう運河で荷物を積み込んでいると聞き、白蘭は現場に駆け付けた。


 雨上がりでぬかるんだ船着き場で白蘭が相場以上の金銭的代償を約束し、そして蘇に権力を渡してはならないのだと道理を尽くして説いても、蘇という大市場に勇躍するつもりでいた相手商人の怒りはおさまらない。


 相手は苦々しげに吐き捨てた。


「なら、そこに土下座してもらいましょう。それならこちらも応じてもいい」


 その場にいた全員が息をのんだ。後宮出入りの女商人白蘭は皇帝陛下とも直に会う勅免を得ている。そうであるがゆえに高価な絹織物を身に着けていた。


 彼女は躊躇しなかった。水たまりの中にしゃがみ込む。広い袖がたちまち泥水を吸い上げ重くなり、手をついた先はぬるりと気持ちの悪い感触で、頭を下げると濃密な土の臭いが鼻をついた。


 けれども、このとき、地面に這いつくばる白蘭の視界にはいくつもの裸足の脚が見えた。履物を使えないほど身分が低く貧しい人々の姿が董にも存在する。


 女商人白蘭が蘇王の野望を挫こうとするのは、冬籟への恋心のためだけではない。商売人の権益のためだけでもない。


 あの男たちの価値観で虐げられる民を救うためだ。女、蛮族、移民、貧民……彼らは彼らに近い属性の者だけを優遇し、当てはまらないものを踏みにじる。


 白蘭は頭を下げた。何の屈辱も感じない。これは大地への接吻だ。この大地に生きる全ての民のための。その接吻は心満ち足りたものだった。冬籟に口づけたのと同じように。


 毅王冬籟が白蘭を讃える。


「女商人白蘭は耐えるべき時を耐えぬいた。そうやって持久戦に持ち込み、最近の蘇王は年齢のせいか病がちでかつてほど精力的には動けない。彼女は蘇との争いに競り勝ったと申せましょう」


 彼は続けた。


「東の漣国だけでなく、平和となった毅も琥商人との取引を大いに奨励する。琥の内陸交易もしばらくは安泰でしょう」


「……」


「白蘭が導いた平和で豊かな天下では伝統的価値観のくびきを離れ、人々が自由を謳歌することができる。彼女は利潤を追求するだけの商人じゃない。それ以上に民の幸せを考えられる器の大きな商人だ。人は彼女を『後宮出入りの女商人』と呼びますが……は!」


 冬籟が大きな声で笑い飛ばした。


「白蘭は毅王復位を金銭面で支え、琥と漣の交易を活性化させ、商人や女、蛮人などを秩序の名のもとに虐げる蘇王との経済戦に競り勝った。これだけのことをやってのけた彼女に『後宮出入り』などという形容なんぞ、小さい小さい」


 冬籟が董皇后に強い視線をあてたまま、にやりと笑って見せる。


「彼女のことは『天下を商う大女傑』と呼ぶ方がずっとふさわしい」


 彼はいたずらめいた口調で、董皇后を見あげて問いかけた。


「天下の女商人白蘭が取り扱う品で最も価値のあるものは何かお分かりか?」


 皇后が言葉につまっていると、毅王があまり間を置かずに続きを口にする。


「皇后陛下、それは貴女だ。私にとって貴女ほど価値のあるものはない」


 周囲はこの言葉を、董皇帝から皇后を下される四神国の王がいかに光栄に感じているか伝えるための修辞だと受け取るだろう。


 だが、そうでないことは次の言葉で沙月姫に伝わる。


「貴女を妻に娶るこの喜び。まるで麻酔にかかって幸せな夢を見た、その続きを見ているような……」


 ガタっと沙月姫は椅子から立ち上がった。冬籟もそれに応じるかのようにすっと立ち上がる。隣の朱莉姫が沙月姫の袖をクイクイとひっぱった。


「ちょっと。貴女は皇后なんだから式次第をちゃんと守りなさいよ」


 このとき冬籟の口が大きく動いた。声は出さない。だが、その唇の形で何を言っているか分かる。


「びゃ・く・ら・ん」


 白蘭は駆けだした。


「ちょっと!」「皇后様!」と朱莉姫と勅使が驚きの声を上げるが、もう聞かない。


 裳裾をつまみ上げ、数歩で床をつっきる。一段、二段、三段と階を、足を交互にして駆け下りる。


 冬籟がはればれとした太い笑みを浮かべて階に歩み寄り、そして両腕を大きく広げた。白蘭は最後の一段を踏まず、彼の胸に飛び込む。


 以前抱きしめたときよりも一回り逞しくなった彼は、白蘭を軽々と天に持ち上げた。そして誰を憚ることなく堂々と言う。


「俺は幸せ者だ。惚れた女と愛し愛されて生きることができる」


 白蘭も思いのたけを込めて応えた。


「私も……私も幸せです……」


 母の荒れた暗い部屋に戻ることはもうない。母のようになりたくないことだけを目標に生きていた少女時代はもう過ぎた。


 幸せに。これからは自分と冬籟と、そして天下の万民を幸せにするために生きるのだ。




 ――この日から一千年の後の歴史書には、この時代について以下のように書かれている。


 董王朝は十五代の皇帝が三百年にわたって統治した。中でも七代目、字を卓瑛と伝えられる皇帝の時代に空前の繁栄期を迎えた。


 この皇帝の治世では、朝貢国との交易が盛んとなり、狭隘な階級意識が薄まり、人々が性別、民族、貧富、職業などで差別されることが少なく、万民が自由で活気あふれる人生を営むことができた。その開放的な時代の空気は多くの史資料が現在まで伝えるところであり、後世の歴史家たちはこの時代の董をこう呼ぶ。絢爛たる世界帝国、と。


 この時期の経済発展を支えた人物として琥商人の白蘭が挙げられる。女性であるがゆえに後宮出入りとなった彼女が、董を足掛かりに各国との交易に活躍した足跡は董のみならず各国の公的文書に大量に残されている。


 同じく琥出身の董皇后が毅国に下賜されたのに従って毅国に基盤を移したようだが、その後も毅王としばしば董を訪れ、琥商人ネットワークの中心であり続けた。


 また、この時期は女性の文人も活躍した。代表的な女文人に白雲雀がいる。


 雲雀は女商人白蘭に仕え、そのまた主筋である董皇后から「白」姓を賜った女性である。自身の見聞に加え、女主人白蘭やその周囲の人々についても多くの文章を書きつづった。


 その中の董皇帝と毅王の親交を巡る文章は、現在のブロマンスやBLの先駆をなすと評されることがある。


 一方で女主人の白蘭についても毅王との波瀾に富んだラブストーリーを記している。親の愛に恵まれなかった白蘭が、それでも他人への優しさを失わず、商人として力強く生き抜きながら、紆余曲折を経て恋人との愛を実らせる物語は、後世でも演劇や漫画の題材として好まれた。


 ただし、毅王と董から下賜された妃との仲は非常に仲睦まじかったと多くの史料で確認できるので、雲雀の小説で白蘭の相手を毅王とするのは、フィクションとしての演出であろうとするのが通説である。


 了

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後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符 鷲生智美 @washusatomi

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