第42話 北の大地の即位式(一)
冬籟が璋伶を伴って北域討伐を開始してから数年以上がたった。ようやく平定した毅の地で、彼は正式に毅王として即位する。今日はその即位の祭礼だ。
北域の夏の空はどこまでも高く、牧草におおわれた土地が地平線まで見わたせる。そこに吹く風は冷涼でさわやかだ。
毅王が即位を宣言するため用意された方檀の前に、数千人もの家臣たちが跪き、新しい毅王の到着を待っていた。その中央には深紅の毛氈が敷かれた道があり、その向こうから王が側近とともに現れることになっている。
方檀の傍にも一段低い木組みの高床があり、そこには董皇帝からの勅使と下賜妃とが椅子に腰かけていた。
南妃の朱莉姫が、毅の驍将として名を上げた璋伶の姿を見つけようと、椅子から立ち上がらんばかりに上半身をのばし、深紅の毛氈の先を見ようとする。
「ねえ、あれ! そろそろ璋伶と冬籟が来てるんじゃない?」
確かに数十人はいそうな集団が近づいてきている。高らかに金管の楽の音が響き、まずは幟を掲げた十数人の男たちの姿が見えた。その後ろに璋伶の姿がある。
そしてさらに後ろの堂々とした長身の男は……。朱莉姫の横の椅子に座る沙月姫が小さく叫んだ。
「冬籟様!」
朱莉姫が沙月姫をたしなめる。
「んもう、沙月姫、貴女は皇后なのよ? 冬籟に様をつけるのはおかしいわ」
コホンと董の勅使が咳払いをし、朱莉姫も沙月姫も軽く首をすくめる。毅王即位の式典で下賜妃達がおしゃべりに興じていいはずがない。
華都を発った冬籟たちの北域討伐は当初は苦戦が続いた。医官から武官に転じた璋伶も勝手が分からず雌伏を強いられたようだ。
それでも、やたら多方面に能力のある璋伶はだんだんと要領がつかめてきたらしい。やがて奇計奇策を弄する蘇人の武将の活躍の噂が華都に届くようになった頃には、冬籟達が安定して勝利をおさめるようになっていた。
卓瑛は、冬籟からの戦況を知らせる文を読みながら呆れ気味に語ったものだ。
「私も兵法書を読むが……。璋伶は考えられる手の中で最も派手な勝ち方を選ぶね。人目を惹くのが巧い男だ」
同時に卓瑛は冬籟を褒めた。
「個別の戦闘では璋伶の自己演出が光るが、そもそも冬籟が戦う前に装備や兵站をしっかり整え、戦略面で大きく有利な状況を作り出しているのがいいね。彼はめったに戦わない。武人に最も必要な資質は無駄な戦をしない姿勢だ」
「だが……」と卓瑛は、自分が冬籟本人であるかのように辛そうな顔を西妃に向ける。
「戦を避けるために、冬籟はまずは相手に恭順を呼び掛け、応じれば『恩讐の彼方、共に新しい毅を築いていこう』と受け容れる。これは……さぞ辛いことだろう。かつて父に背き命を奪った相手への復讐心を棄てるのは」
自分を愛してくれた親の仇を許すのはきっととても困難なことだろう。けれど……。
「冬籟様は私に母の印影で終わるなとおっしゃいました。だから、自分も復讐鬼になるまいと決意なさっているのでしょう」
過去にとらわれて生きるべきではない。そう白蘭に諭した彼もまた、毅王として懸命に前を向こうとしている。
そして、その冬籟の姿は、卓瑛だけでなく多くの人々の胸を打ち、「これぞ真の王者」と衆望を集めるようになったのだった。
即位式会場に銅鑼の音が響いた。人々が一斉に頭を下げる中、璋伶を連れた冬籟が貫禄たっぷりにゆうゆうと方檀に歩を進める。
璋伶が朱莉姫の前を通るときに艶っぽい目配せを送ったので、姫が「きゃ」と声を漏らした。冬籟もまた、南妃の隣の沙月姫に口許をほころばせて目礼をよこす。
北域討伐の出立前、璋伶は冬籟の紹介で卓瑛と私的に会い南妃下賜を願い出ていた。
「蘇人にとって蘇王女を娶ることほど名誉なことはありません。私が毅の反逆者たちを蹴散らして毅国平定に功あらば、なにとぞ南妃を賜りたく存じます」
このとき璋伶はこう付け加えたのだ。
「私が南妃をいただくのに上官の冬籟将軍に何もないとはいきますまい。私とて自分だけが妃を賜り、上官が独り身のままでは心苦しゅうございます」
卓瑛は大いに笑って了承し、後宮にいた沙月姫に知らせに来たときも上機嫌だった。
「なるほど璋伶が申すとおりだ。璋伶が南妃を下賜されるなら上官の冬籟にだって何かなければおかしい。そして南妃を下賜される部下の上司には皇后を下賜するのが妥当だろう。もちろん私は藍可を手放さないよ。沙月姫、貴女に皇后として毅国に降嫁してもらおう」
「それでいいかい?」と問われた沙月姫はその場で涙した。事情を知らぬ者は、西域から華都まで来てさらに北域に下げ渡される流浪の身を嘆いてのことと噂したが、もちろん冬籟に嫁ぐことができる嬉し涙であった。
そして毅が平定され、その毅王に下賜されるため西妃は皇后に立てられた。
檀上では冬籟が朗々と即位を宣言している。董での黒ずくめの服と違い、今の彼がまとう毅の伝統衣装は色彩豊かで豪華な毛織物だが、それに負けない堂々たる着こなしだ。
儀式が全て終わると跪いていた人々が感激した様子で次々と立ち上がり、天に向かって拳を突き上げ咆哮する。冬籟は檀上から彼らの歓呼の声に片手を上げて応え、落ち着いた頃にしっかりとした足取りで方檀を下りた。
そして今度は董の勅使と下賜妃達の床の下に歩み寄る。
高床上の董の勅使を見上げ、毅王が片膝をついた。勅使が毅王の礼を受けるために立ち上がるが、下賜妃達は椅子に座ったままだ。
冬籟が地上から床の上に立つ勅使に挨拶を述べる。
「毅王即位の儀に皇帝陛下が勅使を派遣して下さったことお礼申し上げる」
勅使が懐から御璽の押された勅書を取り出した。
「勅命をもって四神国毅王に封じる。北域の民のための治世を行い、天下を安寧せしめよ。また、過去における褒美であるとともに、未来への支えとして皇帝から妃を二人、毅に下賜する」
冬籟は「ありがたく頂戴いたします」と応え、そしてまだ檀上に座ったままの──高い床の上に座っている限りは皇后のままの──沙月姫に語りかけた。
「後宮の主、皇后陛下にお礼申し上げる。私の勝利は後宮の女君たちの協力があってこそのものですから。まずは皇后陛下もよくご存知の女商人白蘭に礼を伝えていただきたい」
冬籟は「皇后陛下もよくご存知の」の部分に力を込めた。
皇后沙月姫が周囲を憚って、当たりさわりのない返答を口にする。
「琥商人が珍しい品や未知の思想をもたらし、董の文化が豊かとなって勢いが増し、それで陛下も毅王をお助けできるように……」
冬籟がふっと面白そうに笑った。
「いやいや、そういうぼんやりした話ではなく。カネですよ、カネ」
どこかで聞いたことがある台詞の後、彼は続ける。
「北域討伐は白蘭が戦費の調達を一手に引き受けてくれたおかげで始められました」
北域討伐には蘇王と貴族達が強硬に反対した。そもそも彼らが毅国を崩壊させたのだから冬籟の復位など望まないのが当然である。
とはいえ、あからさまにそうは言えない。彼らは「辺境の蛮族の地など放っておけばいい」「前王は王の器でなかった。相応しい者が王になるべきだ」「いくら今上帝の『北妃』と呼ばれる寵臣だからといって、なぜ董の民から集めた税をつぎこんで前王の遺児を助けなければならないのか」などと言い立てた。
特に大きな問題は戦費の負担だった。卓瑛としてもその点は突かれると痛いところであり、彼は董の金銭的負担について「董の民からの税は一銭も使わない」と押し切った。
「西妃が戴家の白蘭という商人を連れて来た。一切の費用はこの商人に用立ててもらう」
反対派はこれで矛を収めた。戦費が国庫から強く反対はできず、また、一介の女商人が用立てられる額など知れていると高をくくったからだ。
毅王冬籟は董皇后に「白蘭」へ伝えて欲しいと頼む。
「琥商人白蘭が初期費用を貸し付けてくれたことで北域討伐に取り掛かることができました。切実に必要なときに投資してくれた白蘭には恩義を感じております」
「確かに白蘭に伝えましょう。ですが毅王からは既に返済を受けておりますので、どうぞお気になさらず」
冬籟は、帰順した者から彼らがかつて忽氏から受け取った金銀製品を召し上げ、それを女商人白蘭への返済にあてたのだ。
「ですが、白蘭に送った品は新たな形で我らの手に戻りましたので」
忽氏からの品を白蘭は鋳つぶして新たな意匠で別の製品にし、また北域に送った。再び冬籟のもとに集まった製品は西域の最新の流行を反映したものだ。それらを見れば、忽氏が昔にばらまいたものは自ずと古くさくて野暮ったいものに見えてしまう。
「財宝で人心を買っていた忽氏にはこれが大きな打撃となりました」
最終的には敵をも許す冬籟の度量の大きさが毅国統一の決め手になったとはいえ、白蘭からの新奇な品々が忽氏から人々を離反させる大きなきっかけとなったのも確かだった。
冬籟はそのことに礼を言い、これも返済すると言う。
「その対価は今後きっちり支払います。我々は物乞いではなく受けた恩は返しますから」
沙月姫は一礼し、そして言い添えた。
「後宮からは私や白蘭だけではなく、東妃のお力添えもございました」
「ええ、そうですな。東妃様が漣国との交易を後押しして下さった」
荒海を挟んだ董と漣は疎遠になりがちだが、東妃が仲立ちをしてくれた。ちょうど帰国の荷を整えている漣の使者に白蘭が売り込みをかけられるように取り計らってくれ、また、本来東妃としては大っぴらにできないことだが、公的な船便だけでなく私商船で董を訪れる商人達にも渡りをつけてくれた。
白蘭からも西域からの荷の中でも贅を尽くした品々を彼らに持たせた。駱駝の螺鈿細工の五弦琵琶や瑠璃杯など、後宮出入りの女商人白蘭が東妃とともに漣で珍重されそうなものを選び、それらの選りすぐりの品々はもくろみどおり漣の人々の心をつかむ。渡航は命がけでも「これだけのものを得られるのなら」と董にやってくる漣の船はぐっと増えた。
そこで白蘭は西域と董を往来する隊商の数を倍以上に増やした。仕入れ先も大きく広げこれまで以上に珍しい品をかきあつめる。
ザロが「ずいぶんと思い切りますな」とうめいたが、白蘭はこここそが商機だと確信していた。
皇后が華都にいる東妃の恩恵を語る。
「東西の交易が盛んとなったおかげで、琥商人は隊商を仕立てる費用以上に莫大な利益を得ました。東妃様のおかげです」
東西交易の隆盛にともない、交易税の額も増大した。董の民からではないこの税収もまた北域討伐に使うことを、卓瑛は貴族達に認めさせ、これも冬籟の戦費を大きく支えた。
一方で、交易税を払っても、白蘭の手元には巨万ともいえる額の富が集まった。
冬籟が「東西交易と言えば」と南妃にちらりと顔を向ける。
「昨今は董の沿岸を荒らしまわる海賊も壊滅したとか。海の憂いが消えたこと、これもまことに喜ばしい」
これは朱莉姫のおかげだ。蘇から巧みに情報をすい上げ、あらかじめ蘇と毅を行き来する船がいつどこを通過するかを把握した。そこを狙い撃ちにするから海賊の捕縛は一段とたやすくなったのだ。
とはいえそれは秘密の話であり、朱莉姫も冬籟と一瞬だけ目を合わせると、あとはそしらぬ顔をする。
こうして沿岸の海路が閉ざされても、蘇王は手を引かなかった。忽氏支援のために沿岸部から離れた外洋を船で北上しようとする。さすがに董としてもその取り締まりは難しい。
しぶとい蘇王は、自分がかつて忽氏に送った品物が時代遅れになったと知ると、新たに琥に品物を発注してきた。
──そして、それが女商人白蘭と蘇王との経済戦の始まりだった。
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