かりんとう!3

鮎崎浪人

かりんとう!3

                 一


 劇場のステージ中央の最前に、一人の少女がすっくと立っている。

 三百の座席を隙間なく埋め尽くした観客がその少女と対峙している。

 その少女、神希成魅かみき しげみは何ら気おくれする素振りも見せず、それどころか自分がその場の主役であると確信しきった傲慢とも受け取れる表情で、客席全体をゆっくりと見渡した。

 そして、左手を真上にピンと伸ばして視線を集めてから、

「みなさ~ん、大変長らくお待たせしました。

 それでは、みなさんがお待ちかねのアレをやります!」

 そう宣言すると、右手も頭上にかざし、両手でやや丸みを帯びた輪を作った。

「いいですか、『かりんとう』です。

 これ、やりますよ! 

 さっきも言いましたよね。

 みなさん、しっかり覚えてますよね?」

 神希はいったん両手を下ろして膝にピタリと添えた。

 そして、天井を突き抜けていくような真っ直ぐで混じりけのない澄んだ声音で高らかに叫んだ。

「せ~の、『かりんとう!』」


                二

 

 十月下旬のほどよい暖かさに包まれた土曜日の昼下がり。

 そんな穏やかな秋の一日に植木直樹は、東京の浅草に構えられたアイドルグループ「ネバーランド ガールズ」の専用劇場の公演の観覧に訪れていた。

 劇場に出没したコスプレ通り魔の事件以来、およそ二年ぶりである。

 あのときは、神希の単独公演だったが、今日は総勢十六人の少女たちが全力で圧巻のステージパフォーマンスを繰り広げていた。

 王道ともいえるかわいらしい楽曲はもちろんのこと、大人びた恋愛を表現したきわどい歌詞の楽曲あり、またロックテイストの激しい曲調と迫力あるダンスの楽曲もありで、ちょうど三百人を収容し、規模としてはライブハウスのような空間を所狭しとメンバーが躍動する姿に、アイドルにはうとく公演を観るのはまだ二回目という植木でさえも、思わず引き込まれてしまう。

 楽曲の合間の、自己紹介やお題に沿ったトークコーナーではテンポよくユーモアのある話術で会場は明るい笑いに包まれ、また、その話しぶりを通して、それぞれのメンバーの人となりがうかがえてくるのもとても興味深い。

 植木の席は最後列だったが、肉眼でもメンバーの表情や細かい動きをはっきりととらえられるほどの距離だから、その臨場感に飲み込まれて決して退屈することもなく、公演開始からアンコールが終了するまでの二時間があっという間だった。

 通常ならば、ここで終演となるが、本日はそうではない。

 メンバーがステージ裏に姿を消すと、会場内は暗転した。

 そして、待つこと三分ほど。

 再びステージに明かりが戻り、メンバーがステージの両袖から一人ずつ中央へと歩み出してくる。 

 事件は不意に起こった。

 右手から二番目に小走りで現れた一人の少女が、頬の上気した満面の笑みで中央近くに進んだとき、ふとステージのフロアに眼を移した。

 その瞬間、少女の顔は驚愕の表情に反転し、さらには虚ろな無表情へと変転、瞼がふっと閉じられ、魂を根こそぎ奪いとられたかのように、くなくなとその場に倒れ込んだ。

 周りにいたメンバーはあっけにとられてその場に凍りつき、観客も途方にくれて、それまで軽快に流れていた時間がぴたりと止まったような静寂に会場内は包まれた。

 数瞬の後、一人のメンバーの切迫した絶叫を皮切りに、ステージも客席も不用意に蜂の巣を刺激してしまったかのように騒然となった。


                三


 公演の開始前、植木はスタッフの一人の案内を受けて、劇場の楽屋に向かった。

 植木の叔父で劇場支配人でもある大関に会うためである。

 今回も植木を招待したのは、その大関であった。

 三日前、大関と浅草の屋台通りでもつ焼きを肴に酒を酌み交わした際、今日が非番で何の予定もなかったことを知った大関が彼を誘ってくれたのである。

 前回の訪問以来、アイドルに多少の関心を抱くようになっていた植木はその誘いに応じたのだった。

 楽屋のドアがスタッフによって開けられると、すでにリハーサルは終了したのだろう、本番前のいくばくかの緊張感をはらみながらも和やかな雰囲気が植木を出迎えた。

 だが、少女ばかりの部屋に通された植木は、すっかりその存在感に気圧されてしまったので、まず大関の姿を探して目をきょろきょろとさせたのだが、その視界の外からジャンプでいきなり飛び出してきたのは、神希だった。

「ああっ! 植木さん、久しぶりぃ~ 『ネバーランド ガールズ』で一番かわいくて面白い、植木さんの大好きな神希だよ~」

 挨拶のドサクサにまぎれて、とてつもない自信家ぶりを発揮しつつ、人懐こい笑みを浮かべながら神希は植木の目の前で左手を振る。

 日本とインドのハーフである彼女の、エキゾチックでありながらも和の造形が少し勝っているお人形さんのような端正な美貌が健在であることは植木も認めざるを得ないところだ。

 神希の屈託のない笑顔につられるように、植木もにっこりと微笑んで、

「ああ、久しぶり。元気そうだね」

「うん、いっつも元気! 今日の公演も全力でがんばりシゲ!」

 甲高い声を張り上げながら、神希はガッツポーズをとる。

 語尾に「~シゲ」をつけ足す、本人曰く「シゲ語」も交えて、本日も絶好調のようだ。

 そんな神希の姿に、楽屋に入った際のいささか張りつめていた気持ちもすっかりほぐれて、それゆえに、何の気なしにふと感じたことを口走ってしまった。

「この前に会ったときより、なんかふっくらしたかな?」

 その瞬間、満開に咲き誇っていた花びらが萎れてしまうまでを超高速カメラで撮影したかのように、急速に神希の笑顔は消え失せ、強張った無表情となった。

 しまった!やってしまった! 瞬時に植木は痛恨のミスを犯してしまったことを悟った。

 女性へ、しかも容姿を人一倍気にするに違いないアイドルへの言葉としては、禁句中の禁句だ。

「いえ、痩せたんスけど」

 抑揚のない口調で、低くそう返す神希。

 その 眼には、静かな憤怒が宿っている。

 植木は全身が硬直し、顔面がかっと熱くなった。

 なんとかフォローせねばと、焦って舌をもつれさせながら、言葉を絞り出す。

「う、うん。そ、そうだね。僕、なんか間違えて逆のこと、言っちゃったみたい。うんうん、痩せた痩せた、君は立派に痩せた」

 植木の必死の言葉はフォローになるどころか、ますます相手をいら立たせたようで、神希はプイと横を向いてしまった。

 すると隣にいたメンバーが、両手を口に添えてすかさず声をかける。

「神希さん、今日もビジュアル絶好調ですっ! 天使降臨ですっ!」

 それを聞いて、うんうんと強くうなずきながら、頬を緩ませる神希。

 またたく間に、気分が上昇したようで、植木はほっと胸をなでおろす。

 と、ノックの音が大きく響いてドアが開く。

 強面の四〇代の男性が室内に姿を現した。

 植木も顔見知りの鵜狩うかりという副支配人で、全国ツアーのための準備で二週間ほど日本全国を飛び回っていたことを早口でまくし立てた後、

「みんな、俺がいなくても、気を緩めずにやってたか? 特に、神希、お前のこと言ってるんだぞ」

「もちろんですよ~ わたしはいつも鵜狩さんの言いつけをしっかり守って・・・」と、へらへらとした口調で返す神希をさえぎって、

「あれ? 神希、しばらく見ないうちに、また太ったな」

 あまりにも単刀直入すぎる一言に、神木の表情はさきほどよりもさらに強張る。 

「いえ、痩せたんスけど」

 いら立ちをあらわに、そう言い返す神希。

 だが、鵜狩は相手の気持ちに一切無頓着な様子でさらに畳みかける。

「いいや、絶対に太ったよ。あれほどダイエットしろと忠告してやってるのに何度言えばわかるんだよ!」

「ぐぬぬ」

 神木は両手を前に突きだして、鵜狩につかみかからんばかりの勢い。

 さきほど神希を褒めちぎったメンバーが慌てて押しとどめる。

「まあまあ、神希さん、落ち着いて、落ち着いて。あんまり怒ると、公演のパフォーマンスに影響しますよ」

「ぐぐぐ」

 のどの奥で悔しそうにうなる神希。

 と、再びコンコンとノックの音。

 今度は、メンバーとその妹らしき幼稚園の制服を着た女の子が登場した。

「あ、シゲちゃんだ~」とうれしそうな声を上げながら、一目散にトコトコと走ってくる。

 どうやら神希をだいぶ慕っているらしい。

 その姿を目にした神希はすぐに明るい笑顔を取り戻して、しゃがんでその少女を待ち構える。

「久しぶり~ 元気だったかな~」

「うん、元気、元気」と言いながら神希に抱きついた少女は、ハッとしたようにまじまじと神希の顔を覗き込み、目をまん丸に見開いて、

「あれえ~、シゲちゃん太った~」

「・・・」

 まるで邪念のない正直過ぎる子どもの反応には、神希も怒りの矛先を向けようがなかった。

 笑顔は消滅し、悲しみに満ちた表情で立ちあがる神希。

 そして、トボトボと楽屋の隅っこへと退場していった。

 すると、神希の騒動が一段落するのを待ちかねていたように、さきほどから神希の少し後ろに立っていて、植木と何度か視線の合った少女が、好奇心をありありと浮かべながら声をかけてきた。

「植木さんって、浅草署の刑事さんですよね! 本物の刑事さんに会えるなんて、向日葵、うれしい~」

 どうやら大関から、植木が刑事という珍しい職に就いていることを聞かされていて、話しかけるタイミングを計っていたようだ。

 関西弁のイントネーションのこの少女は、「佐草向日葵さくさ ひまわり、大阪市出身の17歳です!」とはきはきと自己紹介してから、

「刑事さんって、普段はなにしてはるんですかー」

 向日葵も神希と同様に人懐こい笑顔で接してくる。

 すっきりとした卵型の面立ちで、背がすらりと高いモデル体型。

 ハムスターのように丸くてくりくりとしたそれほど大きくはない眼だが、瞳全体が自分を取り巻く世界への好奇心に溢れているかのようにキラキラと輝きを放っていた。

 世に悪意が存在することなど疑いすら抱いたこともないような、一点の曇りもない無邪気さをまとっている。

 向日葵は植木に向けて、矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。

 どうやったら刑事になれるのか? 拳銃を撃ったことはあるか? 死にそうな危険にあったことはあるか?などなど。 

 植木は最初、やや面倒に感じながらも律儀に答え、途中からは、植木の言葉ひとつひとつに素直な驚きを返す向日葵とのやり取りが楽しくなり始めたのだが、一方の向日葵はある時点から急速にリアクションが薄くなったかと思うと、ついには完全に興味を失ったような気の抜けた表情になって、最後にあっさりと「今日の公演、楽しんでくださいねー」という言葉を残して、仲間の輪の中に加わりに行った。

 多感な少女の移り気の早さをまざまざと味わって、なんだか寂しいような気分になった植木は苦笑を浮かべながら、ようやく大関と顔を合わせた。

 支配人の大関の説明によると、今回の公演は通常の演目に加えて、生誕祭が用意されているという。

 生誕祭というのは、メンバーの誕生日当日やその前後の公演の折に、通常の演目の後に行われる企画である。

 アンコール終了後、会場はいったん暗転するが、やがてステージ中央にスポットライトが射し、ひとりのメンバーが映し出されると、そのスポットライトを一身に浴びながら、この日のために自らが選んだ楽曲を披露する。

 その後、他のメンバーも現れて、観客と一緒にハッピーバースデイの大合唱で祝福。仲のいいメンバーや家族からの心のこもった手紙が読まれ、最後にメンバーがファンや仲間や家族、スタッフへの感謝や今後の抱負などを語って幕となる。

 そのような演出が施される生誕祭は、メンバーにとっても晴れ舞台とも言えるもので、本日の主役は大阪の元気娘、佐草向日葵だそうだ。

 植木が大関とそんな会話を続けているうちに、いつのまにか機嫌を直していた神希の独演会が始まっていて、周囲が聞いているかどうかもお構いなしに延々と喋り続けている。

 昨日オムライスを作っていたら油を投入しすぎて火が燃え盛り、危うく大惨事を招きかけたことや、さる夏の夜にゴキブリに出くわしたが家族が旅行で留守だったので一人でパニックに陥り、真夜中にもかかわらず電話でマネージャーを呼び出したことなど。

 その間、他のメンバーは、神希の大声を遮断する術を心得ているとみえて、それぞれ音楽を聴いたり、教科書を読んだり、ダンスの振りつけの確認をするなど思い思いの行動をとりながら、合間におざなりな相づちをうっている。

 耳を傾けているのは向日葵ぐらいだが、その向日葵もゴキブリのくだりでは両方の耳を塞いでいた。

 いつまでも終わる気配のない神希の演説だったが、ふと途切れた瞬間ができた。

 すると、その瞬間を待ちかねていたように、隅のテーブルで読書にふけっていた少女が意を決したように目を上げ、文庫本を置いてからすっくと立ち上がり、中央のテーブルを陣取っている神希に歩み寄って一言。

「神希さん、うるさいので、もうちょっと静かにしていただけませんか?」

 そう冷静に言い放ったのが、その大人びて落ち着いた物腰とは裏腹に、身長は恐らく百五十㎝にも満たない小柄でか細い少女だったので、植木は少し驚いた。

 やや目じりの下がった切れ長の目に柔和な顔立ちをしているが、きっと結ばれた唇には芯の強さが秘められている。

 病的なまでに白く透き通っている雪肌が、みずみずしくきらめいていた。

 その身長から想像されるように中学生くらいかと植木はまず思ったが、純和風の整った顔の造りには一人の女性としての成熟さも見てとれるようで、植木は彼女の年齢を推し量りかねた。

 後で大関に聞いてみて、彼女、土唯萌香どい もえかが、加入は神希より二年ほど遅いものの、同じく十八歳だと知って、植木は対照的な二人の性格にしみじみと感慨を覚えたものである。

 さて、面と向かって非難された神希だが、彼女のことだから負けずに言い返すものと思いこんでいた植木は、神希が唇をすぼめ、うつむいてションボリとした表情を見せたのには意外の念に打たれた。

 どうやら、神希成魅、日頃はグイグイと相手に攻め込むくせに、防御に転じるとからきし弱いらしい。

「萌香ちゃん、ゴメンね」と素直に頭を下げる神希。

 だが、気持ちの切り替えが怖ろしく早いらしく、顔を上げたときには、気を取り直したようにいつもの自信満々の神希に戻っていた。

「でも、萌香ちゃん、そんなこと言っても、実はわたしのトークを楽しみにしてるくせに~  もぉ~、わかってるんだから~」と、神希は左手で萌香の肩を勢いよく叩きかけて、ふと慌てたようにその手を引っ込めた。

 そのとき、楽屋のドアが開いて、植木をさきほど案内してくれた男性スタッフが顔をのぞかせ、「本番まで十五分です」と告げた。

 その言葉を潮に、植木は大関の元を離れて客席に向かった。


                 四


 公演は定刻を二分ほど経過してから開始された。

 まず十六人全員で四曲続けて披露した後、一人ずつ自己紹介を行い、その次は「ユニット」と呼ばれる二人~六人での組み合わせによるパフォーマンスへと続いていく。

 萌香と向日葵、そして神希は、それぞれのユニットのセンターポジションを務めていた。

 萌香の楽曲は、「see you again  また来てagain」。

 恋に破れた少女がそれでも断ちきれない想いを抱えている姿を表現した歌詞で、ピアノの旋律が効果的に配された切ないメロディーは、もう十年ほど前に青春が過ぎ去った植木の胸をも切ない気持ちに誘った。

 一方、向日葵が披露したのは、「これって不思議やねん」。

 まだ大人の扉を開ける前の少女が、日常で感じた不思議を次々に挙げていく歌詞で、宇宙の端っこはどうなっているの? 右利きの人は何で多いの? 月曜日はなんで月曜日っていうの?など次々と素朴な疑問が投げかけられていく。

 電子音を強調したテクノポップ風の明るい曲調が耳に中毒性をもたらし、植木はなにかしら自然と心が浮き立っていた。

 そして、両脇に二人を従えて神希の登場。

 曲名は「栄光の日々」。

 アイドル曲の王道ともいえる青春を描いた歌詞だが、これまでの二曲とはがらりと趣きが変わっていた。

 青春特有の甘酸っぱさやほろ苦さなどは微塵もなく、自分には生まれてきた意味があるはずだと思いながらも、それが見いだせずに鬱屈した日常を送っているという内容には悲壮感が漂う。

 それでも、もがきながら歩き続けることで、いつか自分にも輝くときが来るはずという力強い意志も込められていた。

 楽曲の世界観を体現する、確かな歌唱力と抑揚の利いたダンスに裏打ちされた神希の圧倒的なパフォーマンスに、植木の肌は我知らず粟立つ。

 植木にとっておちゃらけた印象の強い神希の歌手としての姿に、軽い衝撃を覚えたのだった。

 そんなユニットによる三者三様のパフォーマンスが終わると、今度はメンバー数名によるトークコーナーに移る。

 この日のお題は「してみたい恋愛について」。

 とはいえ、そこは清純がウリなアイドルのこと、少女漫画や恋愛映画のストーリーをもとに、理想のデートやファーストキスについてワイワイとガールズトークを展開するという、ファンにとって極めて穏当な内容だったのだが、「はい、は~い! わたしにもしゃべらせて~」と神希が口火を切ってからは、さきほどの見事なパフォーマンスはどこへやら、突如として雲行きが怪しくなる。

「弟とかお兄ちゃんとかに恋心を持っちゃう、みたいなストーリーってドキドキしない?」

「あ~神希さん、それ、わかります。

 でも実は、お互い血のつながらない者同士で、みたいなやつですよね?」

「ううん、実の兄妹との禁断の恋ってやつでさ~」

「・・・ そ、そうだ、担任の先生とかを好きになっちゃうってパターンってグッときません?」

「くるくるっ!」

「ですよね! 大学を卒業したばかりの新任の先生で・・・」

「ううん、ちがうちがう! 四十代で人生にちょっと疲れちゃった、奥さんと二人の娘のいる先生との不倫でさ~」

「・・・ま、漫画とか映画もいいんですけど、最近すごくキュンキュンしちゃう動画を見つけて・・・」

「わかるわかる! 気づいたら、けっこう夜中まで色んなの見ちゃうよね~」

「そ~なんです! この間も学園祭で好きな女子に公開告白するっていう・・・」

「あ、そうそう! わたし、ちょっと前に十八歳になったじゃない? 

 だから、前から気になってた動画を見たんだけどさ~ それが人妻ものだったんだけど、うぷぷっ」

 たまりかねたメンバーがついに神希の口をふさぐ。

 他のメンバー二人が神希の両腕を取り押さえた。

 顔を左右に揺さぶって激しく抗う神希。

「ぷはーっ。それでクリックしたら爆弾が画面に現れて、うぷっ」

「もう、なにも言わないでっ!」

「十万円、払ってくださいってメッセージが出て、うぷぷ」

「今日はここまでで~す」と司会役のメンバーが慌ただしく告げると、三人がかりで神希を斜め後方に引っ張っていく。

 全身を突っ張らせた神希の必死の抵抗も虚しく、ずるずると引きずられるようにして、やがて右手袖へとその姿は消えていったのだった。

 当然ながら、重苦しく静まり返る会場。

 神希の独壇場ではあったが、観客は無論のこと、普段から神希の突飛な言動には慣れているはずの他のメンバーをも遠く置き去りにしてしまったトークコーナーは唐突に終了し、仕切り直しには絶妙のタイミングで公演は休憩時間へ。

 その間を利用してトイレへ立った植木が戻ってくると、最後列の彼の席にB5版の冊子が置かれているのに気づいた。

 手に取って表紙に目をやると、向日葵の屈託のない笑顔の写真のアップが植木を出迎えた。

 その顔の下には、黄色のゴシック体で「佐草向日葵 生誕祭」とある。

 表紙をめくると見開き2ページにわたり、SNSや公式サイトに載せられたものであろう向日葵の様々な写真がちりばめられ、プロフィールやここ一年間の活動内容が要領よくまとめられていた。

 最後の4ページ目には、生誕祭実行委員からとして、生誕祭が始まったときに観客から「おめでとう」をいうタイミングや、ペンライトを持っている場合は向日葵のフェイバリットカラーである黄色にセットして「ハッピーバースデー」の曲に合わせて振ることなど、生誕祭を観る上での細かい指示が書かれている。

 さらに続けて、「本日は、佐草向日葵の十七歳の生誕祭です。向日葵さんにとって、また皆様方にとりましても素敵な時間を過ごせますように、なにとぞご協力のほどをお願いいたします」とあった。

 ページの下部の余白には、「これからも応援よろしくね♡」というメッセージとともに、向日葵のサインが添えられている。

 植木が一通り読み終えて冊子から視線を外すと、そのときを待ちかねていたように、右隣の観客が声をかけてきた。

 植木と同年代の二十代後半と思われる男性で、白地に黒色で「TEAM 向日葵」と大きく胸に書かれたTシャツを着ている。

「この劇場は初めてですか?」

「いえ、初めてではないですが、まだ二回目です」

 植木がそう答えると、男性はさもありなんという風にうなずいている。

 植木が着席してからの挙措をそれとなく見ていて常連ではないと判断したのだろう。

「向日葵さんのファンの方ですか?」

 植木が水を向けると、愛想よく微笑んで「もちろんです」と応じた。

 そして、自分は本日の生誕祭の実行委員であると付け加えた。

 実行委員とはファンの有志の集まりで、その活動内容は、劇場ロビーにお祝いのフラワースタンドを設置したり、冊子に書かれていたように客席からの応援を演出したり、またファンからバースデーメッセージを集めて記念品と一緒にメンバーに渡したりといったもので、冊子の作成もその活動の一環だそうだ。

「これ、向日葵さんのサインですよね?」

「そうなんです!」と相手は我が意を得たりとばかりに歓びの表情を浮かべて、

「ダメでも仕方ないと思って、運営サイドに頼んでみたら、向日葵がOKしてくれて。向日葵の直筆メッセージ&サインが入った、きっかり三〇〇冊限定のレアものですよ。

 一冊一冊書いてくれたんです」

「それはうれしいでしょうね」

「ええ、ファン思いのとてもいい子なんです。

 だから、この後の生誕祭も必ず盛り上げてあげたいんです。ぜひとも、よろしくお願いします」

 実行委員氏はぺこりと頭を下げた。

「わかりましたよ。ペンライトは持っていませんが僕も協力しますよ」と植木は確約してから、冊子を指さして「ここに詳しく書いてありますしね。それに、丁寧にお願いの言葉もある。それにしても、随分と低姿勢なんですね」

 すると実行委員氏は若干の苦笑いになった。

「まあ、正直に言って、生誕祭を迎えるメンバーのファンばかり会場に入っているわけじゃないですからね。

 でも、僕らとしては、向日葵のファンじゃない方にも一緒に祝福してもらいたいですから」

「ファンの世界も色々と気をつかうんですねえ。

 じゃあ、面と向かって冊子を受け取るのを拒否したりする人なんているんですか?」

「さすがに、そんな人はいませんでしたよ。あっ」との声に植木がステージに向き直ると、向日葵と神希の二人がステージ左手から登場したところだった。

 向日葵がまず客席に呼びかけた。

「みなさ~ん、みなさん全員戻ってきましたね。

 実は今まで秘密だったんですけど、今日は特別に、生誕祭の前に、完成したばかりの新曲のMVを初披露しま~す」

 客席から大きな拍手が起こる。

 それが静まるのを待って、続けて向日葵が、

「もちろん、それも楽しみにしてほしいんですけど、その後の向日葵の生誕祭も盛り上がっていきたいので、みなさん、よろしくお願いしま~す」

「は~い」と客席からお行儀の良い返事。

 次に神希が口を開く。

「みなさ~ん。生誕祭の後に、最後に『かりんとう!』を今日もやりますから、よろしくお願いしますね~」

「かりんとう!」とは、神希の「浅草の和菓子屋の娘がアイドルになりました」という自己紹介とセットになっているポーズである。

 公演の終了後、メンバー全員が思い思いにステージを回りながら観客に手を振って去るときにも、最後まで残っていた神希が「かりんとう!」を観客と一緒にするのが、彼女が強引に始めたものの公演を締めくくる恒例行事として定着していて、ファンからもそれなりに好意をもって迎えられていると実行委員氏が教えてくれた。

「ねえねえ、神希さん。今日は向日葵の生誕祭だから、『かりんとう!』だけじゃなくて、向日葵バージョンで、『通天閣!』ってやりたいんですけど~」と大阪市出身の向日葵が投げかける。

「いいよ~」と神希。

「じゃあ、最初に神希さんが『かりんとう!』って言っても、みんなノーリアクションで~」

「え?そうなの?めっちゃ、かなシゲ~」

「その後、向日葵が『通天閣!』ってやったら、全員で『かりんとう!』と同じポーズをするっていうのはどうですか?」

「うん、わかった。今日は向日葵の生誕祭だもんね。みなさんもわかりましたね~ お願いしま~す」

「は~い」と再び客席からお行儀の良い返事。

 それを見届けて、二人がステージの裏手に消えると、すぐにパフォーマンスが再開された。

 間に二度目のトークコーナーを挟み、後半のユニットが三曲、十六人全員でも三曲を披露。

 本編はここで終了し、観客からの熱いアンコールの声援を受けて、さらに二曲を披露した。

 そして、非常灯のわずかな明かりを残して、劇場は暗闇に包まれた。

 三分ほど経過すると、再びステージにまぶしいほどの光が戻る。

 ステージの正面後方には、MVを映すための大スクリーンが天井から吊るされていた。

 ステージの両袖から、メンバーが一人ずつ中央へと歩み出してくる。 

 右手から二番目に向日葵が小走りで現れ、頬の上気した満面の笑みで中央近くに進んだとき、ふとステージのフロアに眼を移した。

 その瞬間、向日葵の顔は驚愕の表情に反転し、さらには虚ろな無表情へと変転、瞼がふっと閉じられ、魂を根こそぎ奪いとられたかのように、くなくなとその場に倒れ込んだ。

 周りにいたメンバーはあっけにとられてその場に凍りつき、観客も途方にくれて、それまで軽快に流れていた時間がぴたりと止まったような静寂に会場内は包まれた。

 数瞬の後、一人のメンバーの切迫した絶叫を皮切りに、ステージも客席も不用意に蜂の巣を刺激してしまったかのように騒然となった。


                 五


 失神した向日葵はメンバー二人に支えられて、ステージ裏手の医務室へと運ばれ、公演はもちろん休止状態となった。

 植木と支配人の大関は、医務室に隣接している事務室のソファに応接テーブルをはさんで腰を下ろしていた。

「今日の公演は抽選倍率も高くて満席なんだよ。

 向日葵も生誕祭をほんとに楽しみにしてたのに… 

 彼女はこのグループでただ一人の大阪出身で、お母さんと二人で上京してきてほんとにがんばってる子なんだ。

 それなのに、こんな事件が起きちまって・・・」

 大関は、応接テーブルの上をいまいましげに睨みつけた。

 そこには、二匹のゴキブリ。

 正確には、本物そっくりのいたずらグッズで、さきほどステージのほぼ中央のフロアから回収してきたものだ。

 幼少期に、家族に追い回されたゴキブリが向日葵に向かって飛んで来て、あっけにとられた向日葵の口中に突入したことがあったそうで、それ以来、彼女は極度のゴキブリ恐怖症となってしまった。

 そのエピソードは冗談交じりに語られることもあり、ファンには周知の事実であるので、犯人は向日葵を標的として狙ったものに違いないと大関は語った。

 卑劣で悪質な悪戯である。

 向日葵も自らの生誕祭を控えた高揚感で気持ちが開放されていただろうから、そのことが災いして、不意打ちに対して無防備になってしまったのだろう。

 では、憎むべき犯人は誰かとなると、これはなかなかの難問だった。

 アンコールが終了すると、劇場内は非常灯の明かりのみで暗闇が支配していた。

 その時間を利用して、犯人は客席からステージに向かって、ゴム製のゴキブリを投げたのだ。

 ステージから植木が座っていた最後列の座席までは二十mほどしかないから、どの席からでもステージは射程圏内。

 これでは、どの瞬間にどこから投げられたのかを判別することはできない。

 また、入場の際、金属探知器によるチェックが設けられているため携帯電話などの金属機器は会場への持ち込みはできないが、ゴム製のおもちゃであれば、犯人は衣服のポケットに隠すなどして容易にそれが可能となる。

「向日葵ちゃん、大丈夫ですか?」

 入室してきた神希の、医務室に目をやりながらの気づかわしげな第一声だった。

 さきほどの楽屋では、向日葵を前に散々ゴキブリの話をして怖がらせ、その様子を見て愉快そうにしていたのだが、今はそのゴキブリによる嫌がらせで気を失った後輩を心の底から心配している様子だ。

 後輩を加虐的にからかったと思えば、後輩思いの一面も垣間見せる。

 大いに矛盾しているようだが、どちらも神希の嘘偽りのない姿なのだろう。

「ああ、今は意識を取り戻して落ち着いている。もう少しの間、医務室のベッドで休むように言ってある」

 そう大関が穏やかに答えると、神希は安堵の表情で医務室から目を離したが、こちらに向き直ったときには不動明王のような憤激の顔に豹変して雄叫びを上げるように、

「誰じゃあああ!こんな卑怯な真似をする奴はあああ! ぜぇったいに許さない!」

 そんな仁王立ちの神希の姿に、植木はまるで怒りの矛先が自分に向けられているかのようにドギマギした。

 犯人を見つける手立てがまるで思いつかない負い目からだ。

 犯人は、暗がりを利用し、周囲の視線に注意しながら、客席におもちゃを投げたのであろう。

 2回投げただけであれば、周囲には気づかれずに実行することも可能だろう。

 観客全員に訊ねてみれば、もしかしたら、隣に座っていた人物が不審な動きをしたなどと申し出る者もいるかもしれない。

 だが、その人物が、手は動かしたけどおもちゃを投げていないとしらばくれれば、例えばメンバーを応援するための手の動きを練習していたと言い張れば、それ以上の追及はできない。

 植木は神希が発散する熱気から逃げるように、傍らのテーブルに目をそらした。

 応接用にもかかわらず雑多な書類で散らかっていたが、その中から裏返しに置かれていた見覚えのある冊子を見つけて手にしてみると、植木のものとは異なり、「今日の生誕祭、一緒に楽しもうね!」とのメッセージとサインが添えられていた。

 植木の真向かいに座っていた大関がそんな様子にちらと目をとめ、

「それ、直樹君も休憩時間中に貰っただろう? 

 生誕祭の実行委員が作ったものだよ。こちらで許可して、303冊、印刷するように指定したんだ。

 それは、見本としてこちらに提出してもらったものだな」

 そう言い置いて、そわそわと再び医務室へ向日葵の様子を見にいった。

「へええ、それ、お客さんに配られたものなんですか?」 

 神希が近寄ってきたので、植木は手渡した。

「ふうん、手作り感があっていいなあ。わたしも生誕祭のときには、こういうの、作ってほしいなあ」

 と、冊子の最後のページを眺めていた神希の目が鋭く細められた。

 そして、数秒間、宙に視線を定めてなにか思案するふうだったが、やがてニヤリと笑みをもらす。

「どうしたの?」との植木の問いに、神希はニコニコと満面の笑みを浮かべて、「それでは、『かりんとう!』、やってきまーす!」と左手を真っ直ぐに上げて宣言した。

 途端に、植木は既視感に見舞われた。

「え? 『かりんとう!』? また、やるの?」

「そうですよ。『かりんとう!』をやるんです!」

 以前に植木が遭遇した通り魔事件のとき、容疑者一同と神希が一緒に「かりんとう!」のポーズをすることによって、驚くべきことに犯人があぶりだされたのだった。

 そのポーズは大勢の容疑者から一気に犯人を絞り込み、また極度の目立ちたがり屋の神希の大いなる自己顕示欲をも満たすという、いわば一石二鳥のパフォーマンスである。

 その通り魔と同様に、そのしばらく後で出没した盗撮魔の正体もまた、神希の「かりんとう!」があぶりだしたと植木は大関から伝え聞いてはいたが…

「それで、事件は解決するの?」

「それは、見てのお楽しみ!」

 そう言い捨てて、神希は悠然と事務室を後にした。

 植木と、植木が医務室から呼び戻した大関も慌ててその後を追う。

 神希は堂々と自信に満ちた足取りでステージへ向かった。

 後に続く植木が楽屋の前を通り過ぎたとき、スタッフらしき男性の二人組が、何事かを話し合いながらそのドアから出てきた。

「あ、そうそう、向日葵と萌香の期間限定のユニットのことなんだけど」

「ああ、『フェアリー キッス』ですね」

「うん。この前、ユニットを宣伝するポスターをバックに二人を撮影しただろ?」

「ええ」

「あれ、ポスターが全部入りきれなくて、『ェアリー キッス』になってたぞ」

「あ~はいはい、だから撮りなおしました」

んだな?」

「はい」

 植木の十歩ほど先を行く神希がぴたりと立ち止まった。

 そして、素早くくるりと振り向いて、

「いえ、痩せたんスけど」

 仏頂面を受かべながら、硬い大声でそう言い放つ。

 スタッフ二人はなんのことやらわからず、ポカンと口を開けたままキョトンとするばかり。

 その様子にイラついたのか、肩を怒らせながらずんずんと通路を引き返してくる神希が植木の前に到達したところで、植木は彼女をなんとか押しとどめた。

「まあまあ、神希。そのことは後にしようよ、ね。

 今は『かりんとう!』をやるのが最優先じゃない?」

「ええ、ええ、そうですとも」

 いかにもしぶしぶといった仕草で、またステージへと向かい直す神希。

 切り替えの早さはさすがというべきか、ステージ中央の最前に立った神希は、観客を前にしてニッコリと微笑んだ。

 その様子を舞台の右手袖から、植木と大関は心配そうに見守っている。

 三〇〇人の観客とたった一人で対峙している神希は、何ら気おくれする素振りも見せず、それどころか自分がその場の主役であると確信しきった傲慢とも受け取れる表情で、客席全体をゆっくりと見渡した。

 そして、左手を真上にピンと伸ばして視線を集めてから、

「みなさ~ん、大変長らくお待たせしました。

 それでは、みなさんがお待ちかねのアレをやります!」

 そう宣言すると、右手も頭上にかざし、両手でやや丸みを帯びた輪を作った。

「いいですか、『かりんとう』です。これ、やりますよ! さっきも言いましたよね。

 みなさん、しっかり覚えてますよね?」

 神希はいったん両手を下ろして膝にピタリと添えた。

 そして、天井を突き抜けていくような真っ直ぐで混じりけのない澄んだ声音で高らかに叫んだ。

「せ~の、『かりんとう!』」

 その掛け声に合わせて、すべての観客席から両手が上げられ、「かりんとう!」の大合唱が起きる、と思いきや、前方の席でたった2本の腕が上がり、たった一人の「かりんとう!」という声が妙に間延びして虚ろに響いた。

 当の神希でさえも、両手を膝にそろえて固定したままでいる。

 両手を上げたまま、きょろきょろと周囲をうかがうその男。

 神希はステージ上から男を真っ直ぐビシッと指さして、「あなたが犯人です!」と断じる。

 そう名指しされた男は、ぎょっとしたように肩を震わせ、神希の凝視から逃れるように両手をそろそろと下ろしてうつむいた。

 その姿を見て、神希が追い打ちをかける。

「あえて向日葵の生誕祭を狙って、あくどい嫌がらせをしかけるゲス野郎! お前のようなクズは、この世から消えてしまえ!」

 そんな罵詈雑言を叩きつけられても、じっとうなだれていた男だったが、不意に変化が訪れた。

 十列目の通路側の席を占めていた、百八十㎝前後はあろうかと思われる長身でやや肥満気味のその男がさっと立ち上がり、ステージに向かって通路を駆けだしたのだ。

 瞬時のことで周囲の観客は動きだすタイミングを逸した。

 男が早くも三列目まで到達したあたりで、ようやく我に返った植木は神希を守るべくステージに走り出した。

 その間にも顔を紅潮させた男は、「そうだっ! オレ様の仕業だよっ!」と怒号を投げつけながら、体格のわりには身軽にステージへと飛びあがり、神希めがけて突進していく。

 しまった、間に合わない!

 そう悟った植木の視線が、舞台左手からいつの間にか飛び出してきていた小柄な少女の姿をとらえた。

 その少女、土唯萌香は、神希をかばうように、男の前に素早く立ちはだかる。

 大柄なその男は躊躇する気配もみせず、なにやら奇声を発しながら、のしかかるように萌香に襲いかかった。

「あぶない!」と神希の叫び。

 凶漢の右手が萌香の左手をグイッとつかむ。

 次の瞬間。

 半身に構えていた萌香は、つかまれた左腕の手のひらをパッと開いた。

 すると襲撃者の腕の勢いが一瞬弱まる。

 その隙をついて萌香は、すかさず右手で男の右手首をとらえると、ツーステップで自らの身体を反転させ、そのまま相手の身体を巻き込むように腰をひねる。

 その動きに合わせるように大男は空中で回転しながら、ズド~ンと派手な音を立ててステージのフロアに仰向きに叩きつけられた。

 頭を強打したらしい卑劣漢は目を閉じて、ぴくりとも動かない。

 まさしく瞬きをする間もないほどの出来事だった。

「だから、『あぶない!』って言ったでしょ。萌香は少林寺拳法の有段者なんだから」と憐れむように神希。

 あまりの衝撃に呆けたように立ち尽くす植木。

 そんな彼に、萌香は童女のような愛らしい笑みで語りかけた。

「龍華拳の巻小手、わたしの得意技なんです」


                 六

 

 植木と二人の男性スタッフによって事務室に拘引された男の名前は、免許証の記載によると千葉県印西市在住の西川安男、三十五歳。

 本人の証言によれば、二十四時間営業の飲食チューン店で店長を務めているという。妻子はなし。

 植木の訊問に対し、黙秘権を行使するとでもいうように当初は口を固くつぐんでいた西川だったが、しばらくして悪戯を仕掛けた張本人であることを自供した。

 まんまと神希の挑発に乗って「そうだっ! オレ様の仕業だよっ!」と絶叫しながら彼女を襲おうとしたことからしても、もはや言い逃れる術はなかったのである。

 動機は簡潔に語られたが、とても植木が理解できるような代物ではなかった。

 本人曰く「いつも明るくて元気な向日葵が『ウザかった』から」

 どういう理由があるのか植木には知る由もないが、結果的に歪みきってしまった精神の持ち主にとって、向日葵の発散する純粋無垢なオーラは眩しすぎたに違いない。

 植木の報を受けて駆けつけた浅草署員によって、西川は劇場を退去した。

 今後は、威力業務妨害罪での立件を検討することとなるだろう。

 植木が西川を聴取している間に公演は再開され、無事に生誕祭まで終了し幕となった。

 さきほど植木が廊下ですれ違った向日葵には、憂鬱な梅雨に耐え忍んで待ちに待った夏が訪れたかのように、持ち前の笑顔が咲き誇っていた。

 植木は、公演を終えてひと段落した神希と事務室のソファに座って、お互いに向かいあった。

「二度あることは三度ある。

 君の『かりんとう!』によって、確かに事件は解決した、それは間違いない。

 だが、一体、何がどうなって、こうなったんだ? 

 僕には、さっぱりわけがわからない。ちゃんと説明してくれよ」

 植木は我ながら情けないとは思いながらも、通り魔事件のときと似たようなセリフを口にするしかなかった。

「きっかけは」と神希は語り始めた。「向日葵の直筆メッセージ&サイン入りの冊子でした。

 直筆メッセージ&サイン入りの冊子はちょうど三百冊ありました。

 わたしはさっき楽屋で、そのことを向日葵から聞きましたけど、植木さんは知っていましたか?」

「うん」と植木はうなずいた。

 さきほどの公演の休憩中に、植木は実行委員氏からそのことを耳にしている。

「ただし、大関さんの話によれば、実行委員には、見本を含めて全部で三百三冊の印刷を指示したとのことですよね?」

「うん」と再び植木はうなずく。

「さて、三百三冊のうち、直筆メッセージ&サイン入りの三百冊はお客さんのために用意されたもの。

 このことは、この劇場の収容人数が三百人であることからも明らかです。

 従って、残りの三冊は、見本として運営側に提出されたものということになります。見本であるからには、当然のことながら、直筆メッセージ&サインはありません。

 さらに、大関さんの言葉によれば、本日は満席だったということなので、直筆メッセージ&サイン入りの三〇〇冊はすべてお客さんに配られ、残りの直筆メッセージ&サインなしの三冊が運営の手元にあるすべてのはず。

 そうですよね? 

 にもかかわらず」と言いながら神希は、応接テーブルに置かれていて、さきほど植木が目を通した冊子を取り上げ、その裏面を植木に掲げる。

?」

 ページの下部には、「今日の生誕祭、一緒に楽しもうね!」という向日葵の直筆メッセージとサイン。

 それを目にした植木の頭は一瞬真っ白になったが、

「え? あっそうか、そう言われてみれば確かに変だな。

 冊子が配られたときに、仮にお客さんがたまたま席を外していたとしても、僕のときみたいに椅子の上に冊子を置いとけばいいわけだろう? 

 受け取るのを面と向かって断った人はいないと実行委員の男性は言っていたし、ならば全部配れたはずだもんな」

「ええ。でも、現にサイン入りのものがここに一冊、余っている以上、こう結論せざるをえないんです。

 のだと。

 つまり、今ここにあるものは、大関さんの言うように運営に提出されたものではなく、お客さんに配れなかったものをスタッフさんが回収したものだったんです。

 直筆メッセージ入りのサインとなれば、それは商品として価値があるものですから、やはり運営側としては厳重に管理しなければならないですから。

 まあ、大関さんは勘違いをしていたことになるわけですけど、それについては仕方のないことでしょうね。

 満席である以上、冊子はすべて配られたと考えても無理はないですし、直筆のメッセージやサインを目にすれば勘違いに気づいたのでしょうけど、そうした機会もなかったのです。

 あの場面を思い出していただきたいのですが、植木さんはに置かれていた冊子を手に取ったのですから、植木さんのに座っていた大関さんにはが見えていた。

 そして、その後すぐに大関さんは医務室へ向かうためにその場を離れてしまいましたからね」

「しかし」と植木は首をかしげる。「会場が満席であることが事実ならば、そして受け取るのを断った人がいないなら、直筆メッセージ&サイン入りの冊子が余るはずはないんだけどな…」

「その表現は正確ではないですね」と神希。「その実行委員さんは『』断った人はいないと言ったんですよね?」

「うん、そうだけど、たいした違いではないだろう?」

「そうでしょうか? 

 植木さんはご存知ないかもしれませんが、アイドルのファンには色んな人たちがいるんです。

 今日は向日葵の生誕祭ですけど、みんながみんな、向日葵のファンではないことくらい、植木さんにも想像はつくでしょう?

 あるメンバーの熱狂的なファンがいるとすれば、その反動でそのファンは自分が応援しているメンバー以外には厳しい見方をしているかもしれない。

 いくら同じグループを応援しているといっても、その思いは人それぞれです。

 だから、ファン同士でも、お互いに気をつかわなければならないんですね」

「ああ、そのようだね」

 それはあの実行委員氏も口にしていたことだ。

 植木にも多少は理解できる。

「そこでです、実行委員さんが冊子を配っているときに、面と向かって断られなくても、『ああ、この人は受け取りたくないんだな』と感じ取って配るのをやめる。

 そんなケースもあるに違いないと、わたしは考えたんです」

「というと、それはどういう?」

「言葉では拒否をしなくても、態度にはっきりとそれが表れているように思える場合です」

「つまり、無言のうちに態度で示している?」

「ええ、そうです。

 では具体的に言いましょう。

 それは、、そんな場合です。

 例えば、その人物が腕を組んで、目を閉じていたなら? 

 その姿は威圧的に見えるでしょうね。

『ああ、この人は受け取りたくないんだな』と実行委員さんが冊子の配布をためらっても無理はありません」

 なるほど、そういうことはあるかもしれないと植木は思った。

 そういった姿勢を目の当たりにすれば、受け取りを頑強に拒否していると見えなくもない。

「その人物は目を閉じていた。

 このことから、さらにどんなことが考えられるでしょう? 

 といっても、とっても単純なことです。

 実行委員さんは目が閉じられていたことを無言の拒否と考えた。

 けれども、実際はそうではなかったのではないか。

 意識的に目を閉じていたわけではなく、のではないか」

 そうだろうか? 

 植木には推論が少々飛躍しているように思えたので、言葉は返さなかった。

 すると神希は、別の話を始める。

「では次に、犯人の属性について考えてみましょう。

 わたしは、今回の事件が起きたときに、真っ先に疑問に思ったことがありました。

 それは事件が起こったタイミングです」

「タイミング?」

「ええ、あの事件が起こったのは、アンコールが終わって、MVを鑑賞するコーナーに移ったときです。

 アンコール終了後の暗闇を利用して、犯人は悪戯を仕掛けたわけですけれど、でも、それって変だと思いませんか?」

「変?って、どこが?」

「だって、MV

 

 MVMV

 MV?」

「あ」と植木は間の抜けた声を発していた。

 言われてみれば当然だ。

 植木は公演が始まる前の楽屋で、生誕祭の演出について大関から聞かされていた。

「そうです、結論は、ひとつしかありません。

 のです。

 だから、アンコールの後にMV鑑賞のコーナーがあることを知らず、通常どおり生誕祭が始まるものと勘違いしていたんです。

 わたしと向日葵は、全員が席に座っているのを確認してからステージに出ていきました。

 にもかかわらず、わたしたちの話を聞いていなかったのであれば、この会場内にはスマホの持ち込みが禁止されているので音楽など、わたしたちの声を遮断するものがない以上、のだと結論せざるをえませんでした。

 毎日の仕事が激務だったのか、あるいは普段から不規則な生活を続けていてちょうど眠くなる時間帯だったのか、はたまた睡眠障害を抱えていたのか。

 残念ながら、確かなことは言えないのですけど」

「だけど…」と植木が口をはさみかけるのを、すぐさま「もっとも」という言葉で神希はさえぎって、

「可能性としては、犯人は周囲の誰かとの会話でわたしたちの話を聞いていなかった、あるいは、誰とも会話をしていないが意識がどこか別のところに飛んでいて、わたしたちの言葉が耳に入ってこなかった、ということもなくはありません。

 しかし、密閉された空間で、わたしたちのパフォーマンスが場を支配しているともいえる中、たとえ周囲の誰かと会話をしていたとしても、まったくわたしたちの話が聞こえないほど会話に夢中になることは考えにくいし、また意識がどこかしらに移っていたとしても、いわばこの場の中心にいるわたしたちの声がまるで耳に届かないということも考えにくい。

 やはり、可能性が最も高いと考えざるをえないのです。

 一方、さきほど説明したとおり、直筆メッセージ&サイン入りの冊子を受け取らなかった人物も眠っていた可能性が考えられる。

 つまり、回収された直筆メッセージ&サイン入りの冊子から導かれた推論と犯人の行動に関する推論が一致したわけで、このことが単なる偶然だとは、わたしにはとても思えなかったんです。

 だから、冊子を受け取らなかった唯一の人物こそが犯人に違いないとわたしは結論したんです。

 そして」と、ここぞとばかりに神希は語調を強めた。

「わたしの『かりんとう!』の出番です。

 わたしと向日葵の話を犯人が聞いていなかったのであれば、わたしが『かりんとう!』のポーズをしても、誰も真似をしないという今日だけの約束事も聞いていないわけですから。

 だからわたしは、ファンのみなさんがわたしの言ったことを守ってくれると信じて、みなさんそれぞれ応援しているメンバーは違うとはいえ『ネバーランド ガールズ』が好きという一点では団結できると信じて、『かりんとう!』をするフリをしたんです。

 その結果は大成功! わたしたちの話を聞いていなかった犯人だけが、ひとり寂しく間の抜けた『かりんとう!』のポーズをしてしまったというわけなんです」

「そういうわけだったんだね。うん、完全に納得したよ」と植木は言ってから、ちょっと間をあけた。

 口にするべきか否か迷った挙句、やがてこう続けた。

「でも、どうだろう? 

 犯人を追いつめるためとはいえ、あんな罵声を浴びせて犯人の神経を逆なでするというのは? 

 君だってもちろん、過去には痛ましい事件が起きているのを知らないわけじゃないだろう? 

 だから、ああいう無茶な行動は控えた方がいいと思うんだけどなあ」

 そんなヤボなことを言わないで、とばかりに神希は左手をひらひらと振った。

「へ~き、へ~き。

 だって、萌香ちゃんが助けてくれるって、わたし、信じてたもの。

 それに、あんな卑劣な奴、あれぐらいのことを言わしてもらわなけきゃ、わたしの気持ちが絶対に治まらなかったし」

 植木の真摯な忠告などどこ吹く風といった様子で、まるで耳を傾ける素振りをみせない神希。

 やれやれ、と植木はそっとため息をつく。

 この子を見ていると、いつもヒヤヒヤするなあ。

 体型の変化を決して認めようとしない意地っ張りで、過剰なまでに自分の容姿や言動の面白さに自信満々、その場の空気なんか一切お構いなしで誰にも止めることができないほどの目立ちたがりで・・・

 かと思えば、ひとたび本業たる歌手としてパフォーマンスを披露するや、他の追随を許さぬ図抜けた力を発揮するエンターテイナーでもあり・・・。

 後輩をからかっては楽しんでいて、そのくせ、その後輩がむごい仕打ちを受けたと知るや義憤に駆られて危険をかえりみずに犯人を挑発して…

 全くの他人ながら心配になってしまうほどの不安定さを抱えている神希成魅という少女。

 どうにも危なっかしくて、安心して眺めていることなんてできやしない。

 でも、とその後に自然と沸き起こった感情に植木は少しとまどった。

 だからこそ、応援したくなる。


                 七


 公演終了後には、今日に限りささやかな打ち上げの場が用意されていて、植木も参加した。

 向日葵の母親がスタッフやメンバーへの日頃の感謝の印として、お手製の鍋を振る舞ったのである。

 母親は福岡市出身とのことで、もちろん鍋はモツ鍋。

 モツやニラ、もやしなどの定番の具材の他に、をトッピングするのが佐草家流だという。

「鍋パだ、鍋パだ」とテンションが自然と上がって騒ぐメンバーに、公演を常に裏で支えているスタッフも加わり総勢三十人が楽屋で鍋を囲んだ。

 いくつかのテーブルに分かれながらも、にぎやかで暖かい雰囲気に包まれながらの夕食会。

 植木と向かいあって座った支配人の大関は、そんな様子を満ち足りた表情で眺めていたが、ふと鍋に目を戻して、

「いやあ、ほんとお母さまの仕込んだモツ鍋はおいしいなあ。

 私もいろんなモツ鍋を食べたけど、麩を入れるというのは初めてだ。

 モツとの食感の対比がいいアクセントになってるよね。

 もうひとつ、食べようっと。

 あれ? さっきこの辺にあったんだけどなあ。

 植木君、?」

 植木がそれに答える前に、二つ向こうのテーブルで箸をつついていた神希がぐるんと振り向き、ニラを貼りつけた前歯をぐっとむき出して、大関をきっと睨みつけ、

「いえ、痩せたんスけど」

(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かりんとう!3 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ