薄紅色の向こうに

南村知深

薄紅色の向こうに


 駅にほど近いところにあるマンションの一室。そのベランダから、私はぼんやりと街の景色を眺めていた。

 電車が線路を噛む音に引かれて何気なく眼下の道路に目をやると、スーツケースを引きながら真新しいビジネススーツに身を包んだ女の子が通り過ぎていった。

 新社会人だろうか。ヒールに慣れていないせいか少し歩きにくそうな足取りで、大きなスーツケースをお供に曲がり角へ消えていった。

 その先は名も知らない会社の社員寮がある区画だ。きっと、彼女はこの春からその会社で新社会人として世界に羽ばたいていくのだろう。初々しい感じに思わず笑みがこぼれる。

 少し視線を上げると、その社員寮の庭に植えられている桜並木が見えた。

 と言っても、八本のソメイヨシノが植えられているだけだ。並木というには少々大袈裟だったかもしれない。

 それでもそれらが見せる薄紅色は、実用性重視の無機質な街を彩るのに十分すぎる美しさだった。


 桜色に溢れるこの時期になると、ふと思い出す。

 私がこの街に来る前のことを。



     ◇   ◇   ◇



 私は高校を卒業し、地元を遠く離れて関東の大学に進学することになった。

 当然それに家族がついてくるわけもなく、新年度からは一人暮らしが始まる。

 その不安と期待が入り混じった気持ちを抱えたまま、私は旅立ちの日を迎えていた。


『まもなく、二番線に……』


 駅のホームにアナウンスが流れ、少し経ってから電車が滑り込んできた。ホームの端に少しだけ積もった桜の花びらが風に舞い上げられて、ひらひらと目の前に降ってくる。

 私はそれを目で追いながら、大きな荷物を抱えてホームのベンチで乗り込む予定の電車が来るのを待っていた。

 この町は田舎と呼んで差し支えのないところだ。駅前広場の店や道路を走っている自動車の数より、線路沿いの桜並木の本数のほうがずっと多い。

 ゆえに電車の数は少なく、目的地へ向かう車両は一時間に一本程度しかない。

 その希少な一本をつい先ほど逃してしまい、ぼんやりとベンチで退屈な時間を過ごしているところだった。

 手持無沙汰で、何気なく空を見上げる。

 少し肌寒い春色の空を、黒っぽい鳥が右から左にすごいスピードで横切っていった。


「……来たんだ」


 隣に人が座る気配がして、私はそう呟いた。

 誰、と問うなんてことはしない。

 ふわりと鼻をくすぐる、ちょっと特徴のある柔らかな柑橘系の香りでわかるからだ。

 私の大好きな香り。


「…………」


 彼女は黙ったまま、私と同じように空を見つめていた。

 鳥がまた、空を横切っていく。ツバメだろうか。


「晴れてよかったね」


 ぽつりと彼女は言った。


「そうだね」


 答えて、再び沈黙。

 私は鳥を見ていた。

 でも、彼女は空そのものを見ていた。

 同じように見上げていても、見ているものが違ったんだ。


「行っちゃうんだね」

「うん」

「向こうの生活、楽しくなるといいね」

「うん」


 沈黙を嫌うように、彼女は話し続ける。

 私はそれに短くうなずくだけだ。

 とても友人同士には見えない。

 他人同士でも、もうちょっと愛想よく話すと思う。

 そんな素っ気なさだった。

 私と彼女の仲を知っている人が見れば、さぞかし奇異に映ったことだろう。


 恋人つなぎで仲良く登校。人目も気にせずスキンシップ。口を開けば愛の言葉を囁き合う。ケンカをしてもキス一つで仲直り。下校も恋人つなぎで肩を寄せ合って。いつまでも手をつないでいられると疑いもしない。


 そんな、誰もが認める関係バカップルだった。

 それがこんなに余所余所しく、目を合わせもしないなんて、と。

 でも、しかたない。

 私は地元を離れて、遠方の大学へ進学することを選んだ。

 彼女は地元に残って就職することを選んだ。

 二人の進路は違ってしまった。

 もし、どちらかが相手の進路を拒否していれば。一緒にいたいと望んでいれば。

 あるいは、二人とも手を取り合って同じ道を歩んでいたかもしれない。

 でも。

 私も、彼女も、そうはしなかった。

 私には私の、彼女には彼女の目標があった。

 それを叶えるために。

 それを邪魔しないように。

 私たちは違う道を歩くことを選んだ。

 お互いを強く想うがゆえの、決断。


『まもなく、一番線に……』


 流れるアナウンスに、ホームの時計を見上げる。

 時間だ。


「…………」


 無言でベンチから立ち上がり、荷物を肩にかける。

 彼女は座ったまま動かなかった。うつむいたまま、小さく肩を震わせていた。

 けたたましい音を立てて、電車が線路沿いの桜の花びらを連れてホームに入ってくる。耳障りなブレーキの金属音が止み、圧縮空気の甲高い音が響いてドアが開いた。

 降りてくる人も、乗り込む人もいない。私一人だけ。


「じゃあね」


 ちらりと彼女に目をやって、それだけ告げて、私は電車に乗り込んだ。

 ドアが閉まる。

 彼女はベンチに座ったまま、こちらを見ていた。

 目に涙をためて、精一杯の笑顔で。


 そうなるのがわかっていたから、何も言わずに来たのに。

 そうなるのがわかっていて、彼女は来たんだ。


 ぎし、と床が鳴って、電車が動き出す。

 彼女が後ろに流れていく。加速していく。

 線路沿いの桜並木の薄紅色が視界いっぱいに広がって、すぐにホームは見えなくなった。


「……じゃあね」


 もはや届くことのない、彼女への言葉。

 離ればなれになる、カノジョへのコトバ。

 それと――止まらない涙。


 ずるいよ。

 こうなるってわかっていたから、会わずに行こうと思ったのに。

 こうなってほしくて、彼女は会いに来たんだ。

 本当に、ずるい。

 最後にあんな笑顔を見せるなんて。


 しゃくり上げる肩から重いカバンがずり落ち、どさりと床を叩いた。その拍子に紛れていた桜の花びらが舞い、足元にひらりひらりと落ちていく。

 その上に膝を折ってうずくまり、人目もはばからずに声を上げて泣いてしまった。


 そのとき、改めて私は思った。



 私は、こんなにも彼女のことが好きだったんだ――と。



     ◇   ◇   ◇



 あれから十年が経っている。

 私は大学を卒業し、そのままこちらで就職した。

 先ほど見た女の子のように、真新しいスーツとヒールに慣れるまで大変だったけれど、なんとかやってきた。大変な仕事も必死に乗り切ってきた。

 社会人になれば大変なこともあるけど、楽しいこともきっとあるよ。

 そんな風にあの女の子に密かなエールを送って、ふふっと笑う。

 偉そうに先輩面をしているけど、私もまだまだ未熟でミスもする。社会人として少しは役に立つようになってきたと思っていても、それを決めるのは上司だ。

 この春から新しく私の上司になる人に、それを認めてもらえたらいいな。


「どうしたの、ニヤニヤして。何かイイコトでもあった?」


 部屋から出てきた彼女は、隣に並んで私と同じところに目をやった。

 その先では八本のソメイヨシノが咲いている。


「ううん、別に。桜が満開だなって」


 答えて、彼女を見る。

 すっと吹き抜けたそよ風にが乗って、私の鼻腔をくすぐった。その柔らかな芳香に頬が熱を帯びる。


「ホントだ。綺麗……」

「今から見に行く?」

「荷物を片付けるのが先。でなきゃ、今晩私が寝るところがないじゃない」


 言って、彼女はベランダから部屋に戻っていった。

 使い慣れた家電、体に馴染んだソファ、一目で気に入って即買いしたガラステーブル。それらが並ぶリビングには、ダンボールの箱がいくつも置かれている。中身は彼女の身の回りのものだ。

 この春から、私の部屋はになる。


「別によくない? 私のベッドで一緒に寝れば」


 言うと、彼女は少し怒ったようにため息をついた。


「そういうところ、高校のときからホントに変わってないね……」


 呆れる新しい上司かのじょの顔は、桜よりもずっと濃い薄紅色で、少しだけ笑っているように見えた。




       完

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薄紅色の向こうに 南村知深 @tomo_mina

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