第1話 パチンコ・アニメ・ソシャゲ 2
これからは一日一回は天気予報アプリを開くか、窓を開けることにしようと少女は思った。まだ駅前のフィットネスクラブチェーンの窓から漏れるオレンジの光を見るより先に、天の底が抜けた。黒い緞帳のように雨が降り出し、彼女の衣服を彼女の身体にぴったりと貼り付け、急ぎ足からサンダルを抜き取ることさえあった。傘を望んだが、この田舎では、コンビニエンスストアは駅前のビルにしかない。そして、そのビルにネットカフェは入っている。
雨の黒いカーテンの足元で、水に濡れた地面が街灯と車のヘッドライトの光とを乱反射しており、もう手の届く範囲を見ることが難しい。むしろ、遠くの、駅の近くにある巨大なパチンコ店の看板の「パチンコ」という文字の方がよく見えるほどだ。少女が駅の外のバスロータリーに着き、異常に安価な料金で提供されている立体駐車場の出入り口に人を認めたのは、雨に濡れずにネットカフェへ近づく道を求めてもう本当にその人の横を通り抜けようとした時だった。
「ちょっと今いいですか」
立ち止まったのは、彼が少年だったからだろう。少年ならば安全であるなどということはありえないのだが、今や深夜に彷徨く少女である彼女は、自分自身が終電で帰る勤労者から恐怖されていると思っており、少年にむしろ親近感を覚えた。
「傘ならないよ。見ればわかるか」
「今の自分を幸せだと思いますか?」
頬に貼り付いた髪を耳の後ろに戻し、ショートパンツの布地を太腿から離す。ただ時間を作り出すために。
「今の自分を幸せだと思いますか?」
「宗教の人?」
彼は何処かの学校の指定制服であるらしいブレーザーを着ている。ところで、彼は一切、雨に濡れていなかった。
「むしろ宗教的ではない人間というものの存在を、僕は疑っています」
「ソシャゲにお布施してるからお金ないけど」
彼が鞄から最後の審判が近いことを説明するためのパンフレットを取り出す前に、少女はこの場から去りたかった。彼女は日本の刑法犯の認知件数が戦後一貫して低下していることを知っており、そして自分だけは絶対に危険なことに巻き込まれないということを信じていた。
「
彼女は宗教的な人間だった。彼女の腕には既に彼の手が絡みついていた。彼女はTwitterに、顔にモザイクをかけた上で『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』の主人公「塩谷糸音」のコスプレ写真をアップロードして「いいね!」を稼いだことを思い出した。そして「いいね!」はダイレクト・メッセージ機能を用いてのAmazonギフト券の受領になったことを思い出した。
「なに? キモいんだけど。離してくれる? 人呼ぶよ?」
「『人を呼ぶ』! ギャルっぽいのに随分と古風な言い回しをご存知ですねえ。『人を呼ぶ』! そうしたら、僕は逃げます。それから、貴女の家に直接行くことにしようかな。自宅も特定済みだし」
「なに言ってるのかわからないな」
「特定するのは簡単でしたよ。まず日本語母語話者ですから、ほぼ日本列島に限定されます。次に『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』の実況時間です。これで貴女が関東にいるとわかった。それからはもう、消化試合、ただの作業でした。近所の火事、祭りの騒音、『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』オンリー同人誌即売会に向かうとツイートしてから会場の写真を投稿するまでの時間、あらゆるヒントを貴女は提供してくれた。だから、僕はここにいます」
「なにが目的なの? あなたが特定したっていう、そのTwitterユーザーとわたしが同一人物だとして、なに?」
「『塩谷糸音』のコスプレめちゃくちゃ似合ってましたよ。あのキャラクターって、ニーハイソックスにハイヒールのエナメルの靴を履いているでしょう? でもあの子って、戦闘美少女なんで、その点も考えなきゃいけないんですよ。僕の言ってること、わかりますか? それで、貴女は脚の写真をTwitterに
「なにを? 離せって」
「話してますよ」
「手を離せって! 手汗がキモいの!」
「今の自分を幸せだと思いますか?」
「答えたら離してくれる?」
服から染み込んだ雨水と自分の皮膚から染み出した汗とが体温で気化し、彼女の鼻孔にまで辿り着いた。同年代と思しき、それも気持ちの悪い、早口に『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』のコスプレについて語りだすような、チェーンの牛丼店で特定の商品だけ繰り返し注文しそうな少年の腕すら振り払えない屈辱の臭いを少女は味わった。それから、そんなくだらない奴に交渉を試みてしまう自分のくだらなさに伴う恥辱。
塩谷糸音だったら、彼が言う通り、彼の股間に蹴りを入れて、睾丸と腎臓を潰して混ぜ合わせていただろう。
「離しますよ。答えてください。今の自分を幸せだと思いますか?」
「微妙かな」
「じゃあ死になさい」
熱波が腹の下で爆発した。目眩が訪れた。少年は約束通り、彼女の腕から手を離していた。離して、長い包丁を持っていた。それは奇妙な包丁で、銀色ではなく紅色の刃をしていた。
続いて、彼女はコンクリートの床に限りなく自然落下に近い速度で自分の後頭部を打ち付けたが、その痛みは全く感じなかった。膨大な量の流星群が彼女の視界を覆い尽くし、ついに彼女の眼の前は完全に純白の聖域と化した。それはあまりにも美しい光景だった。その美しさに彼女は震えだした。上の歯と下の齒を打ち鳴らしながら、彼女はようやく自分が寒がっていることに気づいた。自分で自分を抱きしめようとしたが、身体の感覚は、もう、遠い昔に消え失せていた。
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