第2話 サイボーグ・ナナフシ・パランティア 2
ところで、ナナフシの方ではいかなる種類の苦痛も快楽も感じていないようだった。ただこの世の全てのものを軽蔑するかのような、冷たい視線を周囲の全てのものに飛ばし続けていた。無人が「彼女に所属と官、姓名を名乗ったらどうなんだよ」と言うと、ナナフシはやはりまた時計を見たあとで口を開いた。
「私は内務国民委員会特別査察局特別査察第九課主任分析官―― 」
「もしかして、
無人とナナフシの二人は殆ど同時に、互いの顔を見た。少女は無人とナナフシの間に、奇妙な連帯、奇妙な友情を確認した。無人の顔を見ながら、二、三回大きく瞬きすると、ナナフシはまた少女を見下ろした。見下ろしつつ、無人に向けて話している。
「無人くん、私の所属と官、姓名を既に彼女へ伝えてあったのですか?」
「いや、その、まだ――」
「伝えていない。何故か彼女は自分は塩谷糸音ではないと言い、何故か君の名前を知っていて、何故か私の名前を知っている。理由は、無人くんには何もわからない。私の認識は合っていますか?」
ナナフシ――いや、武野無門についての想念が洪水に押し寄せてきた。無人と会った時にはなかった、苦痛を伴う、それは想起だった。少女は『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』のコミカライズ版第一巻の中程のページに描いてある、小説版第一巻の冒頭部分に相当するシーンの絵を細部まで思い出した。目覚めたばかりのヴァンパイアガールと、ベッドの傍らの少年と青年。少年が名切崎無人、青年が武野無門。
「彼女は何者だ? 彼女は本当に
「そんなわけないだろ。彼女が目を覚まして、外に飛び出して、ぼくがすぐに追いかけて、そして今ここに一緒にいる」
「無人くん、私は別に手違いがあっても構いませんよ。揉み消せばいいだけです。君は私の弟のようなものだ。母も君を三番目の息子だと思っていると言ってました」
「おばさんの言葉は嬉しいけど、お前の弟にはなりたくない」
無門は旧東京帝国大学の法学部を首席で卒業し、帝大法学部の助手を勤めながら修士号と博士号を取得、その後、教授職を断り内務国民委員会に奉職、将来を嘱望されるも、……。
「では、お兄ちゃん、弟があなたに尋ねます。何か手違いがあったということはありませんか?」
「お前、馬鹿野郎のふりをした頭がいいやつのふりをしたクソ馬鹿野郎だろう?」
「さて、知性は多元的なものであり、頭の善し悪しは状況が決めるものだと思います。しかし私のように傑出した人間は状況を作り出す」
そこまでは思い出せたが、そこからが思い出せない。エリート中のエリートである武野無門がこうして吸血鬼の少女と接触しなければならないほどに落ちぶれた理由が、少女にはどうしても思い出せない。そもそも、あの『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』がどういう話であったのかが思い出せない。リトルボーイとファットマンとヴァンパイアガールという単語の関係すら、思い出せない。少年と小太りの男と吸血鬼の少女? 『銃・病原菌・鉄』の内容のほうがまだしも思い出せる。『偶然性・アイロニー・連帯』、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』、『アナーキー・国家・ユートピア』、『雪、無音、窓辺にて』。塩谷糸音という吸血鬼の少女がいて、名切崎無人というサイボーグの男の子がいて、武野無門という出世コースが外れた官僚がいて。しかし、そこはどんな世界で、そして何が主題だったか。思い出せない。記憶と思い出の境界が融解し、過去が消え失せ、その反対側にある未来もまた消え失せ、現在だけが残る。そして、現在しか存在しないのならば、過去と現在と未来の総合としての時間感覚そのものが消え失せる。無限の今が押し寄せてきた。
「君は何者だ?」
巨大なナナフシが小さな拳銃の銃口を彼女に向けていた。一度経験したことのある死の過程への恐怖が彼女の「過去」となり、銃口の暗い穴が「未来」となり、その狭間で、命を選択しなければならない「現在」を彼女は再び獲得した。やめろ、やめろよと言いながら無人が銃口を自分の白い手で塞ごうとしていたが、彼の手の指は細長く、そんなことに使って欲しくないと少女は思った。彼女は獲得した「現在」へ介入を開始した。
「わたしは塩谷糸音。最後の
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