他律神経を殺せ、と吸血姫は言った 2
トイ・プードルの描かれたキーケースを開き、全ての鍵を出して、ひとつひとつ鍵穴に挿していく。残りが一つになった時点で、扉は向こうから開かれた。半開きの扉越しに不機嫌そうな表情をした中年の女が糸音を見つめていた。糸音はこの自分の肉体とこの中年の女の関係を考えていたが、「なにその髪?」と彼女が言った、その時の眉の動きで、彼女がこの肉体を作るために遺伝子を提供した人間、つまり母親であることを理解した。この女は肉体の元の所有者に敬意を表して丁重に扱うべきだが、肉親に対する情のようなものが肉体という条件によって自然と生じてくるようなことはなかった。親子の親愛は先天的なものと後天的なものの複合体だった。
糸音はドアノブを掴んで完全にドアを開け放った。中年の女は支えを失って、糸音のほうへ前のめりになった。糸音は「あなた、何してきたの? 駅のトイレかなにかで髪でも染めてきたの? あなた、おかしいのよ。変な漫画ばっかり読んでるからじゃないの」と怒鳴る中年の女の顎を掴んで、二人の顔の高さを揃えた。娘の皮を被った化け物への恐怖に、その目は見開かれ、その唇は震えた。さらなる甲高い声での抗議を予期した糸音は、まだこれが娘による家庭内暴力の延長だと信じている中年の女に囁いた。
「我が血脈は
生活の疲労で濁っていた中年の女の瞳へ、糸音の瞳から溢れ出た紅の波動が到達すると、ついに彼女の全身を包み込んだ。真っ赤な薔薇を衣服とする神話的人物のようになった中年の女は床に座り込み、糸音の脚に縋りつく。従順さを証明しようと躍起になる。
「
「私の部屋は何処だ?」
紅の光が文字通り光の速度で廊下の奥へと消え去った。女は立ち上がって、浴室の向かい側にある部屋へと、糸音を案内した。部屋中に本と衣服、鞄、ペットボトル、ぬいぐるみが充満しており、床にはもちろん足の踏み場がない。入ってすぐ、裸足の爪先に当たった本を手に取る。
表紙では褐色の肌に白い髪、丈が短く加工されたスカートとブレザーに黒いネクタイを締めた少女が黒い皮手袋に包まれた指でピースサインをしていた。
帯――リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール第2巻! 新章突入! 最強の吸血姫の能力で異世界日本無双! そしてあの男も再登場!
端の方に男性のイラスト。正体を隠すために黒塗り。白い抜き取りがあり、それはイラストの彼が満面の笑みを浮かべているがゆえに露出した齒だ。
「これを書いたのは誰だ?」
「
「この者の他の作品は? どうやって世に出た?」
中年の女が床に置いてある物を踏み荒らしながら、窓際に近づいていく。この、人の人心を掌握する能力は、便利だが知性の大半を失わせてしまう点で大いに問題があった。主人に与えられた課題を少なくない文化的社会的制約を無視して達成しようとしてしまう。
窓際には机があり、モニターが据え付けられている。机の下で大きな機械が排熱しながら唸っている。これはパーソナルコンピュータの類だろう、と糸音は思った。中年の女がキーボードを殴りつけると、モニターが発光し、待機状態が解除された。
「Yahoo!でググればいいんだわ。GoogleでYahooりますね」
どうやらYahoo!という検索エンジンを用いてインターネット上の情報を調べることをググる、Googleという検索エンジンを用いたそれはヤフると言うらしい。
「それで?」
「他律神経は『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』の他には出版された小説はありません。『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』だけがISBNコードを獲得した作品のようです。他に、彼は『カクヨム』という小説などの文章を公開できるウェブサービスを利用して『システム境界の形成』という336370 文字の長編小説を公開していますが、アクセス数は今でも6596アクセスに留まっており、『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』だけが不自然に社会的に高く評価されています。これは、フリーメイソン、イルミナティ、テンプル騎士団、
この中年の女は何処で陰謀論のテクニカルタームを学んだのだろうか。この世界にも、中年の女に陰謀論あるいは「ネットでわかる真実」を教える掲示板や動画共有のウェブサービスが存在するのだろうか。
この他律神経という筆名の人物は自己顕示欲から陰謀に近づき、陰謀の一部になっただけだろう。そうではなく、他律神経の背後にいる者、他律神経に『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』を書かせた者がいるはずだった。
これを他律神経に書かせた者に、糸音は会わなくてはならなかった。彼女はその者を殺さなければならなかった。彼が再び世界に混沌を齎す前に、彼を圧縮し、小さく折りたたんで踏み潰さなければならなかった。
彼を引きずり出すためには――「よし、他律神経を殺そう。殺しに行こう」。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます