リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール
他律神経
第0話 トロツキー・スターリン・メルカデル
その獣は主人から鞭をもぎ取り、主人になろうとして自らを鞭打つ。――フランツ・カフカ
レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインがメキシコで夏を過ごすのは、これで四度目だった。彼はウクライナで生まれ、ロシアで育ったが、しかしもう身体が慣れてきた。人間は何にでも慣れる生き物だ。搾取にさえも――。
椅子に腰掛け、机に向かう。原稿の山が積まれている。彼は作家だった。彼は世界を解釈するのではなく、世界を変革したかった。そう、彼は今や作家でしかなかった。そして、山の頂上には、そのことを批判する、彼の若い友人の論文が置かれていた。
「レオン、私の論文はいかがでしたか?」
「ラモン、いつの間に」
友人ラモン・メルカデルは、既にレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインの眼の前にいた。カナダ出身の共産主義者である彼は、しばしば革命的警戒心から、足音と気配を消した。
「読みました?」
「読んだよ。君はしかし、私に辛辣だね。私に他の道があったと思うか? もう一度同じ状況になれば、私は同じことをするよ」
「それでは革命とは何ですか? 革命は万人の幸福のために為されるのではないのですか?」
「君がそんなに凡庸だとは思わなかったよ。君はまだ人生をよく知らないようだね。革命とは特定の階級に対しては地獄を作り出すことに他ならない」
「いや、違う。あなたは未来の、実現するかもわからない天国のために、現在を地獄に変えたんだ」
ラモン・メルカデルが机に身を乗り出す。レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインは彼の唾奇を浴びる。純粋に発話のために飛んだ唾液だが、今のレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインには侮辱のための液体としか解釈できない。頬に降り掛かった、その粘性の液体の、僅かの一粒は、しかしレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインの記憶力にとって巨大な起爆剤だ。
彼はユダヤ人の子として生まれた我が身を思い出す。ユダヤ人の子としての彼の頬には、たびたび唾液が吐きかけられていたのだった。それから彼は、炸裂した記憶の中で再び社会主義と出会い、分厚い資本論を繰り返し読み、共産主義者となり、赤軍を再編成し、広大なロシアの大地を列車で往復する。そして、あの愛しき禿頭の男との永遠の別れもまた、回帰してくる。「レオン、君が止めろ。スターリンを、君が、止めろ」
「トロツキー同志!」
鋭い一喝が彼を白昼夢から解き放った。変わった発音の英語だった。アクセントが過度に平坦化されている。コミンテルンの会議で会った日本人のことを想起した。ああ、これは日本人の英語だ。
レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン――元ソヴィエト社会主義共和国連邦人民委員レフ・トロツキーがその一喝によって追憶を装った死神を振りほどき、まず認識したのはアイスピックを振り上げたラモン・メルカデルの姿だった。
「スターリン同志万歳!」
その背後から、もう一人の男が現れる。アイスピックをトロツキーの頭に突き刺そうとしたラモン・メルカデルの頭に銃床が突き刺さる。ラモン・メルカデルが床に倒れる。今やトロツキーの前に、ラモン・メルカデルと入れ替わるようにして拳銃を手にした男が現れる。
「お前は……何だ?」
「トロツキー同志! あまりに不躾な質問だね! 私は君の命の恩人なのだよ?」
生気に満ち、爛々と輝く瞳。頬が裂けているようにすら見えるほどの、満面の笑み。口が半月を描いている。陶器のような齒が光を乱反射し、トロツキーの目を撃つ。思わず、今一度、頬が裂けているのかどうかを確認する。東洋人の顔を期待したトロツキーの、無意識下に潜在する人種主義を男の顔面が嘲笑う。トロツキーはこの男は悪魔なのではないか、と一瞬思う。
「私は悪魔ではないよ、トロツキー同志。それにもし悪魔が存在するとしたら、
悪魔のように、彼はトロツキーの心の中を覗き込んでいた。
「『宗教は圧迫された生き物の溜め息、無情な世界における心情、精神なき状態の精神』……」
「『ヘーゲル法哲学批判序説』かね? しかしね、トロツキー同志、私はカール・マルクスの本を読んだことがないのだよ」
「君は何者だ?」
「もうカール・マルクスの本など、読む必要はないと知る者だよ、トロツキー同志」
トロツキーは状況の理解に努めるため、あらためて椅子に奥深く腰掛けた。椅子は彼がメキシコ政治の批評を書く時も、スターリンの伝記を書く時も、静かに彼を支援した。今も、また。
「悪魔は何を読む?」
悪魔はそんな彼を睥睨し、そして、睥睨したまま、純粋に片腕の運動だけで拳銃を操作し、床に向けて銃弾を撃った。一発、二発、三発。床と空気の間でラモン・メルカデルがピッケルを求めて呻いていたが、それも一発目と二発目の間に終了した。スターリン主義は工学的必然の前に敗北した。
「トロツキー同志、君はまだ人生をよく知らないようだね。実はね、もう歴史は終わってしまったんだ」
ラモン・メルカデルの命を終わらせ、歴史にまで終わりを宣告すると、ついにトロツキーへの関心も終わったらしい。悪魔は思いがけず鉄火場を生き延びた新兵のように、爪先でラモン・メルカデルを突いて生死の去来を確認していた。
「ラモンはスターリンからの刺客だった。そして君は――恐らく、ドイツか、日本の
「私は真理の
秘書に原稿を放り出してカフェに行くことを提案する時のトロツキーのように、悪魔は提案した。その、あまりにも馬鹿げた、現実離れした物言いに、彼は虚を衝かれた。命の恩人への僅かの敬意と、その恩人がまだ握ったままの拳銃の工学的暴力によって、彼はどうにか平静を保った。
「革命は裏切られ、社会主義は官僚主義にすり替えられた」
ロシアで誕生したばかりの社会主義政権が全世界の人民に永久革命を呼びかけるのに呼応して、全世界の列強が干渉戦争を開始した。トロツキーは彼らから赤子のような社会主義を守るために、帝政ロシアの将校達を再雇用し、赤軍を再編成した。彼は――彼らはドイツ帝国との屈辱的な講和を結んで時間を稼いだ。そして長い、ロシア内部の反革命勢力との内戦へ。彼は、革命のためにはあらゆる手段を使い、敵を撃滅してきた。しかしレーニンの体内の反革命勢力だけは、彼でもどうにもしようがなかった。政治と論文執筆の激務がレーニンを消耗させ、やがて言葉をすら奪うと、銀行強盗による資金獲得しか実績のないスターリンがついに党中央へと躍り出た。そしてトロツキーはユーラシア大陸、大陸ヨーロッパ、イギリスを彷徨い、メキシコにまで逃げることになった。
「ソ連は今や変質した労働者国家だ。しかし、まだ労働者国家だ。私は大日本帝国やナチス・ドイツに後援を受けてまで、これと敵対するつもりはない」
「レーニンを想起したまえ! 日露戦争中に彼は日本軍から活動費を受け取っていたし、先の大戦中はドイツ帝国の支援でロシアに戻ったではないか。違うかね?」
悪魔の口が再び、耳元まで裂けていく。そんなはずはないと思い、トロツキーは眼鏡を外し、煙草に火を点ける。悪魔は彼が反論しないことに喜び、早口にさらに言葉を続けた。
「さらには、このままだと将来、ソ連が消えてなくなるとしたら、どうだろう?」
「まるで未来を見てきたような口ぶりだな」
「見てはいない。私は読んだのだよ。君がここでラモン・メルカデルに暗殺されることを私は読んだ。私はね、
「面白いね。他には何と書いてあった?」
引き出しを開けて、メモ用紙とペンを取り出す。悪魔を騙すためではなく、実際に、トロツキーは面白いと思っていた。面白いと思いながら、同時に、メモ用紙とペンの下に隠されていた拳銃を確認する。そろそろ秘書が出勤してくる時間だ。ラモンをトロツキーに紹介したのは彼女だった。彼は彼女の恋人だった。この事態をどうにか説明し、次いでメキシコ警察に通報しなければならない。
「他には? 1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻、同年12月7日に日本が真珠湾を爆撃、翌日には米国が日本に、3日後にはドイツが米国に宣戦布告し世界戦争が地球規模に拡大する。この戦争は1945年4月30日にドイツ総統ヒトラーがベルリンで自殺し、1945年8月6日と同年9日に相対性理論を応用した新型の爆弾が日本に投下されることで終結する。戦後、資本主義国家の米国と共産主義国家のソ連は没落したヨーロッパに代わって、新しい世界共同管理体制を構築するが、頭に痣のある男がソ連の初代『大統領』となり、彼は1991年にソ連が解体されるのを傍観する」
無神論者であるトロツキーは、年月日まで正確に予言してみせるこの悪魔に、欧州の反動主義者の間で流行する心霊主義の影響を感じた。
あるいは――「『ヨハネによる黙示録』の影響かね? 確かに、あの黙示録は正確な数字を重んじているね。『第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった』。トロツキー同志、私はね、既にトロツキーが暗殺されなかった場合の予言をも読んでいるのだよ。君が何を考えているのか、ということも読んだ」。
「先生……」
秘書が部屋に入ってきた。悪魔の齒の白さを見続けることから逃れるため、トロツキーは立ち上がって彼女を見た。
「シルヴィア! 警察に――」
「先生、わたし、全身が共産主義になったんですのよ」
彼女は自分の両の人差し指を自分の両の眼球に挿入し、眼底を探すかのように、眼窩で回転させていた。
「君はいったい何をしている! やめないか!」
「先生、わたし、死を克服したんです。これこそ、人類史の終わり、共産主義そのものでなくて?」
ゆっくりと、彼女は指を顔の中から抜き取る。鮮血と液体にまで還元された眼球が、彼女の細い指の先と睫毛の間に橋をかける。その橋の先、赤と白の縁取りの中で、彼女の目は完全に元通りになっていた。
「シルヴィア、面白い表現だねえ、全身が共産主義になったというのは。あははははははははははははははははははははは。トロツキー同志、どうだね、君の全身も共産主義にしてやろうか? しかし、そうすると、あの通り、知性の大半が失われてしまうのでねえ、私と大人しく欧州旅行に行こうではないか」
椅子に腰掛け、机に向かう。彼は作家だった。彼は世界を解釈するのではなく、世界を変革したかった。そう、彼は今や作家でしかなかった。しかし以前は赤軍の「勝利の組織者」であり、革命に伴うあらゆる人間の残酷さを見てきた。彼は決して、女性の眼球が潰れたくらいでは動揺しなかったし、拳銃を持った悪魔を前にしても、そのことに恐怖は感じていなかった。それよりも、彼は彼自身の好奇心ないし情熱――彼にユダヤ教を棄てさせ、ロシア社会民主労働党に入党させ、メンシェヴィキでありながらボリシェヴィキの指導者であるレーニンに接触させた力に恐怖していた。
元ソヴィエト社会主義共和国人民委員レフ・トロツキーはクロンシュタットの反乱の鎮圧を赤軍将兵に命じた時と同じ冷徹さ、低い声で悪魔に尋ねた。
「予言書の名前は?」
「リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール」
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