第1話 パチンコ・アニメ・ソシャゲ 3

 最初に音。何かがゆっくりと裂けていくような、音。それから、これもまた、ゆっくりと、音を聞いている自己の存在の確信。そして、自分が身体をまだ所有しているはずだという期待が、やはり、ゆっくりと生まれて、少女は目を開ける。

 立体駐車場に入ったはずなのに、少女は再び、豪雨の中で一人、立っていた。腕を伸ばすと、指の先が見えなくなるほどの雨量。自分が、あの、田舎の小さな駅のバスロータリーにいるのかどうか、彼女は疑い出す。そんなことより遥かに深淵な疑問を封印するために。今、自分が駅周辺のどのあたりにいるのかを推測することに集中する。「パチンコ」と描かれた看板が何処かにあるはずだ。合わせて、パーカーのポケットに手を突っ込んで、スマートフォンを取り出そうとする。

 しかし、スマートフォンはない。スマートフォンが入っているはずのポケットがない。ポケットを腹部のあたりに縫い付けたデザインであるはずのパーカーそのものがない。

 少女はついに自分が生まれた時の姿、全くの裸であることを見出す。彼女には羞恥心に対応する暇がなかった。巨大な手に鷲掴みにされたような激痛が、頭と心臓を襲ってきた。全身の血液が心臓に集まり、再び全身を駆け巡る、その循環の度毎に、彼女は自分の死を観想した。

 彼女の足元に彼女自身が倒れている。腹部の穴から血を噴き出す彼女の上に、少年が跨っている。その手には巨大な包丁が握られており、彼はそれを何度も彼女の顔に突き刺しては絶叫していた。

「お前みたいな売女が幸福じゃねぇわけねぇだろうが! 社会なめんな社会なめんな社会なめんな! このクソ以下の淫売が! 何が『微妙』だ! お前みたいな引き篭もりの低学歴クソ女も女ってだけで人生イージーモードだろうが! 社会なめんな社会なめんな社会なめんな! 脚だけで金稼ぎやがってよぉ!」

 やめて! 叫んで、彼の腕に掴みかかるが、彼女の手は彼の腕をすり抜けた。飛びかかるが、今度は彼女の全身が彼の全身をすり抜けた。彼女にはもう、その場に座り込むより他にはない。

「呪われろ! この世の女ども全員! 呪われろ! 顔が良い女は死ね!」

 最後に聞こえた少年の声はそんなことを言っていた。そう、それが最後の声だった。まだ立ち上がれずに振り返った少女の視界の中、少年と彼が殺した少女の肉体が豪雨に溶けて消え失せた。彼女はこれは臨死体験であり、自分こそが死者であり、自分こそが消えゆくものであると予想していたために、自分の死体が損壊される光景よりも、彼らが消え失せたことにむしろ驚いた。

 しかし、少女は消失を望み始めていた。幽霊を吹き飛ばすほどの激しい雨はまだ続いており、彼女の裸の、露わになった皮膚の全てを叩いていた。腹にも顔にも傷はない。そうすると、あの立体駐車場で刺されたのは夢? あれが夢なら、この「パチンコ」の看板が何処にあるかもわからず、裸で座り込んでいる状況が現実ということになる。

「だっ、だっ、だっ、誰かいる? だっ、だだだだ、誰かいませんか?」

 寒いせいか、上手く発声できない。

 自分の声のようにすら、思うことができない。

 それでも、返事は、あった。

「はい、ここに」

 もう、雨粒は少女の皮膚を殴打しない。彼女の上に傘が差し掛けられていた。パラソルかなにかを代用しているらしい。その下に四人くらいは入りそうな傘だった。

「『わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います』」

 傘を差し掛けてくれているのは人形のように青ざめ、人形のように端正な顔立ちをした少年だった。はっきりとした顎、目の縁、それと対照的に僅かに幼さを示す、丸い頬。少女のようでもあり、少年のようでもある。とはいえ、彼は目を大きく見開いたまま、今の今まで一度も瞬きをしていない。どうしても人形のようにしか思えない。

「いっ、いっ、いいいいいい、いま引用したの、ヨブ記第42章の5節と6節だよね」

「えっ?」

 人形のような少年は声だけで、小さく、驚きを表明した。

「警察は呼んでくれた?」

「は、はい。間もなく到着します」

 ところで、彼は瞬きだけではなく、口の動きすら、廃棄していた。

「コートを持ってきました。とりあえずこれを羽織ってください。それから移動しましょう。『ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合あわせて、腰に巻いた』」

 腹話術に使われる人形のような話し方は不気味そのものだったが、とにかく優しくて気が利くことは間違いがない。

「そそそそそ、そっ、それは創世記の第3章の7節だ。コート借りるね。あなたも『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』のファンなの?」

 コートを受け取りながら尋ねる。

「申し訳ありません。『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』とは何ですか?」

「あ、もしかして、宗教ガチ勢の人?」

「宗教ガチ勢? 申し訳ありません。『ガチ勢』とは何ですか? 原理主義者ファンダメンタリストのような意味ですか? 『無知な者は愚かなことを喜び、さとき者はまっすぐに歩む』。どうか教えてください」

「何なの? 引用しないと死ぬ病気なの? 『リトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』に影響されすぎだって。全キャラ、古典から引用しまくるんだよね。あれは押井守作品のオマージュらしいよ」

「申し訳ありません。押井守とは誰ですか?」

「あなたは傘を差してくれて、コートも貸してくれたから、あまり言いたくないんだけどさ、あっちを向くか、目を閉じてくれない? 立って、コートを着たいからさ」

「大変失礼いたしました」

 人形のような少年は自分の目の上に手を置くと、シャッターでもおろすようにして、自分の瞼をおろした。

「それ、名切崎無人の真似でしょう?」

「真似?」

 少年とはいえ男の前で全裸であることの羞恥から、彼女は早口で多弁になった。

「無人かっこいいよね。わたしの一番の推し。サイボーグなんだけど、費用の問題で表情筋が買えないから――」

「かっこいい? 推し?」

「無表情で、口を動かさずに話すんだけど――」

「開閉が可能な口のパーツも高くて」

「声優も良いし、台詞も熱いのが多いし、フェミニストだし――」

「声優? 台詞?」

 コートを羽織って、髪を掻き上げる。人形のような少年がタオルを差し出したのを受け取り、顔を拭く。さらに髪を軽く拭いてから、頭に巻き付ける。さあ、戻りましょうと言いながら、何処かへ案内しようとした彼の肩を掴んで、立ち止まらせる。

 彼女は彼にどうしてもお願いしたいことができてしまった。これをしてもらわなければ、もう一歩だって、歩けない。

「『前回までのリトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』って言ってみて」

「承知いたしました。『前回までのリトルボーイ・ファットマン・ヴァンパイアガール』」

「もしかして、君の名前はさ、名切崎無人?」

「はい。ぼくの名前は名切崎無人で、糸音、あなたの忠実な下僕です」

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