儚恋 この恋が消えても……

福山典雅

儚恋




 バタン


 僕はリビングのソファに座ったままで、瞳を閉じてその音を聞いた。


 まるでそっと優しく気を遣う様に、僕のマンションの扉が静かに閉じられた音だった。


 僕はその音を境に、現実が変わってしまった事を実感していた。自分が知っていた世界がもう二度と戻らない、そんな決別を含んだ切なく寂しい音だった。


 今、僕は彼女と別れた。


 付き合って3年にもなるのに、終わりを告げる時間は僅か数分だった。随分短いかもしれないが、僕は大切にしていた関係を断ち切る時間は、決して長くない方がいいと思っていた。


 無駄な未練や期待を生み出す曖昧な時間、それは却って彼女を混乱させてしまう。僕はそう思う。だけど、これは優しさなんかじゃない、深い考えの気遣いでも、ましてや思いやりなどでもない。


 そうする事しか出来ない僕の至らなさだ。


 それ以外の選択はなく、ただ僕は真っ直ぐに別れの言葉を伝えた。


 高校卒業直前から付き合い始めた僕達は、これから遠距離恋愛になる事がわかっていた。頻繁に会えない寂しさは承知だ。それでもスマホもあるし連絡をマメに取れば、常にオンラインで繋がっていられると思っていた。


 だから普通の恋人達と違い離れ離れであろうと、僕達は僕達なりに懸命に恋をして、揺るがない想いのまま精一杯お互いを大切にしていた。僕達は何があろうと決して別れたりするはずはないのだと、常に心のどこかで強く信じていた。


 実際に3年間、僕達の恋は続いた。


 いつでも会える街中の恋人達を遠目に眺めながら、少しだけ寂しい気分が湧く事もあったけど、僕は彼女を失くす方が遥かに辛いに決まっていると思っていた。


 だけど無慈悲な幕は僕の手で落とされた。理由は随分ありきたりな話だ。僕に彼女よりも好きな女の子が現れたからだ。


 僕は怖かった。まだ付き合ってもいないその女の子の存在が、心の中で次第に大きくなっていくのが怖かった。


 3年もずっと好きな彼女がいて、何よりも優先すべき大切な存在への気持ちが、気が付けば緩やかに薄まっている事が怖かった。


 気の迷いだとか、寂しさからだとか、そういう風に思おうと努力した。だが彼女への想いは美しい海が重力の変化で遠くへ引いて行くのと同じで、どうしょうもなく、そして止めようもない現実として僕から離れて行った。


 何をどうあがこうとこの気持ちは覆らなかった。そして僕はこのまま偽ったままの恋を続けるほど気楽な性格でもなかった。


 嘘をついても、正直に話しても、結局の所は彼女を傷つけてしまう事実に変わりはない。解答のない人生の問いは山程あって、僕はそんな自分の慰め方も知らない。


 誠実であろうなんて言うまやかしで納得は出来ない。


 お互いの為だなんて偽りで塗りつぶしたくもない。


 僕は大好きだった女の子への自分の気持ちが、ただ頼りなくなる事が許せなかった。どうしょうもなく変わりゆく自分が許せなかった。


 そして、それでも決断が必要だった。


 そんな時に、偶然彼女が二か月ぶりに僕を訪ねて来た。






「……そう、わかった」


 サプライズで現れて僕を驚かし、にっこり笑いながら両手には手料理の材料を山ほどさげた無邪気な彼女。そんな幸せそうな女の子に、僕はとても酷い話をした。


 彼女は瞳を伏せたまま、そっとスーパーの袋をキッチンのテーブルに置いた。


「……お料理は自分でしてね、勿体ないし」


 そう言って彼女は特に取り乱さず、一瞬だけその綺麗な瞳で僕の顔をじっと見つめて、そして出て行った。


 何も言わず、何も聞かず、何も責めず、何も怒らず、ただ静かに去って行った。


 僕は彼女のいなくなったリビリングのソファにどさりと身を委ね、湧き上がる情けない自己嫌悪を感じながら、恥知らずな喪失感を感じて、さらに嫌な気分を膨らませていた。


 人を傷つける。大切さな時間を過ごした女の子に辛い想いをさせる。


 どう言えば正解だったのかわからない。ただ僕にはそうするしか出来なかった。


 ブーン、ブーン。


 突然、バイブにしていたスマホが震えた。


 彼女からだった。


 何か忘れ物でもしたのだろうか? 僕は少しだけ躊躇してから画面をタップした。


「……もしもし」


 頼りないけど、聞き慣れた声。


「あのね……」


「うん」


「……少しだけ、少しだけ、気持ちの整理がしたいの」


「うん」


「……だから、私の気持ちを伝えるね」


「うん」


「……あのね、初めて高校で目が合った時、すごくドキドキした」


「うん」


「初めて話した夜は、眠る事が出来なかった」


「……うん」


「一緒に歩いた帰り道で、照れくさそうに告白された時、死んじゃうほど嬉しかった」


「……」


「初デートで待っている姿を見た時、服が凄くカッコよくて、とっても素敵だと思った」


「……」


「初めて手をつないでくれた時、嬉しくて、暖かくて、ときめいて、ずっとこのまま歩いていたいと思った」


「……」


「二人で笑い合って街を歩いて、海辺の公園でベンチに座って、ソフトクリームを食べて、私はずっと笑顔で、あなたもずっと笑顔で、そんな時間が大好きだった」


「……」


「あなたが大好きだった」


「……」


「卒業して離れ離れになる時、駅のホームでもう二度と会ええなくなるんじゃないかって、泣いちゃった」


「……」


「慰めるあなたがとても優しくて、その胸が大きくて、いい匂いがして、私はたまらなく切なかったけど少しだけ安心出来た」


「……」


「初めてその部屋に行く時、駅に迎えに来てくれたあなたを久しぶりに見て、思わず潤んで泣いちゃった」


「……」


「頭を撫でてくれた手が懐かしくて嬉しくて、その後エレベーターの中で久しぶりにこっそりキスしてくれて、ドキドキした」


「……」


「初めて一緒に迎えた朝に、あなたの部屋から見えた青空が好きだった」


「……」


「あなたとお喋りしながら食べた朝食が好きだった」


「……」


「ずっとここにいれたらって思った」


「……」


「あなたの仕草を見ているだけで幸せだった」


「……」


「離れてても、いつも電話をかけてくれるあなたの声が私を安心させてくれた」


「……」


「……あなたの事が大好きだった」


「……」


「あなたが大好きだった」


「……」


「……ごめんね、一方的にしゃべっちゃった」


 謝りながら彼女のすすり泣く声が聞こえた。


「バイバイ」


 そう言って、唐突に彼女の電話が切れた。


 ふと窓から見える青空に、長くたなびく飛行機雲が風にゆっくりと薄らいで流され、そして彼方に淡く儚く消えかけていた。


 僕は正解のない痛みを、彼女の最後の声で知った。


 

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