第5話 パンケーキのように逃げ出した
「それでは今回の講義はここまでです。次回からは、二人から五人でグループを作り、絵本によるアニマシオンの方法を選択して発表の準備を進めてください」
教授の声に、まだ寝起きでぼんやりしている頭を無理矢理覚醒させ、泉の元へ向かう。
水曜一限は図書館司書の資格に必須の講義で、俺は泉がこの講義を受けるという理由だけで選んだ。アニマシオンなんて初めて聞いた言葉は、きっとこの授業以外で聞くことはないだろう。講義を真面目に聞いてない俺の解釈としては、子どもたちに読書の楽しさを伝えることのようだ。
泉は図書館司書になりたいらしい。確かに、口を開けばわりと悪態の多い泉だが、普段はもの静かで本を読んでいる姿が様になる。俺と二人の時は、あの大人しさは猫かぶりだなと思うくらいに、泉は世話焼きで口喧しい。
それなのに、ここ数日の泉は、自分に対してもそんな猫をかぶっているような対応なのだ。
「泉、一緒にやろうぜ」
「うん」
俯いたままの泉の隣に座り、
「何の絵本にする?」
と、問えば、泉のものではない声が
「『逃げ出したパンケーキ』って絵本はどうかな?」
なんて降ってきた。振り向けば、先日俺と泉を突然襲撃してきた千村だった。
あからさまに嫌な顔をする泉に内心苦笑しながら、
「悪いね、泉と二人でやるつもりだから」
と、千村に返せば、大袈裟に肩をすくめてから
「相変わらず連れないなあ。なあ、名取。これ『逃げ出したパンケーキ』のあらすじ。良いと思わない?」
と言って、泉に紙切れを渡した。それを見た泉は目を見開いて、数回パチパチと瞬きして、千村を見詰めた。
「どう? 名取」
「……好きにすればいいだろ」
予想外の返答に、今度は俺が泉を凝視することになった。
「決まりね」
と言って、その紙切れを泉の手から取り上げて、千村は、
「連絡先は、藤堂のは教えてくれないだろ? 名取の教えてよ」
と、手早く泉と連絡先を交換して、また来週、と軽やかに去っていった。
次の講義室へ移動するために二人して立ち上がったが、泉は俯いたままだった。
泉とギクシャクしてしまったのは、あの日が境目になっているのはわかっている。先週の日曜日、俺が親父に無理矢理お見合いもどきをさせられた日だ。
「お前も学生とは言えいい年になってきたんだ。少しくらい浮いた話があってもいいだろう」
取って付けたような理由で呼び出され、本題として切り出されたのは、取引先のお嬢さんと会えなんていう、まったく以て面倒な話だった。
断ろうとした俺に、
「お前も親の脛を齧るだけじゃなくて、たまには役に立ったらどうだ。自由にさせてやってるだろう」
まだ自由でいたいだろう。
そんな、暗に泉との暮らしを奪われかねない発言に、不本意ながら頷くしかなかった。
幸い、お嬢さん側も乗り気ではなく、親同士の親睦会の建前として白羽の矢が立ったらしかった。
昼間からお上品な店で食事して、終わったら若い二人で散歩でもして来いと追い出され、夜の食事の時間まで無理矢理お嬢さんと適当な店を見て回った。その時に、飴の専門店なんて俺の苦手な綺麗なものに囲まれている店にお嬢さんが入りたがったので、渋々ついていった。そこで、青と水色と白い金平糖の瓶を見つけて、なんとなく泉っぽいと思ってお土産に購入したのだった。お嬢さんに
「彼女にあげるんでしょ」
と言われたのには、苦笑いを返しておいた。
そして夜に食事をした時には、しこたま酒を飲まされ、へべれけに酔った状態で帰宅した。そしてそこからの記憶は曖昧で覚えていない。
ただ、翌日、空になった金平糖の瓶があって、
「泉、俺、泉に金平糖のお土産って渡してた?」
「……覚えてないのか?」
「ごめん、酔っててあんまり覚えてなくて、もしかして俺が全部食べちゃった?」
そう聞いた時の泉の顔は、あの金平糖のように青白く、ショックを受けた顔をしていて、
「ううん、僕が、食べた」
と、泣きそうに顔を歪めて笑ったのだった。
あの日以来、泉は俺と目を合わせてくれなくて、酔った俺は何をしでかしてしまったのかと記憶を手繰り寄せても、やっぱり思い出せない。泉に聞いても、何もなかったの一点張りで、その態度がますます俺を焦らせた。
「なあ、泉、本当に千村と一緒で大丈夫なのか」
「別に大丈夫だよ」
移動中に問いかけた俺に、泉は眉間に皺を寄せて答えた。泉は千村を嫌っていて、俺も千村に泉に近付いて欲しくなかった。
あの男は、泉と俺の関係を壊してしまいそうで、怖かったのだ。
「そう言えば、さっきの『逃げ出したパンケーキ』ってどんな話なの」
「ノルウェーの童話で、お母さんが子どものためにパンケーキを焼いてて、食べられたくないパンケーキが転がって逃げ出すんだ。そしたら色んな人とか鳥とかとすれ違って、その度に『食べてやるから止まれ』って言われるけど、『食べられてたまるか』ってパンケーキは逃げ続ける」
露骨な程、話題転換をしたが、泉も千村の話をしたくなかったのか、「逃げ出したパンケーキ」のあらすじを話し始めた。しかし、あの小さな紙切れにこんな細かい内容が書いてあったのだろうか。それとも、元々、泉は知っていたのかもしれない。
「最終的にパンケーキはどうなるの?」
「唯一『食べてやる』って言わなかった豚に唆されて、食べられる」
「めちゃくちゃバッドエンドじゃん」
良い顔をする奴ほど悪い奴なんだな、と言えば、泉も大きく頷いた。
「泉も気をつけなよ、良い人っぽい顔で近付いてくる豚さんには」
「誰がパンケーキだよ」
「泉がパンケーキで知らない豚に食べられるくらいなら、俺が一層のこと食べちゃうよ」
笑いながらそう言えば、泉は照れたように、なんだそれ、と言って少し笑った。久しぶりに泉と目があって、ホッとした瞬間だった。
泉のスマホが通知音を鳴らし、それを確認した泉が
「悪い、急用できたから、二限のノートとっといて!」
と、引き止める間もなく、転がるように走っていった。嫌な予感がしたけれど、走り去る泉を追いかけることはできなかった。
泉がパンケーキなら、俺は何の役になるだろう。豚だろうか、それともパンケーキを食べたいと思いながら、結局豚に横取りされて食べられなかった子どもだろうか。
ぼんやりと豚役のキャストを、自分ではない男に重ねながら、パンケーキが食べられていないことを祈った。
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