1章 アヤシイ彼女②

 ***


「なぁなぁな!」

 今さっきトイレに行ったはずの梶谷が早足に戻って来た。

「トイレはどうした?」

 横山は不思議そうに訊ねた。

「そんなことどうでもいいんだよ!」

 梶谷は周りを警戒するように見渡してから、こちらに手招きして顔を近づけさせた。

「久遠せつながいたぞ! 久遠せつな!」

 周りに聞こえないように小さな声でそれでいて興奮したように梶谷は言った。

「……誰?」

「えぇ⁉」

「うるさいよ、カジ」

 驚いた顔をしている梶谷に横山が耳を押さえながら苦言を呈した。

「女優? アイドル?」

「マジか、お前……」

「有名な人? え、知ってる?」

 唖然としている梶谷を横目に横山に訊ねると、箸でだし巻き卵を小さくしながら横山は答えた。

「うちの大学の三年。確か文学部だっけか? んで、一昨年のミスコンのグランプリ。めちゃくちゃ綺麗で圧勝だったらしい」

「へぇ」

 だし巻き卵を口に入れた横山に代わって今度は梶谷が口を開く。

「マジでヤバいぞ。もう見たら言葉が出てこないくらい美人。スタイルもいいし、透明感がえぐい。あんな綺麗な人見たことない。ほら、これ」

 梶谷がこちらに見せたスマホには白のドレスを着こなした女性がトロフィーを持って微笑んでいる写真が映し出されている。頭の上にはティアラを乗せたその顔は確かに二人が言うようにもの凄く綺麗だった。圧勝だったという言葉が本当だと確信するほどに。

「えぇ~、すご。連覇とかしてないの?」

「去年は違う人が取ってるから、多分そもそもミスコンに出てないな。去年の人も綺麗だったけど、久遠せつなが出てたら余裕で連覇だったろうし。てか、在学してる限りずっと連覇だろうな、この顔なら」

 改めてスマホで久遠せつなを眺める梶谷がミスコン事情に詳しすぎて若干引いている。

「噂ではイケメン俳優と付き合ってるとか、ハリウッド俳優が許嫁とか」

「イケメン俳優云々はそうかもしれないけど、ハリウッド俳優が許嫁ってお前の作り話だろ」

 カルピスを飲みながらスマホをポケットにしまう梶谷を見た。

「まぁ確かにそれは盛ったけど、それくらいヤバいんだよ、顔面偏差値が。街ですれ違ったら十度見はするぞ」

佐藤二朗さとうじろうか」いや、佐藤二朗でも十度見はしないか。

「そんだけ顔が良い上に家は大金持ちなんだよ、久遠せつなって」

 横山はハイボールのグラスを手にそう言って、グラスを傾けた。

「性格も良いらしい。優しくて人当たりもいいって」梶谷が付け加える。

「完璧ってことか」

「そういうこと」

 梶谷はクイズ番組の司会者みたくこちらを指差した。

「マジで拝められただけで慶名に入った甲斐があるわ。お前らも見に行った方がいいぞ」

「いや、いいよ」

 冷めてシナシナになったフライドポテトを口に放り込む。

「……〝いや、いいよ〟⁉」

 考えられないという顔をしている梶谷に頷く。

「いやいや、行った方が良いって! こんな機会もうないかもしれないんだぞ⁉」

「だって今見たし」

「写真だぞ⁉」

「写真と変わんないっしょ」

 梶谷は〝いやいや〟と首を振った。

「久遠せつな1人で来てたの?」

 横山は梶谷をチラッと見て揚げ出し豆腐を頬張った。

「いや、OLっぽい感じの女の人と一緒だった。その人もめっちゃ美人だったし」

「やっぱ美人の下には美人が集まるのか……」

 横山は遠くを見つめて呟いた。何かあるのか、あそこに。

「キョウもいいのか? 今しかないかもしれないぞ?」

「……そんなことよりトイレ空いてた?」

「トイレ? 空いてんだろ、多分」

「あっそ、じゃあトイレ行ってくるわ」

「いってらっしゃーい」

 皿の中にある最後の枝豆を手に取る。

「……あいつ絶対見に行ったぞ、久遠せつな」

 梶谷はニヤニヤと小声で言った。

「……カジ、トイレいいの?」

 トイレに行ったのに恐ろしく早く戻って来たってことはそもそも行ってないか、手を洗ってないかだと思う。

「……俺も行こ」

 梶谷は思い出したように立ち上がって早足でトイレの方へ向かった。トイレを忘れさせるほど久遠せつなの美貌が凄いのか、単に梶谷が馬鹿なのか。多分、両方か。

 枝豆を口に運ぶ――。

 テーブルに一人は目立つ。何か視線も感じるし。

 周りを見渡していると何人かと目があう。そのうちの一人は凄いこっちを見てきている。ロックオンされたようなその視線に耐えられず、立ち上がり、全く行く必要のないトイレへと逃げた。


 ***


「普通に憶えてるよ。そういえば、結局見に行ったの?」

「チラッとな」

「どうだった?」

「マジで綺麗。居酒屋にいるのが不自然に見えるくらい。バーとかにいそうな感じ」

「うん……?」

 横山の言葉がよく分からないけど、何となく頷く。

「そんなことより、じゃあ、帰る時の記憶は全部ない? 店出た瞬間から?」

「いや……、二人が先輩たちと夜の街に消えていったの憶えてるし」

「週刊誌か。どこから憶えてないの?」

「んと……、二人と別れて、一人で駅まで歩いてて……途中で綺麗な女の人とすれ違ったな」

「お前もちゃんと男だな」

 横山は呆れたように笑った。

「その人何か急ぎの用事か何かで走ってたんだよ。だから、印象に残ってるんだよ。あんな綺麗な人でも走るんだなぁって」

「綺麗な人をなんだと思ってるんだよ。てか、その綺麗な人って久遠せつなじゃね?」

「いや、違う」

「まぁ、いいや。で?」

「で、そう! スマホの地図見ながら歩いてたらめっちゃ暗い道に辿り着いて、怖ッとは思ったけど、ナビの指示通り歩いていって――気付いたら、朝だった」

「そんな唐突にプツッて記憶がなくなってるのか。普通なんかもっとあるだろ。何か殴られたとか、意識が遠のいたとか」

「……確かに言われてみれば殴られたような……殴られてないような……」

「仮に殴られたとしても、それで朝起きたら自分ちでしたってないか……」

 横山は〝う~ん〟と唸りながら左手で顎を撫でた。

『まもなく慶名大学前、慶名大学前です』

 機械的な女性の声がバスの中に響いた。多くの大学生たちを乗せたバスが大学前のバス停に到着すると、前のドアから、真ん中のドアからゾクゾクと大学生たちを吐き出した。バス停に降り立ち、大学構内へと二人並んで進んでいく。

「例えば……帰ってる途中にどこかで頭を打って前後の記憶が飛んだとか?」

「頭打ったか……」

 頭を触ってみるが、違和感はどこにもない。

「記憶が飛ぶほどの衝撃なら、たん瘤ないとおかしいか」

「じゃあ違うか。瞬間移動でもしたんじゃない?」

「急に投げやりになるなよ」

 横山とふふっと笑い合っていると背後から声がした。

「横山!」

 二人で振り返ると短めの髪を後ろで括った明るそうな女性がこちらへ駆け寄ってきた。

 横山に視線で誰か訊ねると、

「高校の同級生」

 小さく答えてから手を挙げた。

「よう、清水しみず

「久しぶり! やっと会えたね」

 清水さんは親しげに横山の肩を叩いた。

「学部も違うからな。大学も広いし」

「ねぇ。最初の方とかめっちゃ迷ったもん」

 清水さんはそう笑ってからこちらを向いた。

「横山の友達だよね? 私は清水沙也加しみずさやか

「あ、中村岳です……」

 小さく会釈すると清水さんはまじまじとこちらの顔を見た。

「……芸能人?」

「え?」

 隣で横山が小さく吹き出した。

「いや、全然一般人ですけど……」

「仮に芸能人だったとしても自分で芸能人ですって言わないだろ」

 横山はくっくっと笑いながら言った。

「いや、だってこの顔見たらそう思うでしょ」

「まぁ分かるけどさぁ」

「え、分かるの?」

 そう訊ねると横山は頷いて、

「最初見た時どっかのアイドルグループにでもいそうだなって思ったもん」

「私も思った」

 清水さんも大きめに数回頷いた。

「ごくごく普通の一般人なんだけどな……」

「スカウトとかされない? 道歩いてたら」

「いや、全然。そもそもそんなに外出ないし」

「えぇ、勿体ない! あ、もしかしてこの辺育ち?」

 清水さんは首を傾げた。

「ううん、違うよ」

「なら色々出かけてみたくならない? 私なんてこの前スカイツリー行ったんだよ」

「へぇ。どうだった?」

 横山は興味深そうに相槌を打つ。

「めっちゃ高かったよ! ビビるくらい。で、その後は雷門のとこ行ったんだ」

 そう言って清水さんはスマホを操作して雷門の前で友達らしき人と楽しそうに写っている写真をこちらに見せてくれた。

「うわ、めっちゃ人いるな」

「人は凄かったよ。でもすごい良かったよ」

「俺も行こうかなぁ……。今度カジと三人で行くか?」

 横山はこちらをチラッと見た。

「まぁ、二人が行くなら」

「いってきないってきな。あ、私も行っていい?」

「お前また行くのかよ」

「いいじゃーん。私の友達誘って何人かで行こうよ。大勢の方が楽しいだろうし」

「あぁ……まぁ考えとくよ」

「うん! あ、そうだ。どうせなら連絡先交換しない?」

 清水さんはこちらを見てスマホを振った。

「え、俺?」

「うん。ダメ?」

「あ、いや、いいけど……」

 清水さんはスマホにQRコードを表示させ、それをスマホで読み取る。

「よし。ありがと!」

「うっす」

「じゃあ、私こっちだから。行く時絶対言ってね!」

 そう言って清水さんは手を振りながら離れていく。

「押し強めだったろ?」

 横山は手を振りながら訊ねた。

「強めであるけど、いい人そうだね」

「それは確かにそう」

 二人で教室へ向かおうと背を向けて歩き出そうとすると、


 ドサッ


 背後で誰かが転んだような音がした。

 振り返ると清水さんが地面に手をついていた。

「大丈夫か?」

 二人で駆け寄って横山が訊ねる。清水さんを見ると、周囲を見渡しながら困惑したような、どこか怯えているような顔をしていた。

「どうした?」

「……あ、ううん。ボーっとしてたら躓いちゃったみたいで」

 清水さんは顔に笑顔を張り付けたかのようにぎこちなく笑った。

「そっか。気を付けろよ」

 横山が手を貸し、清水さんは立ちあがった。

「怪我してない?」

「うん、多分」

 清水さんは服を軽くパンパンと叩いて、砂を落とした。

「二人ともありがとね。あ、やば。じゃあね」

 スマホで時間を確認した清水さんはそう言って走っていってしまった。

「あいつ、また転ぶぞ」

 横山は呆れたように笑って、

「俺たちも行こうぜ」

 背を向けて歩き出した。

「おう……」

 清水さんが躓いたであろう場所をチラッと確認してから歩き出す。

 躓きそうなものはなかったけど、何に躓いたのだろうか。



 高校の時よりも更に長い授業をいくつか受け、身動きが一切取れない程の超満員電車でようやく家へ帰ってきた。吊り革を掴んでいた腕が少し痛む。

 帰る途中に寄ったスーパーで買った総菜をおかずに晩ご飯を食べ、ゲームやらお風呂やらゲームやらを諸々しているとすっかり深夜二時を回っていた。高校の時はこんな時間まで起きていたら次の日朝起きられなくなるし、終日眠気と戦うことになる。ただ、大学は自分で受ける授業を決められ、明日は午後からの授業しか取っていない。だから、こんな時間までゲームをやることができる。大学生最高。

 とはいえ、流石にもうそろそろ寝よう。

 ベッドで横になると、昼間の横山との会話をふと思い出した。


 ***


「夢遊病?」

「そう。岳の記憶がない原因それなんじゃない?」

 横山はそう言ってカツを頬張った。

「夢遊病って寝てる時歩くとかってやつだっけ」

 頷いた横山はカレーライスをかき混ぜながら、

「俺も詳しいことは知らないけど、帰る時の記憶がないのに朝岳は家で目覚めたわけだろ?」

 ラーメンを咀嚼しながら頷く。

「つまり、岳は憶えていないけど、確かに岳は家には帰っている。電車に乗って、最寄り駅で降り、歩いて家へ帰り、鍵を開け、ベッドで眠る。それを無意識のうちに行った結果、岳の記憶から帰る時の記憶がなくなったってわけだ」

 横山はカレーライスを口に運び、飲み込んでから続けた。

「昨日、岳は歩いている途中に意識を失ってしまった」

「意識を失った原因は?」

「眠かったんじゃない? 知らんけど」

「そこは適当なのか」

「で、眠った岳は夢遊病の影響でフラフラと家へ帰って眠りについた」

「う~ん、なんかしっくりこない」

「記憶がないんだからしっくり来ないだろうよ。仮に夢遊病だったとしたら、昨日突然発症したとは考えられないから、多分気付かないうちに夢遊病になってたはず。何か心当たりとかない? 最近朝起きると痣があったとか、部屋が散らかってるとか」

 横山の言葉で頭の中にあのリモコンが浮かんできた。

「……最近、朝起きたら置いた覚えのない場所にテレビのリモコンがある」

「それだ」

 横山は口角を上げてこちらを指差した。

「それに今日起きたら片付いてたんだよ、部屋が。洗い物も綺麗に洗われてたし」

「じゃあ、昨日岳は家へ帰って家事もしたってことか。めっちゃ便利じゃね? 寝ている時に片付けとか洗い物するんだろ?」

「ポジティブすぎないか、その考え。それにリモコンのそれはそうかもしれないけど、夢遊病状態でそんな奇跡的に帰宅できるのか? 精々日常的にやっている行動で精一杯な気がするけどな」

 昨日の新歓は大学の最寄りとは違う場所だったし、当然乗る電車もいつもとは少し違った。

「まぁ、確かにそうかもしれないけど、可能性の一つとしてはありそうじゃない? 実際にリモコンのそれもあるわけだし」

 横山はお皿の中のカツをスプーンでいじりながら言った。

「夢遊病ねぇ……」

「確かストレスとかが原因だから、色々当てはまるだろ。一人暮らしに満員電車。大学生活も始まったばっかで色々ストレスとか疲れとか溜まってるとかさ」

 横山はそう言って最後の一切れを食べた。


 ***


 夢遊病。

 色々気になるところはあるけど、強く否定もできない。

 現にこのテレビのリモコンは朝になれば違う場所に行ってしまう。夜中にリモコンに手と足が生えて勝手に移動しているなんてアニメみたいなことが起きているわけではないはず。誰か動かしている人間がいて、それが自分。腑に落ちる考えではある。

「……でもなんでテレビのリモコンなんだ?」

 無意識下の自分の行動がよく分からないが、ともかく寝よう。

 シーリングライトを常夜灯にし、部屋がオレンジの色に照らされる。

 瞼を閉じて心の中で呟く。

 今日は平和な夢が見たいです。子犬とか子猫とかと戯れるような、二度寝したくなるようなのほほんとした夢がいいです。ほんとにお願いします――。


 *


 通り沿いにあるカフェのテラス席に座っていた。

 良く晴れた空、綺麗な緑色の葉をつけた木が通り沿いに並び、木漏れ日が差す気持ちの良いロケーションのはずなのに――。

 まるで自分だけがこの世界に取り残されたかのように通りを走る車も、行き交う人もいない。違和感と居心地の悪さを覚えた心はざわざわと警告音を発している。

 テーブルに目を移すと、真っ黒い液体が入ったティーカップが置かれている。誰が淹れたのか、誰が持って来たのか、カフェの中を見てもやはり誰もいない。そもそもコーヒーなんて苦くて飲めない。ましてや、砂糖もミルクもないブラックなんて論外なのに――。

 ボーっとカフェの中を眺めていると、背筋が震えた。恐る恐る視線を動かしていくと、いつの間にか目の前に髪の長い女性が座っていた。足音も椅子を引く音を一切出さずにその女性は座って、こちらをジトっと見つめている。そして、女性の青白い顔はゆっくりと不気味に微笑んだ。

「やっと二人きりになれたね」

 女性は満足そうに口を開いた。

「初めてのデートなのに、有象無象がいるなんて嫌だから頑張ったんだよ、私。毎日毎日少しずつ。あなたが私だけを見てくれるように、私だけがあなたを見られるように」

 女性はテーブルに両肘をついて、手で顔を支えた。

 何とも言えない不快感が胃の中を回る。心のざわざわはより強くなる。何かを言おうと必死に言葉を上に運ぶが、喉が通過を許さない。女性から視線を外したいのに、眼球は言うことを聞かない。

「ほんとは私だって自慢したいんだよ? こんなカッコいい人が私の彼氏なんだぞって。でも、私だけの独り占めにしたいとも思っちゃって……私ってほんとに我儘だよね」

 女性はフフッと笑う。

「誰もあなたに近付けたくない。だって、あなたの隣が似合うのは私しかいないんだから。それなのに、みんな……皆あなたに近付こうとする! 汚い蝿が不相応にあなたの隣に立とうとする! 私はそれが許せない。だから、安心して? 私が汚い蝿どもからあなたを守ってあげるから」

 腕に鳥肌が立つ。今すぐここから逃げ出したい。この女性と関わってはいけない。

「そんな怯えた顔をしなくても大丈夫だよ。あなたには私がついているんだから」

 女性の右手がこちらに向かって伸びてくる。息が荒くなる。体が動かない。

 動け動け動け――。

 女性の手が頬に触れる寸前でようやく足で地面を蹴ることができた。ガタンと椅子ごと後ろへ離れる。女性は一瞬驚いた顔をし、どこか呆れたように笑った。

「照れないでよ。私だってずっとガマンしてたんだよ? あなたに触れたかった――」

 女性の言葉を聞かないで立ち上がり逃げるように駆け出した。誰もいない通りを必死に走って交差点を右に曲がり、次の交差点を左に曲がる。足を懸命に回転させる。

 ある程度走ってから、立ち止まって膝に手をつく。

「はぁはぁ……」

 後ろを確認すると女性の姿は見えなかった。安心しきって前を向くと、

「どうして逃げるの? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」

 目の前に女性が立っていた。体が一気に震え上がる。

 なんで……。

 女性を思いっきり押して、すぐに反対方向へと走り出す。

 交差点を真っすぐ進み、次の交差点を左、その次の交差点をまた真っすぐ進み、途中で目に入った狭い路地へ曲がる。無機質な壁の間を抜け、大きな通りに出る。左右を確認すると右から女性が歩いてくるのが見えた。慌てて左を向いて、また駆ける。


 あの女は誰だ?


 また目に入った路地へと入っていく。そして、足を止める。

 路地は行き止まりだった。

 ヤバイヤバイヤバイ。

 早く逃げないと、あの女が――


「捕まえた」


 左肩に手が置かれ、耳元でそう囁かれた声に振り返る。女性が不気味な微笑みを顔に張り付け立っている。腰が抜け、地面に手をつく。

 立ち上がれないまま、女性と距離と取るために必死に手を動かして体を後ろへ運ぶ。

 女性はヒタヒタとゆっくりその距離を縮める。

 青白いその顔は肉食動物が逃げ場を失った獲物に舌なめずりするが如くニヤリと笑った。

 嫌だ……嫌だ……。

 全身が粟立ち、嫌な汗が背中を伝う。

 後退り続けるといよいよ壁にぶつかった。

 女性との距離は最早近付く一方。

 言葉を発そうにも上手く口から出てこない。口が動かない。

 ついに女性はすぐ目の前までやってきた。

 女性の顔がグイッと顔スレスレまで近づき、頬に手が触れる。


「あなたは私のもの」


 *


 目を覚ましてほんの少しだけ安心し、それから困惑と恐怖に体が震えた。ゆっくり起き上がり、深呼吸をして落ち着かせる。

 鳥肌が立った腕を擦りながら壁にかかった時計を確認するともう少しで七時になろうとしていた。スマホのアラームは十時に設定されていたのに、なんて絶妙な時間に起きてしまったのかと感じるが、あんな夢から目覚めることができて良かったとすぐに思い直す。

 テーブルに目を移すと、テレビのリモコンが見当たらないが、視界の隅にその姿を捉えることができた。枕の隣で添い寝をするように置かれている。ただそれだけだった。テーブルも部屋も片付いていない。

 ふぅーと息を吐いて、嫌な汗を流すために洗面所へ向かう。洗い物がちゃんとシンクに溜まっているのを確認して洗面所の扉を閉めて服を脱ぐ。

 夢の中での出来事だったはずなのに頬と左肩にはあの女の手の感触が残っているように感じてしまい、どこか気持ち悪くなって体がまた震えた。

 ひとまず、シャワーを浴びながら整理する。

 あの女はほぼ間違いなくこれまで夢の中に出てきていた女だと思う。現にあの女が夢の中に出てきて以降は毎回アラームより早く起きてしまう。あの女が出てくることを体が拒むように睡眠が途切れる。今回もご多分に漏れず、やはりアラームより早く起きてしまった。

 問題なのは、これまでこちら見ているだけだったのに今回はこちらに接触をしてきたことだ。しかも、他の登場人物の出番を全てなくした状態で。


〝あなたは私のもの〟

 

 女の最後の言葉が生々しさを持って背筋をゾワッと撫でる。左耳は現実で感じていないはずの吐息の感触を思い出す。

「はぁ……」

 不快感を吐き出すように溜息をつく。

 もっと平和な夢が見たいのに、見るのは不気味な女が出てくる夢ばかり。昨日の夢もそう何度も見たい類いの夢ではないし、いつになったら二度寝したくなるような夢を見ることができるのか。そして、いつになったらテレビのリモコンがジッとしていてくれるようになるだろうか。

「病院行った方がいいのかな……」

 そうひとりごちてシャワーを止める。

 部屋に戻って時計を確認すると長針の先は四と五の間くらいにいた。

 改めて感じるが、なんと絶妙な時間なのだろうか。今から二度寝したら余計眠くなりそうだし、かと言って五時間しか眠っていない体は微かに眠気を訴えているし。

 どうしたものかと思案していると、スマホにメッセージが届いていることに気付いた。

 アプリを開くとメッセージが姉からのものだと分かった。

 みお:仁科楓にしなかえでさんって高校の時同じクラスだったよね?

 唐突の不思議なメッセージに小首を傾げた。

 岳:二年と三年の時に一緒だったよ、確か

 同じクラスではあったけど、そんなに話したことはなかったと思う。特別親しかったというわけでもない。

 どうして急にそんなことを聞くのだろうと不思議に思いながら姉の返信を待っているとニュース記事のURLが送られてきた。

〝大型トラックにはねられ19歳女子大学生死亡 東京〟

 頭の中は途端に一面白く染まった。

 みお:これ仁科さんかな?

「……いや」

 確かに仁科さんも大学はこっちだって会話しているのを聞いたことがある。

 でもそんなこと――。

 URLに触れるのを躊躇する指が何とか触ったのか、ニュース記事が表示される。


〝この事故で東京都○○市の大学生、仁科楓さん十九歳が死亡しました。〟


 その一文は頭に強い衝撃を与えるのに十分なものだった。

 特別親しかったわけではない。話したことなんて数える程度だったと思う。それでも、同級生が亡くなったという事実は重く感じた。

 ニュース記事を読んでいくと、息を呑むような情報が目に留める。

 亡くなったのは一昨日の夜、事故現場は新歓会場とほど近い交差点。

 通知音で我に返り、メッセージ画面に戻る。

 みお:違う人かな?

 同姓同名の別人という可能性もあるかもしれないが、

 岳:分かんないけど、多分そうかも

 一応あとで地元の友達に聞いてみよう。

 みお:そっか

 みお:岳も気を付けてね

 姉のメッセージを確認してスマホを置いた。

 いつの間にか眠気はすっかり消え失せた。

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