3章 青いはな②
リビングに通されると久遠とかれんちゃんはソファとローテーブルの間に腰を下ろした。
「おねーちゃん、プリキュアかける?」
「プリキュアかぁ――描けるかな?」
そんな会話をしながらかれんちゃんが持って来たお絵かき帳を広げている。
手持ち無沙汰に突っ立っていると、キッチンからお茶を持ってきてくれた女性と目が合う。女性は微笑んで、
「どうぞこちらに」
ダイニングテーブルにコップを一つ置いた。すいませんと小さくお辞儀しながらそちらへ向かうと、女性は会釈をしながら横をすれ違い、久遠とかれんちゃんのいる方へと向かった。ローテーブルの邪魔にならなそうな場所にコップを二つ置いて、こちらへ戻ってきた。
女性は対面に座りながら申し訳なさそうに口を開く。
「ごめんなさいね……。デート中でしたよね」
「えっ……、いやっ、違います違います! 全然デートとかじゃないんです! あの人はただの大学の先輩で」
「え、あら、そうなの……! ごめんなさい、てっきりお付き合いされてるのかと思ってしまって」
女性は自身の勘違いに恥ずかしそうに笑う。少なくともこちらサイドとしては付き合っているとは思っていない。
「あの……、凄い見られてますよ?」
「え?」
女性の言葉に振り返ると久遠がとても不満そうな顔でこちらをジト―と見つめている。いや、睨んでいる。
「あぁ……、いや、お気になさらず」
ハハと誤魔化した笑いを浮かべながらコップを手に取る。女性は何かを悟ったかのように納得顔を浮かべてから上品にふふっと口に手を当てた。
ひとまず、茶色の液体が入ったコップを口に運ぶ。乾いた体に麦――ほうじ茶か、これ。
とりあえず、そんなこととコップを置いて久遠とかれんちゃんの様子を見ようと振り返っている途中でふと一角に飾られた写真立てが目に入る。綺麗な若い女性がかれんちゃんと父親らしき男性と三人で写ったその写真は実家にある写真を思い起こさせた。
「……あの写真の女性が――」
目の前に座る女性に訊ねると、ゆっくりと頷いた。
「えぇ。かれんの母親です」
女性は悲しそうに、淋しそうに写真立てに目を向ける。その姿に胸がゆっくりと締め付けられる。その目は何度も見た目にとても似ていた。
「あ、お花も買っていただいたそうで。本当にありがとうございます。かれんが嬉しそうに話してました。青い花買ってもらったって」
「いえ、そんな……」
自分が買ったわけではないので、少し微妙な気持ちになりながら答える。
「あの……その……、かれんちゃんのお母さんは交通事故かなにかで……?」
女性はやり切れない顔をして重く頷いた。
「横断歩道を渡っている時に居眠り運転の車にはねられてしまって……」
「そう……ですか」
改めて聞かされると心が下に落ちていくような感覚を味わう。
〝母は繧ゅ≧豁サ繧薙〒縺?k〟
「……それはご愁傷様です」頭を下げる。そして、唇を少し噛む。
「ご丁寧にありがとうございます」
顔を上げると女性も頭を下げていたことに気付く。女性が顔を上げたタイミングで訊ねる。
「かれんちゃんはよくあの場所にお花を供えに行ってるんですか?」
「はい。かれんは
「毎日……」
「いつからか、あの場所に供えたお花が翌日になると無くなるようになったそうで、〝お母さんが喜んでくれている〟って嬉しそうに――」
女性は優しさと哀しさが入り混じった笑みで視線をこちらの背後へと向けた。その視線の先へ振り返れば、かれんちゃんが楽しそうに久遠と笑い合っている。
*
ソファに寝転がりながらゲーム画面を見つめる。誰が見るでもないテレビの音を聞きながら、実際に聞こえてくるはずはない入浴中の父親ののんきな鼻唄を何となく感じながら手を動かす。ダイニングテーブルの方では母が座って何かをしている。
「それこの前の旅行の写真?」
リビングにやってきた姉の声がダイニングテ―ブルの方から聞こえる。
「うん。そう」
「へぇ……。にしても、お母さん全然変わってないよね?」
「そんなこと言っても何もあげないよ?」母の嬉しそうなニヤニヤ声が聞こえる。
「そんなんじゃなくて、ほら。これ」
「うわぁ、懐かしい。長崎に行った時の。いつだっけ?」
「えっと、私が――小二の時だ……!」
「うそ……⁉ そんな前⁉」
「そうそう、そうだよ。だって、岳がまだ三歳とかでしょ、この感じ。初めて四人で行った旅行だよ。岳可愛いなぁ」
「岳は今でも可愛いでしょ?」
「ちょっと! 聞こえてるから!」
こちらの抗議の声に二人はふふっと笑い合った。
「でも、こう見ると岳も大きくなったよね。年々お母さんに似てきたし」
「そうね」
母の感慨深そうに微笑む声に背筋がムズムズと少し恥ずかしく感じる。
しばらく二人がダイニングテーブルで話していると、父がやって来た。
「お、この前の写真か。これ、岳がもう海入らないって言った時のやつだ」
「ウミヘビ見たって言ってね」
「絶対見間違いだろ」
「見間違いじゃない! 絶対見た!」
「紐か何かだよ、絶対」父の呆れたように笑う声にムッとする。
「絶対そうだもん! しかも、ウミヘビって毒があるんだよ? 危ないもん!」
美ら海水族館でガイドさんがそう笑いながら言っていた。思い出すだけでゾワゾワする。
三人の小さく笑う声が聞こえる。
「……じゃあ、来年は海じゃなくてプール行こうか? プールだったら絶対ウミヘビいないし」
姉の優しい声がすぐ上から聞こえる。
「プールだったら、まぁ」
「よし。じゃあ決まり。ほら、岳もおいで」
姉はこちらの頭を撫でてダイニングテ―ブルの方へと戻っていく。起き上がってそちらを見れば、母と父がアルバムをめくって懐かしむように微笑みあっている。姉もそこに加わる。
母と目が合う。優しい笑顔で手を招く。
*
「懐かしい――」
女性のぼそりと呟く声に振り返る。女性は鼻を啜りながら微笑んだ。
「あんな風によく遊んでたんです、汐里さんとかれんも。楽しそうに笑って。それをこうやって眺めてるのが私は好きだった。こんな平穏な日常が好きで……」
「そうですか……」自分と似ている。
「どうしてなんですかね……。ただ普通に生活していただけなのに。神様も酷いことしますよね。汐里さんとかれんを引き離すなんて……。かれんにはこの先母親の存在が必要になる場面もあるだろうし、汐里さんも大きくなっていくかれんを見たかったはずなのに。本当にどうして……」
女性は下を向いて涙を拭った。コップの中の氷は小さく音を奏でた。
「ごめんなさいね、こんな話しちゃって」
「……いえ、全然」
微笑みを貼り付けた顔で首を横に振って、また久遠とかれんちゃんの方へと目を向ける。
「また遊ぼうね、かれんちゃん!」
久遠は見送りに出てきたかれんに向かって微笑んだ。
〝うん!〟とかれんは笑顔で大きく頷いた。
「またね! おねーちゃん! おにーちゃ――」
ニャー
鳴き声のした方を見るとキジトラ柄の猫がこちらへ近付いてくる。
「あ、みーちゃんだ!」
かれんは嬉しそうに猫に近付くとしゃがんで頭を撫でた。
「あら、みーちゃんが来たの?」
後から出てきた女性は目尻を下げて猫を見た。
「飼い猫ですか?」
「いえ、この辺にいる地域猫です。かれんや汐里さんに懐いていて、よく家に来るんです」
「へぇ、そうなんですね」
久遠はそう言って猫と戯れるかれんを眺める。
「碧海さん!」
今度は人の声がしてそちらを見ると四〇代くらいの気の良さそうな女性が袋を持ってこちらへ近づいてきた。
「あぁ、
「どうも。かれんちゃんもこんにちは」
猫と戯れていたかれんちゃんは岩城さんと呼ばれた女性を見て、
「こんにちは!」
元気よく挨拶をした。岩城さんは満足そうに微笑みながら、久遠と自分に目を向け、かれんちゃんの祖母に訊ねた。
「こちらの方々は?」
「かれんと遊んでくれたんです。今丁度帰られるところで」
岩城さんは〝へぇ〟と相槌を打ちながらこちらを観察するように見て、ニヤリと笑った。
「デート?」
「違います!」「そうです!」
ムッとした顔で久遠を見る。久遠も同じような顔で同じようにこちらを見た。
「いいわね、青春。私もこんなカッコいい男の子とデートしたかったわ」
岩城さんはそう言って笑った。背筋がむず痒くなる。
「ダメですよ。この子は私のものですから」
久遠はこちらの腕をからませながらふふっと笑った。
「ちょっとくらい貸してくれないかしら?」
「ダメです」
岩城さんと久遠はそう言って笑い合った。どんな顔をするのが正解か分からず、とりあえず顔を背けておく。
しばしかれんちゃんの祖母、岩城さんと久遠が世間話をしてから久遠が左手の腕時計をチラッと確認した。
「じゃあ、そろそろ私たちはこれで」
「あら、もう行っちゃうの? あ、そっか、デート中だもんね」
岩城さんはニヤリとこちらを見る。だから、違うって。
「あ、そうだ! せっかくだからこれ持っていって」
岩城さんはビニール袋を久遠に強引に渡した。久遠は戸惑いながら〝ありがとうございます〟と受け取り、中身を確認した。
「さくらんぼだ」
こちらを見ながらビニール袋の中を見せた。
「親戚からたくさん送られてきてね。碧海さんにお裾分けしようと思って持って来たの」
「え、いいんですか?」
「いいのいいの。碧海さんの分はまた持ってくるし」
「いつもいつもありがとね、岩城さん」
岩城さんの言葉を聞いた女性は感謝の言葉を口にした。
「いいんですよ。ほんとに食べきれないくらい送ってもらったので。じゃあ、あとでまた来ますね」
岩城さんはニコッと笑って言った。
「すいません。持ってきてもらった碧海さんの分を頂いてしまって」
「全然気にしないで。そのさくらんぼ凄く美味しいですから、お二人で是非」
女性はそう微笑んでからかれんちゃんの方を見た。
「ほら、かれん。お姉さんたちもう行っちゃうよ?」
「あ!」
猫からこちらへ視線を移したかれんちゃんはこちらへ戻ってくる。
「またね、かれんちゃん」
久遠はかれんの頭を撫でた。
「またね、おねーちゃん、おにーちゃん!」
改めて別れの言葉を口にしたかれんはニコッと笑った。かれんちゃんの後ろで頭を下げた女性に2人で頭を下げて碧海家を後にした。しばらく岩城さんと三人で歩いていく。
「ほんとお似合いよねぇ。画になるわぁ」
岩城さんは朗らかに笑いながら指で四角を作ってこちらを覗いた。久遠は嬉しそうに〝ありがとうございます〟と笑った。
「でも、どうしてデート中にかれんちゃんと遊ぶことになったの?」
「かれんちゃんが交差点の所でお花を供えているのを見かけたんです。それで色々あってお家にお邪魔することになって」
久遠の言葉に岩城さんは〝そう……〟と沈痛な面持ちを浮かべた。
「かれんちゃんのお母さん、とっても良い人だったのよ。旦那さんとも、もちろんかれんちゃんとも凄く仲良さそうで、見てるこっちが幸せな気持ちになっちゃって。それがあんなことになるなんてね……」
「そうなんですね……」
久遠もどこか悲し気な表情をした。
「かれんちゃんも毎日お花供えに行って……。本人はそこまで色々考えているわけじゃないと思うけど、その姿を見ると胸を締め付けられるわね……」
「毎日……」久遠はゆっくり頷きながら呟くように繰り返した。
「なんか供えたお花が次の日になると無くなるらしくて、かれんちゃんはそれが嬉しくて毎日欠かさずに供えに行ってるって言ってました」
こちらの言葉に久遠は振り返り〝無くなる?〟と聞き返した。それに頷くと、
「う~ん、そうか……」
久遠は何かを考えるような素振りを見せた。
「誰かが持って行ってるんですかね?」
「どうかしらねぇ。あ、じゃあ私はこっちだから。じゃあ、デート楽しんで。じゃあね」
岩城さんは笑顔で手を振った。久遠と一緒に会釈をすると岩城さんは背を向けて歩いていった。そこから、久遠の隣に並び、来た道を戻っていく。久遠は依然として何かを考えているように黙って歩いている。
「どうしたんですか?」
そう訊ねると久遠はふっとこちらを見た。
「あぁいや……もしお花を持っていっているのが幽霊――かれんちゃんのお母さんだったらって思って……」
「かれんちゃんのお母さんが?」
「うん……。考えすぎかなぁ? でも、確認しといたほうがいいよなぁ。どうせ今日泊まりだし……」
久遠は自問自答するように独り言を口にした。数歩歩いて久遠の言葉に引っかかって立ち止まる。
「……今〝泊まり〟って言いました?」
「え、うん」
久遠は立ち止まってさも当然というふうに答えた。
「……一人で?」
「何言ってるの? 岳と一緒に決まってるじゃん」
また当然のことというような口調でそう言った。
「……えっ? だってデートって言ったじゃないですか」
「デートが日帰りとは限らないでしょ? それに私日帰りなんて一言も言ってないよ?」
久遠はニヤリと笑った。確かにここまでの時間で〝日帰り〟とは言っていないし、日帰りかどうかも聞いていない。だって同じ県内だったし、割と近場だし。普通日帰りって思うでしょ。
「ホテルも当然取ってあるんだよ。ちなみに、部屋はスイートだよ? どう?」
久遠は誇らしげに笑顔を浮かべた。
「スイート……あ、部屋って別々とか――」
「カップルが別々の部屋に泊まると思う?」久遠は笑顔のまま圧を醸し出す。
「……ですよね」
再び二人並んで歩き出す。ひとまずどうやって逃げようか――。そんなことを考えていると久遠が腕をガッチリ組んできた。
「え、何ですか?」
「岳が逃げないように」
久遠は全てを見透かすかのような視線をこちらに向けた。その視線が図星に刺さって顔が自然と背く。
「……そんなわけないじゃないですか」
「そういうのは私の目を見て言ってよ。……そんな私と一緒に泊まるの嫌?」
寂しそうな久遠の声に見ると、今まで見たことがない悲しそうな表情を久遠は浮かべていた。
「あ、いや、そんなことは――」
「だよね」途端にケロリとした顔をする久遠。
「えぇ……」騙された……。
「一緒にスイートルームだもんね。超絶美人でスタイル抜群なミス慶名のこの私と」
謙遜という言葉を知らないミス慶名は胸を張った。確かに何一つ間違ってはないけど。
「でもまぁ、岳がどうしてもっていうなら帰ってもいいよ?」
「え、ほんとですか?」
「その代わり、私は独りで泊まるけどね。それでインスタに〝彼氏と泊まるはずだったホテルに一人で来てます〟ってあげるからね?」
久遠はこちらをチラッと見る。
「……それはずるくないですか?」
その言葉と一瞥の意味は脅しだ。そんな投稿されたらどうなるか火を見るより明らかだ。
「どうする?」
久遠はニヤニヤと選択肢が1つしかない問題の答えを待つ。
「……分かりましたよ」
答えを聞いた久遠は勝ち誇るようにフフフと笑った。
「でも着替えどうするんですか? 持ってきてないですよ?」
「今から買い行こう!」
「今から?」
交差点で立ち止まる。信号の柱にはまだ花たちは置かれている。
これまで一度も泊まったことのないスイートルームはたまにドラマや映画で観るものよりも数段、思っている数倍は凄かった。
「広……」とにかく広い。二人でこんな広さが果たして必要なのか甚だ疑問ではあるほどに。
「スイート泊まるの初めて?」
久遠は冷蔵庫に貰ったさくらんぼを入れながら訊ねた。
「初めてですよ。てか、人生で一度も泊まることないって思ってました」
「良かったでしょ? 泊まりで」久遠はこちらを見ていたずらっぽく笑った。
「良かったかは分からないですけど……。ベッドは……二つあるか」
これなら床で寝ないで済むと一瞬思ったが、ソファもあるから床で寝る必要ないかと納得した。
「別に1つしか使わないけどね」久遠がそばにやってきてニヤリと口にした。
「いや、無理です」
「いいじゃん! 一緒のベッドで寝るくらい!」
「嫌です!」
「なんでよ! こういう時くらいはいいでしょ? いっつも部屋にも入れてくれないし、一緒のベッドで寝てもくれないんだし!」
「無理です!」
「嫌だ! 一緒のベッド! 何にもしないから!」
男の言う信用してはいけない言葉ランキング1位のそれを口に出す久遠との争いは平行線を辿り、最終的に決着はじゃんけんに委ねられた。
「もう! しょうがないなぁ……。今日だけだよ?」
グーを出した久遠は不満そうに頬を少し膨らます。
「これからも一緒のベッドで寝ることなんてないですよ」
寝床も確保できた所でスイートルームの探索を続ける。
「こうなったら岳が寝てる時に潜り込むしかないか……」
「聞こえてますからね! こっちは――え⁉ 露天風呂⁉」
部屋に露天風呂まであるものなのか、スイートルームとは。すげぇ。
「わぁ、景色いいね!」
後ろから久遠がこちらへ近付いてくる。
「夜だったらもっと良い感じになりそうですね」
久遠は〝だね〟とふふっと笑った。そして、その笑みは邪気を含んだニヤリとしたものに変わる。
「一緒に入るよね?」
「……は?」
「だって、私は一緒のベッドで寝たいのにそこは譲歩したわけだからね……? 一緒のベッドで寝ない代わりに……ね?」
久遠がグイッと近付いてくる。目が獲物を見るような爛々した目をしている。
「……そういえば、下に温泉ありましたよね?」
「うん。それはあるけど部屋に露天風呂が――あ! ちょっと!」
ライオンから逃げるガゼルのようにそそくさと部屋へ戻り、急いで廊下への扉を開く。
***
土曜日も日曜日も待ち続けた。ソファの左端に小さく蹲りながら冷めたようなリビングでただただ母の帰りを願い続けた。
父は土日の間ほとんど寝ないでずっと探し回っていた。姉も色んな人に連絡を取ったり、自身も探しに行ったりと二人とも奔走していた。自分だけが何もできないままソファの左端で何かに押しつぶされそうになっていた。
月曜日。母の姿を見ることがないまま週が明けた。正直学校なんて行けるような状態ではなかったし、行きたくなかった。ぽっかりと穴が開いたような家から姉と一緒に出る。
「いってらっしゃい」
会社を休んで探すと言っていた父が笑みを貼り付けてこちらの背中に言葉を投げかける。
〝いってらっしゃい〟
いつも聞いていた母の声が頭の中で聞こえる。玄関まで見送りに来た母の姿が浮かぶ。母のニコッと笑う顔を思い出す。胸が苦しくなった。
学校に到着すると、みんながよそよそしかった。いつも話しかけてくれる友達やクラスメイトがぎこちなく離れていく。教室に入れば、ガヤガヤとしていたのがこちらを見て一瞬で水を打ったように静まり返った。自分とどうやって接したらいいのか、どんな言葉をかければいいのかみんな分からなかったのだと思う。声をかけてきてくれたのは親友と担任の先生だけだった。〝大丈夫か?〟と。その言葉に涙が零れそうになった。
大丈夫なわけがない。心はギリギリの所で何とか立っていた。その足はプルプルと震えている。不安がその足を狙い続けている。
「大丈夫」
それでも、顔にぎこちない笑顔を浮かべて言った。絶対どう見ても大丈夫には見えなかっただろうが、その二人はそれ以上深く探ってこなかった。
居心地の悪い教室で過ごす間もずっと意識は我が家に向かっていた。
もしかしたら、母が帰ってきているかもしれない。
このままずっと母は帰ってこないかもしれない。
二つがグルグルと頭の中で周り続け、希望と絶望を交互に心は感じていた。
授業をする先生の声は耳を素通りする。休み時間は机に突っ伏して絶望と戦う。給食は味を感じることができない。そうして、放課後になった。一目散に家へ帰った。
玄関を開けて出迎えたのは誰もいない家だった。
いつもは母がいるはずの温かい家は真っ暗で静かで冷たくて空っぽだった。
***
「おかえり……」
部屋のインターホンを押して出てきたのはいじけたように不満げな顔で頬を膨らましている久遠だった。〝ただいまです〟とニコッと笑ってその横を通り過ぎソファに腰を下ろす。
「……どうだった? 一人で入る温泉は」
「良い湯でした」
久遠は〝ふ~ん〟といじけた相槌をして一人用のソファに座った。
「別にいいじゃん……、一緒に入ってくれたって。一番楽しみにしてたのに」
「嫌ですよ。どこ楽しみにしてるんですか」
「なんでよ! 普通カップルがホテルに泊まるってなったら一緒のお風呂に入るでしょ⁉ しかも、スイートルームの露天風呂だよ? 景色も最高に良いし、何より二人っきりだよ、二人っきり! あんなことやこんなこと……」
ムフフとにやけている久遠の座っている位置から少しだけ離れた場所に座り直す。
「……ていうか、大丈夫なんですか?」
「ん? 私は大丈夫だよ? いつ岳に見られてもいいように常に完璧な――」
「いや、先輩じゃないです。お花の話ですよ。こうしてる間にも誰かがお花を持って行っちゃうかもしれないじゃないですか」
「なんだそっちか。そっちは大丈夫だよ。一応幽霊に見張りお願いしてあるから」
「幽霊……」
「そう。何かあれば知らせてくれるから今はゆっくりしてていいよ。何ならあそこの露天風呂にでも――」
「入らないです」
久遠はムッとした顔で頬をぷくぅと膨らます。
「じゃあ幽霊が知らせてくれるまでここでゆっくり待機って感じなんですか?」
「ううん。あとで私たちもあの交差点の下の砂浜辺りに行ってそこにいようかなって。ここからあの場所まで距離あるし、すぐに確認できないでしょ?」
〝確かに〟と頷く。ここからあの場所まで走らないといけないのは嫌だ。温泉入ったし。
久遠は立ち上がって腰高窓の外を眺めながら大きく伸びをした。
「……かれんちゃんのお母さんなんですかね? お花持って行っているの」
久遠の背中に向かって問いかけると、久遠は窓の外を眺めたまま答えた。
「どうだろうねぇ……。あの交差点にもかれんちゃんのお家にもお母さんらしき幽霊はいなかったから、もしかしたらもうあの世に行っちゃったのかもしれない。でも、この世にまだいたとして、お花を持って行っているってなるとそれはそれで問題なんだよね」
「問題?」
訊き返すと久遠はこちらを向いて腰高窓にもたれかかって口を開く。
「展開としては良い話なんだけどね。かれんちゃんがお供えしたお花をお母さんが持って行っているって。でも、それってかれんちゃんのお母さんが物に触れることができるってことでしょ? 物に触れることができるってことはやろうと思えば人に危害を加えることができるってこと。岳に憑いていたあの子みたいにね。だから、幽霊が物に触(さわ)れてしまうのならあの世に行ってもらわないといけないんだよ」
「……でも、物に触れることができる幽霊がみんながみんな人を傷つけようとするとは限らないじゃないですか。優しい幽霊もいますよね?」
こちらの言葉に久遠は難しい顔をした。
「それはそうなんだけどね……。ただ、物に触れることができるってことはそれだけ想いが強いってことだからね。強すぎる想いは危ういんだよ」
「想いが強いと物に触れるんですか?」
「そう。でも、普通は何年とか長い時間を想い続けてやっと物に触れるようになるらしいよ。もちろん岳に憑いてたあの子みたいに例外もあるけど、想いが強くないと触れないし、そこまでの想いは大抵あんまりよくないものが多いよね。恨みとか憎しみとか。それに愛情とかだったとしてもそこまでの強い愛情は危険な場合もあるからね。好きな人への独占欲が強くて監禁しちゃうとか、近付いて来る異性を傷つけたり、好きな人自体を刺しちゃったり……たまにあるでしょ? そういう事件」
そんなようなニュース記事を見た記憶がふと蘇り、頷く。ほんの少しゾッとしたことを思い出して体が少し震える。
「まぁ結局、生きた人間だろうが幽霊だろうがいき過ぎた想いを持つことは危険ってことだね。それが愛情だったとしても、いつかそれが狂気になるかもしれないし。
そんなわけで、もしかれんちゃんのお母さんが物に触れてしまうのなら、否が応でもあの世に行ってもらわないといけない。でも、そんなことしたくないし、そんな結末嫌でしょ? だから、私はお花を持って行っている犯人がかれんちゃんのお母さんじゃないことを祈ってる。物に触れないのなら、今すぐあの世に行く必要はない。もう少し……かれんちゃんが大きくなるまではかれんちゃんを見守っていて欲しいしね」
久遠は穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見た。その言葉がまた少しだけ胸に刺さったことがバレないように気を付けながら頷く。
「……そうっすね」
頭に浮かぶ母の姿にゆっくりと胸が締め付けられていく。
「じゃあ私は一人で――独りっきりで露天風呂にでも入ろうかなぁ」
久遠はチラチラとこちらを見ながら続けた。
「あぁあ……独りは寂しいなぁ? 誰か一緒に入ってくれないかなぁ? 今なら私の裸、隅から隅まで見られるのになぁ」
「……ごゆっくり」
微笑みの仮面を貼り付けて久遠に言う。
「うん? 岳? 違うよ?」
「じゃあ先輩が露天風呂に入ってる間下の通り見に行ってますね」
「だから違うって、岳。私誘ってるんだよ? 一緒に入らないかって」
「いや、いいですよ、そんな。お独りでごゆっくり満喫してください」
「なんで一緒に入ってくれないの! そんなに私の裸に興味ないの? それとも魅力がないの⁉」
久遠は不満が詰まった視線をこちらに向ける。
「いや、だって……見たら対価みたいなの要求されそうだし」
「するわけないでしょ、そんなこと! まぁ、でも――私の裸見られるのは私の結婚相手だけだから……ね?」
「いってきます」
「なんでよ! どうせいつかは見ることになるのに」
久遠はいじけたように呟いた。そんないつかが来ないことを願うばかりだ。
「じゃあごゆっくり。あ、露天風呂から出たら連絡くださいね」
久遠に背を向けて扉の方へ歩いていく。
「あ、待って。私も行く!」
後ろから久遠が追いかけてくる気配がした。
オレンジ色の空から深い青色の海へと太陽が下っていく。その景色と記憶の中にある景色がどこか重なった――。
「綺麗だね」
声のした方を見上げると飲み物を買いに行っていた久遠が炭酸のペットボトルをこちらに差し出していた。
「あぁ……ありがとうございます」ペットボトルを受け取ると久遠は隣に腰かけた。
「何考えてたの?」
「え……いや――」
内緒で買ってもらったおもちゃを隠すように記憶と感情を頭の中の箱の奥へと隠して笑った。そして、バレないように咄嗟に思いついたことを海の方を眺めながら口にした。
「……幽霊が視えるのってどんな感じなのかなぁって。フィクションだと色々あるじゃないですか。生きている人と変わらないから間違っちゃうとか、反対に幽霊はすぐに分かるとか」
久遠はこちらの言葉の裏を疑うことなく〝あぁ〟と頬に人差し指を当てて考えるように口にした。
「う~ん――でも、幽霊は幽霊だってすぐに分かるかなぁ?」
「それは透けてるからとか?」
「ううん。感覚だね。この人は生きている人間じゃないって何となく分かる。とは言っても、私的には幽霊は生きている人と大して変わんないけどね。はっきり視えるし、会話もできるし。だから生きている人と接する時と同じ感じで接してるかな」
「へぇ。先輩っていつから幽霊が視えるようになったんですか? 生まれつき?」
久遠は〝うん〟と頷きながら緑茶のペットボトルのキャップを開けて、ペットボトルに口をつけた。
「怖くなかったんですか? 初めて視えた時とか」
「別に怖いとかはなかったよ。あ、でも頭から血が出てたり、顔の半分なかったりする幽霊を初めて視た時はちょっと怖かったかも」
久遠はふふっと笑いながら全然笑えないことを口にした。内心でゾッとした。
「視えない人は視えないから幽霊に怖いイメージ付けちゃうけど、ほとんどはそんなに怖くないからね。そもそも幽霊っていっても元は普通にこの世で生活していた人だしね。ただ姿が違うだけの話だよ」
久遠は沈んでいく太陽に目を向けながら〝まぁ、危害を加えない幽霊限定だけどね〟と付け加えた。
「まぁ、言ってることは分からないでもないですけど……」
「岳は怖いって思うの?」久遠はこちらを向いて首を傾げた。
「それはまぁ……。だって、テレビとかだとそんな感じじゃないですか」
「恐怖映像みたいな?」
久遠の言葉に頷くと、久遠はクスっと笑った。
「あんなのほとんど作り物だよ?」
「それは分かってますけど……! でも、怖いのはこわ――」
今〝ほとんど〟って言わなかった……?
「あ。もしかしてそれ見てトイレ行けなくなってお母さんとかに付いて来てもらったんでしょ?」
久遠の言葉を思い返していると、その久遠はニヤニヤとした表情を浮かべた。
「……いや、一人で行けましたし」
「可愛い」
「だから行けましたって!」
「想像するだけで可愛いねぇ。小っちゃい岳が〝ねぇ、トイレ付いて来て……〟って甘えてくるんでしょ? はぁ可愛すぎるッ!」
一人で盛り上がっている久遠を横目にムッとした顔をしてしまう。なまじ間違ってないから何とも言えない気持ちになる。言った相手は母じゃなくて姉だったけど。
「ねぇ、今度岳が小さい時の写真見せてよ! ていうか何枚か頂戴!」
久遠がグイッとこちらに顔を近づけてくる。
「え、嫌ですよ! なんで先輩にあげないといけないんですか」
「いいじゃん! 彼女なんだし!」
「彼女じゃないです! てか、彼女だったとしても普通恋人の小さい頃の写真頂戴とはならないでしょ。それに、写真は実家にありますし」
「じゃあ一緒に行こうよ、岳の実家。挨拶もしないといけないしね、〝岳君と結婚を前提に付き合ってます、久遠せつなです〟って」
「絶対やめてください!」
そんな冗談を真に受けてしまう人間がいるのだから。あの父親が。
「岳の地元って愛知だよね?」
「……ほんとになんでも知ってるんですね」地元がどこって話したことないのに。
「やめてよ、そんな引いた顔しないで。彼氏のこと何でも知りたいって思うのは普通のことでしょ? それに全部が全部知ってるわけじゃないよ。これから知っていくこともたくさんあるだろうし」
すごく良い風に言っているけど、久遠に教えてもいない取っている授業の時間割とかバイトのシフトとか知り得ない情報を知っているのは恐怖でしかない。そして、はたと気付いた。実家の場所も知られているのではと。
夕焼けに照らされた久遠の横顔を見る。この人はどこまで知っているのだろうか。
「でも、意外なんだよなぁ、岳の地元が愛知って」
「なんでですか?」
「だって、岳って標準語じゃん。私の同級生で岳の地元と近い所の子いるけど、その子は結構方言出てたし」
「あぁ。まぁでも、うちの方言ってそこまで特殊じゃないですし、うちの家族も結構標準語だったんで。友達とかは方言使ってたんですけど」
そう言いながら海へと視線を移す。もうすぐ太陽が完全に隠れてしまう。夜がやってこようとしている。
「ふぅん。じゃあ方言で喋ろうと思えば喋れるの?」
「まぁ、なんとなくなら多分……」
「ちょっと喋ってみてよ、方言で」
「喋ってみてよって……。そんなこと言われても別に大して変わんないですよ?」
「え、じゃあ〝好き〟ってなんて言うの?」
「え、〝好き〟……? いや、別に普通に――」
何気なく久遠の方を向くと、スマホのカメラがこちらを向いていた。
「普通に?」久遠は続きを促すように言った。
「……普通です」
「言ってよ!」
「嫌ですよ! 言うわけないでしょ」撮られているなら尚更。
「ケチ!」
悔しそうに頬を膨らます久遠を横目に再び目の前の景色を眺める。夜の藍色が夕暮れのオレンジ色の空をゆっくり侵食し始めている。その綺麗なグラデーションに目を奪われる。
「ねぇ、岳」
「だから言いませんって」
「好きだよ」
「……ッ⁉」見ると久遠は優しく微笑んでいた。
「そういえば言ってなかったなぁって思って。ドキってした?」
「……してないです」
「顔赤いよ?」
久遠は悪戯っぽく笑った。
「そんなことないです……!」
すぐに顔を背けるように目の前のグラデーションへ目を向ける。目はもう奪われない。
「ふ~ん」
久遠は満足そうに優しく笑った。
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