3章 青いはな①

 ***


「うん。いってくるね」

 ニコッと笑った笑顔を貼り付けた姉がそう言って家を出ていった。

 本当は自分も探しにいきたい。でも、姉が言ったようにこの家で誰かが待っていないといけないというのも分かる。それでも、ここでじっと待っているのは不安だった。

 住み慣れた我が家のはずのこの一軒家に独りぼっち。いつもこの時間なら母がいて、姉がいて、もうすぐ父が帰ってきて……。なのに、広いリビングに戻っても誰もいない。言い知れぬ恐怖が自分の足元に集まってくる。

 目をゴシゴシと擦ってソファの左端に腰かける。テレビを観る気も、ゲームをする気も全く起きない。ただ今は母が早く帰ってくるのを願うだけだった。

 静かな空間に時計の針が進んでいく音だけが鳴る。進めば進むほど母の身に何か良くないことが起きたのだという不安が大きくなり、心臓は早鐘を打つ。独りぼっちのこの状況に恐怖と寂しさで体が小さくなる。上から何か重いものがのしかかってくる。小さくうずくまるしかなかった。

 どれくらいの時間が経過したのか、玄関の扉が開く音がした。

 急いで玄関へ向かうと父がポカンとした顔でこちらを見た。もう限界だった。涙は勝手に流れ始め、どうやって止めるか分からなかった。こちらの様子に困惑気味に〝どうした?〟と訊ねる父に状況を説明する。泣きながら、言葉に詰まらせながら話すと父の顔はみるみるこわばっていった。父はすぐにその場で姉に電話をした。そして、父もまた家を出ていった。

「大丈夫」

 優しい微笑みを貼り付けた顔で頭を撫でた父はそう言っていた。

 またソファの隅で小さく蹲る。鼻を啜って、涙に懸命に抗いながら時計の針が進む音だけを聞く。不安はもう体中に溢れていた。恐怖と寂しさは自分のすぐ隣でジッとこちらを見つめていた。重いものはその重みを増して顔を下げさせた。折節時計を確認しても自分が思ったよりも針は進まなかった。

 そうして時間の感覚が分からなくなりそうになった頃、再び玄関から音がした。

 いたのは不安げに唇を噛む父と複雑な表情を浮かべる姉だった。姉はこちらを見るなり抱きしめる。〝ごめんね〟と鼻を啜りながら。

 父はまた母を探しに行くと言った。私も行くという姉を宥めて一人でまた家を出た。不安と不満が混ざった顔をした姉と一緒にその姿を見送った。

 ソファに座り、母の帰りを待った。姉もすぐ隣に座った。広いソファなのに二人で固まってそれぞれの思いを少しでも薄くしようとした。隣にいる姉のおかげで恐怖と寂しさはどこか違う場所へ行った。その代わり、これまで混ざって顔を少ししか出していなかったのであろう不安はより強く感じられた。心臓は先ほどよりは弱くなっているが、それでもまだ鼓動は早い。

 いつもならもう寝なさいと言われる時間になっても、姉は何も言わず黙って隣で待ち続けた。言葉もなく、テレビの音もなく、ただただ時計の針の音が空しく響く。

 ゆっくり意識が遠くなっていく。姉は二人を包むように毛布を羽織った。不安でいっぱいの心と温かくなる体。起きていないといけないのに、瞼は景色をシャットダウンさせようと落ちてくる。

 気がつくと隣に姉はいなかった。カーテンの隙間から陽光が漏れている。すぐに母の姿を探す。


 気落ちした父と涙を流す姉しかいなかった。


 ***


 微睡みの中で聞こえた音の正体が一瞬分からなかった。そして、すぐに気付いた。

 インターホンの音だ。

 重い瞼をほんの少しだけ開けモニターの方を確認すると、確かにモニターが何かを映しだしているのが見える。宅配だろうか――。

 宅配ボックスに入れといてください。もしくは不在票を入れといて――。

 そう心の中で呟きながら夢の方へと歩みを進める。もう少し寝たい。

 あと一歩か二歩の所で再びインターホンの音が聞こえた。宅配ボックスに荷物が入らないのか、余程荷物を手渡ししたいのか――。

 仕方ないと溜息をついて、まだ眠れと落ちてくる瞼に少しだけ抗いながらふらふらとモニターへと向かう。そして、画面を確認せず感覚だけで通話ボタンを押した。一人暮らしを始めてもうすぐ三カ月。慣れたものだ。

「……ぁい」

 思ったように声が出ず、咳払いで声を整える。


『あ、おはよう! 岳!』


 慣れなければ良かったと心底後悔した。画面を確認することはとても大切なことだった。

 ここ二カ月ほどですっかり聞き慣れてしまった明るく元気な声にさっきとは違う類いの溜息が漏れる。

 今更画面を確認すると、そこにはローツインテール姿でにっこり微笑む彼女が映っている。

『今溜息ついたで――』一旦終了ボタンを押す。さて、どうしようか――。

 寝起きでゆっくり回る頭で考える。三度みたびインターホンが鳴り、画面にはムッと不満そうな顔が画面いっぱいに表示されている。カメラを覗き込んでいるらしい。こう見ると、どれだけ綺麗な顔の人がやってもホラー映画のワンシーンにしか見えない。これを知らない人にやられたらトラウマになるほどゾッとしそう――違う違う。

 全然関係のないことを考えていた頭を本題へと戻す。そうしている間にモニターは切れ、そしてまたインターホンが鳴る。

 さっきのはなかったことにしよう。

 ゆっくり回った頭はそう決めた。ずっと出なかったら諦めるだろうという一縷の望みに期待をして、ベッドへと戻る。多分五度目のインターホンを聞きながらブランケットを頭まで被って目を瞑る。

 六度目のインターホン


 七度目のインターホン




 勝った。

 フフフと笑いながらモニターを確認する。画面は既に真っ黒な状態。しかし、インターホンは聞こえてこない。鳴る気配もなさそう。

 これでバイトもない完全な休日になった。たくさんゲームもできる。今はひとまず再び睡眠を――。

 そう思った矢先、スマホが着信音を奏でた。

 嫌な予感を覚えながら一応スマホを確認すると画面には〝せつな〟とアイコンとともに表示されている。

 許否を押してスマホを置こうとするとまた着信音が響く。許否を押す。着信音が鳴る。許否を押す。着信音が鳴る。同時にインターホンも鳴る――。

 どうやらこれはこちらに勝ち目がないらしい。

 試合に負けたスポーツ選手のように項垂れながら応答を押してスマホを耳に当てる。

「……はい」

『おはよう。岳君』

 ニッコリと笑う久遠の声には怒りの成分が含まれているのか、どことない圧を感じる。

「……ざいます」

『彼女を無視するとは中々良い度胸だね?』

 ほんの少しだけ恐怖を感じながら言い訳を探す。

「それは……無視っていうか、今まで寝てたっていうか……」

『寝てたねぇ……。じゃあ、最初にインターホンに出たのは誰なのかな? 私にはしっかり寝起きの岳の声が聞こえたけど?』

「いや、それは……」

『それに電話も切れたんだけど、それは誰がやったのかな?』

『……幽霊とか?』

「あぁ、そっか。幽霊か。なるほどね。私霊感あるんだけど、幽霊いるか確認するね?」

「……ごめんなさい」

 しおらしく謝ると久遠はふふっと笑った。

『つくならもっとましな嘘つきなよ』

「それもそうですね」

 小さく笑う。

「じゃあ切りますね」

『ちが~う! こんなやり取りするために電話したんじゃないの! とにかくここ開けて!』

 久遠の大きな声にスマホを耳から離すと、それに合わせたかのようにインターホンが鳴った。

「もう……何しに来たんですかぁ。俺今日バイトあるんで寝ときたいんですよ」

『嘘つき。今日はシフト入ってないんでしょ? ちゃんと知ってるんだからね?』

 久遠がどうしてバイトのシフトを把握しているのかいよいよ怖くなる。梶谷にも横山にも言っていないのに。

 首を傾げながらモニターへと向かい、解錠ボタンを押す。

『デート行こ!』

「……でーと?」

『そうデート』

「……なんでですか?」

『デートしたことないじゃん、私たち』

「付き合ってないですからね」

『付き合ってるの! 岳はれっきとした私の彼氏! とにかく、いつも一緒に帰るとかしてないでしょ? 部屋にだって全然入れてくれないし』

 久遠はいじけた声で言った。

『そういうわけで、デートに行くのは決定事項だからね』

「えぇ……」

『〝えぇ……〟じゃない!』

 今日はゆっくり野球部を甲子園優勝へと導きたかったのに。

「……どこ行くんですか?」

 電話の向こうから階段を上る音が聞こえてくる中訊ねると久遠は答えた。

『海』

「海?」

『江の島行ったことある?』

「いや、ないです。江の島ってあの島みたいなところですよね?」

 ニュース番組とか漫画とかでしか知らないが、あの島のある場所が江の島だということは知っている。

『うん、そうそう。良いところだよ。しらす丼とか美味しいものもあるし』

「へぇ、しらす丼……」

 部屋の方のインターホンが鳴る。ドアの方へ向かう。

 カタッ――、カチャ――。

『岳?』

「はい?」

『ドアガード外してね?』

「……はい」

 閉めたばかりのドアガードを外してドアを開ける。



 ドアが開いた瞬間、飛び込んできた潮の香りが鼻腔をくすぐった。数年ぶりに嗅いだ海の匂いは家族で行った旅行の少し嫌な記憶の部分をピンポイントで記憶の棚から抜き出して広げた。

「わぁ、凄いね!」

 そんな複雑な心境を抱いた隣で白いオフショルのブラウスにデニムを合わせた久遠はこちらを向いてニコッと笑いながらそう感想を述べた。

 電車から降り、並んで改札へと向かう。

「……なんか意外です。先輩も普通に電車乗るなんて」

「そんなことないよ。普段から一緒に乗ってるじゃん、大学から帰る時」

「いや、それはこっちに合わせてるからじゃないですか。お金持ちの人って運転手付きの車で移動してるイメージです」

「あぁ……確かにお父さんは車で移動してるか。でも、私は電車で移動するの好きだから」

 久遠はそう言ってから〝それに……〟と横目でこちらをチラッと見てから、

「大好きな人が隣にいるからね」

「……そうですか。あのおじいさんが」

「岳のことに決まってるでしょ! あと満員電車だと岳がくっついてきてくれるから――」

 ムフフと笑う久遠。今度からなるべく離れようと心の中で誓った。

 改札を抜けると、六月の梅雨の時期には珍しい太陽が頭上で出迎えた。五月頃からだんだん熱いものをお届けしてくれているその存在は久しぶりの出番に張り切るかのように今日も今日とて熱のこもった光を差してくる。

「江の島……」

 日差しに少しうんざりしながら駅舎を振り返る。沖縄……? いや、竜宮城的な?

 駅舎の外観を不思議に思っていると不意に少し離れた場所から呼ぶ声がする。

「岳!」

 その声に振り返ると、久遠はスマホをこちらに向けていた。

「あ……!」

 スマホからこちらに視線を移した久遠は微笑みをこちらに向けた。

「写真撮らないでくださいよぉ」久遠に近寄りながら文句をたれる。

「いいじゃん。彼氏の写真を撮らない彼女なんていないよ? ふふ、良い写真」

「インスタに上げないでくださいね。ほんとに。彼氏と勘違いされるんで」

「岳は私の彼氏!」

 久遠はそう言うとこちらの肩を抱き寄せてスマホのシャッター音を鳴らした。そして、こちらを解放してから満足そうにスマホを眺めた。

「……それで、どうして江の島なんですか?」

 歩きながら久遠に訊ねると久遠は、

「海見たかったんだよね。たまにない? 海見たくなる時」

〝う~ん〟と伸びをしながら答えた。

「いや、全く」

 久遠は〝そっか〟と笑いながら海の方へ視線を向けた。

「そもそも、海苦手っていうか、あんまり好きじゃないっていうか……」

 久遠の視線に釣られて同じ方向を見ると例の島が見えてテレビで見たやつだと内心少し興奮する。

「なんで? 泳げないの?」

「泳げますよ。これでも小学生の頃はスイミングスクール行ってたんで」

 自慢げに言ってみるが、正直中学生以来泳いでいないので二五メートル泳げるか定かではない。

「なんだ。泳げないなら私が手取り足取り教えてあげようと思ったのに」

 久遠のニヤニヤと笑うその表情に教えてもらうのが怖くなる。

「でも、じゃあなんで苦手なの? 海水がダメ?」

 久遠の首を傾げた質問に少し嫌な記憶が顔をこちらに向けた。思わず顔をしかめてしまう。

「いや、その……沖縄行ったことあるんですよ。小五の夏休みに家族で」

「へぇ、沖縄。いいなぁ」

「それでその時に海で泳いでたんですけど、その時に……」

 思い返すだけで腕にブツブツと鳥肌が立つ感覚を味わう。

「その時に?」

「あの……蛇がいて」

「へび?」久遠はキョトンとした顔を浮かべた。

「海潜ってたらニョロニョロって……。それ見て怖くなって、それ以来海が苦手で」

 腕を擦りながら答えると久遠は吹き出してアハハと笑った。

「なにそれ、可愛い!」

「いや、マジで笑いごとじゃないですよ。はぁ、気持ち悪い」

 思い出すだけで胃がムカムカする。当時蛇を見たことを家族に言ったら今の久遠と同じリアクションをされた。姉は〝見間違いじゃない?〟と言い、父は〝ビビりだなぁ〟とケラケラ笑い、母は〝大丈夫だよ〟と微笑んだ。そして、その次の日くらいに行った美ら海水族館で実際にウミヘビを目の当たりにして海には絶対入らないと誓ったのだ。

 海が大きく見え始めるとあの沖縄旅行の記憶がどんどん溢れだしてくる。少し嫌なウミヘビの記憶も、家族で笑い合った記憶も、様々な記憶が頭を横切っていく。そして、それと同時に寂しさと後悔が押し寄せる。家族で行った最後の旅行。四人で行った最後の旅行。

「じゃあ岳にとってはトラウマなんだね、海って」

 久遠の言葉に我に返る。久遠を見ると優し気な笑みでこちらを見ていた。

「……そうですね。死んでも入りたくないです」

 感情をそっと背中に隠して何でもないように言った。そして、これ以上自分の話題にならないように久遠に訊ねる。

「先輩は海好きなんですか?」

 サーフボードを抱えたウエットスーツの男性や女性とすれ違いながら海岸沿いの道を歩いていく。

「特別好きってわけじゃないけど、なんかたまに無性に見たくなるんだよね」

 久遠はそう言って海を遠い目で眺めた。

「へぇ。海水浴とか行くんですか?」

「うん。ちゃんとビキニ着て。あ、結構ナンパされるんだよ」

「そうですか」

「嫉妬してよ!」

「なんでですか」

 不満げな顔をしていた久遠は〝あっ〟と何かを思いついた顔をした。

「夏休みなったらプール行こうよ」

「プール……」

「プールだったら蛇もいないし」

「まぁ、蛇はいないでしょうけど……」

「それに……」

 久遠はニヤリと口角を上げた。

「私のビキニ姿も拝めるよ?」

「はぁ」

「見たいでしょ? 私のビキニ」

「いや、別にいいです」

「なんでよ! 彼氏として0点の回答だよ? そこは〝見たい!〟とかさ、〝みんなには見せたくない……〟とか、色々あるでしょ?」

 久遠は頬を少し膨らませながら呆れたように言った。

「だって彼氏じゃないですもん」

「彼氏! それに彼氏じゃなくても普通はドキッってするセリフだよ? それをミス慶名が言ってるんだよ。ドキッとしない男の人いないよ?」

「そもそも暑いのが嫌いなんですよ。歩いているだけで汗かくし、夏は冷房が効いた部屋でのんびりゲームやるのが一番ですよ」

「不健康だなぁ。あ、じゃあ岳の部屋で着ようか?」

「……いや、いいです」

「今ドキッとしたよね?」

「してないです!」

「ふ~ん」

 久遠はまたニヤニヤと笑いながらこちらを揶揄うように見つめる。

「こっち見ないでください!」

「照れちゃって……何色が好き?」

 久遠の視線に顔を違う方へと向け黙秘を貫きながら横断歩道の前で立ち止まり、信号が変わるのを待つ。ふと向かいの信号機の柱の所に肩くらいまでの髪をした女の子がしゃがんでいるのが目に入った。近くに保護者らしき人はいないからおそらく一人。チラッと久遠を見ると、久遠も不思議そうに女の子を見ている。

 信号が青に変わり、渡って近付いていくと女の子が柱の根本の部分にペットボトルを置いて、そこに黄色とオレンジの花を挿していることに気付いた。

「何してるの?」

 久遠は女の子と目線を合わせるようにしゃがんで優しい口調で訊ねた。訊ねられた女の子は振り返り、前髪を眉の上で切り揃えた可愛らしい顔をキョトンとさせた。

「おねーちゃんたちだれ?」

 まだまだあどけない口調で女の子はこくんと首を傾げた。

「私はせつな。この子は岳」

「せつな……、がく……」

 女の子は確認するように久遠と自分の顔を見た。

「お花ここに置いてるの?」

「うん! ここにおくとね、ママがよろこんでくれるの!」

 女の子は嬉しそうに花を眺めた。

「そうなんだ……」

 久遠は複雑そうな顔をこちらに向けた。信号機の柱の下に花を置く。女の子はそれでママが喜ぶと言う。その行為が意味するものは多分一つしかない。

「ママは……」

 久遠はなんと言っていいのか分からない様子で口を閉じてしまった。そんな様子を見ていない女の子は花を眺めながらあんまり理解していないように言った。

「ママはね、とおい国? に行っちゃったんだって」


 *


 いつものように家へ帰り、いつものように靴を脱いで、いつものようにリビングの扉を開けるといつものように母はこちらを見て微笑む。

「おかえり」

「ただいま~」

 最近よく感じる眠気に何とか勝ちながらランドセルを下ろして手を洗いに行く。母はランドセルから箸箱とランチョンマットが入った袋を取り出して箸を他のものと一緒に洗い出す。

「学校どうだった?」

 リビングに戻ると母がそう訊ねた。

「やっぱり眠い……。ずっと眠い」

 ソファに座りながらそう答えると母は困ったように笑った。

「そうか……、眠いか。成長期だから仕方ないね」

 母の方を見ながら唸るように頷く。成長期とはここまで眠いものなのか。

「授業中寝てない?」

「……うん」

「ほんとに?」

「寝てない」

「目見て言える?」

 いたずらっぽく微笑む母の視線に思わず顔が背く。

「ふふ、岳は分かりやすいなぁ」

「だって眠いんだもん。国語は子守唄みたいだし、算数は数字ばっかだし」

 眠気に抗うほどの面白さが足らないのが悪いのだ。休み時間や体育では眠くならないからきっとそうだ。

「そっか。授業はなるべく寝ずにちゃんと受けた方がいいけど……、どうしても眠い時はバレないようにね?」

 母はいたずらっ子が何かを企てている時に浮かべる少し悪い笑顔を浮かべた。

「うん。見つかったらお母さんが寝ていいって言ってたっていう」

「やめてよ。私が怒られちゃうじゃん」

 母の鈴を転がすような笑い声に釣られてこちらを笑う。だんだんと体の内側がポカポカとし出し、眠気が徐々に攻勢に出る。耐えきれず、欠伸がこぼれる。

「眠い?」

 欠伸を見た母の言葉に頷く。

「そっかそっか。冷蔵庫に梨あるけど……」

「あとでたべる……」

「うん、分かった。じゃあ切って冷蔵庫に入れとくね」

「うん……」

 眠気に馬乗りになられるようにソファに寝転ぶ。キッチンの方から洗い物をする音、包丁がまな板を叩く音が徐々に遠のいていく――。

 体に毛布をかけられる。

「おやすみ――」

 母の穏やかな声が聞こえ、どこか安心して落ちていく――。


 *


「そっか……。うん、良い子だ」

 久遠は優し気な表情を浮かべて女の子の頭を撫でる。

「名前なんていうの?」

「かれん! あおみかれんだよ!」

 女の子――かれんちゃんはニコッと笑って答えた。

「かれんちゃん、か。可愛い名前だね」

 ふふっと笑いながら久遠は愛おしげにかれんちゃんを見つめた。

「パパと一緒に来たの?」

「ううん。パパはお仕事だよ」かれんちゃんは首を横に振った。

「じゃあ一人で来たの?」

 かれんちゃんは誇らしげに〝うん!〟と大きく頷いた。

「凄いじゃん。おうちはこの近く?」

「うん。あっち」

 かれんちゃんは小さな指で家の方向を指さす。

「……よく来てるんですかね?」

 久遠に小声で訊ねると〝かもね〟とチラッとこちらを見てから再びかれんちゃんに向き直る。

「ねぇ、かれんちゃん。お姉ちゃんたちもここにお花置いてもいいかな?」

「うん! いいよ!」

 かれんちゃんが頷くのを確認した久遠は〝よし〟と立ち上がった。

「かれんちゃんのママは黄色のお花とかオレンジのお花が好きなの?」

 久遠に訊ねられたかれんちゃんは苦々しい顔を横に振る。

「ほんとはママ、青色がすきなの。だけど、青いお花がないから……」

「そうかぁ……、青いお花か。あ、じゃあ、今からお姉ちゃんたちと買いに行く?」

「え⁉」「いいの?」

「うん! 青いお花たくさん買ってママに喜んでもらおう?」

「やった! ありがとう! お姉ちゃん」

 かれんちゃんは嬉しそうにぴょんと立ち上がった。

「ちょ、先輩!」

 かれんちゃんになるべく聞かれないように久遠の耳元に小声で話しかける。久遠は〝うん?〟とこちらを向いて首を傾げた。

「大丈夫なんですか? どう見ても誘拐してるようにしか見えないですよ? 通報ものですよ?」

「どう見ても誘拐してるようには見えないでしょ。大丈夫だよ、お花買いに行くだけなんだから。それにどっからどう見ても仲睦まじい家族にしか見えないよ」

 久遠はニコッと笑う。

「それは嫌ですね……」

「なんでよ!」

 確かに久遠の言う通り、癪だけどそう見えるのかもしれない。ただ、それはかれんちゃんのことを知らない人たちから見ればの話で、かれんちゃんを知っている人から見たら男女二人に連れ去られているようにしか見えないだろう。……久遠せつなという人物を知っている人からすれば、久遠の隠し子にも見えるかもしれないのか。どう転んでも通報されるか、勘違いされるかしかないのか。

 口から小さな溜息が漏れる。

「行かないの?」

 かれんちゃんはキョトンとした顔で久遠とこちらを見ている。

「ほら行くよ? 大丈夫。何があっても私がいるんだから」

 久遠はそう囁いてからかれんちゃんに言った。

「ごめんね、待たせちゃって。じゃあ行こっか。あ、手繋ぐ?」

 久遠が差し出した手をかれんちゃんは〝うん!〟と小さな手で繋いだ。久遠は少し驚いたような、感動したような表情を浮かべた。

「なんて素直で良い子なの……! 誰かさんにも見習ってほしいなぁ?」

 こちらを向く久遠。誰かは知らないが、きっとそいつが見習うことはない。誰かは知らないけど。

 そうして、久遠とかれんちゃんが並び歩き、その後ろを歩く。歩き出してすぐにかれんちゃんは隣を歩く久遠に訊ねた。

「ねぇねぇ、お姉ちゃんたちは姉弟?」

 純朴な目で訊ねたかれんちゃんに久遠は、

「ううん、お姉ちゃんたちはね、付き合ってるの」

 優しく微笑みながら嘘を吐いた。

「ちょっと! 嘘はダメですよ、先輩」

「嘘じゃない!」

「付き合ってるって?」

 かれんちゃんは不思議な言葉を前に首を傾げた。確かにこのくらいの年齢の子は付き合っていると言われてもピンと来ないだろう。

「恋人ってこと。私もこの子が好きで、この子も私が好きってことだよ」

 久遠はまた嘘を重ねる。

「そうなんだ! じゃあ、かれんにもいるよ、恋人」

「え⁉」

 かれんちゃんから出た言葉に思わずそちらを向く。久遠も少し驚いた顔でかれんちゃんを見ている。

「かれん、ママもパパもばぁばのことも好きだし、ママもパパもばぁばもかれんのこと好きって言ってたもん」

 かれんちゃんは笑顔でそう言った。なんと純粋無垢なのだろうか。誰かさんにも見習ってほしい。

 そんな誰かさんは苦笑いを浮かべた。

「あぁ――それとは少し違うかもなぁ。じゃあ、かれんちゃん幼稚園に通ってるのかな?」

「うん」

「じゃあ……幼稚園の男の子で一緒に遊びたいとか、隣にいたいとか、その子のことを見ちゃうとか、そんな男の子いる?」

 久遠は微笑みながら小首を傾げる。かれんちゃんは少し考えて、顔を少し赤くした。

「だれだれ?」

「……かけるくん」

 かれんちゃんは恥ずかしそうにボソッと呟いた。

「かけるくん見るとこの辺がドキドキする?」

 久遠は自身の胸に手を当てた。それを見たかれんちゃんはコクンと頷く。

「じゃあ、かれんちゃんはかけるくんのことが好きってことだ」

 久遠は優しい眼差しをかれんちゃんに向ける。

「……おねーちゃんもドキドキする?」

 かれんちゃんに上目遣いで訊ねられた久遠は〝私?〟と笑ってから答える。

「うん。ドキドキするよ。それに――」

 こちらを振り向く。


「ずっと一緒にいたいって思ってるよ」


「……え?」

 突然すぎて脳がその言葉を処理しきれなかった。そうして処理できたその言葉を咀嚼するためには顔を背けないといけなかった。

 久遠はいたずらっぽく笑ってから再びかれんを見た。

「かける君はかれんちゃんのこと好きかな?」

「ううん……。多分かける君は、ななせんせーが好きだと思う……。ななせんせーの近くにいつもいるもん……」

 かれんちゃんは寂しそうに頬を少し膨らませながら下を向いた。

 頭の中に〝かれんちゃん→かける君→なな先生〟の構図が浮かぶ。

「そっか。うん、でも大丈夫だよ。かれんちゃん可愛いし、きっとかける君もそのうちかれんちゃんのこと好きになるよ」

「……ほんとに?」

「うん! 絶対そうなるよ!」

 久遠の言葉にかれんちゃんは少しだけ笑顔になった。



 柱の下には黄色やオレンジの花が入ったペットボトル。その隣には青い花で作られた花束が置かれている。

「……よし」

 手を合わせ、目を瞑っていった久遠はそう呟いてかれんちゃんに訊ねる。

「どうかな?」

 久遠の隣でキラキラした目で花束を見つめるかれんちゃんは満足そうに大きく頷いた。

「うん……! 絶対ママよろこんでくれるよ! ありがと、おねーちゃん! あ、おにーちゃんも」

 嬉しそうに満面の笑みを浮かべるかれんちゃんを久遠は優しい眼差しをして微笑んだ。

「どういたしまして。じゃあ、おうち帰ろうか?」

「うん! おうちでお絵描きやろ!」

 かれんは自ら久遠の手を握り、引っ張るように歩き出した。

 青い花束は温くく緩い風に吹かれる。


〝ママはね、とおい国? に行っちゃったんだって〟――。


「遠い国――」

「……岳? 行くよ?」

 久遠の声にまた我に帰る。声の方を見ると、少し離れた場所まで歩いていた久遠とかれんが不思議そうにこちらを見ている。

「あ……」

 小走りで二人の元へと向かう。

「どうかした?」

「いや……花束綺麗だなぁって」

 呟いた言葉を聞かれなかった安心感と瞬間的に抱いた感情を悟られないように柱の方へと顔を向ける。

「そっか――帰る時またあそこの花屋さん行こっか」

 久遠はそう言って隣のかれんちゃんに〝じゃあ行こう〟と声をかけ歩き出す。

 かれんちゃんは歩きながら〝ここはね……〟、〝あそこは……〟と家族との思い出を話した。久遠はそれを楽しそうに聞いている。

 ふと、前を歩く二人の姿がいつかの母と姉と重なった。関係性も年齢も違うはずなのに。胸が少し苦しくなって、思わず視線を下げる。見ないといけない現実から目を背けているみたいだった。

「――ね、こういうの」

 久遠のその言葉が自分に向けられたものだと気付くまで少し時間がかかった。

「え?」

 顔を上げると久遠は愛おしそうにかれんちゃんを見ていた。

「こうやって小さい子と手を繋いで、岳と一緒に海沿い歩くの」

「あぁ……」

「将来の予行練習みたいだね。何年後かには岳と、私と岳の子供と一緒に歩いてると考えると――」

 久遠はおそらく存在しない未来を想いふふふと笑う。

「勝手に人の子ども産まないでくださいよ。そもそもそんな将来来ないですよ」

「何言ってるの。既定路線だよ? 絶対可愛いだろうなぁ、私たちの子ども」

「そりゃあ先輩なら誰との子でも可愛くなるでしょうよ」

「違うよ。そういうことじゃなくて……、自分の愛する人との子どもだよ? そんなの奇跡でしょ? 外見どうこうじゃなく可愛いでしょ」

「あぁ、そういう……」

「幸せだろうなぁ。好きな人とずっと一緒にいて、その人との子どもが産まれて、その子が大人になるまで好きな人と一緒にその成長を見守って――。いいね。楽しみ」

 久遠のにこやかな顔で言った言葉が胸に突き刺さり、また息をしづらくさせた。


〝母は繧ゅ≧豁サ繧薙〒縺?k〟


「なんの話してるの?」

 かれんちゃんは不思議そうにこちらを見る。

「将来の話だよ。かれんちゃんのパパとママみたいになれるかなって」

「パパとママみたいに? うん、なれるよ!」

「ほんと?」

 久遠は嬉しそうに笑う。

「だってパパとママと歩いてるみたいだもん」

 かれんちゃんは無邪気に笑った。

「……だって?」

 久遠は勝ち誇った顔でこちらへ振り返る。

「……そう言われても」

 海の方へ視線を移す。砂浜で楽しそうに遊ぶ4人家族の姿が見えて消えた――。

 しばらく歩くと、かれんちゃんは立ち止まって立派な一軒家を指さした。

「ここがかれんのおうち!」

 確かに表札に碧海あおみと書かれている。

「ちょっと待ってて! ばあば呼んでくる!」

 そう言い残してかれんちゃんは家の扉を開けて中に入っていった。

「岳大丈夫?」

 こちらの顔を覗き込んできた久遠に心臓が大きく跳ねた。

「……いや、大丈夫ですよ?」

 何もなかったかのような平気なふりを装って答える。心臓がドキドキと鼓動を刻むのを隠しながら。

「ほんとに? 体調悪いとかじゃないよね?」

 久遠は心配そうに眉を落とした。

「大丈夫ですって。ちょっと歩き疲れただけかもしれないですけど」

「そう……。ならいいけど。何かあったら言ってね?」

 頷くと久遠は笑みを浮かべ碧海家の扉の方を見た。それと同時に扉が開き、中からかれんちゃんと五〇代くらいの女性が出てきた。女性が〝あ〟と口を開けて頭を下げたので、こちらも頭を下げる。

「すいません、わざわざ……」

 女性は申し訳なさそうにこちらに近付いてくる。

「いえ、そんな……」

 久遠は頭を横に振った。

「ねぇ、ばあば! おねーちゃんと一緒に遊びたいんだけどいい?」

 かれんは女性の服の裾を引っ張りねだった。

「う~ん、そうだね……。お姉さんたちも忙しいと思うから――」

「えぇ! ねぇ、おねがい!」

 かれんは小さな手を合わせて女性の顔を見つめる。女性は困ったようにかれんとこちらを交互に見ている。

「私たちは全然構いませんよ」

 久遠はニコッと笑って女性とかれんを見た。

「いや、でも……ご迷惑じゃないですか?」

「全然! ね?」

 久遠はいきなりこちらを見た。

「え……あ、まぁ」

 そもそもかれんちゃんは〝おねーちゃんと一緒に遊びたい〟と言っているし。

「おねがい……!」

 かれんちゃんの上目遣いで放った言葉が最後の一押しとなった。

「じゃあ、是非上がっていってください。良かったね、かれん」

 女性はにこやかな顔でそう言い、かれんちゃんの頭を撫でた。

「やったぁ!」

 かれんは花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。そして、こちらまでやってきて久遠の手を握り〝こっちだよ!〟と家の中へ引っ張るように連れていく。

「え、あ、お邪魔します」

 久遠はいきなりで戸惑いながら女性にペコっと頭を下げてかれんに引っ張られるまま付いて行った。女性は一部始終に少し困ったように苦笑いを浮かべながら、こちらを見て〝どうぞ〟と手で扉の方を指した。

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