2章 おちる人③

「あの……質問してもいいですか?」

 待ち始めてしばらく経ったが、いまだにあのマンションに帰ってくる人は現れていない。出掛けていく人は一人いたが、近くに買い物に行くという感じではなさそうだった。その間、久遠と話したり、スマホを眺めたりしながら待っていたが、ふと気になることを思い出した。

 隣に立っている久遠はキョトンとした顔でこちらを見た。

「いいけど……あ、もしかして私のスリーサイズ聞きたいとか?」

「そんなの知ってどうするんですか」

「彼氏としてゼロ点だよ、その受け答え。もっとあるでしょ? 慌てるとか、興奮するとかさぁ」

 不満げな視線をこちらに向ける久遠。そもそも彼氏でもないし。不満そうな久遠を無視して訊ねる。

「先輩はどうしてあの時ここに来ようと思ったんですか? 事情聴取の時とか曖昧に答えてるように見えたし、そもそも散歩だったら近くに公園とかあったじゃないですか」

「公園の方が良かった? もう岳ったら」

 何を考えているのか知らないがニヤニヤとこちらを見る久遠をジッと見ていると、久遠は肩をすくめてから唸りながら右手の人差し指で頬を押さえながらしばし考えてから口を開いた。

「前提として、幽霊にも色々いるんだよ。ほとんどは私たち人間に直接何かしようするわけではなくて、赴くままに移動したり、ぼーっと景色を眺めたり、あんまり良くないけど誰かの後を憑いて行ったり――危害を加えることがない幽霊ばっかりなんだけど、たまに人間に害を与えてしまう幽霊がいるの。驚かせたり、人を傷つけたり、時には死なせてしまったり……。明確に人に危害を加えようとする場合も、たまたま偶然そうなってしまう場合もどっちもあるけど、いずれにしてもこの世にはそうやって人間の生活を邪魔してしまう幽霊がいる」

 久遠が理解しているかを確認するためにこちらを見た。頷くと満足そうに微笑んでまた続ける。

「前に岳に憑いていた幽霊なんかは良い例だよ。あの子は岳に一目惚れしてしまって、岳に憑くようになった。最初は見ているだけで満足していたのが、段々と欲が大きくなっていって岳の夢に出たり、物に触れるようになったりした。その結果、岳は彼女が引き起こす現象に悩むようになり、ついには夢の中で追いかけられるという怖い思いもしたし、私と一緒にいる時に石を投げられ怪我をさせられそうになった。そうなると、その幽霊がこの世にいて岳に憑いている限り、岳も岳の彼女である私も友人、知り合いを含めた岳の周囲の人間の平穏な生活が脅かされてしまう。だから、この幽霊を――人間の生活を邪魔してしまう幽霊をあの世に送る必要がある。

 ただ、幽霊はみんながみんな視られるわけではない。岳と同じ様に幽霊を視ることも存在を感じることもできない人もこの世には当然いるわけで、そういう人たちからすれば起こっている現象が誰によってもたらされているか見当がつかない場合が多い。現に岳は自分を夢遊病者じゃないかと疑っていたでしょ? それに、仮に幽霊が原因だと判明したとしてもできることは限られている。お祓いくらいかな? それも世の中にはお祓いができるとかなんとか言って詐欺を行う人だっているし、実際にお祓いが効果を発揮する場合も、しない場合もある。だから、運が悪いとお金だけ払って何も変わらないってことも有り得てしまう。

 そうなってしまう人や幽霊が引き起こす現象で被害を受ける人が少なくなるように視える人間がそういう幽霊を見つけて、あの世に送る必要があるの」

 途中であったツッコミどころにモヤモヤしながらもまた頷く。

「このマンションの幽霊もそう。中途半端に視えてしまう人だと、実際に人が転落したように視えてしまう。そうするとその人は通報して救急車を呼んでしまうかもしれない。でも、実際に転落したのは人ではなく幽霊だから、呼んだところで救護が必要な人はいない。つまり、何も起きていない、誰もいないのに救急車を呼んだことになり、結果としていたずら通報になってしまう。ただのいたずら通報に収まるならまだいいけど、もしかしたら、その瞬間に別の場所で本当に救護が必要で、救急車で運ばないといけない人がいたら? その通報で現場に着くのが遅れて、助かるはずだった命が助からないかもしれない。

 ここの幽霊はそういう事態を引き起こしてしまうかもしれない幽霊なんだよ」

 久遠は屋上に目を向けながらそう言い終えた。

「つまり、先輩はこの幽霊の存在を確認して、あの世に行ってもらうためにわざわざここに来たってことですか――いや、だからいらないです」

 こちらを向いて両手を広げながら頬を膨らましている久遠は恨めしそうにこちらを見ている。そして、溜息をつきながら両手を下ろした。

「まぁ、それだけが理由じゃないんだけどね」

「他にもあるんですか?」

 そう訊ねると久遠はふふっと小悪魔のように笑った。

「岳って怖がりでしょ? そんな岳と幽霊が出るっていうここのマンション来たら良い感じになるかなって思って。吊り橋効果狙い」

「えぇ……」ちょっと感心していたのに。

「それこそ、幽霊が出たら私のカッコいい所見せられるし、出なくても良い感じになった岳を……」

 ムフフと何かを想像しながら笑う久遠に背筋が震えた。これがみんなが憧れているミス慶名の正体だ。

「……もう一つ聞きたいことあるんですけど」

「あ、うん。何――なんでちょっと離れたの?」

「いや別に」なんとなく身の危険を感じたから。

「ほら、こっち」

 久遠はこちらの腕を掴んで強引に引き寄せた。

「で、聞きたいことって? スリーサイズなら――」

「違います!」

 ニヤニヤしている久遠をムッと睨んでから口を開く。

「先輩が助けてくれた時あるじゃないですか? 石投げられた時」

 久遠が頷くのを確認して続ける。

「なんで幽霊に石当てられたんですか?」

 幽霊には触れないと思っていたから、あの場面は驚きと疑問が浮かんだ。

「幽霊って実は触れたり、物を当てたりできるとか?」

「ううん。普通は触れないし、物も当たらないよ」

 久遠は首を振って答えた。

「う~ん、一応あれは私の力なんだけど……、正直私もよく分からないんだよね。鏡華さんが言うには幽霊に対する力みたいななんとかが強いんだって。だから、私に幽霊は憑かないし、物にえいって念じれば幽霊にもその物が当たるとか。触れるかは分かんないけど、とにかくそういう感じかな? それこそ、岳に触って岳に幽霊が憑かなくなるのも私のこの力を岳にお裾分けしてるからだよ」

「へぇ。だからあんなに頻繁にベタベタ触ろうとするんですね」

「それはただの愛情表現だよ」久遠は片目を閉じて微笑んだ。

「なんだ、避けていいやつか」

「避けないでよ!」

 今度からもっとしっかり避けようと心に誓う。

「他に聞きたいことない? なんでも答えるよ。スリーサイズとか」

「いいですよ。なんすか、そのスリーサイズ推し」

「知りたいでしょ? ミス慶名のスリーサイズとか。私のスリーサイズ気になる人いっぱいいるよ? それを岳だけが知ることができるんだよ? 彼氏の特権だよ? プレミアム感あるでしょ?」

 久遠はいたずらっぽく笑いながらこちらに肩を寄せた。

「……そもそも、数字聞いたところで全く分かんないですよ。何が凄いかもイマイチ分かんないですし、俺からしてみればただの数字の羅列でしかないんですよ」

「そっか。じゃあ違う言い方のほうがいい?」

「そもそも教えなくていいんです! 聞きたいことももうないです!」

「ふ~ん……、じゃあ私が聞いてもいい?」

「え」

 久遠が何を聞くのか、その次の言葉に少し身構える。こちらを向いた久遠の向こうでまた一人マンションから出て行くのが見えた。

「別に怒ってないんだけどね? いいんだけどね?」

 ニコッと笑顔で言葉を紡いだ久遠のその目に背筋がゾクッとする。

「梶谷くんのインスタ見たら岳が写ってたんだけど……、女の子と一緒に写っているのはどうしてかな?」

 彼女でもない久遠の質問だから簡単に答えられるはずなのに、久遠から発せられる圧に言葉が出てこなかった。



「夜何食べよっか?」

 久遠はマンションのエントランスの方に注意を払いながらスマホを眺めている。いつの間にか空は茜色へと移り変わり、逢魔が時に差し掛かろうとしている時間だろうか。未だあのマンションに帰ってくる人はいない。

「何食べる――え、一緒に食べようとしてます?」

「え? それはそうでしょ」

 久遠はキョトンとした顔をこちらに向けた。

「えぇ……」このまま解散がいい。

「〝えぇ……〟じゃない! 今日はあれ……何だっけ?」

「あれ?」

「ドラマ?」

「あぁ、『MIU』ですか?」

「そうそれ。それも観たいし」

「だから貸しますって。それ持って帰って自分の家で観てくださいよ」

「やだ! 一緒に観たいの! 隣にピタってくっついてさ。岳が眠くなったら私の肩に寄りかかって寝ていいから」

 久遠はそう言いながら右肩をトントンと叩いた。

「いやですよ。何話あると思ってるんですか。それに明日月曜ですよ? 俺一限から授業あるんですよ? 出席確認あるやつが」

 しかも必修だし。思わず溜息が漏れる。

「……え?」

 久遠は不思議そうな顔で首を傾げた。

「え、なんですか。別に嘘ついてないですよ」

「いや、岳の取ってる授業知ってるからそれは分かるけど――」

 なんで取っている授業まで知っているのか。

「明日大学休みだよ?」

「……えっ⁉」

「明日創立記念日だよ? 知らなかった?」

「創立記念日……。ほんとですか?」

 久遠はどこか困惑した顔で頷いた。この感じはマジっぽい。

「えぇ、ちょっと待ってください」

 スマホを取り出して梶谷と横山との三人のグループにメッセージを送る。

岳:明日って休みなの?

 すぐに二人から返信が来た。

横山享介:創立記念日だよ

カジ:金曜に三連休って話しただろ

 自分の記憶を巻き戻してみる。そんなこと話していたか?

 首を傾げていると横から久遠がスマホを覗き込んだ。そして、「ね?」と首を傾げた。

「良かったね。私がいて。話してなかったら明日朝から大学行ってたでしょ」

 久遠は苦笑いを浮かべた。確かに久遠がいなければ普通に大学行っていた。そして、そこでようやく休みだと気付くことになっていただろう。

「そっか、明日休みか……。なら、なおさら帰ってくださいよ」

「なんでよ! 休みだから一緒にいられるんじゃん! 一緒に夜更かししようよ」

「夜更かしは美容の天敵なんじゃないですか?」

「私のとっての天敵は岳と一緒にいられない時間だよ」

 久遠はそう言いながらこちらに肩を寄せた。この感じだとこの人またうちに泊まる気だろうか。

「で、何食べたい?」

「何って、別になんでもいいですけど」

「私と一緒ならなんでもいいってことね」

「そんなこと言ってないです!」どんな耳をしているのか。

 久遠はスマホを操作しながら思いついたように言う。

「あ、焼肉は? タン好き?」

「タンは好きですけど……」

「じゃあ焼肉にしよっか。美味しい焼肉のお店がこの辺にあるらしいよ」

「へぇ。そうなんすか」

「黒毛和牛の特上塩タンが有名ですっごい美味しいんだって」

〝黒毛和牛の特上塩タン〟という字面から既に美味しそう。そして、高そう。

「あ、でも俺今手持ち七百円くらいなんでお金下ろさないといけないです」

「いいよ。私が出すから」

 久遠はタプタプと操作しているスマホの画面を見ながら言った。

「いや、昼も奢ってもらったから流石に……」

「いいの! 私が好きでやってるんだから」

「それだと彼氏じゃないって否定する時なんか後ろめたくなっちゃうじゃないですか」

「岳は私の彼氏! 周知の事実! 否定とかないから!」

 久遠はムッとした顔でこちらを威嚇してまたスマホの画面に視線を戻した。

「よし。予約完了」

「予約完了って……」

 いつあのマンションの住人が帰ってくるのか分からないのにいいのか?

「楽しみだね」

 久遠はふふっと笑ってこちらを見た。

「食べ終わったら解散とか――?」

 久遠は何も言葉を発することなく、そのジト目で答えた。

「ですよね――あ」

 久遠越しにマンションに向かってどこかふらふらした足取りで歩いていくマスク姿の男性が目に留める。確かさっきマンションから出てきた人だった気がする。

 久遠もこちらの視線を辿ってその男性を見た。男性は左手にビニール袋を持って、右手を口元に持っていきゴホゴホと咳き込んでいる。

「あ……」

 男性は何かに躓いたのか転んでしまった。ビニール袋の中身が路上に散らばる。

 男性の元へ向かい、路上に散らばった物を拾う。頭痛によく効くでお馴染みの市販薬だった。

「大丈夫ですか?」

 男性は顔をゆっくり上げ、真っ赤に充血した目でこちらを見た。顔色が悪く辛そうで虚ろな目をした表情が張り付いたその顔に少しゾッとする。

「……すいません」

 男性はこちらが差し出した市販薬を受け取り、更に散らばった物を拾いビニール袋へ戻していく。拾うのを手伝いながら男性の顔色を窺っていると目が合った。

「あ、すいません。その……風邪ですか?」

「あぁ、まぁ」

 男性はゆっくり頷きながら答えた。その間も甲に絆創膏が貼られた右手は物をビニール袋へと入れていく。

「そうですか……。お大事に……」

 拾い終わった男性は立ち上がり、頭を下げた。そして、虚ろな目でこちらをジッと見つめた。

「うちのマンションに何か用ですか?」

「え、あ――その……」

 男性の疑いを込めた虚ろな視線と言葉に一瞬頭が真っ白になる。そして、すぐに頭が必死に嘘を構築し始める。

「えっと……友達がこのマンションに住んでるんですけど、ちょっと連絡がつかないというか……」

「はぁ」

 男性はそう相槌を打ちながら更に疑惑を深めたような目でこちらを見る。

 ヤバイ。どうしよう。

 頭が必死に言い訳の言葉を探していると急に男性の姿が隠れた。代わりに自分のパーカーを来たその背中と艶やかな黒髪が目の前に現れた。

「野村有希さんの隣人の方ですよね?」

 久遠は男性にそう訊ねた。久遠の肩越しに見た男性は一瞬ビクッと肩を震わせたが、すぐに久遠の顔に虚ろで疑いを込めた視線を送った。

「そうですが、何か?」

「右手。どうされたんですか? 絆創膏されてますけど」

 男性は咄嗟に右手を背中に隠した。そして、久遠に向いていた視線を右横にずらしながら、

「……職場で怪我して――」


「うそ」


 久遠が食い気味に発した言葉に男性のずらしていた視線が再び久遠へ向いた。

「あなたですね、犯人」

「えぇ⁉」

 その言葉に驚き、久遠の顔を見てゾッとした。今までに見たことのない冷たい顔をして男性を射抜くように見つめていた。

「……犯人?」

 男性は顔を歪めながら聞き返した。

「はい。あなたですよね。野村有希さんを殺害したの」

 男性は不快そうな表情で久遠に向いていた視線を外した。

「あぁ、あと残念ながらその薬飲んでも良くなりませんよ?」

 久遠は冷ややかな笑みを浮かべながら市販薬が入ったビニール袋を指差した。

「それは風邪なんかじゃないです。霊障ですよ。


 あなたの後ろにいる頭から血を流した女性が原因です」


 背筋が震え、腕が一瞬で粟立った。

 久遠の視線は男性の肩口へと注がれ、その視線を感じた男性は背後を振り返った。

「ご自覚があるんじゃないですか? 視えているかが知りませんが、その女性に」

 久遠はニヤリと口角を上げてから更に続ける。

「あなたは昨晩、野村有希さんと入れ違いになった後、秘かに彼女が帰ってくるのを待っていた。そして、帰ってきた彼女を捕まえてこう言った。『あんな男とは別れて僕と付き合え』と。しかし、彼女はそれを拒絶し逃げ出した。あなたはそんな彼女を追った」

 久遠の言葉に男性の顔色は先程より悪くなっており、その目は疑いからどこか恐怖を感じているかのようなものに変わった。

「あなたは野村有希さんに好意を抱いていたけど、彼女には恋人がいた。その恋人が彼女と喧嘩している声や別の女性を部屋に連れ込む様子を見て自分の方が彼女を幸せにできるとでも思っていたんでしょう。そんな時、彼女が泣きながら出ていく所を目撃する。彼女への想いを募りに募らせたあなたはこれを好機と見た。彼女に言い寄れば、自分の物になると思った。でも、彼女はそれを拒んだ。それが想定外だったのでしょう」

 久遠の冷めた視線が男性に注がれる。男性の顔色はさらに悪くなり、顔をさらにしかめた。

「その手の傷は彼女を転落させてしまった時に引っ掻かれた傷ですよね?」

 男性はチラッと右手の方を一瞥した。

「もう時間の問題ですよ。警察は野村有希さんの遺体を解剖していて、きっと皮膚片か血痕が見つかるでしょう。警察が真っ先に疑うのは彼女の恋人の佐野一真さん。ですが、彼のDNAとそれが一致しない。おかしいですよね。喧嘩をしていた恋人のものではない皮膚片が彼女の遺体から検出されるなんて。

そうして、大方自殺だと見られていた転落が殺人だったと判明する。警察は優秀ですし、何よりこのマンションを犯行時に出入りできた人間は限られている。すぐにあなたに目が向くでしょう。

まぁ、万が一あなたが警察から逃げられたとしても、あなたの体調がもとに戻ることなんてないと思いますけどね。だって、あなたが彼女を殺してしまったから」

久遠はニヤリと笑いながら男性の耳元で囁いた。

「後ろの彼女、あなたを相当憎んでいて許すことはないそうですよ?」

 その言葉を聞いた男性はひどい苦痛に頭を押さえて呻き声をあげながら崩れるようにしゃがみこんだ。

「どうします? 自首するのなら助けてあげてもいいですよ? 私なら彼女と話すことができますし。それとも、一生その苦しみを味わいますか?」

 久遠はしゃがんで男性と目線を合わせてそう訊ねた。

「自首しますか?」

 再び訊ねた久遠に男性は苦しそうに小さく数回頷いた。



 先ほど教えてもらった鳥山刑事の連絡先に電話をすると矢島刑事とともにすぐにこちらにやって来てくれた。二人は顔色がすこぶる悪い男性に目を丸くしながら男性を一緒にやってきた刑事に引渡し、車へと入れた。

「どうやって彼が犯人だと?」

 矢島刑事から訊ねられた久遠はニヤリと笑った。

「そんなの野村有希さんに聞いたに決まってるじゃないですか」

「野村有希って……」

 矢島刑事は二、三歩ほど後退った。

「矢島さんの後ろにいますよ?」

 久遠が矢島刑事の背後を指差す。矢島刑事は刑事らしく機敏な動きで振り返る。

「冗談ですよ」

 久遠は矢島刑事の反応にクスクスと笑った。

「ビビってますねぇ、矢島さん」

 鳥山刑事もニヤニヤと笑いながら矢島刑事を見ている。

「ビビってねぇよ! なんか後ろで……あれだよ、あれ!」

 矢島刑事の無理のある言い訳に久遠と鳥山刑事は更にそれぞれ笑った。ひとしきり笑った後、久遠は鳥山刑事に訊ねた。

「解剖で何か見つかりましたか?」

「えぇ。野村有希さんの右手の中指の爪から皮膚片が見つかったそうです。彼のものと一致すれば重要な証拠となると思います」

 鳥山刑事は車内で項垂れている男性を見ながらそう言った。矢島刑事も男性を一瞥した。

「ところで……何故彼はあんなに具合が悪そうなんですか?」

「聞きたいですか?」久遠がまたニヤリと笑うので矢島刑事はすぐに首を横に振った。

「いや、やっぱり結構です」

「いいんですか? 原因聞かなくて」

 鳥山刑事も揶揄うようにニヤニヤしながら矢島刑事の顔を覗き込むように見ると矢島刑事はプイッと顔を背けた。

「風邪だ。ただの風邪。そう思うよね?」

 矢島刑事は同意を求めるようにこちらを見た。一部始終をしっかり見ていた身からすればなんとも言えず、ただ曖昧に笑って首を傾げた。

「……うん、風邪だ」

 矢島刑事は一旦咳払いをして、改めてこちらを見た。

「犯人逮捕にご協力いただきありがとうございました」

 そう言って微笑みながらペコっと頭を下げた矢島刑事は〝では〟と車の方へと歩いていった。

「本当にありがとうございました。お二人のおかげです」

 鳥山刑事も笑顔で頭を下げた。

「いえ、そんな。少しでもご協力できてよかったです。ね?」

 久遠はこちらを見た。〝お二人のおかげ〟と言ってくれたが、厳密には久遠のおかげだ。自分は別に何にもしていないし、ただ久遠と男性のやり取りをおっかなびっくり聞いていただけだったのだから。

「また何かありましたらいつでも連絡してください」

 鳥山刑事はそう言って微笑みながら敬礼をした。そして、〝では、お幸せに〟という言葉を残して車へと乗り込んだ。運転席と助手席に乗り込んだ矢島刑事と鳥山刑事は改めてこちらに頭を下げてから車を発進させた。

「結局先輩の思惑通りになりましたね。犯行時の様子を言い当てられた時のあの人の顔少し怯えてましたし」

「そうだね。でもまさか、有希さんがあの人に憑いてたとは思わなかったよ。幸か不幸か、そのおかげでばっちり犯行時のこと聞けたけど。あの人が転んだのと岳が良い感じに時間を稼いでくれたおかげで話を聞く時間もあったし」

 久遠はこちらを向いてニコッと笑った。ちゃんと温かみのある笑顔に少し安堵しつつ、恥ずかしくなる。

「別に俺は何もやってないですよ。ただ物拾っただけだし――頭撫でないでください!」

 頭を振って久遠の手をどかすと久遠はふふっと笑った。

「それで野村有希さんは? まさかあの人に憑いて行ってないですよね?」

「岳のすぐ前に――ちょっと近いですよ」

「……もう引っかからないですから!」

「え? ほんとだけど」

 キョトンとした顔でこちらを見る久遠。その姿で冗談ではないことを悟り、すぐに後ろへ飛び退いた。

「もう、そんなに怖がらなくても大丈夫だって」

 久遠はこちらの反応に呆れたように苦笑いを浮かべた。

「え? ですよね。可愛いですよね。私の自慢の彼氏なんです」

 さっき頭から血を流しているとか言っていたけど、どうしてそんな何事もないように彼女と会話できるのか。あと彼氏じゃない!

「彼氏にしたい……? ダメですよ! あの子は私の大切な恋人なんです! 私のものです! それに有希さんはもう幽霊じゃないですか。あの子幽霊なんてこれっぽっちも視えないんですよ?」

 久遠は抗議するように何もなさそうな空間に詰め寄っている。幽霊の彼女なんて勘弁してほしいし、そもそも久遠のものでもない。

「え、冗談? なんだ……。もうびっくりさせないでくださいよぉ」

 久遠はホッとしたように溜息をついた。

「お似合い? やっぱり有希さんもそう思いますよね? 我ながら私たち結構いいカップルだと思うんですよ。ふふ、ありがとうございます」

 久遠はにこやかな顔で小さく頭を下げた。

「……なんて言ってるんですか、野村さんは?」

「〝末永くお幸せに〟って」

「野村さんに伝えてください。全然付き合ってないですって」

「そんなこと言うわけないでしょ?」

 久遠は不満げな顔でこちらを睨んだ。

「それに岳の声だってちゃんと有希さんに届いてるよ。あ、付き合ってますよ? ほんとに。あの子すぐ照れちゃうんです。ほんとですって。なら証拠見ます? ちょっと恥ずかしいんですけど……」

 久遠はスマホを取り出し、少し操作してから画面を向けた。あの写真か。

「ね? こんな写真あるんですから。私たちは正真正銘のカップルですよ」

 そう言った久遠は少し黙って、それからフフッと笑った。

「あ、来ましたね」

 久遠が向けた視線を辿ると見たことのある黒のセダンがこちらに向かってやってくる。

「おぉ、中々凄いですね」

 車から降りてきた黒髪をオールバックにした黒のスーツ姿の男性は久遠の隣にいるであろう野村さんを見てそう感想を口にした。頭から血を流しているのを目の当たりにしても一切動じることなくにこやかな顔でそう言うので感心して心の中で拍手を送る。

「あ、安心してください。あの世に行けばちゃんと傷ひとつない元の綺麗なお顔に戻るそうなので。あの世でもモテちゃいますね」

 久遠は隣に向かって微笑んだ。野村さんもきっと微笑んでいるのだと男性の微笑まし気な表情で感じる。

「では行きましょうか。どうぞ乗ってください」

 男性はセダンの後部座席のドアを開けて野村さんを車内へといざなう。その一連の動きは優雅でスムーズで服装も相まってまるで執事のようだった。誰も出入りしていないように見えるが、男性は後部座席のドアを閉め、運転席へと回り込みドアを開ける。

「じゃあよろしくお願いします」

 久遠が小さく頭を下げると男性はニコッと笑った。

「はい。久遠さんも彼氏さんもお疲れ様でした」ペコリと頭を下げて運転席へと乗り込む。

「いや、彼氏じゃないです!」

 ドアを閉めた男性に向かって言うが、きっとこの言葉は届いていないのだろう。男性は会釈をして勘違いをしたまま車を発進させた。

「よし。焼肉焼肉」

 離れていく車をしばし見送った久遠はそう呟きながらこちらへ歩いてくる。

「あの、気になったんですけど……」

「ん? どした?」

 久遠は首を傾げてこちらの言葉を促す。

「幽霊って自分であの世に行けないんですか? なんかアニメとかだとこう体が透明になってフワフワって空に上がっていくみたいなイメージなんですけど」

 久遠は〝あぁ〟と頷きながらそのまま歩いていく。久遠の隣を歩きながら久遠の答えを待つと、

「本来なら死ぬと同時にあの世に行くんだって。感覚的には眠って、起きたら三途の川の目の前でした――みたいな。でも、死ぬ間際に強い感情を抱いているとこの世に留まっちゃうんだよ。例えば、心残りがあるとか、誰かに対する恨みとか。全員が全員留まるわけではないけど、この世に留まった人が俗に言う幽霊だね。で、この世に留まっちゃうとあの世に行きづらくなる。本来死と同時に行くはずだから、言うならば、幽霊はエスカレータ―から降りちゃったみたいな感じかな。

一応自力でも行けるには行けるらしいけど、かなり難しいらしいからあんな風に職員の人が迎えに来てあの世まで連れて行くことが多いかな。エスカレーターから降りちゃった幽霊はエレベーターで運ぶみたいなイメージ」

 久遠はこちらが理解したか問うように首を傾げた。

「自力で行けないもんなんですね、あの世って」

「まぁ、行き方分かんないからね、普通は。学校で習わないでしょ? 三途の川までの行き方なんて」

「誰が教えるんですか、そんなこと」

 久遠は小さくクスっと笑った。

黄泉戸喫よもつへぐいって知ってる?」

「よも……なんですか、それ?」

 久遠が口にした謎の暗号みたいな言葉に首を大きく傾げる。

「死者の国の食べ物を口にすること。死者の国の食べ物を口にするともうこの世に帰ってこられなくなっちゃうんだよ。古事記にもそういう箇所があるんだよ。イザナギが黄泉の国に行ってしまったイザナミを迎えに行くんだけど、イザナミは既に黄泉の国の物を食べてしまって帰ることができない――みたいなね。

 私が考えるに、死の瞬間に強い感情を抱くことが自力であの世へ行きづらくさせるのかもね。イザナミが黄泉の国の物を食べて帰ってこられなくなったみたいに」

「へぇ。じゃあ、どうやって幽霊をこの世からあの世へ連れて行くんですか?」

「扉があるんだよ。この世とあの世を繋ぐ扉」

 テレビ番組で誰かが話していそうな都市伝説みたいなことを久遠が口にした。

「その扉から幽霊を連れて行ったり、逆に幽霊がこっちの世界に来たりするんだよ」

 若干胡散臭く聞こえるが、職員というあの男性と関わりのある久遠が言うのだから多分本当のことなのだろう。もしくは――。

「先輩って実は一回死んであの世に行ったとか?」

「そんなわけないでしょ? ちゃんと生きてるし、死んだこともないよ。ちゃんと触れるし。ほら、触ってみなよ?」

 久遠はそう言って何故か胸を突き出した。

「いや、こういう時は普通手とかでしょ」

「え⁉ 手繋ぐ?」

 久遠は嬉しそうな表情を浮かべてその場に立ち止まり、手をこちらに差しだした。

「繋ぎませんよ」

「えぇ⁉ なんで⁉ 今の流れは繋ぐところじゃん! 繋ごうよ!」

「先輩が〝触ってみなよ〟で手差し出してれば、その流れにもっていけたかもしれないですね」

「……触ってみなよ」久遠はどこか気取った言い方で言った。

「もう遅いです」

 立ち止まって手を差し出したままの久遠を無視して再び歩き出す。

「繋いでくれないと私動かないよ? 焼肉行けないよ?」

「そんなこと言ってると予約の時間来ちゃいますよ?」

「……ケチ!」

 後ろから拗ねた声がしてから、久遠が歩き出す気配を感じる。


ドンッ。


「え⁉」

 音のした背後を振り返る。そこには久遠しかいない。久遠以外は誰の姿も視えなかった。

「忘れてた……」

 溜息を一つついた久遠は苦々しい顔で後ろを振り返る。

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