2章 おちる人②

 カタい。

 いくらラグが敷いてあるとはいえ所詮は床だから当たり前だ。

 上半身を起こして体を目一杯上に伸ばす。そして、ベッドに目を移すとそこには誰もおらず、寝ていた痕跡だけ残したもぬけの殻状態だった。

 あの後、部屋に帰り、久遠との攻防の末なんとか床で眠ることができた。久遠は心底不満そうだったし、なら自分が床で寝るとは言っていたが、流石に申し訳ないのでこうなった。おかげで体がバキバキしている。

 乾いた喉を咳で誤魔化しながら飲み物を求めて冷蔵庫のあるキッチンへと向かう。

「ぁあぁ……あ?」

 大きな欠伸をしていると洗面所の扉が閉まっていることに気付いた。いつもお風呂に入る以外開いているはずなのに。

「……せんぱいか」

 一瞬納得しかけて、すぐにどうして人の家でお風呂に入っているのかと思ったが、まぁいいかと納得して冷蔵庫を開ける。パックの野菜ジュースを取り出し、その場でストローを刺して飲みながらベッドの方へと戻る。さっきよりは小さい欠伸をしながら野菜ジュースをテーブルに置いて、ベッドにボフンと倒れ込む。

 微かに久遠からいつも香る匂いがする。

 体を起こして匂いから離れる。いつも自分が寝ているはずのベッドなのに、どうしてか気まずく感じる。仕方ないので、ベッドに座ってリモコンでテレビをつけると、画面はお昼にやっているバラエティ番組を映しだした。ボーっとアイドルと芸人のやり取りを眺めていると、

「おはよ、岳」

 久遠が髪をタオルで拭きながら微笑んでこちらを見ていた。

「……ざす」

 小さく会釈すると久遠はこちらにやってきてすぐ隣に腰をおろした。頬はほんのり赤みがかかり、いつもとは違う良い香りがフワッと漂っている。

「お、お風呂上がりの私にドキッとした顔だ」

 いじわるっぽくフフッと久遠は笑った。視線を再びテレビの方へと向ける。

「……別にしてないです」

「またまた~? ミス慶名が自分ちのお風呂から出てきたんだよ? 誰もが憧れるシチュエーションでしょ。なんならここで私を押し倒して――」

「しないですから! てか、なんで勝手にお風呂入ってるんですか」

「え、一緒に入りたかった?」

「違います!」

 久遠は髪をタオルで拭きながらテレビの画面を眺めた。

「寝起きはシャワー浴びたい派だからね。それにメイク落とさないで寝ちゃったし」

「……今すっぴんですか?」

 いつもと全然変わらない顔の久遠は〝そうだよ〟と頷いた。

「ふふ、いいね、こういうの。彼氏の部屋で寝て、朝シャワー浴びて、彼氏の服着て……」

「……え、あ!」

 ようやく久遠がクローゼットにあった自分の服を着ていたことに気付いた。

「サイズもピッタリだったよ」

「……どうせ小さいですよ、俺は」

 溜息をつくと久遠はクスクスと笑った。

「可愛いからいいんだって。まぁ、流石に下着はなかったから持って来て貰ったけどね」

「一人暮らしの男子大学生の部屋に女性ものの下着があったら問題でしょ」

「あったら泣きながら問い詰めるからね」

 久遠は湿り気のある視線で圧をかけるようにこちらを睨みつけた。

「そんなことありえないですよ、今後も」

 というか、久遠の着替えを持って来た人にはこの人を持って帰ってもらいたかった。

 そんなことを考えながらテーブルに置かれた野菜ジュースを手に取り、ストローを口に咥える。

「ならいいけど……。あ、もしかして期待した?」――何が?

 野菜ジュースを飲みながら両手で肩を抱きながらニヤリとしている久遠を見た。

「……もう。ほんとに惜しむらくは岳が一緒に寝てくれなかったことだなぁ……」

 久遠は溜息交じりにそう言いながらニヤリとした顔からジト目へと表情を変えた。

「一緒に寝るわけないじゃないですか」

 ズズッと音を立てた野菜ジュースのパックをテーブルに置いた。

「なんでよ! いいじゃん!」

「嫌ですよ。だってなんかされそうだし」

「何もしないよ! まぁでも……一緒に寝てるんだから抱きついちゃうこととかはあるかもしれないけどね? 事故でね」

「なら事故は起こさないに限るので一緒には寝ないです」

「やだ。一緒に寝よう、ね? 大丈夫だよ、抱きつくだけだから」

「事故じゃないじゃないですか。がっつり意図的じゃないですか」

「いいじゃん、そのくらい。減る物でもないんだし」

「嫌ですよ。てか、先輩いつまでいるんですか。早く帰ってくださいよ」

「え……」

 久遠はビックリした顔をして、それから両手で顔を覆い、白々しく鼻を啜った。

「ひどい……! 彼女にそんな冷たいこと言うなんて……! 一緒に寝てくれないし……」

「……で、いつ帰るんですか?」

 久遠は顔を覆っていた手をどかし、案の上涙が微塵も流れていない目でこちらをムッと睨んだ。

「演技が――イタイイタイ!」

 久遠はムスッとした表情でこちらの頬を抓る。

「帰らなくてもいいよね?」

 久遠は抓るのを止めないでニコッと笑顔を見せた。

「ね?」

 その目は全然笑っていない。

 頷きそうになる瞬間に着信音が部屋に響いた。久遠は〝あ、私だ〟と抓っていた手を放していつの間にか充電していた彼女のスマホを手に取り耳に当てた。

「もしもし。はい、そうです。……あぁ、はい、分かりました。今は彼氏の部屋で……あ、いえ、私たちがそちらに伺います。いえ、大丈夫です。あ、お昼食べてからでもいいですか? すいません、ありがとうございます。では後ほど。はい、失礼します」

「……誰からですか?」あと彼氏の部屋じゃなくて後輩の部屋です。

 耳からスマホを離した久遠に訊ねると久遠は立ち上がりながら答えた。

「刑事さんから。改めて話を聞かせて欲しいって」

 久遠は〝う~ん〟と伸びをした。

「伺いますって……警察署に行くんですか?」

 久遠は頷いた。

「そうですか……。いってらっしゃいませ」

「何言ってるの? 岳も一緒に決まってるじゃん」

「えぇ……」

「私たちが第一発見者なんだから当たり前でしょ? ほら出かける準備して?」

「……はぁい」

「お昼どうしよっか? 食べたいものとかある?」

 久遠は部屋の隅にいつの間にか置かれていた大きめの鞄からポーチを取り出した。

「食べたいもの……」

「何でもいいよ? ファーストフードとかでもいいし、ラーメンとかでもいいし。和食でも中華でもイタリアンでもフレンチでも」

「えぇ……じゃあラーメンがいいです」

「じゃあそうしよう!」

 久遠は楽しそうにニコッと笑った。



 ラーメンで昼食を済ませてから警察署に赴くと、出迎えてくれたのは新町刑事でも曽根刑事でもなくセミロングくらいの黒髪を後ろで束ねたパンツスーツ姿の綺麗な女性の刑事だった。

「新町さんと曽根さんじゃなかったんですね」

 久遠に向かって言った言葉に女性の刑事――鳥山とりやま刑事がニコッと笑って答えた。

「あの二人は機動捜査隊なんです」

「機動捜査隊……」久遠が耳慣れない言葉かのように呟く。

「初動捜査とかが専門の刑事なんです。機捜って略すんですけど……あ、『MIU404』っていうドラマ観たことあります?」

「あれですよね、綾野剛あやのごう星野源ほしのげんの……」

「そうですそうです。あれが機捜です。あ、もちろんメロンパン売っているような車には乗ってないですけどね」

 鳥山刑事はふふっと笑顔を浮かべながら言った。

「『MIU』……」

「観たことないですか?」

 ピンと来ていない久遠に訊ねると頷いた。

「そうなんすか。めっちゃ面白いですよ。あ、家にブルーレイボックスあるんで貸しますよ」

「ホントに? じゃあ帰ったら一緒に観ようね」

「貸すって言ったじゃないですか」

「一緒に観たいの!」

 久遠とのやり取りを鳥山刑事は微笑ましげに眺めている。

「仲良いですね。お二人はお付き合いされてるんですよね?」

「いや、違――」

「そうです!」

 事情聴取の時のリプレイかのように久遠はこちらの口を手で覆った。鳥山刑事は一瞬困惑した表情を浮かべたがすぐに納得したかのような笑顔になった。

「彼氏さん恥ずかしがりなんですね」――違う!

「そうなんです。いつも恥ずかしがって」

 久遠は呆れたように笑いながら口を覆っていた手をどかした。

「いいですね。私なんてもう恋愛なんて全然で」

 鳥山刑事は溜息交じりにハハと笑った。

「そうなんですか? お綺麗だから色々な恋とかしてそうなのに」

〝綺麗なんてそんな〟と首を横に振りながら謙遜した鳥山刑事は、

「もう仕事仕事で忙しいですし、休みの日は高校の先輩とその弟に会いに行ってみたいな感じで。正直恋愛よりその二人と会って色々話す方がいいかなって思っちゃうんですよね。それにやっぱりどうしても将来のこととかも考えないといけないってなると面倒くさいなって感じますし」

 結構サバサバしている鳥山刑事は何だかカッコいいと感じる。久遠は〝そうなんですね〟と頷きながら相槌を打った。

「お二人はサークルとかで出会ったんですか? 確か久遠さんが三年で、中村さんが一年生でしたっけ?」

「いえ、単純に私がこの子に一目惚れして、なんだかんだあって付き合うことになったって感じで」

 久遠は平然とした顔で嘘を吐いた。付き合ってないし、色々なことをなんだかんだって誤魔化したし。

「へぇ、一目惚れ……」

 鳥山刑事はニヤニヤした顔でこちらを見た。思わず顔を逸らしてしまう。

 それから久遠と鳥山刑事の他愛のない話を聞きながら歩いていくと、鳥山刑事が〝こちらの部屋です〟とある部屋の扉を開け、中へ入るように促した。部屋には既に男性が座っていたが、こちらが入ってくるのを確認してわざわざ立ち上がった。

「すみません、わざわざお越しいただいて。刑事の矢島やじまです。どうぞお掛けください」

 男性の刑事――矢島刑事は微笑みながら浅く頭を下げて、椅子を手で示した。鳥山刑事は矢島刑事の隣の椅子に座り、矢島刑事の対面に久遠が、鳥山刑事の対面に自分が座ることを確認してから矢島刑事は再び口を開いた。

「では改めて昨日――じゃないか、今日の発見時についてお伺いします」

 矢島刑事が聞き手となり、鳥山刑事はメモ帳を開いてペンを構えた。

「あの、あの方はどうなりましたか?」

 久遠の質問に鳥山刑事の表情が沈痛な面持ちへと変わった。矢島刑事は僅かに眉間にしわを寄せた。

「搬送後お亡くなりになりました」

 矢島刑事の言葉に久遠は〝そうですか〟と下を向いた。

 知り合いでもないとはいえ、実際に現場に居合わせた身からすればやはり重いものにのしかかられるような気分になってしまう。

「では……お二人は〝マンションから飛び降りる幽霊〟の話を聞いて彼のバイト先から現場となったあのマンションへ向かったとのことですが、間違いないですか?」

 矢島刑事は久遠とこちらを交互に見ながら訊ねた。久遠が〝はい〟と頷きながら答えると矢島刑事は続けて訊ねる。

「それはやはり興味本位で?」

「そうですね、そんなところです」

 久遠は事情聴取の時と同じ様にまたどこか曖昧に答えた。その姿に疑問が沸く。そもそもどうしてあの場所に行こうとしたのだろうか。散歩なら別に近くにある少し大きめな公園があるからそこでも良かったのに。

「なるほど。そして、マンションのそばにある駐車場で倒れているのを発見したと?」

 矢島刑事は久遠の答えに納得して次の質問を投げかける。

「えぇ。ちょうどマンションのすぐ近くまで来た時に大きな音がマンションの方からしたんです。幽霊が出たんだと思って向かったら髪の長い人が倒れていて。元々の話では落ちてくるのは男性だと聞いていたのと、あとはこの子がその姿を確認できたので、幽霊ではなく人だと確信して通報した……という感じです」

 久遠の言葉にメモを取りながら聞いていた鳥山刑事が〝あの……〟と小さく手を挙げた。矢島刑事とアイコンタクトを取ってから鳥山刑事が不思議そうな表情で訊ねた。

「中村さんがその姿を確認できたっていうのは……?」

 矢島刑事と鳥山刑事の視線がこちらに向く。やましいことはないのに身構えてしまう。

「あぁ、この子幽霊が一切視えないんです」

 久遠はこちらの肩に手を置きながら答え、更に続けた。

「自分にたくさんの女の子の幽霊が憑いていても全然気付かないんです。ほんと心配になっちゃうくらいに」

 久遠はこちらを向いて優しく微笑んだ。矢島刑事はその姿をどこか怪訝そうな表情で見ている。

「久遠さんはそういう……霊感があるんですか?」

 鳥山刑事が訊ねると久遠はそちらを向いて答えた。

「はい。幽霊が視えるんです。この子のすぐ隣に立っている血まみれの女の人も」

「はぇ⁉」ガタッ!

 心臓が大きく跳ね、即座に首を振って横を見る。そこには当然誰も視えない。

「冗談ですよ。この部屋には幽霊なんていないです」

 久遠は満足そうにフフッと笑った。クッソ……。

「何そんなビビってるんですか、矢島さん」

 鳥山刑事は何故かテーブルから離れた場所まで椅子で移動していた矢島刑事を見てクスクスと笑っている。

「び、ビビってねぇよ、別に……。あの、久遠さん、そういう冗談はやめてください」

「ビビってる」

 鳥山刑事は依然としてクスクスと笑いながらニヤニヤした目で矢島刑事を見ている。

「だからビビってねぇよ! 靴紐結ぼうかなって思っただけだよ!」

 矢島刑事は鳥山刑事に向かって弁明しながら足元に向かって上半身を倒した。

「いいですよ、言い訳は」

「言い訳じゃねぇって!」

 靴紐を結び終えたのか矢島刑事は椅子で元のテーブルのそばまで移動しながらごほんと一つ切り替えるように咳払いをした。鳥山刑事はまだニヤニヤと笑っている。

「つまり、中村さんが確認できたということはイコールでその人は幽霊ではなく人間ということですね」

 矢島刑事の言葉に久遠はしっかりと頷いた。

「そうですか……。では、発見時に人影を見たというのも……」

 矢島刑事はこちらに視線を向ける。鳥山刑事もメモ帳からチラッとこちらに視線を動かした。聞きたかった話はこの話なのだろうと悟った。

「あぁ、まぁ……。でも、一瞬でしたし、見間違いかもしれないですし……」

 首を傾げながら曖昧に答えることしかできなかった。自分が見たものを百パーセント信じることができない。

「事情聴取の時にもお話しましたが、岳が人影を見たのなら、それは実際にその場所に人がいたか、何かと見間違えたのかのどちらかです。ただ、私的には実際に人がいたんだと思いますけどね」

「どうしてそう思われるんですか?」

「屋上に人影と見間違えるものを私が確認できなかったのと、やっぱり彼氏の言うことなので」

 久遠のニコッと笑って答えた言葉に矢島刑事は一瞬拍子抜けしたような仕草をした。鳥山刑事はニマニマした顔でこちらを見た。

「……では、他に気付いたことや思い出したことなどありますか?」

 矢島刑事は気を取り直すように肩を一瞬上下させてから質問を口にした。

「いえ、特には……」

 久遠も同調するように〝私もです〟と言うと、矢島刑事は〝そうですか〟と頷いた。そんな矢島刑事に鳥山刑事は小声で訊ねた。

「どう思います?」

「証言も一応あるし……、やっぱりそっちの線でも調べた方がいいかもしれないな」

 鳥山刑事はその言葉に〝ですよね〟と相槌を打つ。

「とりあえず、今は解剖の結果かな。俺ちょっと行ってくるからあとは頼んだ」

 矢島刑事は鳥山刑事が頷くのを確認すると改めてこちらに向き直った。

「話を聞かせていただきありがとうございます。では、すいませんが私はこれで」

 頭を下げた矢島刑事は立ち上がり、もう一度微笑みながら小さく頭を下げてから部屋を出ていった。扉が閉まるのを確認してから、久遠は鳥山刑事の方を向き訊ねる。

「警察は主に自殺として捜査されているんですか?」

「え……えぇ、まぁ。私たちは中村さんが見たという人影が気になっているんですけど、他の捜査員が調べた情報を見ると自殺じゃないかというのが大方の見方というか」

 鳥山刑事は久遠と自分の丁度真ん中辺りに来るように椅子を横にずらした。

「中村さんの証言自体も〝見間違いかもしれない〟という曖昧な部分もありますし、時間も深夜だったことも踏まえて実際に何かと見間違えたのではないかと判断している捜査員もいます。ただ、確かに久遠さんがおっしゃるように何を人影と見間違えたのかがはっきりしていないので、中村さんの証言を完全に除外しているわけでもないんです」

 久遠も警察も何を人影と見間違えたか分からないと言うのであれば、やはりあれは人影だったのだろうか。それとも、幽霊が出るという恐怖から見た幻覚だったのかもしれない。自分のあやふやな発言で警察が動いていることを考えると発言の責任を感じて胃の辺りが少し痛む。

「鳥山さんと矢島さんは殺人も視野に入れているんですよね? 人影以外にも何かそう考える根拠とかがあるんですか?」

 こちらの状況を露ほども知らない久遠はそう訊ねながら首を傾げた。

「えぇ。……実は気になる証言があるんです」

 鳥山刑事はそう言ってから閉まっている扉の方に目をやってから再びこちらを見た。声のボリュームを落として、〝ここだけの話ってことで〟と人差し指を口元に当てながらふふっと笑って話し始めた。

「亡くなった女性――野村有希のむらゆきさんには交際している男性がいたんです。佐野一真さのかずまという名前なんですけど、その彼と野村有希さんはあのマンションの八階で同棲していたようなんです――」

 手元のメモ帳をペラペラと確認しながら鳥山刑事は続けた。

「二人は五年ほど交際していて、一年ほど前から同棲を始めたそうで。ただ、佐野一真曰く、最近は仲が上手くいってなく、喧嘩もしょっちゅうしていたそうなんです。二人が言い争う声を聞いたって証言する住人も数人ほどいました。

 昨日――彼女が亡くなる数時間前にも二人は喧嘩をしたようで、怒った彼女はマンションを飛び出して近くに住む友人の池田智花いけだともかの所へ行ったようです。野村有希さんがマンションを出るところをエントランスの防犯カメラが捉えていましたし、彼女と入れ違うように帰ってきた隣に住む住人も泣きながら出て行く彼女を目撃したと証言しました。

 池田智花の証言では話を聞きながら何とか彼女を宥めてマンションへ帰るよう言い、お二人が通報する少し前に野村有希さんは池田智花のマンションを出ました。その間、佐野一真はマンションから出ることなく、部屋でお酒を飲んで眠ってしまったと供述しています。防犯カメラにも彼が出て行く姿は映っていませんでした。

 野村有希さんが自宅マンションに戻ったのが転落する数分前。これもエントランスの防犯カメラに彼女がマンションへ入っていく姿が記録されていました」

「つまり、自殺だとすれば野村有希さんは戻ってきてほとんどそのまま飛び降りたってことですかね?」

 久遠の言葉に鳥山刑事はぎこちなく頷いた。

「エレベーターに防犯カメラがついていなかったので彼女がどのような経緯で屋上から飛び降りることになったのかは分からないですが、自殺だとするならおそらくそういうことになるかと……」

 話を聞いた限りでは確かに自殺だと言われてもピンと来ない気がする。

 こちらの様子に気付いたのか、鳥山刑事は苦笑いを浮かべながら再び口を開いた。

「池田智花は野村有希さんと話して最終的に彼女が佐野一真とちゃんと話すと結論を出させてから家に帰したと証言しているんです。彼女の帰る時の様子も全く自殺する素振りなんて感じなかったと」

 池田智花の証言を考えれば、野村有希という女性が自殺を決意したのは池田智花のマンションを出た後ということだろうか。もしくは、隠していただけでもっと前から決意していたのか。どちらにしても、なんとなくあまり腑に落ちない。

「自殺だとするのなら、警察はその理由をどのように考えているんですか?」

「別れ話にショックを受けたのではないかと他の捜査員たちは考えているようです。佐野は喧嘩をした際に勢いで別れ話を切り出したと。池田智花も野村有希さんからその話を聞いたと証言してますし、その時の彼女のショックぶりも相当なものだったようです。どうやら野村有希さんは精神的に不安定な方だったというか……左腕にもリストカットの痕もあったので。今回はその一線を越えてしまったのではないかと」

「メンヘラ的な……?」

「佐野も池田智花もそう証言しています」

 こちらの言葉に鳥山刑事はそう答えた。

「でも自殺って言われてもあまり納得できないですね」

 久遠の言葉には鳥山刑事は大きく頷いた。

「私たちもそう思っているんです。それにここからが気になる証言なんですけど――。

 佐野一真には他に付き合っている女性がいるようなんです」

「えぇ⁉」

 久遠が驚いた声を上げてすぐに〝あっ〟と手で口を押さえた。その様子に苦笑いを浮かべながら鳥山刑事は続けた。

「隣の部屋の――さっき入れ違いで彼女を目撃したという住人の証言なんですけど、野村有希さんが不在の間に佐野一真が別の女性と親密そうに部屋に入っていく姿などを数回目撃したらしいんです」

「サイテー……」

 久遠の呟きに内心で大いに同意する。

「その証言と中村さんの人影を見たという証言で野村有希さんが殺害されたのでないかと考えたんです。

 佐野一真は野村有希さんとの交際に嫌気が差し、他の女性と付き合い始めた。そうなると当然野村有希さんが邪魔な存在になる。ただ、彼女は精神的に不安定で佐野一真にかなり依存しており、関係を終わらすのが中々難しかった。そこで昨日の喧嘩で部屋を飛び出した彼女が帰ってくるタイミングで屋上に連れ出し、自殺に見せかけるように突き落とした。これが私たちの見立てです。

 あのマンションはオートロックで住人と管理会社以外の人間が入ることは難しいですし、野村有希さんがマンションを出てから亡くなるまでの時間でマンションを出入りしたのは住人だけで不審な人物は防犯カメラに映っていませんでした。なので、殺人であれば犯人は住人以外あり得ない。そして、現状の最有力が殺害する動機がある佐野一真です。

 今、野村有希さんの解剖を行っていて、そこで犯人に繋がる何か――もみ合った際に引っ掻いた皮膚片とか血痕とか痕跡が出ないかとは期待しているんですけどねぇ……」

 鳥山刑事は苦い顔でそう言い終えた。

「痕跡があればいいですけど、出なかったら……」

「自殺として処理される可能性も大いにありますね。中村さんの証言も見間違いの可能性もあり得る、決定的な証拠もないとなると」

「難しいですね」

「ですね」

 久遠と鳥山刑事は互いに困ったように笑った。

「あの……今更なんですけど、こんなに色々聞いちゃって大丈夫なんですか?」

「だから〝ここだけの話〟ってことですよ。絶対内緒ですからね?」

 こちらの問いに微笑みながら答えた鳥山刑事は続けて、

「さっき高校の先輩とその弟に会うって言ったじゃないですか。その二人によく事件の話とか聞いてもらっているんです。それで自分の中で事件とか情報を整理したり、あわよくば二人から何かヒントでも貰おうかなって内心思ったり。誰かに話すことで違う視点が持てたりもするので、話しちゃうんです。ほんとは良くないんですけどね」

 鳥山刑事は悪いことがバレた子どもみたいにふふっと無邪気に笑った。

「バレたら矢島さんに怒られそうですね」

「いや、矢島さんも知ってるんですよ、実は。私が高校生の時から高校の先輩もその弟も矢島さんとは知り合いなんです。だから、たまに矢島さんと一緒に二人に会いに行ったりもするんですよ?」

〝へぇ〟とか〝そうなんですね〟と久遠と相槌を打っていると鳥山刑事はチラッと左手首に巻かれた腕時計を確認した。

「すいません。私もそろそろ戻らないといけないのでこの辺で」

「あ、そうですよね。すみません、長々と」

「いえいえ、こちらこそわざわざお越しいただいて。お話もありがとうございました」

 鳥山刑事と久遠のやり取りを聞きながら立ち上がる。二人も立ち上がり部屋を出る。鳥山刑事は出口までわざわざ送ってくれた。

「今日はありがとうございました。あ、お体には気を付けてくださいね。風邪が流行ってるみたいですし」

「風邪ですか……?」季節の変わり目でもないのに。

「えぇ。さっきの先輩の弟も風邪引いたらしくて。まぁ、あの子の場合は十中八九ゲームのやり過ぎで夜更かししてるからだと思うんですけど。私の同期も咳き込んでたり、証言してくれた住人の方も一人凄く体調が悪そうな方がいて……。新生活の疲れがドッと出て体調崩しやすくなってるんですかね?」

 確かに自分も大学生活に慣れてきたし、そういう時期なのかもしれない。疲れは別に感じないけど。

「確かに崩しやすいかもしれないですね。鳥山さんも気を付けてくださいね」

 久遠はニコッと笑って言った。

「ありがとうございます。では、お幸せに」

 鳥山刑事はいたずらっぽくニヤニヤとした顔でそう口にした。〝お幸せに〟という言葉が無性に引っかかるがとりあえず会釈をして警察署を後にする。



 あの女性が自殺なのか、誰かに殺されたのか気になる所だが、この件はこの事情聴取で終わり……だと思っていた。

 家へ戻って、久遠にブルーレイボックスを貸して帰ってもらい、あとは若干モヤモヤしながら一人でゲームをしたり、テレビを観たりして今日が終わる……と思っていたのに。

 見上げれば九階建ての白いマンション。二人も転落して亡くなったと思うとどこか不気味に思えてしまうそのマンションの前、隣には久遠。

「どうしてここに来たんですか?」

 警察署を出たその足でここまでやってきた。例の駐車場は既に規制線は解除されており、野次馬も当然見当たらない。みんな既に日常へと戻っていったのだ。それでも、あの女性が倒れていた場所はどこかまだ非日常で近寄りがたい。

「どうしてって事件を解決するためだよ?」

 久遠はこちらを一瞥してから視線を上へ運び、マンションの上の方――屋上辺りを見た。

「事件を解決ってそれは刑事の仕事ですよ? もしくは探偵とか。鳥山さんと矢島さんに任せれば良くないですか? もし解剖で鳥山さんが言うような痕跡が出れば、犯人だって逮捕されるでしょうし」

「でも出なかったら犯人は野放しになるかもしれないんだよ? それだと野村有希さんは浮かばれないでしょ。それに仮に犯人が野村有希さんの恋人だとして、解剖で彼の痕跡が出たとしても、部屋で喧嘩した時のものとか言うかもしれないし、決定的な証拠にならない可能性もないことはない。そもそもあくまで最有力の容疑者ってだけで、まだその彼が犯人とは確定してないからね。だから、まずは犯人に繋がる証拠を探さないといけない。

 まぁ、私たちが普通に調べた所でそんな証拠が見つかることはないだろうけどね」

 久遠はそう言ってふふっと笑う。じゃあダメじゃん。

「でも、証拠は見つけることはできないけど、犯人が誰か分かる方法はあるんだよ」

 意味深な言葉を吐いた久遠に首を傾げる。

「……先輩が推理でもするんですか?」

「私に推理なんてできないよ。推理なんかしなくたって、聞けば分かるんだから」

「聞けば……あ、聞くって幽霊に?」

 こちらの言葉に久遠は体をこちらに向け、ニコッと笑いながら両手を広げた。

「ご名答! ご褒美にハグしてあげる!」

「いや、いらないです」

「なんでよ! いらないって言わないで! ほら、おいで? 思いっきり抱きしめてあげるから!」

「いや、ほんとに……、ちょ、近付いてこないでください!」

 ジリジリと距離を詰めてくる久遠に対して一定の距離を保つためにジリジリと離れる。久遠は不満げに頬を膨らます。

「もう……。まぁ、いっか。ハグはいつでもできるし。とにかく、幽霊に聞けば犯人はすぐに分かるし、犯行時の様子を事細かに教えてもらえば犯人を追い詰めることができるしょ? 自分の行動を全て言い当てられたら、流石に言い逃れする余裕なんてないでしょ」

 確かにそんなことされれば、見られていたという恐怖で頭が一杯になりそうだ。幽霊が視える久遠だからこそできる犯人特定方法だ。ということは――。

「じゃあ、幽霊が視えない俺がいても意味ないですね。お先です。お疲れ様でした――グェ……」

 ペコリと頭を下げて家へ帰ろうと歩き出した瞬間フードを掴まれた。

「ちょっと、彼女置いて一人で家に帰る彼氏がどこにいるの? ほら、隣おいで」

 仕方なく久遠の隣に戻ると久遠はフードを掴んでいた手を離した。

「じゃあ、さっさと幽霊に聞きましょうよ。……でも、そんな都合よく現場を見ていた幽霊なんているんですか?」

 こちらの問いに久遠は〝う~ん〟と唸りながら

「ほんとは野村有希さんの幽霊に聞けば早いんだけど……、いないんだよなぁ。成仏したのかな……? だから――」

 久遠は皆まで言わないで視線を再び屋上へと向けた。その視線で察した。

「……あの幽霊に聞くんですか」

 このマンションから転落して亡くなった二人のうち、はじめに亡くなり、最近霊として再びこのマンションから転落していると噂されている男性の幽霊。

「うん……。それしかなさそうなんだよね。野村有希さんは屋上から転落したわけだし、多分その幽霊はその時のことを見ているとは思うんだけど」

「え、でもその幽霊って夜にしか出ないんじゃ……」

「そんなことはないとは思うけど。屋上の方に何となく気配感じるし」

 久遠の言葉に少しゾッとする。

「そもそも幽霊は基本的に二十四時間三六五日どこでもいるからね。丑三つ時とか逢魔が時は幽霊とかを見やすい時間っていう感じなだけで、常に幽霊はそこにいるんだよ。視える人と視えない人がいるだけのことで。お昼に行ったラーメン屋さんの辺りにもいたし」

「え⁉」

 久遠は〝驚きすぎ〟と笑ってからまた続ける。

「あの幽霊に話を聞きたいんだけど……、マンションはオートロックだし、警察でもない私たちが入れてくださいって言って入れるわけもないし。部屋の空きがあれば内見したいっていえば入れてもらえるんだけど、さっき調べたら空きもなさそうだったんだよね」

「じゃあどうするんですか? やっぱり夜まで待つとか?」

 久遠は首を横に振ってマンションのエントランスに目を向けた。

「夜まで待たなくてもあのマンションの住人がエントランスの入ったタイミングで私たちもその後に続けば多分入れるから、ひとまず住人が帰ってくるまでかな?」

「不審がられません、それ?」

「大丈夫だよ。意外とどうにかなるって鏡華きょうかさんが言ってたし」

「鏡華さん?」

「知り合いの刑事さん。あ、そっか、岳に会わせたことなかったか」

 久遠は納得した顔でこちらを見た。

「刑事さんならその人呼んで入れてもらえば良くないですか? 警察関係者として堂々と入れそうですけど」

「刑事はあんまり他の捜査に首を突っ込んじゃダメなんだって。それに今頃捜査の報告書作ってるか、寝てるかだよ、鏡華さんは。捜査結構大変だったし」

「そうですか……」

「大丈夫。今日は日曜だし、あんなことがあったとはいえ、住人の誰かは出かけてると思うからそんなに待たないと思うよ? それに二人なら待つ時間なんてあっという間だよ」

「頑張ってください――グェ……」

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