2章 おちる人①
「お会計一一〇六円になります」
女性が財布からお金を取り出す間に商品を袋に詰めていく。我ながら上手くなったと思う。
「一一一〇円お預かります」
レジから一円玉を四枚取り出す。
「四円のお返しです」
女性の手のひらにお釣りを渡す。
「レシートはご利用ですか?」
「はい。あと、裏にお兄さんの連絡先書いて下さい」
女性の顔を見るとニコッと笑っている。
「あ……すいません。そういうサービスはしておりませんので」
ニコッと笑ってそう返答しレシートを渡す。
「冗談です。大学生?」
「えぇ、まぁ……」
チラッと女性の後方を確認する。残念ながら誰も並んでいない。
「モテるでしょ?」
「いや、そんなことは……」首を横に振る。
このOLっぽい女性の人も多分分かって話しているはずだ。誰も並んでいないことを。
「絶対モテてるね。私だったら放っておかないもん」
「あぁ……ありがとうございます……」小さくペコリと頭を下げる。
「彼女とかいる? いなかったら今度ご飯とかどう? 奢るよ?」
「いやぁ……」
苦笑交じりに首を傾げ曖昧に拒否の姿勢を示す。これが正直自分のできる限界。
「そう。じゃああと何回来たらご飯行ってくれる?」
グイグイ来る女性にたじたじになる。
「え……あ、また今度誘ってください」
またニコッと笑って言ってみる。これが世にいう社交辞令か。
「お、言ったね? じゃあまた誘うからね。じゃあね」
「ありがとうございましたー」
コツコツとパンプスの踵を鳴らしながら女性は自動ドアをくぐって外へ行った。その姿を確認して溜息交じりにふぅーと息を吐く。
初めてのバイトとして選んだのは定番中の定番であるコンビニバイトだった。自宅近くにあるコンビニで働き始めたのだが、幸いなことに店長も人の良さそうな男性でとげとげしていない丸い雰囲気の職場で働くことができている。ここを選んで良かったと思う。一つ気になることがあるとすれば、女性客が多い気がすることくらいだ。シフトの度に見る人もいるし。
「お疲れ。代わろうか?」
肩にポンと手を置かれる。バイトの先輩である
「いや、大丈夫ですよ。そんなに忙しくないですし」
「そう。ごめんね。残業みたいになっちゃって」
本当は二十二時でシフトは終わりだったのだが、店長が寝坊をかましたために店長が来るまで働くことになった。
「いいっすよ、別に。どうせ家帰ってもゲームやるだけですし」
「そっか。もうすぐ店長来ると思うからそれまでよろしくね。ちゃんと残業代も出ると思うし」
涌井は爽やかな笑顔でそう言った。年齢は一つしか変わらないのにしっかりした大人に見える。二十歳になればこんな風になるのだろうか。全然想像できない。主に梶谷が。
「それにしても凄かったね、さっきの女の人」
涌井は自動ドアの方を眺めながら言う。
「グイグイだったし。モテるねぇ、岳君は」
「いや、そんなことないっすよ」
ニヤニヤと笑う涌井を横目に首を振る。
「いやいや。岳君がシフトの時女性のお客さん多い気がするもん。それに、岳君のファンだっているし」
「ファンって……」
「ほら、あそこの女の人。あの人岳君がシフトの時毎回長い時間いるからね」
涌井はサラダコーナーにいる女性の人を見た。
「涌井さんのファンじゃないですか?」
「そんなわけないよ。岳君がいない時すぐ帰るもん、あの人」
「たまたまでしょ?」
「いや、絶対そうだよ。大学生かな?」
涌井と共に女性を見る。ダークブラウンでセミロングの女性はさっきからずっとサラダコーナーの前に立っている。
「岳君声かけてみたら?」
「……なんでですか⁉」
突然の提案に思わず涌井を見る。
「ファンサだよ、ファンサ。だって毎回長い時間いるんだよ? それくらい岳君のことが気になってるってことでしょ。なんかマンガみたいじゃん、そういうのって」
「マンガって……」確かにそういう系の話ありそう。
「話してみたら意外と気が合うとかあるかもしれないよ? それでそのまま付き合っちゃたりして」
涌井は意外と恋愛マンガとかが好きなのかもしれない。
「ていうか、岳君って彼女いるの?」
涌井の質問にドキッとする。
「……いやぁ、いないです」少なくとも自分はそう思っている。
「なにその反応。もしかして、気になってる人がいるとか?」
涌井はウキウキした顔でこちらを見た。
「いや、気になってるとかも別に」
涌井は〝ふ~ん〟とニヤニヤしながら数回頷いた。
「まぁ、岳君モテるし、誰とでも付き合えるだろうからなぁ」
「だからモテないですよ、別に」
「いや、モテるでしょ、絶対。バレンタインとかめっちゃチョコ貰うでしょ?」
「全然っすよ」
クラスの人がみんなに配る義理チョコとか姉から貰うチョコくらいしか貰っていない。
「またまた。段ボール何個分?」
「一個だと余裕でスペースが余るくらいですよ。涌井さんはどうなんですか? 涌井さんこそモテるでしょ」
涌井は爽やかな見た目で優しいし、社交的で誰とでも分け隔てなく会話することができるタイプだと思うし。
「俺は全然」涌井はふふっと笑って首を横に振った。
「へぇ。彼女とかいるんですか?」
「……うん、まぁね」
涌井は恥ずかしそうに顔を背けた。
「同じ大学っすか?」
「ううん。違う大学。高校の同級生」
「へぇ」ニヤニヤした声で相槌を打つ。涌井の耳がほんのり赤くなっている。
「いいんだよ、俺の話は」
「彼女どんな人なんですか?」
「うるさいうるさい」
涌井とそんなやり取りをしていると自動ドアが開き入店音が鳴った。店内に入ってきたのはチェック柄のフリルフレアワンピースを身に纏った、ハイポニーテール姿の――
「……えっ?」
「うわ、めっちゃ美人――」
涌井の息を呑む声が聞こえた。その女性はこちらに気付くと手を振りながら近付いてくる。
「岳!」
「岳……?」
涌井がこちらに向いたのが横目に見えた。
「……何しに来たんですか?」
「何って岳に会いに来たに決まってるじゃん」
女性――久遠せつなはニコッと笑った。
「ちょちょ、岳君。この綺麗な人とどんな関係なの? 姉弟なわけないよね?」
涌井は耳元で囁くように訊ねる。
「……ただの先輩後輩ですよ」
「違うじゃん。れっきとした恋人でしょ?」ゴトン――。
久遠は顔をしかめながら事実を虚構へと訂正した。そして音のした方を見ると、さきほどのセミロングの女性が慌てた様子で床のペットボトルを拾い上げている。
「え? さっき彼女いないって言ってなかった?」
涌井は不思議そうにこちらを見る。そんなこと言われても本人が一番不思議に思っているから何とも言えない。
首を傾げながら〝うん、まぁ……〟と曖昧に返事をして久遠に向き直る。
「そもそもなんでバイトしてること知ってるんですか。てか、なんでバイト先まで把握してるんですか」
「だって私彼女だもん」
理由になってない理由を述べた久遠はふふんと自慢げな表情を浮かべた。本当にどうして知っているのだろうか。微塵も言っていないのに。
「それに今日のシフトって二十二時まででしょ? なんでまだ働いてるの?」
ほんとにどうしてシフトまで知っている?
唖然としていると隣から涌井が代わりに申し訳なさそうに説明した。
「実は店長が寝坊して、来るまで岳君に残業してもらってるんです。すいません。まさか今日岳君に予定があったなんて知らなくて」
「あ、そうなんですか。それなら仕方ないですね」
久遠は納得したように頷いた。
「岳の家行ってもいなかったからどうしたんだろうって思って来ちゃって……、なんかすいません」
「こちらこそです。もう、岳君予定あるなら言ってよぉ」
「いや、予定もくそも……」そもそも彼女でもないし。
「しかもめっちゃ良い彼女じゃん。こんなに綺麗で――あ、もしかしてミス慶名の……」
涌井は思い出したかのように久遠を見た。久遠は照れるように小さく笑いながら頭を小さく下げた。
「凄いね、岳君。ミス慶名と付き合ってるなんて。でも、納得だよ、なんか。お似合いだし」
「やめてくださいよ」
「〝やめてくださいよ〟はおかしいからね、岳」
「そもそもなんで家行ってるんですか」
「明日休みだし、岳の部屋行きたいなって思って」
「嫌ですよ」
「いいじゃん! もうそろそろ部屋の中入れてくれたって! 彼女なんだし」
「だから、違います!」
涌井は微笑ましげな眼差しで〝仲良いね〟と呟いている。このやり取りで仲が良いとは、涌井はどうやら目と耳が悪いらしい。今度良い眼科と耳鼻科紹介してあげよう。
「違わないから! あ、で、店長さんっていつ頃来るんですか?」
久遠は涌井を見て首を傾げた。
「あぁ、そうですね……もうそろそろ来るとは思うんですけど」
「そうですか。じゃあ私あそこで待ってるね」
久遠はイートインスペースを指差した。
「いや、いいですって」
「え、じゃあ岳の部屋で待ってたほうがいい? 鍵貸してくれるなら先帰ってるけど?」
「もっといやです」
「じゃあここで待ってるよ」
「なんで帰るっていう選択肢がないんですか!」
「あぁ……何だったら、別に岳君もう上がってもいいよ?」
「え⁉」
驚いて涌井の方を見ると、涌井は続けた。
「ここからそんなに忙しくないだろうし、もう店長も来るだろうし。それに彼女さん待たすのもねぇ」
涌井はチラッと久遠を見た。
「いいんですか?」
久遠は嬉しそうに涌井を見た。涌井は頷きながら、
「はい。そもそも岳君の本来の勤務時間は終わってますし」
ニコッと笑って答えた。その答えに久遠は嬉しそうにニヤニヤした顔のままこちらを見た。
「……いや、でもここから店長来るまでにめちゃくちゃ人が来るかもしれないですし」
「大丈夫だよ。多分来ないから」
「ご、強盗とか来るかもしれないですよ?」
「岳君いてもどうにもできないでしょ。大丈夫だから! ほら、早く着替えておいで」
涌井は肩をポンポンと叩いた。
「えぇ……」
「なんで嫌そうな顔してるの」
それは涌井が優しい顔して久遠にこちらの身を差し出すから。
「はぁ……、じゃあお言葉に甘えて……」
「だから、なんでちょっと不服そうなの。……あ、そうだ。岳君の家って三丁目?」
「いや、違いますよ」
「そっか。ならいっか」
涌井の言葉に首を傾げる。久遠が代わりに訊ねた。
「三丁目がどうかしたんですか?」
「あ、いや。そんな大層な話じゃないんですよ。最近この辺で変な噂があって」
「変な噂?」
「知らない? ほら、三丁目に九階建ての白いマンションあるの分かる?」
「九階建ての白い……あぁ、はいはい。あそこですね」
「そう。そこで前に飛び降り自殺があったんだって。あ、俺が大学入る前とかの話らしいけどね。で、最近夜にそのマンションの前で上から男の人が落ちてきたのを見たって人が結構いるらしくてさ」
「えぇ……」
「もちろん、そんなの見たらみんなビックリして目逸らすでしょ? でも救急車呼ばないとってもう一回確認するとそこには誰もいないし、血痕とか飛び降りた形跡もないって」
「幽霊ってことですか?」
久遠の言葉に涌井は頷いた。
「多分……。まぁ、実際に見たわけじゃないんで何とも言えないんですけど。この前も友達がそれ見たって興奮しながら電話してきて。でも、その前通れば必ず人が落ちてくるってわけじゃないらしいですし、もしかしたら見間違えとかもあるかもしれないですけどね。飛び降り自殺があったっていう話を知ってる人がその恐怖から幻覚を見たとか、そもそも誰かが面白半分で創作した話かもしれないですし」
「ま、まぁ確かに……」
この前実際に幽霊の存在を認識した身からすれば涌井の言葉に同意もできない。それに見たという人が結構いるのなら少なくともそれらしい現象が起きていることは間違いない気がする。
ふと久遠を見ると〝なるほど〟と呟きながら頷いている。
「だからその辺通らない方がいいよって話だったんだけど、違うなら大丈夫だね。ごめんね、こんな話。久遠さんもすいません」
涌井は少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、お気になさらず。むしろそういう話結構好きなんです」
久遠は微笑みながらそう言った。
「そうなんですか。ホラー映画とかも全然余裕な感じですか?」
「はい。あ、そうだ。今度一緒にホラー映画観に行こっか?」
久遠はニヤニヤした顔でこちらを見た。
「……絶対いやです」
涌井はアハハと笑って、
「彼女にカッコいい所見せるチャンスじゃない? 観に行きなよ」
「無理です。そもそも見せる必要もないですし」
「おぉ。もう十分ってこと?」――彼女じゃないからだよ!
涌井もニヤニヤした顔をしてこちらを見ている。
「まぁ、とにかく。お疲れ様、岳君」
「……お疲れした」
今度涌井の彼女のこと根掘り葉掘り聞いてやろうと復讐を誓いながらスタッフルームへと向かった。
ほんとにどうしてバイトのことを久遠は知っているのだろうか。コンビニでバイトすることを言ったのはこの前スカイツリーに行ったときのメンバーにしか言っていないから、知っていたのは梶谷と横山、それから清水さんとその友達。今日のシフトの話をしたのは梶谷と横山。つまり、梶谷だな。横山が漏らすとは思えないし。
「ちょっと岳、聞いてる?」
視界に久遠の顔がひょいと入ってきた。
「……え?」
「もう! やっぱり聞いてない」
久遠の頬は風船のように膨らんだ。
「……聞いてましたよ。明日の天気の話ですよね」
「ちがーう! 家帰ったらどんなホラー映画観ようかなって話!」
「そんなの好きなの観たらいいじゃないですか」
「私の好きなのだと岳が観れないでしょ?」
「なんで一緒に観る前提なんですか」
「岳の部屋で観るんだからそれはそうでしょ」
「嫌ですよ! てか、そもそもなんでこっち来たんですか」
コンビニを出た後、久遠に腕を組まれ引きずられるように自宅ではなく、例のマンションの方へとやって来た。
「あのマンションの幽霊視に行くからだよ」
久遠は前を見ながら平然と答えた。
「なんでわざわざ行くんですか」
「いいじゃん。夜道を彼氏と散歩したかったの!」
散歩の目的地としてこれ以上ないほど相応しくない場所だし、そもそも久遠の彼氏でもないし。突っ込みどころしかない。
「一人で行けばいいのに……」
小さく呟くと久遠はこちらを向いてジトっとした目をした。
「なに? 彼女置いて一人で帰るの?」
久遠の色素の薄い瞳から出てくる不満げな視線を見ないように違う方へ顔を向ける。
「……俺に彼女なんていないんですよ」そもそも自分は彼女なんて作っちゃダメなのに。
「私が岳の彼女! 周知の事実だよ? うちの大学で私たちが付き合っているって知らない人はいないだろうし、私のインスタのフォロワーだって他の大学の人も普通の社会人も高校生に中学生だっているんだよ? 岳が私の彼氏だっていう認識は色んな人に浸透してるんだから。絶対覆せないよ」
久遠は悪そうにフフフと笑った。
普通の女子大生であれば発信される情報の影響力なんてたかが知れている。しかし、久遠せつなはそのずば抜けた美貌で他を圧倒したミス慶名。知名度は多分芸能人とかと変わらないレベルで、インスタのフォロワーも普通の女子大生の比ではない。発信する情報の影響力はそこらの女子大生と比べ物にならないほどで、その久遠せつながあんな投稿をすれば当然そこに写る人物が話題にならないわけがない。あっという間に大学内で話題の人物として注目されるようになってしまった。
この前だって清水さんとその友達に色々聞かれたし、地元の友達からも連絡が来たし、街を歩いている時も何か見られているような視線を感じることもあった。
いずれにしても、早くこの話題が廃れることを切に願うばかり。
「先輩、インスタに〝私たち別れました〟って真っ黒の画像と一緒に上げてくれません?」
そうすれば話題が廃れると同時に普通の大学生に戻れそうだし。
「そんなことするわけないでしょ? 私たちが別れることなんてないんだから。もうあとはいつ結婚するかだよ」
「……確かに付き合ってないから別れるってこともないか」
「付き合ってる! そんなに私じゃ不満? 不満なところ言ってよ」
久遠はムッとした顔でジッとこちらを見る。
「不満って……、じゃあ、大学から帰る時毎回付いて来るとこ」
「こうやって2人で寄り添って歩くのがいいじゃん!」
「……あと、あわよくば部屋に入ってこようとするとこ」
「部屋でイチャイチャしたいじゃん!」
「それって恋人同士でやることじゃないですか」
「だからいいじゃん、やったって」
久遠はふんっと前を向いてさらに続けた。
「……それに心配なんだよ。岳は幽霊が視えないくせに色んな子をたくさん連れて行っちゃうし……。私からすれば気が気じゃないんだよ? 危険な幽霊だって案外いるし、この前の子だって――。私が岳のそばにいれば幽霊から岳を守ることができる。だから、なるべく一緒にいたいの。一緒に帰りたいの」
再びこちらを向いた久遠の真面目な顔と真っすぐな視線は頭が次の言葉を生みだすことを難しくさせた。
「それは……その……」
「ほんとは一緒に住みたいくらいだよ。これでも我慢してる方なんだからね?」
「……一緒に住みたいは本当に心配だからっていう純粋な理由なんですよね?」
久遠をジッと見ると久遠はフフッと笑って前を見た。
「まぁ、いずれは一緒に住むことになるからね」
「ならないですよ?」
「で、他に不満なところは?」
久遠はこちらの言葉を無視して横目でこちらを一瞥した。
「えぇ、他……」
正直別に久遠自体に不満なところがあるわけではない。顔は言わずもがな綺麗で、強引なところは多々あるが、別に優しくないわけではなく、寧ろ性格もいい。家はお金持ちでスタイルも――。
「……あ、身長。もっと身長に差が欲しい、とか?」
「じゃあ私がヒール履いて高くなればいい?」
「そうじゃないです! こういうのって男が身長高い方が見栄え的に良いじゃないですか」
「そんなことないよ? 身長に差がない方が色々やりやすいでしょ?」
「なんすか、色々って?」
久遠は何も言わずにこちらを見てまた意味深に笑った。
「それに身長が高かろうが低かろうが、私は岳がいいんだよ。岳じゃなきゃ嫌」
「……そうですか」
久遠はこちらに肩を寄せながら、
「私は身長とか見栄えとかそんなこと気にしないよ。ただ隣に岳がいれば十分」
よくもこうむず痒いことをポンポンと平気で言えるものだ。
「岳って身長いくつなの?」
「え……一七〇ですけど?」
「一七〇……」
久遠は〝ふ~ん〟とニヤニヤした顔でこちらを見ている。
「なんすか……!」
「可愛いなぁって思って。岳一七〇ないでしょ?」
「……ありますよ」
「じゃあちょっと止まって」
久遠はそう言って歩くのをやめた。
「え、なん――」
「はい、気をつけ」
言われるがまま気をつけの姿勢を取ると久遠は顔すれすれの距離まで近付いてくる。
「うん、やっぱり。一七〇は嘘でしょ?」
久遠は離れながら少し笑った。
「……何でそんなこと分かるんですか」
「だって私一七〇ないくらいだけど、岳は私よりちょっとだけ小っちゃいもん」
うっすら分かってはいたけど、改めて言われるとちょっと傷つく。
「やっぱり先輩の横が似合うのは俺じゃないですよ。もっと身長が高くて――一八〇センチ越えとかのヨーロッパ系の顔立ちしたハーフの男ですよ」
「そんなことないって。私の横が似合うのは世界で岳だけだよ!」
「いや勘弁してくださいよ」
「〝勘弁してください〟はおかしいからね」
改めて自分の身長に溜息をついてしまう。まだ成長期であることを期待するが、一向に伸びることもなく、否応に成長期が終わったことと自分の身長の限界値を思い知らされる。
「溜息つかないの。いいんだよ、岳はそのままで」
「もっと高い方がいいですよ」
「いいの! 岳はそのままで十分可愛いんだから!」
「いやで――」
ドンッ。
大きな音にビクッとして、音のした方向へ目を移す。
いつの間にか近くまで来ていたことに気が付いた。
九階建ての白いマンションがそこに立っていた。
「じゃあ、行こうか」
そうニヤリと笑った久遠はこちらの手首を掴み引っ張りながらマンションへと歩いていく。
道を曲がるとマンションのすぐそばにある駐車場がまず見えた。
白や黒の車が並ぶ中、ポツンと車がない場所。
髪の長いその人は仰向けに横たわっている。
「うわっ……」
思わず目を逸らした。血のようなものがコンクリートの上に広がっていく。
「……岳視えるの?」
「……え」
久遠のジーッとその人を見つめる横顔を見る。
あれ?
そういえば、どうして視えるのだろうか?
そもそも涌井は〝男の人〟と言ってなかっただろうか。
「……ッ!」
違う。
「先輩! あれ――」
久遠は静かに頷きながらスマホを耳に当てた。
心臓がバクバクと鼓動を速める。息が荒くなる。
九階建ての白いマンション。それをゆっくり見上げていく。
一番上の屋上らしき場所で人影がスッと消えるのが見えた気がした。
久遠の連絡からすぐに辺りは騒がしくなった。赤い光が暗かった住宅街を煌々と明るくし、騒ぎに気付いた付近の住人たちが貼られた規制線の外側からブルーシートで隠された件の駐車場の一角を見つめ、ある者は不安そうな面持ちで、ある者たちはコソコソと何かを話しながら警察の一挙手一投足に注意を払っている。
倒れていた人――おそらく女の人――は既に救急車で搬送され、代わりに鑑識が現場へと入っていた。
そこから少し離れた場所で事情聴取をされることになった。
「第一発――え⁉ 久遠せつな⁉」
「本物だ……」
「……有名なの?」
感嘆の声を上げている新町刑事の横で怪訝そうにその姿を見る髪型を七三にビシッとセットしている
「有名っすよ! なんてたってあの慶名のミス慶名ですよ⁉」
曽根刑事は〝あぁ、そう〟と素っ気ない相槌を打ちながら久遠を見た。
「先輩ってやっぱり有名人なんですね」
小さな声で久遠に言うと微笑みながら頷く代わりに首を斜めに振った。曽根刑事は続いてこちらをチラッと見て久遠に訊ねた。
「隣は……弟さん?」――失礼な。
「ただの大学の後――」
「彼氏です!」
途中で横から手が伸びてきてそれ以上言葉が出ないようにと口を覆われた。
「あぁ! お前……‼」
こちらを指差す新町刑事に曽根刑事が〝指差すな〟と新町刑事の指を叩いた。
「何? この子も有名なの?」
問いかけられた新町刑事は刺々しい口調で吐き捨てるように言った。
「有名ですよ! あの久遠せつなの彼氏ですよ⁉ あのインスタの投稿がどれだけの衝撃を与えたことか。しかも顔がめちゃくちゃ良いって若干バスってましたからね」
ほんとに有名人なのだなと恨めしく久遠を見ると久遠はこちらを向いて悪そうにフヒッと笑った。
刺々しい新町刑事の言葉を〝ふぅん〟と味気ない相槌であしらいながら曽根刑事は再び久遠とこちらを交互に見た。
「まぁでも、お似合いですね。美男美女で」
〝大丈夫かな、この刑事さん〟と思いながら口を覆っている手を軽く叩くと、久遠はようやく手を離した。
「……んで、どうしてこんな時間に二人で歩いてたんですかぁ? デートの帰りですか、あぁ?」
新町はやる気のなさそうで若干刺々した口調で訊ねた。ほんとに大丈夫かな、この刑事さん。
久遠はそんな質問に嫌な顔せず、ニコッと笑って答えた。
「この子のバイト帰りなんです。シフトの時間が終わっても帰ってこなくて私がバイト先まで迎えに行ったんです。それで今ちょうど帰る途中で。近くを通りがかった時に音を聞いて、ここに来たらあの人を見つけました」
久遠は〝ね?〟とこちらに同意を求めるように視線を送った。一応事実ではあるので頷いた。
「迎え……? 彼を?」
曽根刑事は困惑した顔でこちらを見た。
「えぇ。この子可愛いじゃないですか? だから、それはもうモテモテで。すぐ女の子連れて帰っちゃうんです」
「はぁ⁉ 久遠せつながいて他の女に手出してんのか⁉ お前いい加減にしろよ⁉ あぁ⁉」
久遠の言葉に新町刑事が眉を逆八の字にした怒りの形相でこちらに飛びかかろうとするのを曽根刑事が手で制しながら宥めた。
「どこに熱くなってんだよ、お前は。君もこんな綺麗な彼女さんがいるんだからさ、ね?」
曽根刑事は呆れた者を見るような目でこちらを諭すように言った。完全なる誤解だし、そもそも久遠の言葉が足りないのだ。女の子だって連れて帰っているつもりはない。多分知らないうちに憑いてきてしまうだけなのに――。あと、久遠は彼女じゃない。
不服に感じていると何とか新町刑事を落ち着かせた曽根刑事は訊ねた。
「バイトっていうのはコンビニか何か?」
〝はい〟と頷くと続けて、
「シフトの時間が終わってたのに残ってたのは誰かと話してたとか?」
「いえ。店長が寝坊して、来るまで残業してたんです。そしたら、勝手にこの先輩が来て」
久遠は不満げにムッとしながらこちらを見た。〝だって事実じゃん〟と視線を送っているとメモを書き終えた曽根刑事は顔を上げた。
「じゃあ、君と久遠さんはバイト帰りでこの道を通ったってことだね。普段からこの道はよく通るの?」
「いえ」首を横に振る。
「家は? この辺り?」
「あっちです」自分たちが歩いてきた方向を指差す。
「ということはバイト先が……」曽根刑事は反対方向を指差しながら首を傾げた。
「いや、コンビニもあっちです」
「……うん? 帰る途中だったんだよね? なんでこっち来たの。散歩?」
曽根刑事はさっきより更に困惑した表情を浮かべた。久遠の顔を見ると話を引き取ってくれた。
「刑事さんはご存じないですか? 最近このマンションで幽霊が出るって話」
久遠の言葉に曽根刑事と新町刑事は顔を見合わせた。
「幽霊ってどんな?」
曽根刑事は訝しげに久遠を見た。
「このマンションの前を通ると男の人が落ちてくるらしいんです。で、目を離すと消えてしまう」
久遠はマンションを見上げながら答えた。曽根刑事は少し首を傾げながら数回頷いた。
「……曽根さん知ってました?」
新町刑事が小声で訊ねた言葉に曽根刑事は小さく首を振った。
「なんでも数年前にこのマンションで飛び降りて亡くなった人がいるとか」
曽根刑事は思い出したように〝あぁ〟と声を上げた。
「飛び降り自殺した奴は確かにいたなぁ」
曽根刑事は当時のことを思い出すようにマンションを見上げた。
「男の人ですか?」
久遠の質問に曽根刑事はゆっくり頷いた。そしてこちらを見た。
「要するに、久遠さんたちはその噂を聞いて興味本位でここまで来たってことかな?」
「まぁ、そんなところですかね」
久遠は微笑みながら曖昧に答えた。
「なるほどね。ちなみにその噂話は誰から聞いたの?」
「バイト先の先輩です」
そう答えると名前を聞かれたので涌井萌と答えた。涌井さん警察来てビックリするだろうな。
「じゃあ、警察がここに来るまでに何か変わったこととかあった? 例えば――変な音を聴いたとか、マンションから誰か出てきたとか」
「いえ、特に何も。岳は?」
「あぁ、いや……その……」
言おうか言うまいか悩んでいると曽根刑事と新町刑事は怪訝そうにこちらに視線を送ってくる。その視線に負けて口を開く。
「……見間違いかもしれないですけど、屋上に一瞬人影が見えたような……? ほんとに見間違いかもしれないんですけど」
「人影って……その幽霊なんじゃないすか?」
新町刑事はふんと鼻を鳴らしながら言った。
「それはないですよ。この子全く幽霊視えないんで。現に後ろにいる幽霊にも気付いてないですし」
久遠の言葉で即座に後ろを振り返る。当然何もないように見える。
「まぁ、後ろにいるとかは嘘ですけどね」
久遠はこちらを横目にふふっと笑った。
クソ……。
抗議の意味をふんだんに込めた視線でもって久遠を睨む。
「少なくとも岳が人影を見たなら、そこに実際に人がいたか、単に見間違えたかの二択ですよ」
こちらの視線を一切気にすることなく久遠は曽根刑事と何故か悔しそうにしている新町刑事にそう言った。
「人影ねぇ……」
曽根刑事は改めてマンションの屋上へと目を向けた。今はおそらく鑑識が捜査しているのかもしれないその場所をどこか忌々しげに見つめ、それから新町刑事へと言葉を発した。
「まぁとにかく、マンションの住人に聞き込みだな。って、おい、聞いてんのか?」
こちらを忌々しく睨む新町刑事の頭をメモ帳ではたいてからこちらに向き直った。
「ご協力どうも。もう帰ってもらって大丈夫だから。……あ、あとごめん、また確認で連絡するかもしれないから連絡先教えてもらえる?」
久遠は〝分かりました〟と曽根刑事が差し出したメモ帳にスラスラと連絡先を書いた。
「うん、ありがと。じゃあ、気を付けて」
曽根刑事はメモ帳を確認してから手を挙げた。その少し後ろから依然として新町刑事はこちらを睨んでいる。久遠の会釈に続くように会釈してから二人並んでその場に背を向けて歩き出す。
「あ、手繋ぐ?」
久遠はニコッと笑って手を差し出した。
「繋ぎませんよ」
その手を無視して久遠の少し先を歩く。久遠は頬を膨らませたまますぐ隣に並んだ。
「ケチ……。今日はちゃんと部屋入れてよね」
「いや、嫌ですって。帰ってくださいよ」
「いいじゃん! もう眠いし、一緒に寝ようよ! 彼女が彼氏の部屋で寝るのなんて普通なんだし」
「眠いならそこら辺のホテル行けばいいじゃないですか」
「え、そういうホテル行きたいってこと? もう、岳ったら……。いつでも準備はできてるけどさぁ――」
久遠はニヤニヤしながらこちらを肘で突いた。なんだ、この人。
「……とにかく。うちは無理です。そもそも寝る場所がないんですから」
「ベッドがあるでしょ? あのベッドなら二人で寝られるよ。岳に抱きついて寝れば全然余裕だし、私は満足だし、問題なし!」
「問題ありです! 絶対嫌ですから!」
「私寝相良いから大丈夫だよ」
「寝相はどうでもいいんですよ!」
「まぁまぁ。そもそもこんな時間に女の子一人で家に帰そうとするのはどうなんだって話だよ?」
「先輩ならタクシーで帰れるでしょ」お金持ちだし。
「……とにかく早く帰ろ?」
久遠は都合の悪いことを無視するかのようにこちらの右手を掴んで少し前を歩き出した。
「ちゃんと帰ってくださいね」
「絶対いや」
久遠は笑いながら答える。
「部屋入れてくれないならずっと扉の前にいるからね?」
「……部屋掃除してないですし」
「私が掃除するよ。前みたいに」
今日ばかりは久遠が諦めなさそうと感じて頬をポリポリと掻く。どう足掻いても無理そう。
「はぁ……」
大きな溜息をつくと、久遠は嬉しそうに微笑みながらこちらを見た。
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