1章 アヤシイ彼女③

 衝撃も冷め止まぬまま家を出る時間になった。靴を履き、爪先を床にトントンと打ってから扉を開けようとしてふと気付いた。

「鍵……」

 扉の鍵は当然昨日帰ってきた時に閉めたままの状態だった。しかし、昨日はどうだっただろうか。記憶を巻き戻しても、家を出る時に鍵を開けた記憶がない。

 部屋の片づけも洗い物もやったのに、鍵を閉める、着替える、スマホを充電するといった日常的な行動はやっていないのか。やっぱり、無意識下の自分はよく分からない。

 鍵を掛け忘れたとはいえオートロックがあるから、良くないけどまぁいいかと思ってしまう。

 解錠して扉を開く。そして、ちゃんと鍵をかけてから大学へと向かう。

 電車に揺られながらスマホで夢について色々調べてみると、追いかけられる夢はストレスの多い状態とか、異性に追いかけられる夢は恋愛に憶病になっているとか書かれている。調べた結果、辿り着いた答えは〝イマイチよく分からない〟ということだった。こんなことなら最初から漫画読んでおけば良かった。

 大学の最寄り駅について、電車を降りる。昼前ということもあって大学生らしい人もまばらにいる程度だった。

 バス停に向かって歩いているとふと誰かの視線を感じて、なんとなくそちらのほうを見ると女子学生と男子学生が慌てた様子で違う方を向いた。そして、コソコソとこちらを窺いながら何かを話している風に見える。考えすぎか。

 再び前を向いたタイミングでポケットのスマホが震えた。スマホを取り出し確認すると地元の友達からのメッセージだった。メッセージを確認して、また重いものがのしかかった。なんて返そうか迷っている間にバス停に到着し、バスを待つ列に加わる。指が動かない中、横山からメッセージが届いた。

 横山享介:学食にいるよ

〝了解〟と返答して、ふと顔を上げる。

 前に並ぶ大学生たちがこちらをチラチラと見ていることに気付いた。

 え……何?

 イヤホンから音漏れでもしているのかと確認したが、特に漏れていない。

 少しの困惑を感じながら、到着したバスに乗り込む。車内でもやはり見られていると感じる。スマホのカメラを起動させ、インカメラにして自分の身だしなみを確認するが、やはり変な所はない。髪の毛が爆発しているわけでもなく、頭から、鼻から血が出ているわけでもない。自分の服装だって至って普通のパーカーとデニム。嵐のあのスケスケな服でもなければ、原宿とかでよく見る奇抜な格好をしているわけでもない。それなのに――。

 大学前でバスを降りて学食までの道を歩くと、すれ違う人のほとんどがこちらに視線を向けてくる。ある男子学生はスマホに目を落とし、再びこちらに目を向ける。また、女子学生たちは何かを言い合ってからまたこちらを窺い見る。

 何が何だかよく分からない困惑と恐怖を覚えながら横山のいる学食へ急ぐ。

「おはよ、岳」

 横山はこちらに気付くと何もないように右手を挙げた。

「……ねぇ、俺なんか変?」

「変? 何が?」

「恰好とか」

 横山は少し困惑した顔で頭から爪先まで見て、それから首を傾げた。

「いやぁ? いつも通りの普通の恰好だと思うけど……」

「だよね?」

 困惑で首を傾げながら、横山の対面に腰かける。

「どうした?」横山は心配そうにこちらを見る。

「なんか……すごい見られる」

「見られる……?」

 横山はそう呟きながら辺りを見渡す。

「確かに見られてるな……」

「でしょ? すれ違う人たちほとんどなんかこっち見てくる気がして。スマホ見て、こっち見て、近くの友達とかと話して、こっち見て――みたいな」

 横山は辺りに目を光らせながらこちらに訊ねた。

「岳、なんかした?」

「なんかって……」

「例えば……バイトテロ的な動画をSNSにあげたとか」

「バイトまだしてない」

「じゃあ、テレビに出たとか。もしくはユーチューブとか」

「出てないと思うけど」映り込んでしまったとかは分かんないけど。

「……告白されて手酷く断ったとか?」

「一番ない」そんなクズ男みたいなことしない。

「……ほんとか? 無意識に告白してきた女子にぼろくそ言って振ってないか?」

「どんな風に見えてんだ、俺のこと」

 横山はフッと鼻で笑って〝冗談だよ〟と口にした。

「マジでなんなんだろ……。スマホ見てるってことは写真か動画とかあるのか?」

「あ、あれじゃない? 新歓の時最後に写真撮っただろ?」

 横山の問いかけに〝撮った〟と頷く。横山は続けた。

「確かあの写真インスタにあげるとか言ってたから、その写真が出回って、岳が注目されたとか。イケメンとか綺麗とかなんとかで」

「ありえないでしょ」

「いや、あるだろ。カジの言う顔面偏差値とかなら、正直岳って久遠せつなと同レベルだと思うぞ」

「いやいや……。第一、男からも見られてるし」

「岳の顔ならその視線も納得」

「納得すんな」

 横山が愉快そうに小さく笑っているのを見ていると、突然誰かに肩を組まれた。

「岳! お前すげぇじゃん!」

「あ、どうした? カジ」

 肩を組んできた梶谷に向かって横山が訊いた。梶谷はそんな横山を不思議そうに見ながら、

「え、知らないの?


 岳が久遠せつなと付き合ってるって」


 一瞬梶谷が違う言語を口にしたのかと思うほどにその言葉が全く理解できなかった。

「……はぁ?」

「お前あんなに興味なさそうだったのに、いつ付き合ったんだよぉ。ていうか、言えよぉ」

 梶谷は隣に座ってこちらを肘で突いた。

〝久遠せつなと付き合っている〟――なんだ、そのデマは。

「そうなの……? てか、そもそもなんでカジは付き合ってるって知ってるんだよ?」

 横山はこちらの様子をチラチラと窺いながら梶谷を見た。

「インスタだよ、インスタ。お前らがやってないあのインスタ。久遠せつなのインスタに写真があがってたんだよ。〝私の可愛い彼氏〟ってな」

「写真……?」

 そう呟くと横山はこちらを見た。梶谷も不思議そうにこちらを見た。

「ちょ……見せ、て」

「あ、あぁ別にいいけど。あ、もしかしてお前も知らなかったのか。てか、写真にも気付かなかったんだな、多分」

 梶谷は一人でそう納得してスマホを操作してからこちらに向けた。


 自分の家のベッドで眠っている自分とすぐ近くでそちらに視線を向け微笑む久遠せつな。


 頭をガンッと強く殴られたような衝撃が駆け回り、体中のほとんど全ての細胞が一瞬動きを止めた。そして、背筋がゾクッと騒ぎだしたのを合図に腕が一斉に粟立った。

 梶谷のスマホに映しだされたその写真を脳は理解できなかった。

「岳?」

 目の前に座っているはずの横山の心配そうに訊ねる声が遠くから聞こえるように感じる。

 脳は懸命に動き、写真を解釈しようとする。でも無理だった。

 どうしてこんな写真が存在する?

「どっちからいったんだよ。岳か? 久遠せつなか?」

 梶谷は軽薄そうな声で訊ねてくる。

 違う……。

 横山は顔色を窺うようにこちらを見ている。

 違う――、

「……付き合って――」


「岳!」


 背後から声がして、左肩に手が置かれる。ビクッとして、ぎこちなく動く首で後ろを向く。

 長く綺麗な黒い髪に透明感のある肌、色素の薄い瞳、通った鼻筋、淡いピンク色をした唇。

 写真で見た通りの綺麗な女性が手を振った。

「うわ、本物……」

 隣から梶谷の息を呑む声がする。


 久遠せつながニコッと微笑みながらこちらを見ていた。


 その微笑みに背筋が大きく跳ねた。

「岳の友達? はじめまして、三年の久遠せつなです」

 久遠せつなは梶谷と横山に向かって小さくペコリと会釈をした。

「は、はじめまして! 俺、岳のとも――大親友の梶谷佑です! こっちが横山享介!」

 梶谷の鼻息の荒い自己紹介に久遠せつなはクスクスと笑った。

「梶谷君と横山君ね。岳のことよろしくね?」

「はいッ! もう任せてください!」

 そう言って梶谷はガシッとこちらの肩を組んだ。

「……どうしたの、岳? 顔色悪いけど……」

 久遠せつながこちらに顔を近づける。久遠せつなの綺麗な瞳はこちらが動くことを禁じさせ、あまつさえ、吸い込もうとしているかのように――。

「すいません、久遠先輩。俺と岳、英語の内田(うちだ)先生に呼ばれてて、今から行かないといけないんです」

 後ろから椅子を引く音とともに横山の声が聞こえて、ようやく我に返った。

「あ、そうなんだ。うん、分かった。じゃあ、また後でね、岳」

 久遠せつなはヒラヒラと手を振ってからこちらに背を向けて離れていく。柑橘系の匂いが少し香る。

「……いや、やっぱすげぇな、久遠せつな。流石ミスコングランプリ」

 梶谷が隣で感嘆の声を漏らした。

「大丈夫か、岳?」

 横山の方を向くと、心配そうにこちらの顔を覗き込んだ。

 言葉がすぐに出てこない。口だけを虚しくパクパクと動かしながら首を横に振る。

「どうした?」

 梶谷は呑気そうな声で訊ねる。

「……ちがう」

 ようやく言葉が小さな声となって口から出てきた。

「あんな写真知らない……、付き合ってない……」

 小さく震えた声が二人に届き、梶谷と横山は顔を見合わせた。

「はぁ? どういうこと?」

 梶谷は眉をひそめ、こちらを見た。

「とりあえず、ここ出よう。教室行こう」

 横山はお盆を手に取った。

「あぁ、内田に呼ばれてるんだよな」

「あれは嘘」

「嘘かよ!」

 梶谷はそうツッコミながら立ち上がる。

 立ち上がろうとして、足が震えていることに気付く。一瞬フラっとしながら立ち上がる。

 横山と梶谷の後に続いて歩いていく。こちらに色んな視線が突き刺さる。

 ようやく、この視線の意味を理解した。



「まず、岳と久遠せつなは付き合っていない」

 横山の言葉にブンブンと頷く。

「付き合ってないって……だったら、あの写真はなんだよ?」

「分かんない。でも、写真の場所は俺の部屋だった……」

「じゃあ、ただ単に久遠せつなが勘違いしてるってことか?」

「……そもそも久遠せつなと会った覚えない」

「はぁ? え……、じゃあ、あの写真合成とか?」

 梶谷は困惑した顔で横山を見る。横山は首を横に振った。

「岳の部屋の写真も岳が寝ている写真もどこで手に入れるよ。そんな写真インターネット上にあるわけもないし」

「じゃあ、やっぱり……」

「久遠せつなは岳の部屋であの写真を撮ったってことだな」

 二人はこちらを見た。梶谷は顔を引き攣らせている。

「問題は……どうやって久遠せつなが岳の部屋に入ったかだ」

「あ……」ふと思い出す。

「どうした、岳?」

「鍵……」

「掛け忘れたか?」梶谷はこちらの顔を覗き込む。

「いや……。昨日の朝、家出る時扉の鍵が掛かってなかった」

「入られてるな、それ」

 梶谷は解決したかのようにあっさりと口にした。

「でも、うちオートロックなんだよ」

「じゃあ、無理か」

 梶谷はすぐに数秒前の答えを取り消した。

「一昨日家を出る時は鍵掛けたか?」

 横山の問いかけに記憶を辿った。

「うん……多分」

「つまり、久遠せつなが岳の部屋に入るためにはオートロックを突破し、かつ、岳の部屋の扉の鍵を開けないといけない。オートロックは他の部屋の住人と一緒に入れば、突破はできる。けど、そもそも岳の部屋はどうやって分かったんだ?」

 横山は腕を組んでそう呟いた。

「表札で分かったとか?」

「表札出してない」

 首を振ると梶谷は続けて、

「じゃあ、あれだ。誰かに岳の部屋聞いたとか? それこそオートロック突破した時に居合わせた他の住人とか」

「他の住人の人と顔合わせたことないから、多分それもないと思うけど」

「そもそも、そんなこと聞いたら流石に通報されるだろ。どの部屋に住んでるか聞くのは怪しすぎる」

「じゃあ、どうやって岳の部屋入ったんだよ? 鍵のこともあるのに、部屋も分からないんじゃ無理じゃね? もう岳と一緒とかじゃないと説明つかないぞ?」

「……岳と一緒に入ったのか、久遠せつなは」

 横山は何かを閃いたかのように呟いた。

「はぁ? お前忘れたのか? 岳は久遠せつなと会った覚えがないって言ってんだぞ?」

「岳が憶えてなくても、久遠せつなと会った可能性はあるんだよ」

「……あぁ」横山の言わんとすることが分かった。

「え、どういうこと?」事情を知らない梶谷は困惑した顔で横山とこちらを交互に見る。

「いや、でも流石にそれはなくない? だって夢遊病が発症している間に人とちゃんと喋ることできるか?」

「夢遊病?」

「夢遊病じゃないんだよ。多分二重人格とかそっち系が発症したんだ」

「二重人格……」

「おい待て。俺置いていくな」

 昨日の話を聞いていなかった梶谷に諸々を話すと、

「え、マジ……? 大丈夫か、岳」

「だから、今絶賛大丈夫じゃないんだよ」

「だな」梶谷は頷いた。

 横山は話を元に戻した。

「岳が二重人格とかなら辻褄は合う。一昨日岳が意識を失って別の人格に変わった。そして、その別の人格の岳が久遠せつなと出会い、告白したのか告白されたのかで岳と久遠せつなは恋人関係になる。そして、そのまま二人は岳の家へ帰る――」

「そして一線を超えたのか、久遠せつなと……」梶谷がこちらを向いた。

「超えてねぇよ! 服着てた!」

「絶対とは言えないだろ? 憶えてないんだし」

「それは……そうだけど……」

「まぁ、これで岳が久遠せつなと会った覚えがないのに付き合ってることも、久遠せつなのインスタのあの写真のことも説明はできたな」

「いいよなぁ。自分の知らない間に久遠せつなと付き合うとか。マンガかよ」

 梶谷は溜息をつきながら机に頬杖をついた。

「……え、俺どうすればいい?」

「とりあえず病院じゃね? 二重人格とかって何科だ……?」

「いや、そっちじゃなくて久遠せつなの方」

 梶谷も別に間違ってはいないけど。

「どうって、話すしかないんじゃない? 直接本人と」

 横山はスマホを操作しながらそう言った。そして、〝多分心療内科だな〟と口にしてから、

「今、岳と久遠せつなの間ですれ違いが起きてるわけだろ? 岳は久遠せつなと付き合っていない、久遠せつなは岳と付き合っているって。でも、実際は岳の別の人格が久遠せつなと付き合ってるってなった以上、このすれ違いを解消できるのは岳しかいない。だから、岳が久遠せつなとちゃんと話すしかない。正直に話すか適当に話作るかは岳次第だけど」

「だよね……」気が重くなる。

「別に言わなくて良いじゃん」

 梶谷は頬杖をつきながら言った。

「え……?」

「だって、あの久遠せつなだぜ? ミス慶名の超絶美人で家は大金持ち。正直これ以上の相手なんていねぇよ。そのまま黙って付き合っちゃえば? 不満ないだろ。スタイルもいいし、胸もデカいし。」

「まぁ、それもありだな」

 横山も梶谷に同意した。

「付き合う過程に岳の意思が微塵もないとはいえ、カジの言う通りこれ以上ない女じゃない? 逆玉だし。それに結構向こうも岳のこと好きって感じだし」

「そうだよ。なんかイヤイヤ付き合ってるとかじゃなさそうだしな……クソッ」

「岳がどうしたいかで決めたらいいよ。そのまま黙って付き合うのか、それとも事情話して別れるか。黙って付き合うなら俺たちも黙っておくし」

 横山は微笑みながら頭をポンポンと叩いて立ち上がった。

「まぁ、俺も黙っておくよ。酔ったら口滑るかもしれないけどな」

 梶谷はハハハと笑いながらこちらの頭をわしゃわしゃと撫で、横山に続いて立ち上がる。

 深く長い溜息が口から漏れ出て机に突っ伏す。

「そういやさ、あかね先輩あの後階段から落ちたって」

「茜先輩……? あぁ、新歓の後飲み行った?」

「そうそう。怪我で済んだらしいけど」

「へぇ」

 トイレに行くのであろう二人の遠ざかっていく会話が耳を通り過ぎる。

 どうしよう……。なんて言えばいいのか。

 自然とまた溜息が零れる。



 好奇の視線に刺されながら、止まらない溜息を吐き続けながら授業を受け、家路に就いた。

 授業を受けている最中もぎゅうぎゅうの満員電車で押しつぶされそうになっている最中もずっと考え続けていた。

 久遠せつなになんと言えばいいのか。

 そもそもどうやって久遠せつなと会うのか。連絡先知らないのに。インスタか? わざわざ連絡するためだけに?

 自宅の最寄り駅で電車から吐き出され、改札を出て地上へ向かうエスカレーターに乗る。答えも思いつかないまま地上に出る。

〝また後でね〟

 久遠せつなの言葉を思い出す。〝後〟っていつなのだろうか。明日? 明後日? 一週間後?

 自分が置かれている状況をそのまま説明すればいいのか? 〝実は二重人格らしくて、付き合うってなった時と人格が違うんです〟とでも言えばいいのだろうか? やっぱり無理な気がする。伝わる気がしない。

 じゃあ適当な理由で――適当な理由ってなんだ?

 そもそもなんで違う人格は久遠せつなと付き合うことにしたのか? というかどうやって付き合ったのか? ナンパか?

 グルグルと同じところを何周しても分からないし、何も思いつかない。

 今日の朝のことが随分前のことだと感じてしまうほどに今日一日は色んなことがあり、頭がパンクしそうなほどの情報量が飛び込んできた。だから、多分もう頭が疲れてしまったのだろう。

 太陽がすっかり沈み、夜が訪れた街を歩いていく。流石にここでは視線を感じることがなく、ホッと安心する。それでも、溜息を吐きながらひとまず適当な理由を探し続ける。

〝その場のノリで付き合ったけど、なんか違った〟――クズだな。

〝お酒に酔っていてよく憶えていない〟――最低だし、お酒飲んでないし。

 なんなんだ、適当な理由って!

 考えながらボーっと歩いていると突然誰かが腕を組んできた。ギョッとして見ると綺麗なその人はニコッと笑った。

「おかえり!」

「え……⁉ なんで……」

 久遠せつなはふふっと笑った。

「また後でねって言ったじゃん」

「それは確かに言ってましたけど……」ここで会うのは想定外がすぎる。

「岳は色んな女の子連れて帰っちゃうからね。私が一緒についていないと」

 一体この人の中で俺はどんな風に見えているのか。そんな何股するような奴に見えるか? 別の人格がそういう奴ってことか。最悪だ。

「大丈夫だよ。岳を家に送り届けるだけだから」

 男の〝家に送るだけ〟は信用するなとはよく言うが、女の場合は信用していいのか?

「ほら、早く帰ろ!」

 久遠せつなはそう言って歩き出した。柑橘系の香りがフワッと鼻に入る。

 とにかく早く適当な理由を考えないと。

 考えようとすると、久遠せつなはこちらの顔を覗き込んできた。

「改めて見ても綺麗な顔してるよね、岳って。目も綺麗だし」

 ミス慶名がどの口で言っているのかと思うが、グッと堪える。背筋がムズムズする。

「いや、そんなこと……」

 首を横に振ってそう言いながら、久遠せつなの視線を避けるために顔を背ける。

「そんなことあるよ! こんな綺麗な顔した子はじめて見たもん」

 久遠せつなの過大なお世辞を愛想笑いで流しながら頭に鞭を打って必死に考える。

〝他に好きな人がいて……〟――ダメだ。

「これだけ綺麗だから、モテるのも納得だよね」

 久遠せつなはそう言って体を寄せてくる。ビックリして思考が一瞬停止する。

 何か申し訳なくなってくる。久遠せつなが好きになったのは別の人格なのに。そう考えると〝早くちゃんと言わないと〟と思い、思い切って切り出そうとすると、

「岳さ、最近変わったこととかある?」久遠せつなが唐突に訊ねた。

 変わったこと――、

「え、変わったこと⁉」

 思わず久遠せつなの顔を見る。色素の薄い綺麗な瞳とバッチリ目が合う。

「うん」

 頷く久遠せつなの瞳から視線を外して答える。

「それは……色々ありますけど……」

 テレビのリモコンが起きる度に位置が変わること、一昨日の帰る時の記憶がないこと、部屋が片付いていたこと、食器類が洗われていたこと、夢の中に出てくる女のこと、自分が夢遊病とか二重人格なんじゃないかということ、いつの間にか久遠せつなと付き合っていること――。

「……なんでそんなこと聞くんですか?」

 久遠せつなは何も答えず、微笑んで前を向いた。

 交差点を曲がり、人通りがない道へと入る。

「岳はモテるから仕方ないといえば仕方ないんだけどね」

 久遠せつなの不思議な言葉に首を傾げる。

「仕方ないって……何が仕方な――」

「しゃがんで!」

「え」

 突然久遠せつなの胸へと抱きしめられ、その言葉に反射的にしゃがみ込んだ。


 ガンッ!


「え……⁉」

 何かが何かに当たった音が背後から聞こえた。多分壁に何かが当たったのだとは思うけど。

「大丈夫?」

 久遠せつなの顔を見上げ答える。

「大丈夫……です」

 答えながら音のした方を見ると野球ボールくらいの石が落ちていた。

 誰かが投げた?

 今いるのは丁度丁字路に差し掛かった辺り。つまり、丁字路でいう縦線の方からこの石が投げられたことになる。

「やっぱり岳はモテるね」

 久遠せつなは何事もなかったようにスッと立ち上がった。

 誰が投げたのか、その姿を確認しようと石が飛んできた方向を見る。


 そこには誰もいなかった。


「え……」逃げた? でも、足音は聞こえなかったはず。

「なるべく穏便に済ませたかったんだけどなぁ」

 久遠せつなはそう言って近くにある小さな小石を拾い上げた。小石を強く握りしめた後、セットポジションから綺麗なフォームで誰もいないはずの道へ向かってその小石を投げた。石はそのまま何もない暗闇の中へ――そのまま消えていくと思いきや何かに当たったかのようにその場にコトッと落ちた。

「は……」

 石のあり得ない軌道に頭が混乱する。フォークか? スプリット?

「立てる?」

「え……あ」

 差し出された久遠せつなの手を掴んで立ち上がる。こういうのって普通男女逆じゃないかと一瞬頭によぎった。

 久遠せつなは石が落ちた方へ歩いていく。その後をついて行く。

「ごめんね? 手荒なことしちゃって。名前はなんて言うの?」

 久遠せつなはしゃがんで何もない空間に向かって優しく喋りかけた。

冴島結奈さえじまゆいな……。じゃあ、結奈さんがなくなったのはいつ?」

 なくなった……?

 目の前で何が行われているのか分からず首を傾げる。久遠せつながただ一人喋りをしているようにしか見えない。

「去年の十一月か。そっか」

〝去年の十一月〟、〝なくなった〟――、〝無くなった〟――、


〟――!


 幽霊? いや、でも、久遠せつながそれっぽく喋っているだけかもしれない。

「この子に憑きだしたのが今年の三月で……一目惚れだった? 分かる。私も一目惚れ。

 それで? 夢に出た」

「え⁉」

 確認のためか、こちらを向いた久遠せつなが微笑みながらうんうんと頷いて、再び何もない空間に向き合う。

「最初は遠くから見るだけだった。だけど、徐々に欲が出てきて、リモコンを動かして気付いてもらおうとして、最後は無理矢理二人きりになってデートした……? ずるい。私まだデートしたことないのに。それで、逃げられて追いかけて捕まえた」

「なんで……」

 リモコンの位置が変わる話はしたけど、夢の話は誰にもしていないのに。

 なんで分かるのか。自分の中で出てきた答えが少しずつ確信を持とうとする。

「そっか……。分かるよ、その気持ち」

 しばらく優しくにこやかな顔で相槌を打ちながら話を聞いていた久遠せつなの顔が急に険しくなった。一瞬躊躇う素振りを見せ、こちらをチラッと見た。首を傾げると、久遠せつなは向き直ってまた一瞬逡巡したように考えてから、

「……他には? そっか」

 久遠せつなは立ち上がって、

「じゃあ今からあの世に行ってもらうから」

 そう言って、スマホを取り出してどこかへ電話をかけた。



「じゃあよろしくお願いします」

 久遠は黒のセダンに向かって頭を下げると、中にいた黒のスーツを着た男性もペコっと頭を下げる。そして、車は発進した。

「うん。一応一件落着かな」

 久遠はこちらを向いて笑顔を見せた。

「あの……その、久遠先輩は――」

「せつなでいいよ? 岳は私の彼氏なんだし」

「あ、いや久遠先輩で大丈夫です」

 久遠の頬はプクーと膨らむ。

「幽霊が視えるんですか……?」

 変な質問ではあるが、久遠はどこかいじけたように頷いた。

「そうだよ」

 黒のセダンが走っていた方を見やりながら久遠は続けた。

「さっき話してたのは岳に憑いてた幽霊。物に触れるようになってたから結構危険な幽霊だったね」

 改めて言われて背筋がゾワッとする。

「岳に一目惚れして、好きになったんだって。最初はただ見てるだけで満足だったんだけど、次第に〝私に気付いて欲しい〟とか、〝近くにいたい〟、〝話したい〟って思うようになって色々しちゃったみたい。リモコンの位置を変えたり、夢に中でデートしたり……」

 言い終わりに一瞬だけ久遠は悲しそうな、やりきれないといった表情を浮かべたような気がした。

「そうですか。リモコンは俺が動かしていたわけじゃ……」――あれ?

 一瞬ホッとしてすぐに頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。

「どした?」

「いや、リモコンを動かしてるのは自分だと思ってたんです。寝ている間に自分が」

 久遠が〝うん〟と相槌を打つ。

「それで……それは自分が夢遊病かなにかで、そういう行動をしてると思ってたんですけど……、実際はさっきの幽霊がやってたんですよね?」

「うん。そうだよ?」

 久遠の言葉に謎が深まる。

「じゃあ、俺は違うのか……? いや、でも、昨日起きた時部屋片付いてたし……」


「あぁ、それ私」


 一瞬脳が動きを止めた。久遠を見るとなんてことのない顔をしている。

「……は?」

「岳の部屋に行ったときに代わりにやっておこうって思って。彼女だし?」

 久遠はニコッと笑った。――え?

「岳を送り届けた時に、テーブルとか片付けたり、整理整頓したり、お皿とか洗ったり。面倒見の良い彼女でしょ?」

 うふふと笑う久遠せつな。

「それは……ありがとうございます……。え……⁉ ちょ、そもそも、俺と久遠先輩は恋人なんですよね?」

「当たり前でしょ?」

「それは……俺が告白したとかでそうなったんですか?」

「告白されてないよ? そもそも岳気絶してたし」

 気絶……?

 頭の中に浮かんだ横山、梶谷と話した二重人格という説が粉々に砕け散った。 

「え、ちょっと待ってください⁉ え? 気絶⁉」

 久遠はクスクスと笑って説明し始めた。

「あの日たまたま私の前を通りかかった岳に一目惚れしたの。それで、見惚れてたら、岳が危ない幽霊がいる方に近付いていっちゃったから、慌てて首の後ろにえいッて」

 久遠は右手で手刀を作り虚空を斬った。

「……危ない幽霊?」

「そう。私はあの道を人が通らないように見張らないといけなかったんだけどね。岳の顔が良すぎるせいでミスっちゃった」

 久遠はえへへと恥ずかしそうに笑った。

「それで、気絶した岳を部屋まで運んだの。良い彼女でしょ?」

 久遠は誇らしげな顔をする。

「……あの場所から俺は気絶してたんですよね? どうやってうちまで運ぶんですか? うちオートロックだし……、そもそも住所だって知らないですよね」

「それは……住所は岳の財布にあった保険証を見て、オートロックは岳の――岳のアパートの近くにいた幽霊に聞いたら番号知ってたから入れたよ? 今月は0471だっけ?」

 久遠の説明に唖然とする。セキュリティがセキュリティしてない。

「どう? 大体分かった? あの日のこと」

 久遠せつなは首を傾げた。

「え、まぁ……」全く飲み込めてないけど。

 つまり、自分は夢遊病でも二重人格でもなく、ただただ気絶させられて運ばれただけだったのか。道理で着替えてないし、スマホは充電されていなかったのか。

「え、でも、じゃあ、何がどうなったら久遠先輩と恋人になるんですか?」

「〝何がどうなったら〟って?」

「だって、俺気絶してたんですよね? その状態じゃ当然告白なんてできないですし、告白されても返事できませんよね?」

「それはそうだけど……、え? 私と付き合うでしょ?」

 久遠はキョトンとした表情を浮かべる。

「なんで付き合う前提なんですか」

「私じゃ嫌? 自分で言うのもあれだけど、一応一昨年のミス慶名だよ? それにスタイルもいいし、胸もほら?」

 久遠せつなは両手を腰に当てて胸を張った。

「……え、じゃあ久遠先輩が勝手に俺と付き合うって決めたってことですか?」

「勝手にって……うん、まぁ、そういうことにはなるかな? だってどうせ岳は断らないんだし」

「…………じゃあ、それでインスタにあの写真を」

「うん。ほら? 岳モテるから、〝岳は私と付き合ってる〟って周知しとかないと色んな子に言い寄られるかもしれないでしょ? それに岳のスヤスヤ眠る寝顔が可愛すぎて……それでこの子は絶対私のものにしようと思って写真を数枚撮ってインスタに」

 久遠は思い出したかのように〝可愛かったなぁ〟と笑った。

「あぁ……」

 つまりは勝手に付き合うことになって、勝手に寝顔を撮られ、勝手にインスタで周知されたわけか。……適当な理由なんていらないじゃん。

「それに、そもそも岳には私が必要だと思うよ? 今日も学食にいた時後ろにいっぱいいたよ?」

「いっぱい……、幽霊?」

 久遠は〝うん〟と頷いた。

「言ったでしょ? 岳はモテるから色んな女の子家に連れて帰っちゃうって」

 女の子って幽霊のことだったのか。

「今はその幽霊の方々は……?」

「もういないよ。私と一緒にいるし、私があの時肩に手置いたでしょ? あれは幽霊が岳に近付かないように触ったからね。分かりやすく言うと、結界みたいな」

「それは……わざわざありがとうございます」

 自慢げに笑う久遠にペコっと頭を下げる。

「いいよいいよ! 私の可愛い可愛い彼氏だもん!」

「あ、その件なんですが、ごめんなさい。久遠先輩とは付き合わないです」

「……え⁉ 何で⁉」

 久遠せつなはとても驚いた顔をした。

「だって、なんか怖いですし……」――そもそも自分が幸せになってはいけないのに。

「幽霊が?」

「久遠先輩に決まってるじゃないですか」

 幽霊ももちろん怖いけど、それ以上に久遠せつなという人が怖い。

「なんで⁉ 嫌だ! 岳は私の彼氏! 私が大事に守るから!」

「いや、いいです……」

「幽霊は? どうするの?」

「それは……何かお札とかお守りとか買いますよ。神社かお寺か分かんないですけど」

「私と居ればそんなのいらないんだよ? それにうちお金持ちだよ? 逆玉だよ? 逆玉!」

 久遠はジリジリとこちらに迫ってくる。

「いや……別に逆玉とか――」

「第一、こんなに可愛い子を私は離さないから! 私の初めての彼氏だし」

 鼻と鼻が当たりそうになるほど久遠せつなの顔がすぐそこまで近付いてくる。

「だから――、


〝岳は私のもの〟だよ」


 背筋がゾワッとする。久遠は悪そうにニヤリと笑った。

「……分かっててやりましたよね、今」

 久遠との顔の距離を離す。

「さぁ? なんのこと?」

 久遠はしらばっくれるようにフフッと笑いながらそっぽを向いた。

「もう……とにかくもう帰ります!」

 背を向けて家へ帰ろうと一歩を踏み出す。

「あ、そっちいっぱいいるよ?」

「えぇ……⁉」

 思わず振り返ると久遠は、

「多分私と手繋げば視えると思うけど……」

 横に来て左手を差し出す。

「え、大丈夫ですか、視ても……。何かヤバイ奴いません?」

「大丈夫大丈夫。何かあっても守るから!」

 久遠はニコッと笑った。

 その言葉を信じて手を繋ぐ。そして恐る恐る前を向く――。


 あれ? いない……。


「あ……」

 久遠を見るとニヤニヤと笑っている。

「可愛いなぁ」

「嘘つき……!」

「よし! 帰ろう!」

 久遠せつなは満足そうに笑って歩き出す。それに引っ張られるように足が進んでいく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る