1章 アヤシイ彼女①
*
陽の光がほとんど届かない程深い森の中。
どうして自分はここにいるのだろうか。
家で母の帰りを待っていた。姉が探しに行くと言って家を飛び出していった。お母さんと入れ違いにならないようにとは言われたけど、どうしても居ても立っても居られなくなって家を飛び出した。
とにかく、母を探さないと。
心細くなる気持ちに嘘をつきながら、母の姿を探しては歩いて、また探して――。
次第に目の奥が熱くなってくる。それに合わせて視線も徐々に下がり、足も動かなくなってくる。
自分のせいだ。自分のせいで母は――
ふと顔を上げると誰かが自分から逃げるように走っているのが目に着いた。……違う。
「待って……待ってッ!」
動きを止めていた足を再び、さっきよりも早く動かして駆け出す。
「……ッ」
木の根に躓き転びそうになるところ必死に堪えて、再び走り出す。
息を切らしながら、視線の先にいる女の人を見失わないように必死に後を追う。
「待ってよ……」
そう呟いても女の人は走るスピードを緩めてはくれない。大人と子どもだ。歩幅が違いすぎる。距離が一向に縮まらない。それでも離されないように必死に足を動かす。
徐々に目の前の景色が滲み始める。流れてくる涙を拭いながら、女の人の視界の中心に捉え続ける。
絶対に見失ってはいけない。
ここで見失えば、きっと一生会えない。
いやだ。それは絶対いやだ。
いなくならないで欲しい。
帰ってきて欲しい。
生きていて欲しい。
せめて――こっちを振り向いてよ……!
「お母さん!」
言葉が届いたのか、母はようやく立ち止まった。それを確認してこちらも足を止める。
振り向いてやっと見ることのできた母の顔にどこか懐かしさを感じる。あの日のまま一秒たりとも時間が進んでいないかのような母の姿。
「はぁはぁ……」
涙は流れ続ける。鼻を啜って目を擦る。
母は悲しそうに微笑んでいた。母の目元からは涙が頬を伝って落ちていく。
〝ごめんね、
声は聞こえなかったが、母の口がそう動いた。
〝何がごめんだよ〟、〝どれだけ心配したと思ってるんだよ〟、〝帰ってきてよ〟……。
頭の中では次から次へと言葉が溢れだしてくる。それなのに、そのどれもが音として口から出て来てくれない。涙だけがどんどん出てくる。
母が再び口を動かした。
〝元気でね〟
母はこちらに背を向けて歩き出す。
「待っ――」
追いかけようとすると地面とくっついてしまったかのように足が動かない。
「待って、待って……」
どんどん遠ざかっていく母をただ見ることしかできなかった――。
*
けたたましいアラームの音が聞こえると同時に左目から一滴の涙が流れたのを感じた。
左手で涙を拭ってから瞼を開け、数回瞬きをするとすっかり見慣れた天井、壁にかかった時計、テレビ、全く見慣れない綺麗に片付けられたテーブルが見えた――うん?
少しの困惑はひとまず、このうるさいアラームを消すためにスマホを手に取る。
「……えぁ⁉」
いつもはあるはずの充電コードがない。アラームを止めて確認するとやはり充電されていない。久しぶりにゲージが赤色になっているのを見た。急いでケーブルを差して少しでも充電されることを願う。
上半身を起こし、改めて部屋を見渡す。自分の部屋のはずなのに違和感しかない。全体的に片付いている気がする。こんなに片付いているテーブルを見たのは引っ越してきた時以来だ。そして、何となく感じていたが、どうやら昨日出掛けた時の恰好のままだった。
テレビのリモコンの位置を確認する。ここ数日、自分が置いた覚えのない不思議な場所に置かれていたのに、今日はちゃんとテーブルの上に置かれている。こんなに綺麗に置いた覚えは微塵もないけど、ライトのリモコン、エアコンのリモコンと並ぶように確かにそこにある。
「え……」
今日はいつもよりおかしい。
テーブルは片付いているし、スマホは充電されていないし、服は昨日のままだし、リモコンは綺麗に並べて置かれているし。久しぶりにアラームも聞いたし、夢だって……。
諸々置いておいても、まず何故昨日の恰好のままなのだろうか。
「昨日は……昨日は――」
どうやって帰ってきた?
記憶の中にぽっかり空いた空白に首を傾げながら、シャワーを浴びようと洗面所の方へ向かう。
「あ……?」
シンクに溜まっていたはずの洗い物が綺麗さっぱりなくなっている。代わりに、綺麗に洗われたお皿や箸などが水切りラックに置かれていた。
シャワーを浴び、さっぱりはした。それでも、頭の中はなくなった記憶の行方と自分は何かマズイ病気なのではという不安がグルグルと渦巻いている。
それでも、時間は待ってくれないわけで徐々に家を出る時間は迫ってくる。一旦それらを少し横にずらして準備しないといけない。
洗面所を出て、髪も乾かさないままキッチンで朝食の準備を始める。食パンをオーブンレンジに入れ、焼けるまでにヨーグルトを違和感しかない片付いたテーブルに運び、コップに野菜ジュースを注いで飲み干し、再び注いでテーブルへ。そうこうするうちにこんがり焼けたトーストにバターを塗り、齧りながらリモコンでテレビをつける。画面は朝のニュース番組を映している。内容は一切頭に入って来ないけど、この番組が〝スッキリ〟終わったくらいに家を出よう。
最近不思議なことが続いていた。朝起きるとテレビのリモコンだけ自分が置いた覚えのない場所――テレビの横にある棚の上や落ちるか落ちないかギリギリのテーブルの端――に置かれている。最初は寝ている時に足でリモコンを蹴ってしまい、それが奇跡的にテーブルから落ちることなく端で止まったのかと思ったが、どう考えても棚の上まで蹴ったとは思えない。それだけではない。寝ている時に見る夢だってどこかおかしい。
ありきたりな夢のはずなのに、違和感を覚える。場所は毎回違うし、出てくる人だって毎回違う……と思っていた。実際は一人だけずっと同じ人がいることに最近気付いた。夢の中で話すこともなく、ただこちらを見ている髪の長い女の人。顔までははっきりと思い出せないが、多分同じ人だと思う。そして、もう一つ気付いたことがある。夢の中に出てくる人の数が日に日に減っている。そんなどこかおかしい夢を毎晩見続けていた。
なのに、今日に限ってはもっと不思議なことが起きている。
片付けた覚えがないのに部屋は片付いており、洗った覚えのない食器類が水切りラックに置かれている。昨日出かけた時の恰好のままで、スマホは充電されていない。
夢もあの女の人が出なかっただけではなく、母が出てきた。あの日見たままの母が。もうすぐ七年が経とうとするのに夢に見た母の姿が何一つ変わっていないことに苦しくなる。夢の内容もただただ悲しくなる。夢くらい希望のあるものを見せてくれたっていいのに。そもそももっと二度寝したくなるような夢を見せて欲しい。朝から変な気持ちにさせないで欲しい。
大学に行く準備も終わり、ニュース番組も次のニュース番組へと移り変わった。
テレビを消して、玄関へ向かおうとするとある程度充電できたスマホが鳴った。画面を確認すると、
「はい?」通話をタップして耳に当てる。
『もしもし、岳? おはよう』
「おはよ。どうしたの?」靴をトントンと履きながら訊ねると、
『うん、実はね……』
急に深刻なトーンになった。
「え、何……?」
『今日お米送るから、明日か明後日くらいに届くよっていう報告』
姉はそう言ってふふっと笑った。
「……びっくりしたぁ。それ別にLINEでよくない?」
「可愛い弟の声を聞きたくなったんだよ」
「……あっそ」
『あ、照れた』
姉はいじわるっぽく笑った。
『どう? 慣れた? 一人暮らし』
「まぁまぁかな」
『必要な物とかある? 買って送るよ?』
「じゃあ、PS――」
『却下』
まだ言い切ってもいないのに。
『他は?』
「あ、そう、そっちにあるゲームソフト送って欲しい。PS4のやつ」
『え、どれ?』
「あとでLINEする」
『分かった。他は? 大丈夫そう?』
「うん、多分」
『そっか、何かあったらいつでも連絡してね?』
「あーい。じゃあね」
ドアノブに手をかけながら通話終了ボタンを押そうとすると姉は、
『あ、ちょっと待て! 今お父さんと替わる』
「……いや、いいよ」
『いいから。切ったら怒るからね?』
電話の向こうから姉が父を呼ぶ声がする。
『おぉ、岳。もうヤったか?』
通話終了をタップしてスマホをポケットに入れようとすると再び鳴った。画面はまた中村澪と表示されている。
「……はい?」
不機嫌に出ると父がハハハと笑う声がした。
『お前……父親の電話切るなよ。ビックリしたわ』
「こっちがびっくりだよ。久しぶりに話す息子との第一声に……どこにそんな下品なこと朝からいきなり聞いてくる父親がいるんだよ。もっと他にあるだろ」
『ジョークだよ、ジョーク。息子との円滑なコミュニケーションには必要だろ?』
「縁切ってやろうかと思ったよ」
父は〝またまた~〟とガハハ笑っている。ほんとに切ってやろうか。
『どうだ、慣れたか? 一人暮らしは』
第一声として正解の言葉をようやく父が言った。
「ボチボチ」
『そうかそうか。それは良かったわ。女の一人二人家に連れ込んだか?』
「連れ込むわけないだろ」
『もったいねぇな。まぁ、いいや。何か困ってることないか?』
「親父が下品なこと」
『残念だな。それは一生解決しねぇよ』
そう言って父はまたガハハと笑った。
「あぁそう……。困ってることじゃないけどさ、今日母さんの夢見た」
父の笑い声がピタッと止んだ。
『母さんの夢か――そうか。どうだった? 変わらず綺麗だったか?』
電話越しの父の声は優しく微笑んでいるかのようだった。
「……なんにも変わってなかった」
「そっか……」
父は小さく笑った。
『岳も澪もあの母さんの血継いでんだから、安心して積極的に異性にアタックしろよ? 多分大体OK貰えるからな』
かと思えばまた大きくガハハと笑った。
「どっかの下品な親父の血も混ざってるからなぁ」
『安心しろ。俺も学生時代はそれはもうモテたからな。ファンクラブだってあったんだぞ?』
「はいはい、すごいすごい」
『まぁ、とにかく、自分に自信を持て。母さんはそこを通れば時間が止まるほどの美女だったんだからな。そんな母さんの血を継いでるなんて幸せもんだぞ?』
時間を止める能力なんてないから、やっぱり父の血が邪魔しているのだろう。
『お、もうこんな時間か。じゃあな、岳!』
「はいはい」
『……お母さんの夢見たんだ』
父に代わって姉の声が聞こえた。
「あ、うん、まぁ……」
『いいなぁ』
「夢だよ?」
『夢でも見たいよ、私は……』
姉の声は微かに震えている。
〝母は繧ゅ≧豁サ繧薙〒縺?k〟
溢れ出てきそうになる嫌な考えに蓋をし、
「また見られるよ。ちゃんと、現実で」
『……そうだね』
鼻を啜った姉は微笑んだ声で言った。
『岳も大丈夫? 時間』
「あ、うん……じゃあ切るよ」
『うん。いってらっしゃい』
「……いってきます」
母の夢を見たなんて言わない方が良かっただろうか。
そんなことを考えながら、ドアノブを回して扉を開けた。
大学までは最寄り駅から電車とバスで大体1時間強。
スマホで漫画を読みながら電車を待っていると、イヤホンの隙間から電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。意識を少しだけ線路側に向けて電車の到着を待つ。
桜はほとんど散ってしまったが季節はまだ春。まだ4月。それなのに周りを見渡せば、既に疲れた顔をしている新入社員らしき人や新入生などが目に付く。若干の哀れみの気持ちを持って眺めていると電車が到着した。
電車内にはかなりの人がいる。当然座ることはできないが、帰る時の電車に比べればまだマシなものだ。一日働いたサラリーマンたちの匂いと女性の香水の匂いが交じったカオスな匂いの中、吊り革も掴めないほどにぎゅうぎゅうなすし詰め状態の車内。今日もあの電車に乗ることになるかと思うと……確かに疲れた顔にもなるか。
背負っていたリュックを前に抱え、片手で吊り革を握って片手でスマホの画面を眺める。
電車にしばらく揺られながら、改めて昨日の自分の行動を思い出す。
***
「それでは〝トラベラー〟の新歓コンパを始めたいと思いま~す!」
耳にいくつもピアスが付いた、いかにもチャラそうな茶髪の男性が乾杯の音頭を取った。男性を茶化すように、これまたいかにもチャラそうな男女が「よっ!」とか「いいぞ、代表!」とかの合いの手を入れている。
「皆さん、グラスは持ちましたか? いいですか? それでは……カンパ~イ!」
男性の言葉に集まった学生たちは互いにグラスをぶつけ、そのままグラスを口に運ぶ。
うぇ……。
「マズ……」
凄まじい苦みが舌の上で嫌がらせのように足踏みをする。何だ、この飲み物。こんなの飲めたものではない。どこが美味しいのだ。大人の舌はバカなのか?
「……あげる。飲んで、
隣に座る
「岳にはまだ早かったか」
横山はふっと口角を上げた。同い年のはずなのに、大人に見える。年齢偽っているんじゃないか?
「おこちゃまだなぁ」
正面に座る
「うるせ。それ取って」
梶谷からメニュー表を受け取って、ソフトドリンクのページを開く。
「あ、すいません。リンゴスカッシュ一つ」
通りがかった店員にそう注文すると、
「いや、酒じゃねーのかよ。普通酒頼むだろ」梶谷が笑いながら言った。
「はい、アルハラ~」梶谷を指差す。
「アルハラじゃありませ~ん」
梶谷はビールのグラスを傾けた。そして、一瞬苦そうな顔をした。絶対強がっている。
「まぁ、そもそも未成年飲酒はダメなんだけどな」
「どの口が言ってんだ。さっき飲んでたじゃねーか」
「あれはノーカン」
「カウントされてるわ」
梶谷とのやり取りに横山は少し呆れたように笑った。
「ていうか、ほんとは来る予定じゃなかったのになぁ……帰りたい」
そう溜息をつくと、梶谷はフライドポテトの入ったお皿こちらに差し出した。
「まぁまぁそう言わず。ほら、フライドポテトだぞ? これ食って元気出せ」
「フライドポテトくらいで元気になるか」
フライドポテトを取ろうとすると、横から手が伸びてきた。
「そもそも俺たち必要か? 俺たちこのサークル入る気もないし、それにカジのコミュ力なら別にどっかのグループに難なく混ざれるだろ」
横山はそう言って口の中にフライドポテトを入れた。
「必要に決まってるだろ? キョウのその男らしいイケメンな顔と岳のその一見すると女の子のような超絶美人な顔があれば、この新歓……俺が無双できる!」
梶谷はキメ顔で意味不明なことを言った。
「一見すると女の子って……嬉しくねぇ」
「せめて中性的って言ってやれよ」
横山は笑いながらビールを呷った。
「そもそも無双って何? 戦国無双?」
「だからぁ、お前らの顔があれば、女の子連絡先入れ食い状態になるってことだよ」
「顔目当てか」
「サイテー。……そもそも入れ食いにならなくない?」
「うん、ならない」横山は頷いた。
「分かってないなぁ、お前ら。いいか? 女の子は〝あのイケメンたちの連絡先知りたい! でも、恥ずかしい……〟ってな感じで直にお前らには話かけにくい」
梶谷は裏声を使い女の子を演じているらしい。無理がある。
「そこでこう考えるわけだ。〝そうだ、一緒にいた男の子に聞けばいいじゃん〟って。はい、連絡先ゲット。こういうことよ」
梶谷は邪悪に笑いながらビールのグラスを少し傾けた。
「……それでいいのか、お前。ただのハブ空港だろ、それ」
「甘いな」
梶谷は横山の顔の前に手を突き出した。
「そこで女の子は気付くわけよ。〝あれ、あの2人に隠れてたけど、この人も意外とイケメンじゃん……〟ってな。そこからはもうこっちのもんよ」
「カジってイケメンか?」
「いや……」 横山は首を傾げる。
「お前らぶっ飛ばすぞ。俺だってそこそこモテてたんだぞ、高校時代。大学でもチヤホヤされること期待してたのに、お前らみたいな顔の奴がいるなんて……。まぁ、とにかく、そういう訳でお前らのその顔面が必要ってわけ」
「あ、だし巻き卵ある。享介何か食べる?」
「俺揚げ出し豆腐食いたいんだよなぁ」
「聞けよ、人の話! あと、だし巻き俺も食うから注文して!」
梶谷はグラスをほんの僅かに傾けた。
「……んで、成果はあったの?」
横山は枝豆を口に運んでから興味なさげに訊ねた。
「それがなんと……既に二人から連絡先貰いました! はい、拍手!」
パチパチと梶谷だけ手を叩いた。
「りんごスカッシュです」
店員がりんごスカッシュを持って来たついでに料理を注文した。
「二人ってどっちも女?」
りんごスカッシュを一口飲む。さっきのビールのせいで余計に美味しく感じる。
「もちろんよ。一個上の先輩。ほら、あそこの茶髪の人と黒のポニーテールの。茶髪の方が
梶谷は俺たちの背後の席を指さした。横山と一緒に振り向くとその先輩たちがこちらに気付いて手を振った。
「誰に振ったんだろうな」
横山は会釈して向き直った。
「多分キョウだな。いや、咲先輩は岳のこと言ってたから、岳か?」
「えぇ……」
「なんで嫌そうなんだよ。結構可愛いだろ」
「あんな陽な感じの人はちょっと……目立ちそうじゃん?」
「それ髪色じゃね?」
横山はさっき渡したビールを手にしている。もう半分まで減っている……。
「あんまり目立ちたくないし……、彼女とかも別に……」
「その顔面なんだから諦めろ。もしくは俺と顔変えろ」
「カジの顔は無理」
「はい、お前死刑」
「冗談だよ。三割くらいは」
「ほとんどマジじゃねーか」
梶谷の言葉に俺と横山はケラケラ笑った。
「楽しそうだね」
声のした方を見ると明るめの茶髪ショートカットの女性と緩くウェーブがかかった黒髪の女性がにこやかに笑いながら立っている。
「はい、もうめちゃくちゃ楽しいです!」
梶谷がニコッと笑って言った。俺と横山は軽く頷いた。
「それは良かったよ! あ、私は三年の
茶髪ショートカットの新井さんが自己紹介をして、隣の山口さんも微笑みながら会釈をした。
「どう? うちのサークル? 結構雰囲気良いでしょ?」
新井さんは横山と俺の方を見た。梶谷の〝あれ?〟と言いそうなポカンとした顔を見て、思わず吹き出しそうになる。
「そうですね。ワイワイしてて、すごく楽しそうです」
横山は外面用の愛想笑いを浮かべた。
「でしょでしょ! うちのサークル入ればきっと学生生活楽しめると思うの! だから、どうかな? 二人には是非入ってもらいたいんだけど……」
新井さんに加勢するように山口さんが続いた。
「うちはめちゃくちゃ緩くて、旅行とかも日帰りとか泊まりとか色々あるし、行ける人で行こうってノリで強制とかは全然ないからさ。夏とかは沖縄でスキューバやったり、冬はスキーしに行ったり結構色んなことやるからお得だよ」
二人の意識がこちら側に向いているのが何となく分かるので、だんだん梶谷が可哀想に思えてきて、笑いが零れそうになる。
「あぁ、そうなんですね」横山のありきたりな相槌に、
「そうなの。あ、もう入るサークルとか決めてる感じ?」山口さんは首を傾げた。
「いえ、まだ色々見てから決めようかなって思ってるんですけど――」
「ほんと⁉ ならもう、うちにしちゃわない?」
新井さんがこちら側にグイッと体を乗り出した。
「ちょっと美月……」山口さんは小声で新井さんを窘める。
「そうですね……。考えておきます」横山は小さく頷きながら言った。
「うん! 良い返事期待してるからね!」
新井さんは満足そうな表情を浮かべ、山口さんは苦笑いを浮かべた。
「あ、君もね」
ようやく存在を思い出された梶谷に山口さんが一言言ってから、二人は別のテーブルへと向かった。
「……で、享介入るの?」
「う~ん、入る気ないって言ったけど、正直ちょっと揺れるよな。スキューバとかスキーとか確かにやってみたいといえばやってみたいし」
「へぇ。沖縄ねぇ……」心がモヤっとする。
「にしても、新井さん? 凄かったな、勧誘」
「余程入って欲しいんだろうね、享介に」
他のテーブルで説明している新井さんと山口さんを眺め見る。
「岳もじゃね?」
「あの新井って先輩、俺の方ほとんど見なかったぞ。なんだよ……」
梶谷は不貞腐れたように冷めたであろう唐揚げを頬張った。
「ちゃんと最後にカジも勧誘されてただろ」
横山は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「お前らと明らかに熱量違っただろ。ついで感が凄かったわ」
「入るの? このサークル?」
「んにゃ、まだ決めてない。テニサーの新歓行って、どっちに可愛い子多いか見てからだな」
「テニサーかぁ……」
「テニサーねぇ……」
「なんだよ、そのリアクション」
〝テニサーといえば……〟みたいな偏見は日本人共通であると思う。うちの大学がどうかは知らないけど。
「揚げ出し豆腐とだし巻き卵とカルピスサワーです」
店員が料理とグラスをテーブルに置いた。梶谷はまだビールが残ったグラスを横山の前に置き、代わりにそのグラスを手に取りながらこちらを見た。
「なんだよ。別にビールが苦くて別の頼んだわけじゃないぞ」
「何も言ってねーよ」
「あ、そうそう。テニサーの新歓なんだけどさ――」
「無理。やだ。次は1人で行けよ。俺はもう行かないからな」
「そんなこと言うなよ、岳。頼むよ。お前がいないと俺生きていけない」
梶谷は拝むように両手を合わせた。
「俺は別にお前いなくても生きていけるし」
だし巻きを1切れ掴んで小皿にのせた。
「いいのか? 遺書にお前のせいで死んだって書くぞ?」
「お葬式には行くよ」だし巻きを口に運ぶ。うま。
「冷てぇな……。キョウだけか」
「行くなんて言ってないぞ」
横山はそう言って揚げ出し豆腐を頬張っている。
「享様、お願いします。あなたがいないと私は生きていけません」
「あ、乗り換えた」
「尻軽だな」
横山は俺の分のビールを一気にゴクゴクと喉へ流し込んだ。
「……いつあるの? テニサーの新歓」
横山の言葉に梶谷の顔はパッと明るくなった。
「流石享様! 男前! イケメン! 岳と大違い!」
「予定被ってたら行かないけどな」
「そこは頑張ってずらしてくれ」
「なんで俺がずらすんだよ」
「とりあえずちょい待て」
梶谷はそう言ってスマホで予定を確認し始めた。
***
大学の最寄り駅にまもなく到着するというアナウンスが聞こえ、電車がプラットホームに到着する。多分同じ大学の人たちの波に混ざりながら電車を降り、改札を抜ける。そこから波は大学まで歩いていく人たちとバスに乗る人たちの二つに分かれ、それぞれ歩いていく。
波に流されるまま歩きながら軽く周囲を見渡すと自分と同じくらいかそれ以上に背が高い女性がすれ違っていく。高校の時は自分より背の高い女子なんてほとんどいなかったのに、東京にはそんな人たちが結構いる。ほんの少しだけ劣等感を覚える。
バス乗り場には既に学生や地域の人と思われる人たちで折り返しができるほどの長い列ができていた。親父とのあの若干不毛な会話が無ければ、今頃もう少し前辺りにいたかと思うとあの時素直に切っておけばと後悔するが、仕方がない。姉に怒られるのは嫌だし、別に授業に遅れる程でもない。仕方ない。親父への怒りが少しあるが、仕方ない。
溜息を一つついて、列の最後尾に並ぶ。
電車で何となく思い出していたが、やっぱり新歓の時の記憶はしっかり自分の頭の中に残っていた。人間が飲むとは到底思えない程不味いビールに爽快感のあるリンゴスカッシュ。シナシナのフライドポテトにだし巻き卵の美味しさ。全然酔わない横山とだんだん顔が赤くなっていった梶谷。梶谷と連絡先を交換した二人の先輩に、押しの強い新井さんとそれを窘める山口さん。全部ちゃんと憶えている。なのに、ピンポイントで家に帰る際の記憶がない。何故?
ふと列の先頭付近を眺めると、金髪の男性と目が合った。男性は少し慌てたようにすぐに視線をスマホへと向けた。
何となく見られていたような気がしたけど気のせいか。あんな金髪の奴は知り合いにはいないし、語学のクラスも絶対違うし。あれだけ目立つ髪色なら記憶の片隅に残っていそうだけど――。
記憶の中で検索をかけていると、突然肩に手を置かれ、思わずビクッとする。斜め上を見ると横山が〝よお〟と手をあげている。
「おはよ」
イヤホンを外してケースにしまった。
「二日酔いは?」
「全然ない。俺は酒強いらしいわ」
横山はハハと笑った。
「あんなに飲んでたのに……」
「やめろよ、その引いた顔。ちなみにカジはしっかり飲まれたよ」
「飲まれた?」
「酒にね。二日酔いで頭ガンガンらしい」
納得して〝あぁ〟と頷いた。確かに新歓の時点で調子に乗って酒ばかり飲んでいたから、当然の結果と言えばそうだ。
「じゃあ今日カジ来ないのか。必修あるのに」
「まぁ、昨日の時点で行かないって決めたんだろうな。俺に学生証託してフラフラ帰っていったし。ほら」
横山はそう言って梶谷の学生証を財布から出してこちらに見せた。
「カードリーダーに通せってか」
「抜け目ないよな、そういうとこは」
「そこら辺に捨てとく?」
「アリだな」
二人して悪代官のように笑っているとバス停にバスが停まり、列が動き出した。自分たちの二つ前くらいでバスの中はぎゅうぎゅうになり、重そうに発車するバスを見送った。
「そういえば、あの後どうだった? 先輩に誘われて行ったんでしょ?」
「あぁ……あれは完全に岳狙いだったな。岳が来ないって分かった瞬間悔しそうな顔してたし」
新歓が終わって帰ろうとするときに女の先輩三人に呼び止められて飲みに誘われたことも憶えている。そして、二人が先輩たちと夜の街へ消えていったこともしっかり憶えている。
「結局何杯か飲んで解散になったよ。カジも限界っぽかったし、お目当ての岳もいないしで、特に盛り上がることもなく。今度は絶対岳誘えって言われたよ」
横山はチラッとこちらを見てフッと笑った。
「……絶対誘わないで」
「分かった分かった。岳は二日酔――ほとんど飲んでなかったな、そういえば」
「だよね? 俺一滴も飲んでないよな?」
「一滴は飲んでたぞ、一応」
「一口は飲んだうち入らないでしょ」
「まぁ、そういうことでいいけど……」
丁度バスが到着し、一番後ろの席に並んで座る。
「いや、なんかさぁ、昨日どうやって帰ったか憶えてないんだよね」
そう言うと横山は心配した表情でこちらを見た。
「マジ? 大丈夫か?」
「恐ろしく酒弱いのかな、俺」
「酔った感覚あったの?」
「全くない」首をブンブンと横に振った。
「じゃあ酒が原因じゃないんじゃない? ……自分の名前言えるか?」
「
「大学と学部は?」
「
「いや、念のため。昨日の帰る時の記憶だけないの? 他は憶えてる?」
「うん。割とハッキリ」
「昨日カジと連絡先交換した二人の先輩の名前は?」
「えっと……咲先輩と、梨沙先輩か」
「そういえば、そんな名前だったな」
「お前が忘れてたんかい」
そうツッコんでいると、バスがのっそりと走り出した。
「じゃあカジが
「久遠せつな――」
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