アヤシイ彼女1

蒼乃

?章 「わたしのたからもの」


 ***


「わたしのたからもの。一年二くみ、中村なかむらみお。

 わたしのたからものはわたしのかぞくです。

 おとうとのがくはもうすぐ二さいになる、とてもかわいいおとうとです。スーパーやこうえんへいくとすぐちがうところにあるいていったり、おもちゃをなげたりしておかあさんやわたしをこまらせます。でも、にこっとわらったかおやすやすやとねているかおがとてもかわいくていやされます。

 おとうさんはかっこよくて、とてもおもしろいです。いつもわたしやおかあさんをわらわせてくれます。休みの日には車でいろいろなところへつれていってくれたり、りょこうにつれていってくれたりします。わたしたちのためにおしごとをがんばってくれたり、おもしろいことをしてわらわせてくれたり、いろんなところにつれていってくれたりしてくれるやさしいおとうさんが大すきです。

 おかあさんはじまんのおかあさんです。とてもきれいでとてもやさしくて、おりょうりがとても上手でいろんなおいしいごはんをつくってくれます。テストで百てんをとったときやお手つだいをしたときはたくさんほめてくれてとてもうれしい気もちになります。おかあさんとはなしていると、こころがぽかぽかとあたたかい気もちになっていやな気もちやつらい気もちがあっというまになくなってしまいます。しょうらいはおかあさんみたいになりたいです。

 おかあさんもおとうさんもがくもわたしにとってとても大せつで大すきなかぞくで、わたしの一ばんのたからものです」


 ***


 押入れを整理していたら見つけた小学生のころの作文。授業参観の時にこれを読んだことを思い出した。読み終わって後ろを振り返るとお父さんは親指を立てて笑ってくれて、岳を抱っこしたお母さんは恥ずかしそうに笑っていた。今改めて読むと恥ずかしい気持ちになるけど、書いてあることは今でも変わらず思い続けている。

 他にも夏休みの宿題で作った工作に読書感想文で使った本など懐かしいものが出てきた。

「どうしよう……」

 工作はもう捨ててもいいかな?

 本は本棚に入れればいっか。

 作文は――とっておこう。いつか、お母さんが帰ってきた時に一緒に見よう。そして、〝懐かしいね〟とか言いながら一緒に笑おう。

 そんな未来を期待してふふっと笑う。そして、捨ててしまうものと混ざらないように離れた位置に大切に作文を置いた。


〝わたしのたからもの〟はずっとそこにあると思っていた。

 私が大人になっても、がくが大人になっても何一つ変わることなくこの家で四人で楽しく笑って過ごしていると思っていた――。


 なのにどうして?


 私の大好きな、大切な宝物は一人欠けてしまったのだろうか。

 ずっと続くと思っていた当たり前の日常はなくなってしまったのだろうか。


 窓の外は雲一つなく晴れ渡った気持ちの良い空。

 それとは正反対にずっと晴れ渡らない私の気持ち。

 気付けば目の奥がじんわりと熱くなって涙が溜まる。

 零れ落ちる前にそれを拭って鼻を啜る。


 ねぇ、お母さん。いつ帰ってくるの?


 ***


 その日もその瞬間まではいくつもある何気ない一日になるはずだった。

 朝、いつものように岳と一緒に家を出て高校へ向かった。もちろん、当時まだまだ背が小さかった小学生の岳とは途中で別れてそれぞれ登校した。

 いつも通り授業を受けて、友達と他愛のないおしゃべりをして、家に帰った。

 扉を開けると、玄関には岳の靴しかなかった。お母さんは買い物かなと考えながら靴を脱いでリビングに入るとソファで横になっている岳が目についた。近付くと、スヤスヤと寝息を立てて眠っている。

「ただいま」

 起こさないように小さな声で呟きながら岳のサラサラな髪の毛を撫でた。ふとテーブルにメモがあることに気付いて手に取る。


 買い物に行ってるよ

 梨切って冷蔵庫に入れておいたからね


 お母さんの字で書かれたメモを見ていると、

「姉ちゃん……?」

 ソファの方を振り返ると岳が寝惚け眼を擦りながらゆっくり体を起こした。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「……お母さんは?」

 岳はお母さんを探すようにゆっくり首を振ってリビングを見渡した。

「買い物だって」

「そっか」

「冷蔵庫に梨あるらしいけど食べる?」

「……うん」

 まだ半分くらい寝ているかのような岳はコクンと頷いた。

 私は立ち上がって、スクールバックをダイニングテーブルの上に、コートを椅子に掛け、キッチンへ向かった。

「最近よく寝るね」

 手を洗いながら岳に話しかける。

「なんか……ずっと眠い……」

 ふらふらと立ち上がった岳は充電していたゲーム機を手に再びソファへ戻った。

「成長期じゃない?」

「成長期……」

 岳は目を擦ってからゲームを始めた。

「そのうち身長がグッと伸びるんじゃない?」

 私よりは大きくならないで欲しいなと到底叶わないであろう願望を抱きながら冷蔵庫から梨が入ったお皿を取り出してラップを取った。

 壁の時計を見やると針は四時四十五分を指している。

 おそらくお母さんは近所のスーパーに行っただろうから、きっとすぐ帰ってくるだろう。

「岳、何か飲む?」

「……オレンジジュース」

 岳の分のオレンジジュースと私の分のお茶をコップに注いで、梨と一緒にソファの方へ持っていった。

「はい、梨とオレンジジュース」

「ありがと」

「どういたしまして」

 ソファとローテーブルの間に腰を下ろしてコップを口へと傾ける。

「ポケモン?」

「うん、そう」

「そっか……岳、宿題やった?」

 ゲーム画面を見ていた岳は私の視線から逃れるようにプイッとそっぽを向いた。

「やってないんだぁ」

 そう言って梨をひとかじり。

「だって今さっきまで寝てたもん。それに、今日金曜日だよ? 金、土、日って三日もあるんだよ? 時間はまだまだあるから今やらなくてもいいんだよ」

 岳はそう言って梨に手を伸ばした。

「ふぅん……それで結局先週宿題やらなかったんでしょ?」

「……なんで知ってるの?」

 岳は驚いた顔でこちらを向いた。

「岳の担任の先生とこの前偶然会ったの。そしたら岳は月曜日の宿題の提出率だけ悪いって教えてくれたの」

 ニヤニヤしながら言うと岳は再びそっぽを向いた。

「……そもそも、宿題なんて先生がおれたちをいじめるためだけにあるやつなんだよ。だから、それには立ち向かっていく必要があると思う、うん」

 岳は一人で納得したように頷くと梨を口に放り込み、手をズボンで拭きながらゲームの画面に目を向けた。岳のいかにも小学生らしい言い訳の言葉にふふっと笑った。

「でも宿題はやった方がいいと思うけどなぁ……。だって、このことお母さんが聞いたらそれ取り上げるかもしれないよ?」

 そんなことはしないとは思うけど。

「……お母さんはそんなことしないよ」

「お父さんはするかもよ?」

「お父さんは絶対子供の時宿題やらなかったタイプだよ? どうせ〝そうかそうか〟って笑うだけだよ」

「……それもそうだね」

 梨をシャリシャリ食べながら頷いた。納得できてしまうのもどうかと思うが、確かにお父さんは絶対宿題やらないタイプだとは思う。

「……あ、そういえば冷蔵庫にミニトマト入ってたなぁ」

 私の言葉に岳はピクっと手を止めた。

「宿題やらない悪い子にはミニトマト食べてもらうしかないなぁ」

 トマトが大嫌いな岳が立ち上がって逃げようとしたところを抱きしめるように、

「捕まえた!」

 まだまだ背が小さい岳を捕まえるのなんて造作ない。

「やだ! ミニトマトは無理!」

 腕の中でジタバタと岳が暴れる。それでも、私に手が当たらないように小さく動いているあたりが愛らしい。

「じゃあ宿題やる?」

 岳はしばらく考えた後、嫌そうな顔で頷いた。

「よし! じゃあお姉ちゃんも隣で勉強するから、一緒に頑張ろ?」

「……分かった」

 そう言って岳は口を真一文字にして不貞腐れながらも自分のランドセルの方へ行って中身を漁りだした。

 その様子を微笑ましく思いながら私もスクールバックがあるダイニングテーブルへ向かった。



「ねぇ、姉ちゃん」

「うん? どうした?」

 日本史の教科書から目を離さないで答えた。

「お母さん遅くない?」

「……そうだね」

 壁にかかった時計は五時三〇分を少し過ぎた辺りを指している。

 お母さんが家を出た時間は分からないが、近所のスーパーならこんなに時間はかからないはず。

「いつもと違うスーパー行ってるのかな?」

 岳を見ると少し不安そうな顔でこちらを見ている。

「どうだろうね――ちょっと連絡してみよっか……」

 テーブルに置いてあるスマホを手に取ってお母さんにLINEを送る。


〝買い物まだかかりそう?〟


 しばらく待ったが既読にはならない。いつもはすぐ既読がついて返事が返ってくるのに。

「お母さんなんて?」

 岳は私のスマホを覗きこむ。

「ううん、まだ返事来てない。……きっと今両手が塞がってて返信できないのかもね」

 ありえそうなことを言って岳と私自身の小さな不安を取り除こうとする。

「そっか……」

「うん……岳宿題どこまでできた?」

 テーブルにスマホを置いて岳のノートを見た。

「あと一ページ!」

 岳は誇らしげにそう言って、テーブルの隅に置かれたお皿から梨を手に取った。

「お、すごいじゃん! 宿題それだけ?」

「……うん」

 岳は梨をひとかじり。

「ほんとに?」

 岳はシャリシャリと咀嚼しながら頷いた。

「私の目見て言える?」

 岳の顔を覗き込むとプイッと顔を逸らした。あまりの分かりやすさに思わず笑ってしまう。

「嘘ついた?」

「だって算数の問題分かんないんだもん! できない!」

 岳は首を横に振った。

「算数かぁ。じゃあお姉ちゃん教えてあげるからそれもやろ? ね?」

「えぇ……明日じゃダメ?」

 岳は懇願するように私の目をジッと見つめ首を傾げた。可愛い過ぎる!

 お母さんとそっくりな岳の顔は人形のように整っている。我が弟ながら、これはモテると確信させるほどの顔と仕草をしてくる。私を見つめるビー玉のようなその目は今にも私を吸い込もうとしているかのよう。そんな目で見つめられたら――

「しょうがないなぁ。じゃあ明日でもいいよ。約束ね?」

 私の言葉に岳の顔はパッと明るくなる。

「うん! 約束!」

 私が小指を出すと岳は嬉しそうに小指を出した。

「指切りげんまん、嘘ついたらミニトマト食べる、指切った!」

 小指を離して岳を見ると困惑した顔を浮かべている。

「ちゃんとやれば食べなくてもいいんだよ?」

「それは……そうだけど……」

 岳はゴニョニョ言いながらノートに向かった。

 私も勉強の続きをしようと日本史の教科書に目を移そうとしたところで、一旦スマホを確認する。


 まだお母さんからの返信はない。



 時刻はもうすぐ六時になろうとしている。

 私も岳も集中なんてできる状況ではなくなった。いつもならキッチンで楽しそうに料理をしている時間なのに、お母さんはまだ帰ってこない。

 岳は漢字を書く手を止めて壁にかかった時計を見る回数がこの三〇分で急激に多くなり、私は私で返信がないかとスマホを見る回数が増えた。

 もう二人とも目の前のことに一切集中できないほどに心の中はざわざわとしている。

「姉ちゃん……お母さんに電話しよ?」

 岳の顔を見るととても不安そうな様子でこちらを見ている。

「……うん、分かった」

 私ももう岳を励ますために笑えるほどの心の余裕はほとんどない。

 お母さんに電話をかける。


〝おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません〟


「なんで……」

 お母さんのスマホの充電が切れたのか。しっかりしたお母さんに限ってそんなことはあるのか。仮にスマホの充電が切れてないとしても〝電波の届かない場所〟なんてこの辺にはないはず。

 スマホが盗まれた。あるいは――

 途端に頭の中に嫌な想像が流れ込んできた。

「姉ちゃん……?」

 はっとして岳を見ると心配そうにこちらを見ていた。

「大丈夫……大丈夫だよ……」

 岳に、そして自分にも言い聞かせるように呟きながら岳の頭を撫でた。

「……よし」

 私が立ち上がると、

「どこ行くの……?」

 不安そうに見上げる岳。

「ちょっとお母さん探してくるよ」

「じゃあおれも行く!」

 立ち上がった岳の両肩に手を置いて、

「岳はお留守番してて?」

「なんで! おれも一緒に探す!」

「ううん。もしかしたら私が探している間にお母さんが帰ってくるかもしれないでしょ? その時に2人ともいなかったら今度はお母さんが私たちを探しに行っちゃって入れ違いになっちゃうから、岳はここでお母さんを待ってて?」

 心の中で次第に膨らんでいく不安を懸命に隠しながら、岳に優しく語り掛ける。

「……でもっ――」

「大丈夫! お姉ちゃんに任せて? ね?」

 しゃがみこみ岳と視線を合わせて岳の目を正面から見つめた。

 岳のパッチリとした大きな瞳からはウルウルと今にも涙が零れ落ちそうになっていた。そっと岳を抱きしめる。

「大丈夫」堪えろ、私。

「お母さんは絶対帰ってくるから」私がしっかりしないでどうする。

「……だから、岳は待ってて?」笑え、私。

「……うん」

 鼻を啜りながら頷いた岳の頭を撫でて、私は立ち上がった。椅子に掛けられたコートを手に取り、羽織りながら玄関の方へ向かった。

「気を付けてね……」

 岳の不安そうな声は私の胸をぎゅっと締め付けた。

 ほんとに岳をたった独りでここに残すのは正解なのか。

 一緒にいる方が私にとっても岳にとってもいいのではないか。

「うん。いってくるね」

 葛藤を胸にしまい、笑顔を作って岳を見た。人形のような顔を不安で曇らせている岳を残して私は玄関の扉を開けた。

「……よし!」

 扉が閉まるのを後ろ目に確認してから、大きく膨らんだ不安を感じないように自分を奮い立たせる。そして、母を探すために駆け出した。


 ***


 あの日もっと早く帰っていれば、母の買い物に一緒に行くことができれば、今も母はこの家で過ごしていたのではないか。

 あの日の朝、もっと母の様子を気にかけていれば、私たちの当たり前の日常は今も続いていたのではないか。

 あの日からずっと後悔している――。

 

 家を出た私はお母さんがいつも行っているスーパーまでの道を探した。途中で会った近所の人にもお母さんを見ていないかと聞いたし、スーパーの店員にも聞いた。少し離れた所にあるスーパーにも足を運んだ。それでも、お母さんは見つからなかった。

 そのあと、岳から事情を聞いたお父さんと合流し、警察に捜索願を出した。高校生だからと私は家に帰ることになり、お父さんは夜通しでお母さんを探した。私と岳はお母さんが帰ってくるのをひたすら待ち続けて、気づけば朝になっていた。帰ってきたのは疲労と落胆が入り混じった表情を浮かべたお父さんだけだった。それから今に至るまで、お母さんがこの家に帰ってくることはなかった。

 学校の同級生にも何か心当たりがないかと訊ねた。探偵にだって頼った。それなのに見つからない。

 最初は心配してくれていた周囲の人たちのそれは次第に疑惑に変わっていき、様々な噂話が語られるようになった。

〝神隠しにあったのではないか〟、

〝不倫して相手と一緒に駆け落ちしたのではないか〟、

〝父親が殺したのではないか〟――。

 人は明確な答えが出ていない問題に対して無理矢理にでも答えを出そうとする。そして、それは正解、不正解を問わない。答えが出ていない問いに勝手に答えを決めて納得しようとする。だから、こんな噂話が出回るのだ。

 どうして、あんなにお父さんと仲が良くて、いつも幸せそうに笑っていたお母さんが不倫なんてするのか――。どうして、あんなにお母さんのことを愛しているお父さんが、私たちの見えない所で泣いていたお父さんがお母さんを殺すのだろうか――。

 そうして一通りの噂話が語られるのが終われば、みんな母の失踪なんてことは忘れて次の話題に移っていく。答えの出ていない問題を求めて、勝手に答えを決められた私たちのことなんて置いていってしまう。

 わたしたち家族の当たり前が崩れても、世界は何事もなかったように時を進める。

 たかが1人いなくなったくらいで止まるはずもない。

 たかが1人いなくなったくらいで明日が待ってくれるわけではない。

 大切な人がいなくなった私たちに〝日常に戻れ〟と冷たく命令する。

 たとえ、どれだけ傷を負っている人がいたとしても、多勢は明日の到来を待ちわびる。

 そうして、わたしたち三人はお母さんが帰ってくることを、わたしたちの当たり前の日常が帰ってくることを切に願いながら非日常を過ごしてきた。

 両親が既に亡くなっていて、親戚との付き合いもないとなんとなく寂しそうに言っていたお母さん。だから、きっと今、母の帰りをこんなにも願っているのは私たち家族の三人だけかもしれない。こんなに広い世界でたった三人だけ。

 そんなことを思いながら、時に考えたくもない想像に必死に抗いながら、気づけばもうすぐ七年が経とうとしている。

〝今日はきっと帰ってくる〟、

〝明日には帰ってくるはず〟……。

 日に日に萎んでいく希望を胸に抱きながら母の帰りを待つ間に高校2年生だった私は高校どころか大学までも卒業してしまったし、岳なんて今年から大学生になって、この家を出て一人暮らしだ。

〝あんな小さかった岳がだよ?〟

 お母さんがいればこんなことを言って考えられないよねと笑い合っていただろう。

 気が付けば私より少しだけ背が大きくなって、いつの間にか私と一緒に泣くことも無くなった。大人になっていく岳を見て、ちゃんと立派に成長してくれてほっとしたけど、どこか寂しさも感じてしまう。この前の高校の卒業式だって岳を見て思わず泣いてしまった。あんなに小さく可愛かった弟がこんなに大きくなったのかとしみじみと感じた。ほんの少しだけだけど、子を持つ親の気持ちが分かった気がした。



 そんな岳の部屋を掃除しようと掃除機を持って入る。

 主がいなくなった部屋はとても掃除がしやすく、どこか寂しく感じる。

 掃除機をかけながらふと本棚を見ると、そこには岳の卒園アルバムと三冊の卒業アルバムが並んでいた。

「持っていかなかったんだ」

 掃除機を止めて壁に立てかけ、高校の卒業アルバムに手を伸ばす。椅子に腰かけて、岳のクラスのページを開いた。どこかすまし顔をした岳の写真。やっぱりこう見ても岳の顔は人形のように綺麗だ。〝かっこいい〟という言葉より〝綺麗〟という言葉がしっくりくる。

「お母さんそっくり」

 思わず笑みが零れる。

 岳は今何しているかな。

 お母さんがいなくなった日を境に岳は体調を崩すことが多くなった。それまで学校を休むことなんて滅多になかったのに、突然高熱が出たり、ひどい頭痛に襲われたりと学校を休むことが増えた。きっとお母さんの失踪という私やお父さんでさえも大きすぎたストレスを岳の未成熟の心が受け止め切れなかったのだと思う。苦しむ岳を前に自分の無力さを痛感したのをよく憶えている。苦しそうに寝息を立てる岳のそばで何回泣いただろうか。

 体調を崩してないだろうか。もし崩していたとしても、ちゃんと薬飲んだり、しっかりご飯を食べたりしているだろうか――

「お姉ちゃんは心配だよ……」

 岳の写真を見つめながらそう呟く。

みお! あれ……あ、いた」

 お父さんが出かける恰好で部屋に入ってきた。

「どうしたの?」

「買い物行くけど何か買ってくるものある?」

「あぁ……ちょっと待ってて」

 岳の卒業アルバムを閉じて勉強机の上に置き、部屋を出て一階へと向かった。



「じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい」

 お父さんに向かって手を振っているとお母さんのことを思い出した。

 お母さんはいつも私や岳が出かける時、必ず両手でトントンと肩を叩いてから送り出してくれた。それで今日も頑張ろうと家を出るのが我が家のルーティンだった。岳なんて頭をわしゃわしゃされたり、ほっぺを擦られたりしていたっけ……。

「私も岳に毎日やってあげれば良かったなぁ」

 父を見送ってから再び岳の部屋へ戻る。

「……あれ?」

 閉じて置いておいたはずのアルバムが岳のクラスのページで開いている。

「お父さんかな?」

 卒業アルバムを閉じて本棚に戻す。

 そうして掃除機を手に取って掃除を再開する。

 岳がいた時よりもあっという間に掃除が終わり、ベランダへ出て外の景色を眺める。小さい頃からほとんど変わらない景色。


 どこにいるの、お母さん

 あなたがいない間に私も岳も大きくなったよ

 帰ってきてよ――

〝大きくなったね〟って笑ってよ

 また4人で一緒に暮らして、休みの日はみんなで旅行に行こうよ

 私もお母さんには及ばないけど料理上手くなったよ


 ずっとここで待っているから


 あなたが誇れるような娘になるから……だから――


 穏やかな風は髪をなびかせる。目の奥はまた熱を帯び始める。

 もうすぐ、母がいなくなってから七回目の桜の季節がやってくる。


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