屑(8)
***
「他人の女に手ぇ出して、ただで済むと思ってんじゃねぇだろうな!」
「は? 知らねぇよ」
クリスマスイブにも関わらず、俺は夜の路地裏で因縁をつけられていた。
胸倉を掴んですごんでくる雑魚に冷めた視線を向ける。
「んだとてめぇ」
ハッ。迫力が足りねぇよ、雑魚が。
「つーか放せよ」
「っ、ざけんな!」
握り潰すつもりで手首を掴めば、雑魚は顔をしかめて殴りかかってきた。
喧嘩慣れしていないことが丸わかりの典型的なテレフォンパンチ。
当たってやる義理もないので、躱し際に腹に一発ぶち込んだ。
「おぇ」
汚い悲鳴が漏れる。雑魚が。腹筋の鍛え方が甘いから内臓揺らされるんだよ。
「だっせぇなー。そんなんだから女に逃げられるんだよ」
「てめぇ……うっ!」
馬鹿が。腹を押さえてる暇があったら距離をとれよ。
その情けない面を容赦なく殴りつけて横倒しにして蹴り飛ばす。
蹲る雑魚を蹴りつける。追撃の手は緩めない。
蹴って蹴って蹴って蹴って踏みつける。
地面に沈んで呻くだけになった雑魚を前にかがんで、タバコに火をつけた。
「ふー……。で? 誰、お前?」
マジで知らなかった。いきなり喧嘩を売られたのだ。
まあたぶん俺と寝た女の彼氏ってとこだろうが。
「うぅ……」
「ちっ」
やり過ぎたか……? いや、中途半端に手を抜く方が後で面倒になりやすいというのが経験則だ。
「おい」
「ぐ」
髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。
「答えろよ」
「
「ああ? 小春?」
あー……すっかり忘れてたが、そういや浮気バレのピンチがあったような。あの後も何度か寝たし、どこかでバレたんだろうか。
つってもここのところ連絡とれねぇんだよな。
「そーいや、あいつ最近どうしてんの?」
「てめぇが囲ってんだろうが!」
「あ? んなわけねぇだろ。最近はサークルにもこねぇし、彼氏でもできたんじゃねぇかって噂してたとこだぞ」
まあ俺は元々彼氏いるの知ってたし、適当に話を合わせておいただけだが。
「つーか、なんだよ。お前、彼氏のくせに連絡もとれないのか? ハッ、だっせ」
「てめ、ぐっ」
持ち上げていた頭を地面に叩きつける。舌を噛んで呻く雑魚の背を踏みつけた。
「で? なんで俺に突っかかってきたわけ?」
「だからてめぇが」
「わかれよ、面倒くせぇな。誰から俺が小春の浮気相手だって聞いたんだ?」
「それは……お前と小春と同じサークルのやつらからだ」
「あっそ」
予想通りすぎて驚きもしない。たぶん小春と抜け出したときに気付かれたんだろ。
「まあいいか。じゃあな。もう突っかかってくんじゃねぇぞ」
最後に一発蹴りをいれて捨ておいた。
紫煙を深く吸込み、吐き出す。
よくあることだ。こうして寝た女の彼氏を名乗る雑魚に喧嘩を売られるのは。徒党を組まれたことだってある。それに比べれば今日のはマシな方だ。
「にしても小春か……。あいつ今何してんだろうな?」
ここのところ遊び相手の女と連絡がつかなくなることが多い。
小春に綾子に鈴に、他にも何人か。
単に彼氏でもできて俺を切ったんだと思っていたが、どうやら小春は違ったらしい。
「いや、新しい彼氏でもできたのかもしれないか」
それであの雑魚彼氏君も俺もサークルも切り捨てたとか。
ちょっと切り捨てすぎな気もしないでもないが、ありえない話ってほどでもない。
それでも元カレの処分ぐらいきっちりやってほしいとこだが。
「ま、どうでもいいな」
女なんて減ったら補充すればいいだけの話だ。
はぁー。どうせなら雲母も離れればいいのにな。離れて欲しいやつほど離れない。
「ちっ。嫌なこと思い出しちまった」
***
「ねぇ、霞さん。なんで一昨日は来てくれなかったんですか?」
クリスマスの翌日。俺は久しぶりに雲母の家を訪れていた。というか雲母に会うこと自体が久々だった。
本当なら適当な言い訳で煙に巻いて距離を取りたいところだったが、大事な話があると言われて赴いた。
話の内容は予想がついている。おそらく別れ話だろう。
ようやく、だ。
できれば自然消滅が理想だった。
だがもういい。そこまでは望まない。この際多少拗れても構わない。
おかげで雲母の家へ向かう俺の足取りは軽かった。
「言っただろ。仕事関係でトラブったって」
ははっ、仕事ってなんだよ。我ながら適当すぎる。
当然、真っ赤な嘘だ。
実際にはクリパという名の合コンに参加して別の女と仲良くしていた。
信じて貰えるだなんて思ってもいない。むしろ信じないだろうと確信して、こんな言い訳を使った。
「嘘、ですよね?」
「さあな? それを判断するのは俺じゃない」
潮時なのだ。
もし雲母が俺をもっと軽く扱ってくれたなら、それなりの関係を維持できていただろう。
だがそれは雲母には無理なことだったらしい。ならもう縁を切るしかない。俺は雲母に束縛されずに済むし、雲母も俺の言動に煩わされずに済む。これが現状一番お互いにとって得になる選択だ。
「なんでそんな嘘ばっかりつくんですか?」
「嘘じゃないって言ってるだろ」
平行線。無意味な会話だ。時間の無駄でしかない。
俺の適当な嘘に表面上は納得して雲母が退くか、決裂するか。どちらかしかない。
今までは前者だった。だが今回はどうだろうか?
どちらになるにせよ、破綻は時間の問題だ。
「なんで?」
「何がだ?」
雲母の瞳は涙が滲んで濡れていた。
だからどうした。そんなことで俺の心が揺れることはない。
「なんでなの?」
「はぁ……。何が言いたいのかわかんねぇよ。言いたいことがあるならはっきり言え」
俺も相当苛立っているらしい。思った以上に低く重たい声が出た。瞼が決壊し雲母の頬に涙が一筋流れる。
まだ早かったのだろうか。涙を流すほどの感情を動かす余地があったらしい。もし俺のことをどうでもいい相手だと切り捨てていれば、涙を流す労力さえ厭うはずだった。
だがここまで来てしまった以上もう後には退けない。
念のため俺から別れを切り出すプランを練る。涙を流し終えた後が一番落ち着いていて暴発リスクが低いだろうか? なら面倒だがそれまでは精々無価値な言い争いをして疲弊させるべきか?
「私、悪いことした?」
「さあな。別にどっちが悪いってわけでもねぇだろ」
「なにがいけなかったのかなぁ」
「単に価値観が合わなかった。ただそれだけの話だろ」
「価値観って……」
「俺は束縛されるのは嫌だった。雲母は俺を縛ろうとした」
「他の女の子と二人きりになったり、私を不安にさせるようなことをしないでって言うのはそんなにダメなの?」
「世間一般がどうかは知らねぇよ。ただ俺にはそれは受け入れ難かったってだけの話だ」
だが俺は自分の価値観をわざわざ話して聞かせるようなことはしなかったし、雲母もまた知ろうとはしなかった。だから当たり前にすれ違う。
もっとも知っていれば近寄ろうともしなかっただろうが。
「そもそもセフレなんてのはもっと手軽に、都合よく、お互いに利用し合う関係だろ」
あえて誤魔化さずにハッキリと俺たちの関係性を口にした。
「せ、ふれ……?」
「はぁ……。ま、わかっちゃいたけどな」
愕然とする雲母に溜息をつくしかない。
そもそも俺は一言だって付き合うなんて言っちゃいないのだ。もっとも雲母が勘違いしていることも理解した上で黙っていたのだから、文句を言えた義理でもないが。
「それに俺には雲母がなんでそこまで俺に執着するのかもわかんねぇ」
「好きだからに決まってるでしょ……?」
「たかが好意程度で?」
「たかがなんて言わないで!」
「……まあ、そういう意味でも俺たちの価値観は噛み合わねぇってことだ」
俺は自分の都合がいいように見せかけて。雲母は自分の都合がいいように見て。
だからある意味でこれは望み通りの末路なのだ。
「うぅ……ひっく……」
静寂に包まれた部屋に、雲母の嗚咽だけが響く。
だが哀しいほどに俺の心は揺れない。罪悪感もなければ、同情心も湧かなかった。
女の涙は武器だと言ったやつがいるらしいが、男の心を揺らせないなら単なる徒労でしかない、なんてくだらないことを考える余裕すらある。
致命的なまでに俺と雲母の関係は終わっていた。
「霞さん」
「……ああ」
これが片付いたら新年会の準備をしないとな、なんて考えていたので反応が一瞬遅れた。
「別れましょうか」
「そうだな」
あっさりとした別れの言葉だった。感慨は、やはりない。悲嘆も哀惜もなかった。
そもそも付き合ってもいないのに別れるとはなんぞや。だがわざわざ余計な藪をつついて蛇を出すつもりもない。これはあくまでも俺を恋人だと勘違いしていた雲母にとっての決別の言葉なのだ。そのくらいのことはわかっていた。
席を立つ。
意外と揉めずに済んでよかった。これで雲母との関係も整理できたと思えば気分も軽くなる。そうだ、久しぶりに智也とでも飲みに行こうか。
「じゃあな」
きっとこれが雲母と交わす最後の言葉になるだろう。だがどうでもよかった。
「待って」
靴を履いてドアに手をかける。振り返ることはしなかった。
よくもまあこんな男にそこまで執着できるものだ。別の意味で感心を覚える。
だが一瞬、ドアに伸ばした手が止まったのは事実だった。
衝撃。
ガツン、と後頭部に鈍い痛みが走った。視界が揺れて、意識が暗転する。
──ちっ、しくじった。
ド屑 五月什一/原作・監修:なきそ/MF文庫J編集部 @mfbunkoj
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