屑(4)

 ***


 どうしてこうなったんだか。

 十一月に入って最初の休日。俺は雲母の住むマンションに呼ばれていた。

 なんでも手料理を御馳走してくれるようで、エプロン姿でテキパキと忙しなく動き回る雲母を眺めながら料理が出来上がるのを待たされている。

 事の発端は連日、お互いに大学にいる限り必ずと言っていいほど、少しでも時間を共にしようとする雲母に付きまとわれて辟易としていた時のことだった。

 人前で手作りらしき弁当を渡されるという地獄のイベントがあった。それも緊張した様子を隠そうともせず、控えめに、もしよければ、なんて周囲の同情を誘うものだからたまったものではない。

 中学生の初恋カップルかよ。勘弁してくれ。

 そうでなくとも調理工程が不明の手料理にはトラウマじみたものがある。誰だって爪やら髪の毛が入ったチョコを渡されれば苦手にもなるだろう。お呪いだかなんだか知らないが、最早あれは一種のテロだ。呪いチョコ禁止法を制定してほしい。

 それでも断ったら完全に俺が悪人にされる雰囲気の中で致し方なく受け取らされた。

 せめてもうちょい軽い感じにしてくれよ。

 この時点で俺のテンションは最悪、キレる一歩手前だったのだが、予想外に雲母の手作り弁当は美味かった。

 これでも俺は料理ができる方だ。家で一人で過ごすことが多かったのだから自然とできるようになる。なんなら大抵のやつよりも上手い。だがそんな俺からしても完敗を認めざるを得ない上手さだった。

 お陰で単純な俺は機嫌を直して、珍しく後先考えないまま素直に褒めてしまったのだ。出来立てならもっと美味いんだろうな、一度食べてみたい、なんて言ってしまった。

 しまった、と思ったところで後の祭り。

 なら食べてみますか? なんて誘われてしまっては断りようもない。

 そして今。家に招かれて、手料理を振る舞われるところである。

 女のところに転がり込むのは日常茶飯事だ。珍しくもない。だが真っ昼間から家デートじみたことをするなんてのはいつ以来のことだろうか。どうにも雲母には調子を狂わされている気がする。

「あの、どこかダメでしたか?」

 などと考えていたせいか、気付かない内にしかめっ面をしていたらしい。最後の一品をテーブルに並べていた雲母が不安そうに俺の様子を窺っていた。

「まさか。すげえ美味そうだ。食ってもいいか?」

「ど、どうぞ」

 緊張に手を震わせる雲母がこくこくと何度も頷く。

「いただきます。…………うん、うまい」

 雲母がほっと息をついて、安堵に肩の力が抜かれる。そんな緊張しないでもいいだろうに。そんなに自信がないのだろうか。まあ大した付き合いがない俺から見ても雲母は自信満々ってタイプじゃなさそうだが。

 目を細めてこちらの様子を眺めている雲母は一向に食事に手をつける気配がなかった。

「いや、そんなジッと見つめられると食べづらいんだが……」

「あ……。すみません。その、美味しそうに食べてくれるものですから」

「実際美味いからな」

 なんというか、こう、味付けが俺好みなのだ。どこで俺の好みなんて知ったんだと聞きたくなるほどぴったり。もちろん偶然だろうが。

「やっぱりあれか。一人暮らしだから料理を覚えたクチか? それとも趣味?」

「どっちも、でしょうか。元々は必要に駆られてでしたが、今では趣味に近いかもしれません」

「好きこそものの上手なれって言うしな」

 俺は必要にこそ駆られても趣味には至らなかった。その差が如実に現れている。まあ料理が趣味ですっていう女より俺の方が上手いこともザラにあるが、あれは単なる家庭的アピールなので例外だ。

「今、他の子のこと考えたでしょう?」

 ぞっとした。嘘だろこいつ、どんだけ勘が鋭いんだ。

「いいんですよ、別に。怒ってるわけじゃありませんから」

 それは怒ってるやつの台詞だ。そんな言葉が喉元まで出かかってギリギリのところで止まる。

「霞さんは大層おモテになるようですし。私以外の女性の手料理を食べたこともあるのでしょう?」

 言葉だけを聞けば拗ねたような台詞だ。だがその実体がそんな生易しいものじゃないことは据わった目を見ればわかる。

「それで、どうですか? その人と比べて私の料理は?」

「雲母の方が美味いよ」

「今まで食べた中では? どうせ一人や二人じゃないんでしょう?」

「……雲母が一番だ」

 なんだこれ。どうしてこうなった?

「ふふっ、ごめんなさい。なんだか言わせたみたいになっちゃいましたね」

 どうにか切り抜けられたらしい。雲母の雰囲気が柔らかくなった。肩の力を抜く。

「べつに嘘でも誤魔化しでもない。本当にそう思ったから言ったんだ」

「ありがとうございます」

 そんな安堵が原因だろうか。

「……意外だったな」

 余計な呟きが漏れてしまった。

「料理とかできなさそうに見えていましたか?」

「いや、そっちじゃない。一番がどうとかの方だ」

 だってそうだろう。

 しょせんは過去の話だ。今俺は雲母の手料理を美味いと言って食べているのだからそれでいいはずだ。少なくとも俺は、相手が過去誰とどういう風に付き合っていたかなんて気にしたこともない。

 そう口にすれば、雲母は視線を逸らして溜息交じりに呟いた。

「はぁ……。霞さんって意外と女心がわかってない」

「女心?」

「ねえ、霞さん。霞さんから見た私ってどんな女? 穏やかで、控えめで、優しくて」

 自己評価高ぇな。自信があるんだかないんだかわからんやつだ。

「恋愛経験に乏しくて、従順で、扱いやすいちょろい女?」

「…………んなことねぇよ」

 一部とはいえ図星を突かれて言いよどむ俺に雲母が囁く。

「どうして今日、霞さんを招待したのか、わかりますか?」

 いつの間にか。雲母の顔には濃い女の色が浮かんでいた。背筋にぞくりとクる。

 思い出した。

 そういえばあの日、雲母と再会して二人で飲みに行った日。俺が雲母に手を出した、出すことに決めたきっかけ。あの時も確か、こうして、雲母の妖しい色気にその気にさせられたのだった。

「私ね。霞さんの中では誰にも負けたくないんです」

 目を細めた雲母の普段よりも低い囁くような声音が、俺の耳朶をくすぐる。

「他の子と比べられて、そっちの方がよかったなんて思われるのは絶対にイヤ」

 実際に耳元で囁かれているわけじゃない。雲母のいる位置は変わっていない。テーブルを挟んで向こう側に座ったままだ。なのになぜだか俺はからめとられるような錯覚に囚われていた。雲母から目が離せない。

「霞さんの一番でいたいの」

 嘲笑うような挑発するような。少しだけ口角のつりあがった薄い笑み。

 吸い込まれそうな古井戸のように昏い瞳。だがその底には小さく光るものが落ちている。

「ね?」

 雲母が微笑みかけてくる。だがその綺麗な笑みにはなぜかマグマのような熱を感じた。

「それとも、強情な女は、キライ?」

「……いいや。少しぐらい我儘な方がいいさ」

 ようやくそれだけを絞り出した。

 圧倒されていた。そう。きっと俺は、雲母に圧倒されていたのだ。

 情けない。こんな失態はいつ以来だ? もしかしたら高校生の頃、年上の女に、「女」を見せられた時以来かもしれない。

 だけど。ああ、だけどだ。こうでなくては。イージーゲームじゃつまらない。

 心臓が跳ねる。ようやく少しだけ、雲母に興味が持てそうだった。

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