いはゐつら 〜女官・福益売〜

加須 千花

第一話  梓弓

 奈良時代。丙午ひのえうまの年(766年)

 冬。


 母刀自ははとじ(母親)はすぐに決めたわけではなかった。


 母刀自は、あたしと夕餉ゆうげの支度をしていたが、乾燥させたナズナ(大根)を小刀で刻む手を止めて、ふっと何もない、家の木の壁を見た。


福益売ふくますめ。明日、二人で、上毛野君かみつけののきみの屋敷に行くわ。──許してね。」


 あたしを見ずに、ぽつりと言った。


 恐ろしいえやみが流行し、去年の冬、父親と兄は、あっけなく黄泉に下ってしまった。

 生活が困窮しているのは、良く、分かっていた。

 母刀自は、あたし達姉妹に何も言わなかったが、よくため息をもらすようになった。

 そして十日前、畑仕事をしながら、あたしに言ったのだ。


上毛野君かみつけののきみの屋敷で、女官を欲しているそうだよ。

 十五歳以上の娘で、容姿の優れたおみなじゃないと、女官になれないそうだ。

 そのかわり、お代金をうんとはずんでくれるそうだよ。

 昼餉、夕餉も、たっぷり食べさせてもらえるって話だ。」


 あたしは、十五歳。

 まだ、二人の同母妹いろもは、十四歳と十歳。


「へえ、そうなの!」


 あたしはその時は、そうとだけ答えておいた。

 今、答える言葉はこうだ。


「わかったわ、母刀自。綺麗なおみなじゃないと、女官にはなれないんでしょ? あはは、なれるといいなあ。」


 つとめて明るく言うと、母刀自が振り返った。泣き出しそうな顔をしている。


「あたしを責めないのかい?」

「だって、必要なんでしょ? 母刀自と、稲益売いねますめと、豊益売とよますめの為なんでしょ。」


 そこまで笑顔で言えた。

 でももう、無理だ。

 あたしは、ぱっとかまどを見た。


「ほら、母刀自、お鍋のお湯が湧いてるよっ!」


 と母刀自の注意をお鍋にむけさせ、急いで涙をそっと拭った。

 母刀自が、米櫃こめびつの底をさらい、ひえを鍋に惜しげなく入れた。


「母刀自! もう、ひえがなくなるじゃない!」


 今まで、ちびちびと食べてきたのだ。


「今日は、今日はね。せめて、ご馳走にしましょう。どーんと、食べなさい、福益売。」

「……うん。」


 二人、すすり泣きながら、夕餉の支度をする。

 そして、あたしは悟った。

 もし、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官として買ってもらえなくても、あたしは、明日、この慣れ親しんだ家に帰ってくることはない。

 きっと、女官が駄目なら、人買いの市に立たされる。

 うちには、もう、本当にたくわえがないのだ。


 どこに買われるのか。

 遊浮島うかれうきしまに買われて、毎日、おのこの相手をさせられるのかもしれなかった。


 まだ、恋もしたことがないのに。

 来年、歌垣うたがきに行き、良いおのこに歌をうたわれてみたい。

 そう、憧れていたのに。


 その日の夕餉は、久しぶりにたっぷりのひえを食べれて、二人の同母妹いろもは喜んだが、明日からあたしがいなくなる、と聞いて、大泣きをした。


福姉ふくねえ、いかないで!」

「いや、いやよ、福姉え!」

「うん。あたしも、いやだ。

 でもこの家の為に、必要なことなのよ。あたしは、どこに行っても元気だから、心配しないで。

 母刀自の手伝いをよくするんだよ。」


 あたしは二人を抱きしめ、その夜は三人の姉妹でぎゅうっとくっつきながら寝ワラで寝た。ずっと泣けて、良く寝付けなかった。


 少し離れたところで背中をむけて寝る母刀自が、ふーっ、と時々大きな息を吐き出して、細かく肩を震わせているのを、あたしは気づいていた。


 翌日、良く晴れた。

 あたしと母刀自は二人で、手をつないで、遠い道を、よくよく歩いた。

 母刀自は、顔が青く、繋いだ手は冷えて、ずっと震え続けていたのを、あたしは覚えている。


 あたしは、高値で──三人の家族が、一年はゆうに食べれる大金と引き換えに、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官となった。


 良かった。これで、来年、稲益売いねますめが早い歳だが、婿をとれば、家はなんとか立ち行くだろう。


 家族の命をつないだ。

 あたしは、安心した。




   *   *   *



「あなた、良い顔ね。いつもにこにこ笑っているような、福のある顔をしてるわ。」


 そう、日佐留売ひさるめという美しい女嬬にょじゅが、あたしの顔を見て笑顔で言った。


 女嬬とは、女官を取りまとめる立場の女官のことだ。


「あ、あたし、名前は福益売ふくますめと言います。」

「あら! ぴったりね! なんとも吉祥きっしょうな名前だわ。ねえ、母刀自。」


 そう日佐留売は、隣に立つ鎌売かまめにおっとりと告げた。

 鎌売は、女嬬のなかで頂点の地位に立つとのことだった。顔には威厳が満ち、そこに立ってるだけで怖かった。


「そうね。緑兒みどりこ(赤ちゃん)の世話は?」


 鎌売が問う。

 日佐留売と鎌売の腕には、それぞれ、まだ首が座ったばかりか、という幼い緑兒みどりこ(赤ちゃん)が抱かれていた。


「五歳離れた同母妹いろもがいたので、慣れてます!」


 あたしは、怖い鎌売より、年若く(あとから聞いたら十八歳だった)優しげな雰囲気の日佐留売付きの女官になりたくて、必死に言った。


 艶々とした黒髪が人目を引く美女、日佐留売は、こくりと頷いて、


「母刀自、この女官は、あたしが戴きますわ。

 さ、抱いてちょうだい。あたしの可愛い息子、浄足きよたりよ。」


 と緑兒みどりこ(赤ちゃん)を抱かせてくれた。

 鎌売が頷いて言った。


「これからみっちりしつけますが、何をするにも優雅な仕草で、しとやかに行うようように。

 自らを美しく。

 身だしなみには気を使いなさい。

 ここは上野国かみつけのくにの大領たいりょうたる上毛野君かみつけののきみの屋敷。

 そこの女官ともなれば、いつ粘絹ねやしぎぬねや(練って柔らかにした絹布で作られた閨)に呼ばれてもおかしくないのです。

 その心づもりでいるように。」


 鎌売は表情を動かさず、当たり前のことのように言ったが、日佐留売の顔には、なんとも言えない皮肉げな色が一瞬横切ったと見えた。

 気のせいだったのだろうか。 




   *   *   *




 一緒に暮らす女官部屋のおみな達は、皆、気の良いおみな達だった。


 昼餉も夕餉も、お腹いっぱい食べれるのは、本当だった。

 始めは、優雅な所作ができなくて、ふくらはぎを棒で打たれたが、すぐに仕事を覚えて、打たれなくなった。


 何より良かったのは、ここの跡継ぎの若様が、ものすごく、格好良いことである。

 簀子すのこ(廊下)を歩く姿を庭から初めて見た時の衝撃は、忘れられない。

 完璧に整った顔立ち。

 背が高く、切れ長の涼しげな瞳。

 白い肌。

 半分垂らした、手入れの行き届いた美しい髪が、胸下までさらりと揺れる。

 まっすぐ凛とのびた背。

 歩いているだけで、春風が桃色にあたりを染めているかのような、目の離せない美貌。

 上毛野君かみつけののきみ大川おおかわさま、十六歳。


 あとから思えば、その時も従者が付き従っていたはずだが、なぜが、とんと記憶がない。


 そして、鎌売かまめの言葉が、身の内をぐるぐると回った。


 ───いつ粘絹ねやしぎぬねやに呼ばれてもおかしくないのです。その心づもりでいるように───。


 心臓しんのぞうがバクバク脈打ち、頬がぽーっと赤くなったのを感じた。こんなの初めてだ。




   






 大川さまの挿し絵を、ぽんにゃっぷ様から頂戴しました。

 印象がぴったりですので、ぜひご覧ください。私の近況ノートに飛びます。↓ https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330667018703186 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る