第五話  さ寝どはらふも

 ひつじの刻。(午後1〜3時)



 川嶋かわしまは、清々すがすがしい気分で、首ににじんだ汗を手布てぬのでふいた。

 老麻呂おゆまろと二人がかりで、庭のははきぎの手入れが終わったばかりだ。

 庭先の大きく平らな石に、老麻呂おゆまろと腰掛ける。



 柿の木の屋敷では、ずっと門に張り付いているわけではない。寝ずの番もしない。

 ただ、不審な者が屋敷に押し入ろうとしてきたら、いつでも切って捨てられるように、準備だけは怠らない。



 今、この屋敷の女主人となった古志加こじかと、もと女官の福益売ふくますめは、上毛野君かみつけののきみの屋敷に遊びに出かけている。

 飯売は、炊屋かしきやもっている時間だ。


「……可愛いよな。」


 オレはポツリともらす。


「なんだ、川嶋かわしま。古志加か?」


 笑いつつ、老麻呂おゆまろがまぜっかえす。わざとだ。


「古志加は、良かったよ。幸せになって。」


 三虎も、古志加も、まだ十代の頃から知っている。

 二人とも、卯団衛士皆で可愛がってきた。

 途中、邪悪な目で見た輩を出してしまったのは痛恨の極みだが……。

 いくら美しくなろうとも、古志加は、皆で見守る可愛いわらはだった。

 そして今、古志加が一途な恋を成就させて、ようやくか、と祝う気持ちしかない。


 今、オレが言うのは、違うおみなだ。


「……福益売ふくますめのことだ。」

「ふふ、そう言うのは珍しいな、川嶋。おまえの事だ。三虎が言うような、いや、古志加が言うような、首をねるよ、という事にはなるまい。

 好きにしたら良いさ。オレは、手はださんよ。」


 そう、もと少志しょうしおのこは穏やかに言ってくれた。


「ああ。」


 オレは、そう一言だけかえす。

 それだけで、充分だ。

 白梅の香りが、どこかから漂ってくる。

 二月の陽だまり。優しく晴れた空。

 オレは目を細めて、空を見上げる。




    *   *   *




 上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官は美女ぞろい。


 衛士は屋敷内を警邏けいらするが、積極的に女官に声をかける事はない。女官の顔はジロジロ見ない。

 おみなをたらしこもうとするやからは、簡単に衛士の職を追われる。衛士は皆、そう言いふくめられる。

 女官の方も、衛士とすれ違う時はつんと顎をそらし、もし衛士に眺めまわされたら、キッ、とにらんでくるものだ。


 同じ敷地内にいるが、それぞれの職務は交わることがない。

 それが、女官と衛士だ。


 上毛野君かみつけののきみの屋敷を六年離れて、久しぶりに、女官の美しさを見た。

 正確に言えば、もう福益売は女官ではないのだが。


 愛らしい顔立ち、シュッと綺麗にとがった顎、いつも笑っているような目。美しい仕草。

 一目で、可愛いな、と思った。


 もったいないな。

 きっと、上毛野君かみつけののきみの屋敷で、すれ違うぐらいの事はあったはずだ。

 全然、この美貌を知らなかった。


 途中、古志加と三虎が夫婦めおとで何か言いはじめた。まったく、幸せなのだから、放っておいて良いだろう。


 オレは福益売を見て、心をこめて、言う。


「とにかく、しっかり家は守ります。もちろん、古志加、飯売いいめ、福益売のことも。」


 美しいおみな

 安心してください。

 必ず、あなたの事は守ります。


 つい、じっと見つめすぎてしまった。

 福益売が顔を伏せたので、あわてて、衛士らしい礼儀で、顔を見るのをやめた。


 そして、自分の心に苦笑をする。


(……衛士らしい礼儀。笑えるな。)


 オレはもう、衛士ではない。

 癸丑みずのとうしの年(773年、6年前)、背中に賊の矢をうけた。

 傷は深く、もう、長時間、剣をふる事はできなくなった。

 衛士としてのオレは、終わったのだ。


 オレは衛士の務めが好きだった。馬を駆り、武芸の稽古にはげみ、立派に上毛野君かみつけののきみの屋敷を守り、誇りを持った者達と、昼餉、夕餉をともにする。

 和気藹藹わきあいあいと、時には大勢で遊浮島うかれうきしまの美酒に酔う。


 自分で志願して、十五歳から、二十九歳まで。

 オレの楽しみ、喜びは、あそこにあったのだ。


 戦えない者は衛士ではいられない。

 オレは、生家、甘楽郡金井郷かんらのこほりかないのさとに帰った。

 家では、歳の離れた弟が、こわみ(たぬき)のような顔の嫁をとり、もう何人も子供がいた。

 オレは畑を耕し、そのわらはたちの遊び相手になってやり、優しく、安全な、ぬるま湯のような日々をすごした。


「嫁をもらえば良い。」


 弟はそう屈託ない笑顔で言ってくれた。

 そう、嫁をもらい、この家を出ていき、新しい家をたて、畑を耕し、──このぬるま湯のような日々を常敷とこしへ(永久)に繰り返すのだ。


「オレは、嫁はいらんよ。」


 オレは、そう答えた。

 もともと、口数は少なく、言ったことは、頑として譲らない性格だ。

 それを良く知る弟は、あっさり引き下がってくれた。


 もう長時間、剣は振れないというのに、わらはに剣を教えていると、血が、騒いだ。

 もう衛士に戻れる事はないというのに、オレは一人で、武芸の鍛錬を欠かさなかった。


 意味のない事を。

 そうオレは心のなかで、あざ笑う。


 十五の歳から、そうやって生きてきたのだ。

 なぜ鍛錬して悪い。

 オレは剣を握りたいのだ。

 オレは帰りたい───。


 そう、心のなかで、何かが叫ぶ。

 オレはをばな(ススキ)の穂が揺れ、蜉蝣かげろうが群れ飛び、ヒグラシが啼く秋の夕暮れ、真っ赤な夕焼けを背中に浴び、汗を散らし、一心に剣の素振りを繰り返す───。




 三虎が、六年ぶりに、その懐かしい姿を見せ、


上毛野君かみつけののきみの屋敷近くに、いもの屋敷をかまえる。

 そこに住み込みの警備人となってほしい。

 いもはな、驚くなよ、古志加なんだ。」


 と照れつつ誘ってくれた時には、生家への未練は少しもなかった。


「驚きませんよ。」


 もと衛士として。

 三虎から信頼してもらえるおのことして。

 三虎のいもを護るために、己の武芸を頼りとする。

 願ってもない生活だった。


「驚きません。」


 オレの居場所は、そこだ。


 胸に、清々すがすがしい風が吹き込んだ気がした。









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