第六話 福を益す。良い名前だ。本当にぴったりだ……。
三虎は、オレがこの屋敷に来て四日で、もう奈良へ出発した。
オレは、
「
と言うのに甘えて、古志加と二人で、一度、卯団に顔をだした。
懐かしい顔。落ち着く空気。心浮き立つ稽古。
調子に乗って、稽古にまざったら、すぐに背中にビリビリと嫌な痛みが走り、オレは自分を思い知った。
古志加は
オレか
* * *
「あたし、それじゃ寂しくて泣くよ?」
と可愛い事を言う。
古志加は、凝った食事より、具だくさんの鍋ですませる事を好む。
長く
「今日は天気が良いから、庭で!
古志加がそう言い、庭に面した
白い雲が浮かんだ青空。
黒い尾、灰褐色のからだ、のどの赤が鮮やかな鳥、うそが、高く鳴きながら飛んでいく。
フィ、フィ……。フィ、フィ……。
柿の木の葉っぱは陽光に輝く。
今日の昼餉は、具だくさんの
少しの
「かーのっしし! かーのっしし!」
古志加が上機嫌に歌いながら、
塩味のきいた
豆が甘く、柔らかいツクシの歯ざわりが楽しく、ナズナとホトケノザの青臭さが爽やかで、実に旨い。
鍋のあいまに、
しょっぱく、複雜な滋味あふれる味が一気に口に広がる。
これだけ頻繁に
オレはただ黙って、それを見ている事ができた。
その時間は、楽しい。
福益売は、笑うと八重歯がのぞき、いっそう可愛い。
喋る声が元気で、良く笑い、表情が生き生きとしている。
あの可愛らしい顔立ちで、とても明るいのだ。
一緒にいる者は皆、楽しい気分になれるだろう。
福を益す。良い名前だ。本当にぴったりだ……。
「庭にさ、すずしろ(大根)植えようよ。瓜もさ、ぐぶ!」
喋りながら干し柿を口いっぱい頬張った古志加が、むせた。
「ほら、古志加、喋りながら食べるから! 大丈夫?」
福益売が古志加の背を、とんとん、と優しくたたく。
「大丈夫。えへへぇ。ありがとう。干し柿、美味しい。」
古志加は幸せそうに、福益売に笑いかける。
「もう、古志加ったら!
福益売も、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、古志加の背中を撫でさする。
いいな。
福益売は、良い。
なぜか、今まで、オレは婚姻の事をちらとも考えなかった。
衛士の時は、その暮らしぶりに満足していた。
多分、妻を持つと、ちまちまと家に帰らなければならなくなるのが、面倒だったのだろう。
衛士舎の寝ワラで雑魚寝が、オレは気楽だ。そう思っていた。
オレは、福益売となら。
そう、思い始めている。
* * *
福益売が、屋敷内の井戸から、桶に水を汲み、古志加の部屋へ運ぼうとしていた。
桶はなみなみと水が入っているのだろう。重たそうだった。
オレは大股で、素早く近づいた。
「福益売。重いだろう。」
はっ、と福益売が驚いた顔でこちらを見た。
有無を言わさず、桶を持ってしまう。
「大丈夫です……。」
小さな声で、福益売が言い、顔を伏せた。
「
オレは気が利いたこと一つ、言えない。これで、納得してほしいものだ。
「ありがとう、ございます。」
福益売が顔をあげて、こちらを見て言った。
戸惑って、でも、ほんのりと、笑いかけてくれた。
それだけで、なにか、胸のあたりが、温かくなる。
だが、悲しいかな、オレは気の利いた事が言えない。
無言のまま、あっという間に古志加の部屋の前についてしまった。
福益売は、立ち止まり、桶が返されるのを待っている。
今までで一番、福益売と近い距離に立った。
可愛い顔立ち。いつも笑っているような、慈愛に満ちた瞳。
───あなたは、美しい
誰か、恋い慕う
オレは、どうですか。
オレは、あなたとなら、
どれも、言えたものではない。
「あなたは──良い名前だ。」
それだけ言って、桶を手渡す。
「は、はぁ。」
いきなり言われて、驚いたのだろう。
福益売は、喜ぶというより、あっけにとられた表情だった。
それだけで、別れた。
* * *
次の日の朝。
門のところで、
「あの、わらびを漬物にしたのです。味見していただけます?」
「お、良いな。さっそく!」
木箱のフタをひょいと開けて、老麻呂が中身の漬物をぱくりと食べた。
随分な早業だと、老麻呂の笑顔が少し腹立たしくなる。
「うまいなあ。うんうん。ご馳走さま。
オレは、これでもう、釣りに行ってこようかなぁ。今日は魚が食べたいぜ。」
老麻呂は一息に言って、ひらひらと手を振って、さっさと屋敷にむかって歩いていってしまった。
福益売と二人きりになった。
「あ、あの。どうぞ。」
福益売が木箱をさしだしてくる。
「ありがたく。」
何かヘソのあたりがムズムズくすぐったい気持ちになりながら、わらびの漬物をつまむ。
塩がきいて、しんなりとしたわらびが、絶品だった。
「絶品です。」
正直に言うと、
「ふふ。」
と福益売が笑った。明るい陽光のような笑顔だ。眩しい。
「ここの、務めは、どうですか。」
福益売がそう切り出した。
味見が終わったら、すぐ帰るつもりではないらしい。
「ええ、とても、良いです。」
「そうですか。」
と福益売。
「はい。」
とオレ。
「………。」
しまった。会話が終わってしまった。
無言となる。
二人は門から、外の道をぼんやりと眺めた。
だが、福益売は、踵を返そうとしない。
「あたしも、ここに来て、良かったです。母刀自に、会えたから。古志加の……、古志加と、三虎のおかげです。」
福益売は盆を器用に片手で持ち、ひょい、と己もわらびの漬物を口にした。もぐもぐ、
「本当は、迷ったんです。
また、漬物を口にし、木のフタをした。
「でも、思い切って、ここに来て、良かった。」
そう言った福益売は、こちらに向き直り、オレの顔を下からじっと見上げた。
美しい瞳に見つめられ、オレの息は止まった。
福益売はすぐに目をそらし、明るくハキハキと喋りだした。
「喉、かわいちゃったなあ。味見、ありがとうございました。たたら濃き日をや(良き日を)。」
「たたら濃き日をや。」
福益売は素早い足取りで、
オレは黙ってそれを見送ったあと、腰にさげた
(水、どうぞ、って言えれば良かったな。もっと、わらびの漬物だって、褒めることはできたはずだ。)
そう、己の口下手を責めつつ、愛らしい福益売の顔を、しっかりと心に思い浮かべた。
想像のなかで、オレは、ありがとう、と言い、福益売の白い頬に右手をそえ、
もう、三月が近い。
春だな。
庭には椿が咲きはじめ、道には砂埃が立ち、遠く
↓挿し絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662483537971
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