第六話  福を益す。良い名前だ。本当にぴったりだ……。

 三虎は、オレがこの屋敷に来て四日で、もう奈良へ出発した。


 オレは、古志加こじかが、


川嶋かわしま、一緒についてきてよ。」


 と言うのに甘えて、古志加と二人で、一度、卯団に顔をだした。

 懐かしい顔。落ち着く空気。心浮き立つ稽古。

 調子に乗って、稽古にまざったら、すぐに背中にビリビリと嫌な痛みが走り、オレは自分を思い知った。


 古志加は癸丑みずのとうしの年(773年、6年前)より、格段に腕が上達していた。

 オレか老麻呂おゆまろが何かしたら、綺麗に首をねることができそうだ、と思ったら、少しおかしかった。




    *   *   *




 昼餉ひるげ夕餉ゆうげは、全員顔を揃えて食べる。古志加一人特別扱いで、部屋に食事を運んでも良いのだが、古志加は、


「あたし、それじゃ寂しくて泣くよ?」


 と可愛い事を言う。

 古志加は、凝った食事より、具だくさんの鍋ですませる事を好む。

 長く卯団うのだんで、皆で鍋を食べてきたせいだろう。


「今日は天気が良いから、庭で! ひしおもつけてね!」


 古志加がそう言い、庭に面した簀子すのこ(廊下)におみな三人並んで腰掛け、おのこ二人は、少し離れた庭の平たい石に腰掛ける。


 白い雲が浮かんだ青空。

 黒い尾、灰褐色のからだ、のどの赤が鮮やかな鳥、が、高く鳴きながら飛んでいく。


 フィ、フィ……。フィ、フィ……。


 柿の木の葉っぱは陽光に輝く。


 今日の昼餉は、具だくさんの鹿肉かのしし鍋。

 あわきびの塩にぎり飯。

 少しのひしおと、干し柿。


 「かーのっしし! かーのっしし!」


 古志加が上機嫌に歌いながら、土師器はじきによそった鹿肉かのしし鍋を、はしでかっこむ。

 福益売ふくますめ飯売いいめはそんな古志加を見て微笑む。


 塩味のきいた鹿肉かのししは、噛めば噛むほど旨味がでる。

 豆が甘く、柔らかいツクシの歯ざわりが楽しく、ナズナとホトケノザの青臭さが爽やかで、実に旨い。

 鍋のあいまに、ひしおを少し箸でつまむ。

 しょっぱく、複雜な滋味あふれる味が一気に口に広がる。

 これだけ頻繁にひしおが食べられるのは、贅沢なことだ。


 おみな達は、食べつつしゃべり、笑い声が絶えない。

 オレはただ黙って、それを見ている事ができた。


 その時間は、楽しい。


 福益売は、笑うと八重歯がのぞき、いっそう可愛い。

 喋る声が元気で、良く笑い、表情が生き生きとしている。

 あの可愛らしい顔立ちで、とても明るいのだ。

 一緒にいる者は皆、楽しい気分になれるだろう。

 福を益す。良い名前だ。本当にぴったりだ……。


「庭にさ、すずしろ(大根)植えようよ。瓜もさ、ぐぶ!」


 喋りながら干し柿を口いっぱい頬張った古志加が、むせた。


「ほら、古志加、喋りながら食べるから! 大丈夫?」


 福益売が古志加の背を、とんとん、と優しくたたく。


「大丈夫。えへへぇ。ありがとう。干し柿、美味しい。」


 古志加は幸せそうに、福益売に笑いかける。


「もう、古志加ったら! わらはじゃないんだから。」


 福益売も、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、古志加の背中を撫でさする。


 いいな。

 福益売は、良い。


 なぜか、今まで、オレは婚姻の事をちらとも考えなかった。

 衛士の時は、その暮らしぶりに満足していた。

 多分、妻を持つと、ちまちまと家に帰らなければならなくなるのが、面倒だったのだろう。

 衛士舎の寝ワラで雑魚寝が、オレは気楽だ。そう思っていた。


 オレは、福益売となら。

 そう、思い始めている。



    *   *   *



 たつの刻。(朝7〜9時)


 福益売が、屋敷内の井戸から、桶に水を汲み、古志加の部屋へ運ぼうとしていた。

 桶はなみなみと水が入っているのだろう。重たそうだった。


 オレは大股で、素早く近づいた。


「福益売。重いだろう。」


 はっ、と福益売が驚いた顔でこちらを見た。

 有無を言わさず、桶を持ってしまう。


「大丈夫です……。」


 小さな声で、福益売が言い、顔を伏せた。


おのこのほうが、得意なこともある。」


 オレは気が利いたこと一つ、言えない。これで、納得してほしいものだ。


「ありがとう、ございます。」


 福益売が顔をあげて、こちらを見て言った。

 戸惑って、でも、ほんのりと、笑いかけてくれた。


 それだけで、なにか、胸のあたりが、温かくなる。

 だが、悲しいかな、オレは気の利いた事が言えない。

 無言のまま、あっという間に古志加の部屋の前についてしまった。


 福益売は、立ち止まり、桶が返されるのを待っている。

 今までで一番、福益売と近い距離に立った。

 可愛い顔立ち。いつも笑っているような、慈愛に満ちた瞳。すももの花びらのような、可憐な唇。



 ───あなたは、美しいおみなです。

 誰か、恋い慕うおのこはいるのですか。

 オレは、どうですか。

 オレは、あなたとなら、夫婦めおとになったオレを想像できるんです。



 どれも、言えたものではない。


「あなたは──良い名前だ。」


 それだけ言って、桶を手渡す。


「は、はぁ。」


 いきなり言われて、驚いたのだろう。

 福益売は、喜ぶというより、あっけにとられた表情だった。


 それだけで、別れた。



    *   *   *



 次の日の朝。

 門のところで、老麻呂おゆまろと他愛もない話をしていると、福益売が一人であらわれた。手に盆を持って、木箱を載せている。


「あの、わらびを漬物にしたのです。味見していただけます?」

「お、良いな。さっそく!」


 木箱のフタをひょいと開けて、老麻呂が中身の漬物をぱくりと食べた。

 随分な早業だと、老麻呂の笑顔が少し腹立たしくなる。


「うまいなあ。うんうん。ご馳走さま。

 オレは、これでもう、釣りに行ってこようかなぁ。今日は魚が食べたいぜ。」


 老麻呂は一息に言って、ひらひらと手を振って、さっさと屋敷にむかって歩いていってしまった。

 福益売と二人きりになった。


「あ、あの。どうぞ。」


 福益売が木箱をさしだしてくる。


「ありがたく。」


 何かヘソのあたりがムズムズくすぐったい気持ちになりながら、わらびの漬物をつまむ。

 塩がきいて、しんなりとしたわらびが、絶品だった。


「絶品です。」


 正直に言うと、


「ふふ。」


 と福益売が笑った。明るい陽光のような笑顔だ。眩しい。


「ここの、務めは、どうですか。」


 福益売がそう切り出した。

 味見が終わったら、すぐ帰るつもりではないらしい。重畳ちょうじょう


「ええ、とても、良いです。」

「そうですか。」


 と福益売。


「はい。」


 とオレ。


「………。」


 しまった。会話が終わってしまった。

 無言となる。

 二人は門から、外の道をぼんやりと眺めた。

 だが、福益売は、踵を返そうとしない。


「あたしも、ここに来て、良かったです。母刀自に、会えたから。古志加の……、古志加と、三虎のおかげです。」


 福益売は盆を器用に片手で持ち、ひょい、と己もわらびの漬物を口にした。もぐもぐ、咀嚼そしゃくしたあと、静かな口調で話す。


「本当は、迷ったんです。上毛野君かみつけののきみの女官として、一生を終えるんだろうな、って疑ってなかったので……。」


 また、漬物を口にし、木のフタをした。


「でも、思い切って、ここに来て、良かった。」


 そう言った福益売は、こちらに向き直り、オレの顔を下からじっと見上げた。

 美しい瞳に見つめられ、オレの息は止まった。

 福益売はすぐに目をそらし、明るくハキハキと喋りだした。


「喉、かわいちゃったなあ。味見、ありがとうございました。たたら濃き日をや(良き日を)。」

「たたら濃き日をや。」


 福益売は素早い足取りで、炊屋かしきやに帰っていった。


 オレは黙ってそれを見送ったあと、腰にさげた瓢箪ひょうたんから、水を一口飲んだ。


(水、どうぞ、って言えれば良かったな。もっと、わらびの漬物だって、褒めることはできたはずだ。)


 そう、己の口下手を責めつつ、愛らしい福益売の顔を、しっかりと心に思い浮かべた。


 想像のなかで、オレは、ありがとう、と言い、福益売の白い頬に右手をそえ、すももの花びらのような唇に、そっと唇を重ねた───。



 もう、三月が近い。

 春だな。

 庭には椿が咲きはじめ、道には砂埃が立ち、遠く久路保くろほの山には霞がたなびき、空気がぽやぽやとしている。





↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662483537971



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