第三話  繁かくに

 乙卯きのとうの年。(775年。)

 冬。

 

 あたしは二十四歳。古志加こじか十九歳。


 とりの刻。(夕方5〜7時)



「わああああん!」


 日佐留売ひさるめの部屋で、古志加はあたしに抱きついて、大泣きをしている。

 明るい茜色の衣を美しくまとい、大きな赤い錦石にしきいしをあしらった銀の首飾りをし、赤く透けたかんざしを、高く結った二髻にけいに挿している。


 男なら誰でも振り向く美貌に、あたしと日佐留売で力をあわせて仕立てた。


 あたしは日佐留売の二人目の子、多知波奈売たちばなめの世話があったから、宴には行けなかったけど、自信を持って、宴に送り出した。

 それなのに、何があったというのだろう。


「み、三虎が、舞の途中で、あたしを連れ出して、簀子すのこ(廊下)に叩きつけて、牛だのゐのししだの、さんざんに言ったの。

 あたし、あたし、こんなに頑張ったのに、全然、駄目なんだよ。福益売ふくますめ───!」


 ぎゅうぎゅうとあたしを抱きしめながら、古志加は、わあ────ん、と声をあげ、ぼろぼろと泣いた。


「もうっ、ひどいおのこ! 古志加はこんなに綺麗なのに。みんなおのこの目は釘付けだったはずよ。あなたは、誰よりも綺麗! 何も悪くないからね、古志加。」


 思いつくかぎりの言葉で慰め、もう、落ち着くまで泣かせてやる。

 古志加は泣いて、泣いて、ふう、くすん、と鼻声で泣き止むまで、時間が相当かかった。




   *   *   *



 そんなアホ相手に辛い恋をしていた古志加が、とうとう、想いを成就させたのです。


 己未つちのとひつじの年。(779年)

 春。


 あたしは二十八歳。古志加こじか二十三歳。


 完璧美女の日佐留売が、以前にもまして完璧な計画をたてた。

 酒で酔わせて美女隙だらけ攻撃である。

 その夜、女官部屋の十人は、真っ暗な部屋のなか、寝床におさまりつつ、悶々と待った。

 仕掛けた夜はこれが初めてではない。


「今回はどうかな?」

「もういい加減、うまくいってほしい……。」

「また、どよーんとした暗い顔で帰ってくるのかしら?」

「もう本当、何やってるのよ、あの従者!」

「やはりおのこが趣味なのかしら? 大川さまに道ならぬ恋を……!。」

「いや、遊行女うかれめ吾妹子あぎもこ(愛人)にしてるって。だから違うわよ。」

「案外、今頃、大成功かもしれないわよ。」

「大成功……。」


 ごくり、と何人かが唾を飲み込んだ。


「い、今頃、どうなのかしら……。」

「そりゃあ……。」


 あたしは耐えきれなくなった。

 ふすま(掛け布団)を頭まですっぽりかぶり、口を両手で抑え、


「キャ─────ッ!」


 とうとう叫びはじめてしまった。


「福益売! 落ち着いて! 落ち着いて!」


 あわてて甘糟売あまかすめが衾の上からあたしを取り押さえにかかった。


 長い夜を過ごし……、やがて、ぱたん、と女官部屋の妻戸つまと(出入り口)が静かに開いた。


「……帰りました。」


 細い声で報告したのは、古志加だ。目がギンギンの十人は、


「どうだったの?」


 と質問する。

 すすっ、と自分の居場所、あたしの隣の寝床に滑り込んだ古志加は、


「や、や、やりました。三虎はあたしの、愛子夫いとこせだよ。」

「やったああ!」

「キャ───!」


 皆は衾を蹴り上げた。古志加に迫り、寝ようとしていた古志加の衾をひん剥いた。


「どうだったの!」

「ちゃんと、さ寝したのよね?」


 古志加は、ひー、と言いながら、真っ赤にした顔を両手でおさえ、座り直した。


「……精を二回、いただきました。」


 おほわああああ、と皆がどよめいた。


「で、どうだったの?」

「───ええと、……三虎に抱き上げられて、寝床に運ばれて、まず三虎が頭を撫でてくれて、さ丹つらふいも、って言ってくれて、口づけしてくれて……。」

「ごくり。」

「そ、それで。」

「三虎の手がね、あたしのね……。すごく……、気持ち良くて……。」


 古志加と十人の女官のなかなか寝れない夜はふけていった……。




   *   *   *



 何年も待たされた、恋の成就の話を聴けて、あたしと女官の皆は満足した。

 でも、その数日後、古志加から、


福益売ふくますめ、お願い、あたしと一緒に、新しい屋敷に住んで。

 あたしのはたらって形になっちゃうけど、あたし、福益売と離れたら、寂しい。

 あたしにとって、福益売は大事なお姉さんなの。」


 とお願いされるとは、思ってもみなかった。


 古志加は良い子だ。同母妹いろものように可愛がってきた。

 古志加の働きとなったら、古志加はあたしに良くしてくれるだろう。

 あたしも、古志加とずっと一緒にいられたら、楽しい。

 でも、上毛野君かみつけののきみの屋敷を離れるという事は、もう、大川さまを見る機会はなくなるだろう。


 その思いが、あたしに即答を迷わせた。古志加には一日、待ってもらった。


 麗しい大川さま。

 見ているだけで、大川さまのまわりだけ光が降り注いでいるかのように、いつまでも恍然としてしまう。

 あたしのささやかな楽しみ。


 でも、大川さまは、もう、いもを見つけてしまった。

 大川さまの目に、あたしが映ることは、この十三年間、なかった。

 この先も、ないだろう。


 見ているだけの、恋。


 あたしは、諦めなければならないのね。


 そっと、宝物である、宇万良うまらの練り香油こうゆを取り出し、指ですくい、手に刷り込み、すう、と吸い込む。

 これは、もったいなくも大川さまも身につけている香り。


「良い匂い……。」


 そういえば、これも古志加がくれた物だった。

 古志加がいなければ。

 そう思い、ふっ、とあたしは笑った。


 古志加に、あたしの人生を賭けよう。



   *   *   *




 未はじめの刻(午後1時)


「これからの新しい住まいね!」


 三虎がもうけた柿の木の屋敷へ、古志加と連れ立って行くと、そこにいたのは三虎と、四十を過ぎた、白髪交じりの──母刀自ははとじだった。


「ああ……!! 母刀自……!!」

「福益売……。かわいいあたしの娘!」

 

 あたしは駆け、母刀自の胸に飛び込んだ。


「許してね……。この母を許してね……。」


 母刀自とは、母親を敬って呼ぶ言葉だ。あたしを売った自分には、母刀自と呼ばれる資格はない、というのだろう。

 そんなことない。

 あたしにとっては、ずっと、母刀自だよ!


「母刀自、あたし、恨んでなんかない。

 これで、一年は食べていける、って言ってたじゃない。

 だからあたし、あたし……、うわあああ!!」


 あたしは母刀自の肩で泣いた。


 十五歳、寂しさに一人泣く夜があった。

 普通に恋をして、普通に歌垣でときめく夜を過ごし、普通に郷人さとびととして過ごしたかった。

 でも、仕方ないじゃない。

 あたしが身を売らなかったら、家族四人、どうしようもなかったじゃない。

 恨んでないよ。

 あたし、できることをしたんだよ。


 また、また会えたの。


 もう、生きているうちは、会えないと思った。


「わああああああ───!」



 ありがとう、ありがとう、古志加。



 あたしの同母妹いろも二人は、すでに幸せな結婚をし、今は、母刀自一人で家に住んでいたのだと。

 この柿の木の屋敷で、あたしと働きながら暮らさないか、と誘われて、夢かと思ったのだと、母刀自は泣いた。

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