第七話

 それは、わたしが買い物から帰ってくる最中の出来事だった。

 メモしてきた食材は安く買えたし、欲しかった本も買えた。

 意気揚々と歩いていたその時。


「ま、待てえぇー!」


 突如聞こえてきた大声に、わたしは振り返る。

 目に入ってきたのは、宙を舞う帽子を一人の少女が追いかけている光景だった。

 けれど、おかしな点があって。

 風が全く吹いていないのに、真っ白なつば広の帽子はふわりふわりとこちらに向かって飛んで来ている。

 それだけでなく、帽子を捕まえようとしている少女までも、帽子に合わせて宙に浮いているではないか。


 ……うん、どう見てもあの女の子は普通の人間じゃないな。


 わたしがそんなことを思いながら呆然と眺めていると、「そこのお姉さん、その子捕まえて!」と少女が叫んだ。

 わたしははっとして頭上を通り過ぎようとした帽子を「えいっ」とジャンプして掴んだ。


「……捕まえちゃった」


 まさか本当に捕まえられるとは、と捕まえておいて自分で驚いて、まじまじと帽子を見つめる。

 つば広の帽子には黄色い大きなリボンが付いていた。そのリボンがまるで気落ちしたかのように萎縮したのは目の錯覚だろうか。


「や、やっと追いついた……」


 少女はぜえはあと息を切らしつつ、宙から地へと舞い降りてこちらに駆け寄ってきた。


「お、ねえ、さん。捕まえてくれて、ありが、とう……」

「無理に話さなくてもいいですから。深呼吸して落ち着きましょうか」


 何度か深呼吸した後、少女は漸く落ち着いたようだ。


「どうぞ」

「ありがとう」


 少女の笑顔が太陽のように眩しい。

 わたしは彼女の手に帽子を渡そうとした、のだが――


「えっ!?」

「あっ!」


 それは一瞬の出来事だった。

 手の力を抜いたその瞬間、逃げるように帽子がわたしの手から宙へと浮いたのだ。

 風が吹いた訳ではないし、勿論、わたしが放り投げた訳ではない。

 帽子はリボンを羽ばたかせ、ふわりふわりと宙を漂っている。そのリボンはまるで大きな蝶のようだった。

 わたしがぽかん、と口を開けたのに対して、少女は悔しそうに地団駄を踏んだ。


「ああもう逃げないでよ!」


 少女が手を伸ばすが、帽子は余裕そうにひらりとかわす。何度も何度も少女は手を伸ばしたが、何度も何度もかわされてしまった。

 少女の手が届くか届かないかの絶妙な高さで飛んでいる帽子はなかなか捕まらない。拍手を送りたくなる程、絶妙な高さで上手に帽子は少女から逃げている。


 ……これ、加勢した方がいいよね?


「とうっ」


 わたしが再び掛け声と共にジャンプして手を伸ばしてみる。すると、またもや呆気なく帽子は捕まった。


「えっ」


 少女の悪戦苦闘を見ていたため、すんなりと捕まった帽子にわたしはびっくりしてしまった。

 わたしの手の中で暴れることもなく大人しくしている帽子に「何でぇ!?」と少女が声を荒げる。


「あたしよりもそのお姉さんがいいってこと!?」


 再び少女が地団駄を踏む。


 ……え、これってもしかして修羅場?わたし、もしかして修羅場に巻き込まれている!?


 なんて、ふざけている場合ではない。泣き出しそうになっている少女にわたしはたじろいだ。

 えっと……わたしは何もしていないよね!?していないはずだよね!?

 わたしは己の行動を思い返してみた。だが、したことといえば、帽子を捕まえただけ。それは少女にお願いされたことであり、悪いことではないはずだ。別に少女から帽子を取った訳でもないし、少女に帽子を返さなかった訳でもない。こういってはあれだが、帽子が勝手に逃げ出して、何故かわたしには捕まっただけである。……わたし、悪いこと何もしていないよね!?

 どうすればいいのかわからずに困っていると、少女がわたし――ではなく帽子をビシッと指差した。人を指さすのは良くないことだが、帽子を指さす分は良いのだろうかと現実逃避なことを考えていると、少女が声高に宣言した。


「もういいわ!そんなにお姉さんがいいなら、お姉さんの帽子になりなさいよっ!」


 ふんっと鼻を鳴らした後、少女は身を翻してどしどしと足音を立ててこの場から去ろうとするではないか。


「……いやいやいやちょっと待って!」


 わたしは慌てて止めようとする。ここで帽子を置いてかれては、巻き込まれたこちらが困る。

 すると、急に帽子が暴れ出した。驚いて離せば、帽子はすいーっと少女のもとへ飛んでいき、そして、ぽすり、と少女の頭の上に被さった。

 大人しく少女の頭に鎮座する帽子に、わたしも少女も一瞬沈黙する。


「……もう一体何なのよぉ!」


 少女はぷるぷると肩を震わせたかと思うと、その場に座り込んで泣き出してしまった。


 ……その言葉、わたしも言いたいです。


 思わず心の中で同意した。

 おろおろとつばやらリボンやらを揺らめかせる帽子と泣いている少女を放っておけなくて、わたしは彼女たちに近づいた。


「そんなに目を擦ったら赤くなっちゃいますよ」

「だ、だってー……」


 ぐすぐすと鼻を啜る少女に、困ったなぁと思いながらわたしはしゃがんで少女と視線を合わせる。なるべく優し気に聞こえるように声を発する。


「さっきは勢いで言っちゃっただけで、本当はこの帽子と一緒にいたいんですよね?」

「……うん。でも、直ぐ逃げちゃうの。きっとあたしのことが嫌いなのよ」

「そうかなぁ……」


 あれだけ逃げていた帽子は、今では少女の機嫌を窺うかのように周りを漂っている。その様子からして、少女を嫌っているとはとても思えない。

 嫌っているというよりも寧ろ……あ、そうだ。あれならこの子たちの役に立つかもしれない。

 思いついたことをわたしは少女に提案する。


「あなたは、帽子が逃げないようにしたいんですよね?」

「うん」

「それなら、ある物を使えばできますよ」

「本当に!?」

「とは言っても、わたしにできることはお店に売っている商品を紹介するだけになっちゃいますけど……」

「全然構わないわ!そのお店って何処にあるの?」


 ……おお、勢いが凄い。


 ぐいぐいと訊いて来る少女に若干気圧されながらも、「案内しますね」と頷いた。

 向かう先は勿論――。

 ちらりと見遣れば、帽子は置いていかれまいとリボンを羽ばたかせて懸命に後ろをついて来た。

 うんうん、やっぱりついてくるよね。

 くすりと笑いそうになってしまう。


「お姉さん?」

「ううん、何でもないですよ。あ、今回は特別だけど、知らない人について行ってはいけませんよ」


 何度も言い聞かせられた言葉を今度は自分が小さな女の子に言っていることが、わたしは何だか不思議に思えた。



   *



 ちりんちりんと聞き慣れた真鍮製のドアベルの音が響いた。


「いらっしゃいませ……って、あれ?留花さんじゃないか。どうしたの?確か今日はシフト入っていなかったよね」

「入っていないですよ」

「……なるほどね。用があるのはそちらのお客様かな?」


 司樹さんがわたしの後ろを覗き込む。すると、少女がおずおずと前に出た。少女の手には大人しく帽子が捕まっていた。


帽子この子が逃げちゃって……お姉さんに迷惑をかけちゃって……」

「帽子が風も吹いていないのに勝手に飛んじゃうみたいなので、それなら飛ぶのを防げば良いと思いまして」


 しどろもどろな少女に次いで、わたしは司樹さんに説明する。

 普通の人ならおかしいと思う説明だったが、わたし以上に奇怪な体験を何度もしてきたであろう司樹さんは特に突っ込むことなく「なるほどなるほど」と首肯した。


「ま、ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます。さあ、こっちですよ」


 よろずや内の商品の位置は把握している。……わたしがいない間に場所が変わっていなければの話だけれど。

 わたしは少女をある棚の前へと促した。棚から商品を取って、「どっちが良いですかね?」と少女に見せる。


「……『帽子クリップ』?」


 帽子を飛ばないようにする商品といえばこれだ。

 帽子クリップには、帽子と服を繋ぐタイプと顎紐タイプがあった。


「これがあれば帽子が飛ぼうとしても、あなたから離れることはないですよ」

「へぇー、こんな物があるなんて知らなかったわ。買う!買うわ!」


 少女がポシェットからお金を出して会計を済ます。会計の最中、帽子はふわふわと――否、ふわふわというよりもそわそわといった方が正しいだろうか――店内を漂っていた。


「よし、これでもう逃げられないわね」


 がしりと帽子を捕まえて、ふふんと勝ち誇ったかのように少女が言えば、ひえっと言わんばかりに帽子が震え上がった。


「その帽子はいつも逃げるの?」


 司樹さんが訊ねると、少女が「そうなの!」と声を張り上げる。


「ちょっと目を離した隙に逃げちゃうのよ!そんなにあたしに被られるのが嫌なのかしら……」


 少女は憤慨していたが、段々とその声は小さくなっていった。


「帽子クリップを使えばこの子は逃げられなくなる……あたしに被られて、一緒にはいられる……。でも、無理矢理繋げておくことはこの子にとって本当に良いことなのかしら……。この子が気に入った人に被られた方が、この子にとっては幸せなのかもしれない……」


 少女は遂には顔を俯けてしまった。

 自分の都合で帽子を縛っていいのかわからなくなっているのだろう。帽子の幸せを願ってこその自問自答だった。

 その時、帽子が暴れて出して、少女の手から逃れた。

 ばさばさとリボンを羽ばたかせ、一生懸命につばを捩るその姿は、まるで少女の言葉を否定しているかのようだった。そうかと思えば、少女の頭の上にぽすんと乗って微動だにしなくなった。


「は?え?意味がわからないんだけど!?」


 帽子の行動に少女は困惑しているようだ。


「あたしが嫌なら無理しなくていいのに……」


 そう言いつつも少女は帽子を取ろうとはしなくて。でも、自信がなくて言葉がどんどん尻すぼみになっていく。

 わたしは悩める少女に声を掛けた。


「その帽子はあなたのことを嫌ってはいないと思いますよ」

「……どうしてそう思うの?」

「第三者視点だけど、その帽子はあなたとの追いかけっこを楽しんでいたような感じがしたんです。わたしに捕まったのは、良い意味でわたしに興味がなかったんだと思います。それに、もし本当に嫌だったらあなたについて来ないで何処かに飛んで行ったと思うし……その帽子なら本気で逃げようと思ったら逃げられると思うんです」


 少女も飛べるようだが、宙を舞うのは帽子の方が上手いように思えた。それ程までに帽子はひらひらと華麗に少女の手をすり抜けていた。

 それに、この店に来る前に、少女に懸命について来る程だった。そんな帽子が少女のことを嫌っているとは到底思えない。


「……確かに」


 思うところがあったのか少女はゆっくりと頷いた。


「この子、あたし以外には絶対に被られようとしないのよね。でも、何で素直に被らせてくれないのかしら……」

「好きな子ほど弄りたいってやつじゃないかな?」


 口を出したのは司樹さんだった。ふふっと楽しそうに笑っている。


「好きな子を弄りたいなんてまるで子どもみたい奴だな……て、うわっ!?」


 司樹さんが口を挟めば、その口を塞がんとばかりに帽子が慌てて司樹さんの顔に覆い被さった。


「ちょっとたんまたんま!」


 ビンタをするかのように帽子がつばを動かす。司樹さんはそれをかわすために店の中を動き回る。

 その様子をわたしと少女はじっと見た。


「正解みたいですね」

「……そうみたいね。弄られるのは気に食わないけど、それだけ好かれているのなら悪い気はしないわね」


 わたしがくすりと笑えば、少女も呆れたように、けれど嬉しそうに笑った。


「どうやら、これはいらないみたい」


 買ったばかりの帽子クリップを使うことなくポシェットの中に少女がしまう。


「今なら返品交換しますよ?」


 帽子の攻撃から逃げ切った司樹さんの言葉に少女が首を振る。


「いざという時に使うから大丈夫」


 悪戯っぽく少女が笑った。やっぱり太陽みたいな笑顔だった。


「だってさ。そうならないように早く戻りな」


 帽子は慌てて司樹さんから離れて、少女の頭の上に戻った。それにわたしと司樹さんと少女が笑った。帽子は少女にとてもよく似合っていた。

 満足そうに帽子を被った少女が出入り口へとステップを踏む。


「お姉さんもお兄さんもありがとう」


 少女はお礼を言った後、身を翻して大きくジャンプをした。瞬きの間に少女は消え

てしまった。

 ふぅと息を吐いたわたしに司樹さんが労りの言葉を掛ける。


「留花さんお疲れ様」

「わたしは何もしていないですよ?」

「集客と接客してくれたでしょ。今回の分の給料もちゃんと出すから安心して」

「えーっと……ありがとうございます?」


 別に何もしていない気がするけど……給料が貰えるのは素直にありがたいかな。

 腑に落ちなくて思わず言葉尻に疑問符がついてしまったが、貰えるものは貰っておこうとわたしは自己完結をした。お金があって困ることなんてないだろうから。

 それにしても、と司樹さんがゆっくりと言葉を紡ぐ。


「留花さんが集客までしてくれるとはねぇ……。最初の頃よりも成長したねぇ」


 しみじみとそう言われあたたかな眼差しを向けられて、わたしは何だかむずむずと気恥ずかしくなった。


「成長、していますかね?」

「しているしている。あ、でも、今回はそこまで厄介じゃなかったけど、厄介事にだけは巻き込まれないように注意はするんだよ」

「……好きで巻き込まれている訳じゃないですよ?」


 そもそも巻き込まれた訳ではない。踊り猫の時は巻き込まれかけただけだし、八さんの時は司樹さんもいたし、河童さんの時は……あれは巻き込まれに行ったうちに入るのだろうか。

 うーんと唸っていると司樹さんが苦笑した。


「わかっているよ。注意していても巻き込まれる時は巻き込まれるものだからねぇ……」


 顔から感情が抜け落ちたかのような司樹さんを見てわたしは思う。

 きっと、妖怪絡みでたくさんの苦労をしてきたんだろうなぁ……。

 少し前から視えるようになったわたしでさえ、苦労しているのだ。生まれつき妖怪が視えると言っていた司樹さんはわたし以上に苦労しているのだろう。

 その苦労をそう簡単には理解できないだろうし、まだまだ妖怪との交流が浅いわたしが司樹さんに何かをしてあげることなんて少ないだろう。


 ……でも、それでも――。


 わたしは顔を上げて司樹さんに言うのだ。


「司樹さん」

「ん?どうかした?」

「もし司樹さんが厄介事に巻き込まれたら、あの、その……大それた事はできませんけど、話を聞くぐらいのことならわたしにもできますから。だから、話せる範囲で話したくなったら話してくださいね」


 話を聞いてもらえるだけで、司樹さんに救われている部分があるからこその言葉である。

 一瞬の間を置いて司樹さんが問うてきた。


「それは、巻き込んでも良いってこと?」

「……えっと、正直に言えばできれば巻き込まれたくはないんですけど、いざとなったら巻き込まれる覚悟はします」


 眉尻を下げつつもはっきりと言い切ったわたしに司樹さんはぽかんと口を開いた。

 次いで、司樹さんがくるりと身を翻した。

 一体どうしたのだろうか、と後ろ姿を窺っていれば、その肩が震えている。どうやら笑っているようだ。


「……司樹さん、もしかして笑っています?」

「わ、笑って、いない、……くくっ、よ?」

「笑っていますよね?もう笑うならいっそのこと笑ってくださいよ!」


 全くもう、と悪態を吐けば、それじゃあ遠慮なくと言わんばかりに司樹が笑い出した。


 ……そんなに笑う要素あったかな?


 何をそんなにツボったのかはわたしにはさっぱりわからなかった。

 わたしよりも年上で男の人で妖怪が視えて妖怪のことに詳しくて……悪戯っぽいところがあったり、笑うと子どもっぽいところがあったり……。

 司樹さんのことはまだまだわからないことだらけだ。

 一頻り笑ったところで、司樹さんがこちらを見た。


「留花さん」

「何です?」

「ありがとう。あと、ごめんね」


 どうして今謝られたのかわたしにはさっぱりわからない。


「……その謝罪は何に対してですか?」

「うーん、いろいろ?」


 へらりと笑う司樹さんに、「あ、これは誤魔化すつもりだな」とまだ付き合いの短いわたしでも察せた。


「しーきーさーんー?」

「さてと、仕事に戻るとするかなぁ」


 仕事に戻っていく司樹さんに「待ってください!」と手を伸ばす。

 そういえば、買い物の帰りだったっけとわたしが思い出したのは、手に持った買い物袋の存在を思い出した時だった。

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