第三話

 設定していたよりも早い時刻に目が覚めてしまった。

 出番がなかった携帯端末のアラームを解除して、わたしはむくりと体を起こす。

 少しでも元気でいられるように、気分を上げるためにもいちごジャムをたっぷりと食パンにつける。口にした紅茶が熱かったが、火傷はしていないのでセーフ。

 簡単に朝食を済まして、前日に決めておいた服に着替える。

 それにしても、大事な日に限って髪が上手く纏まらないのは何故だろうか。

 何とか身支度を終えた。

 忘れ物がないか鞄の中をチェックし、迷わないようにと、携帯端末の地図アプリを開いて目的地を再度確認した。

 何度も時計を見たり、鏡を見たり、携帯端末を見たりして落ち着きなく過ごしていれば、そろそろ家を出た方がいいだろうという時刻になった。

 この前のようにイレギュラーが発生することもなきにしもあらず。少し早いくらいが丁度いいだろう。


「初日に遅刻はダメ絶対!」


 一人で意気込んでみたものの、緊張のせいか声は震えていた。


「今からこんなに緊張していて大丈夫かな……いや、大丈夫、わたしは大丈夫!」


 弱気になってしまいそうになるが、ぶんぶんと頭を振って何とか自分を叱咤する。

 わたしは靴を履いて、玄関の扉へと手を伸ばす。


「行ってきます」


 その言葉に返事をする人は誰もいない。



   *



「……よし、ちゃんと辿り着けた」


 第一関門を突破し、ほっと安堵した。

 わたしがここ――よろずやに初めて来たのは数日前のことで、今日が二度目の訪問であった。

 方向音痴というわけではないが、二度目ましての場所に約束した時間の前に辿り着けるのか心配だったのだ。

 格子戸に記された『よろずや』という文字を見つめる。

 今日からここがわたしの職場、のはずである。

 はっきりと断定できないのは、まだ口約束しかしていないからだ。諸々の手続きは今日することになっている。

 五月蠅い心臓を落ち着けるためにも大きく息を吸ってゆっくりと吐く。手を伸ばして戸を開けようとしたその時、先にそれは開いた。

 中から扉が開いたということはつまり、中から客が出てきたということで。

 相手の邪魔にならないように咄嗟に扉の前から退く。けれども姿を現したのは客ではなかった。


「おはよう。待っていたよ古澄さん」


 現れたその男――久閑さんが双眸を緩めて言う。ばっちり過ぎるタイミングに若干驚きながらも、わたしは挨拶を返した。


「おはようございます、久閑さん」

「さあさあ、入って入って」


 店の中に入ると、店内に客は一人もいなかった。それもそのはず。何故なら、まだ店は開店時間ではないからだ。

 そのことを忘れてしまっていたのは、やはり多少なりとも緊張している証拠だろう。


「おお、来たか。おはよう留花ちゃん」

「おはようございます、白宇くん」


 カウンターには以前と同じく白宇くんがいた。

 手にはたきを持っており、どうやら掃除をしている最中のようだ。


「しっかりと説明するんだぞ司樹」

「はいはい」


 はたきでビシッと差してきた白宇くんに、久閑さんが軽く受け答えする。

 通されたのは以前招かれた部屋だった。

 久閑さんに続いてわたしも椅子に座る。


「前も来たここが休憩室ね。部屋にあるものは自由に使ってくれて構わないから」

「はい。……あ、そうだ。履歴書持ってきました」

「お。これはどうも」


 鞄の中から履歴書を出す。そこには普通なら記入されていて当然である志望動機が書かれていなかった。

 先に言っておくが決してわたしが書き忘れた訳ではない。

 数日前に帰宅した後、ふと履歴書についてメールで訊ねた時、


『こっちが誘ったんだから志望動機なんて書かなくて大丈夫。連絡先とかがわかればそれで十分だから』


 と、軽い感じで久閑さんから返信が来たのだ。初出勤の日時や持ち物等もしっかりとメールには添えられていた。

 本当に書かなくて良いのかなぁと思いながら持ってきた履歴書を久閑さんに渡す。

 久閑さんが履歴書にざっと目を通した。


「はい、確かにお預かりしました」


 何も咎められなかったことに――そもそも、それ自体杞憂のことなのだが――密かに胸を撫で下ろした。


「さて、古澄さん。この後から早速働いてもらうことになる訳だけど、『あ、これ無理だ』と思うことがあったら教えてね。無理するのが一番ダメだから」


 しみじみと呟いた久閑さんの顔には哀愁が漂っていた。

 過去に何かあったのかなと思ったが、それを訊く程の図々しさも度胸もない。

 ただ、無理をして仕事をするのは良くないことだとわかっている。わかっているけど、無理をしないとは言えない。

 それを察したのか、久閑さんがこちらを見つめて来た。


「無理しちゃダメだからね?」

「……はい」


 圧が強いです。

 諸々の説明を受けた後に手渡されたのは焦げ茶色のエプロンだった。「商品を出したり掃除したりしていると服が汚れるからこれをつけるように」とのことらしい。


「次はそれぞれの部屋を案内するから着いてきて」


 席を立って休憩室から出る。

 掃除道具置き場、トイレ、畳の部屋、幾つもある物置――予想に反してなかなかに部屋数が多い。

 途中二階へと続く階段があってまじまじと見ていると、「上は居住スペースだよ」と説明された。


「汚れたり、汗をかいたりしてお風呂に入りたいと思ったらいつでも使ってくれて構わないから」

「……」


 さらっと言われた一言に、わたしは何と返せば良いのかわからなくて。

 一瞬の沈黙がわたしたちの間にあったが、まるで何事もなかったかのように「さてお次は――」と久閑さんが部屋の案内を再開した。


「最後にここが一応更衣室ね」


 案内されたのは四畳半程の部屋だった。

 折り畳みの机と椅子が部屋の中央にあり、片隅にはハンガーラックが置かれている。


「荷物を盗むような輩は入らせないつもりだけど念のため……はいこれ。この部屋の鍵。荷物を置いて席を外す場合は施錠をしっかりとすること」

「わかりました」


 差し出された銀色の鍵を受け取る。なくさないようにしなくては、と小さな鍵を大切に握りしめた。


「さて、準備が出来たら今度は売り場の方に行くから」


 外で待っているね、と言って久閑さんが部屋から出て行った。

 扉が閉まるのを見届けた後、中央の机へと近づく。その上に鞄を置いて、わたしは一つ息をついた。


「はぁー、緊張するなぁー」


 いよいよ始まるのだと思うと、部屋から出て行きたくなくなる。でも、久閑さんを待たせているので、いつまでもこうしている訳にはいかない。

 貰ったばかりのエプロンを身につける。ぐっと後ろで紐を結べば、身も引き締まった気がした。

 鞄の中から取り出したメモ帳とボールペン、ハンカチなどをエプロンのポケットの中に入れる。

 壁に掛かっている鏡に自身を映す。化粧が崩れていないことを確認して――といっても、崩れると形容できるほど濃いメイクはしていないのだが――、少し乱れていた髪を整える。

 鏡の中の自分は何処か不安げで緊張した面持ちだ。


「大丈夫、わたしは大丈夫」


 深呼吸をして、自分に言い聞かせるように何度も唱えた。

 部屋を出て、言われた通り忘れずに施錠をする。


「お待たせしました」


 廊下で待っていた久閑さんへと声を掛ける。

 久閑さんの視線がわたしに向いた。

 あまりにもじっと見つめてくるので、思わずたじろいでしまった。


「えっと……何か変なところでもありますか?」


 鏡で確認した限りでは特に変なところはなかったはずだけど……。

 心配になって訊ねれば、久閑さんがかぶりを振った。


「変なところなんてないよ」


 司樹は何故か上機嫌そうな声でそう言い切った。

 一方でわたしは首を傾げた。

 何でこんなに機嫌が良さそうなんだろう……うーん、従業員か増えて嬉しい、とか?

 そう当たりを付けてみるもさっぱりわからない。


「それでは、売り場に行きますよー」


 久閑さんの言葉によって、思考は遮断された。


 ……いかんいかん、気を引き締めなくては!


 わたしは自分の頬をぱちんと叩いた。……うう、痛い。



   *



 店内の商品の位置を粗方説明された後、レジカウンター前で久閑さんに訊ねられた。


「古澄さんってレジ打ちの経験はある?」

「ないです」


 質問にきっぱりと答えた。

 以前働いていた場所では、電話対応とデータや書類の処理、倉庫の片付けや備品の管理等といった事務作業や雑用をしていた。

 レジ打ちは勿論、接客対応も怪しいところだ。

 なるほどと頷いた後、久閑さんが声を響かせる。


「それでは、これからレジ打ちの説明を始めます。まずは僕が実際にやっていくね」

「よし。より実践的になるように、おれが客役をするとしよう」


 白宇くんが客役に立候補して、近くに置いてあった商品――お香を手に取った。


「お会計お願いします」

「お預かりします」


 久閑さんが実演しながら手順を教え、わたしはそれをメモしていく。

 どうやらこの店のレジは旧式のもので、お金を投入口から入れればお釣りが自動的に出て来るものではないようだ。

 つまり、預かった金額を間違えて入力したり、お釣りを間違えて渡したりしたら大問題になるってことだよね……って、いかんいかん、失敗前提で考えてどうするわたし。

 ボールペンを持つ手にぎゅっと力が入って文字が歪になってしまったがまだ読める範疇なのでセーフ。

 後できちんと書き直しておこうと思っていると、説明が終わった。


「――ってな感じだ。では、古澄さん。こちらへどうぞ」


 レジの前に立たされて、わたしと久閑さんの位置が逆転した。

 わたしは困惑してしまい、思わず久閑さんの方を見た。


「えっと……?」

「さあ、レジ打ちをやってみよう!」

「……わかりました」


 練習あるのみ、らしい。

 わたしが近くにメモ帳を置くと、白宇くんがお香を渡してきた。


「お会計お願いします」

「お、お預かりします」


 えっと、商品を受け取って、バーコードをスキャンして……。

 メモを見つつ教えられた通りに作業をしていく。前からも横からも視線を感じる中でのレジ打ちは緊張する。

 預かった金額と入力した金額が間違ってないか確認した後にキーを押せば、ガチャン、とレジの現金を収納してある部分――ドロアが開いた。

 画面に表示されたお釣りの金額分をドロアから一枚一枚掴む。

 たかが練習、されど練習。初めてだから仕方がないといえば仕方がないかもしれないが、現金を扱うことにとても緊張してしまう。

 そのせいか手が震えてしまい、小銭を上手く取ることができない。「早くしないと!」と思えば思うほど、掴んだはずの小銭が手から再びドロアの中に滑り落ちていく。


「落ち着いて。ゆっくりでいいから」

「焦らずに金額の間違えがないか確認をするんだぞ」

「……はい」


 頭上から降り注ぐ声もレジカウンター越しに聞こえてくる声も優しい。

 何とか全てのお釣りを掴んで、間違っていないかをしっかりと確認した後、お釣りの金額を伝えつつレシートとともに客役の白宇くんに渡した。


「ふむ、ちゃんとできていたぞ」

「うん。慣れれば簡単簡単」

「簡単、ですかね……」


 朗らかに笑う白宇くんと久閑さんに対し、素直に頷けなかった。

 こんなにもてこずってしまうなんて……この先ちゃんとやっていけるのだろうか……。

 と、一抹の不安が頭を過った。

 顔を俯かせ暗い思考の海に沈みつつあるわたしに司樹さんが声を掛ける。


「まあ、こればっかりは何度もやって慣れていくしかないかな」

「はい……」

「妖怪たちの中には物々交換で交渉してくるやつもいるから、その時は僕か白宇を呼んで」

「は、はい……」


 今の時代に物々交換で買い物?いや、妖怪なら普通のことなのかな?

 妖怪事情に詳しくはないのでわからない。

 わからないことだらけで、どんどん不安は募っていくばかりだ。

 それを察したのか久閑さんがわたしの目を見てはっきりと告げた。


「わからないことがあったらその都度訊いてくれればいいし、何かあったとしてもちゃんとフォローするからさ、どんどん頼ってよ」

「頼る……」


 他人に頼る――それは、わたしが一番苦手としていることだった。

 頼ることは多かれ少なかれ他人に迷惑を掛けてしまうことだ。他人に迷惑を掛けないためには、できる限り自分で物事をこなしていくしかない。

 自分のことは自分でやる。できる限り他人に迷惑を掛けないようにする。

 大丈夫、わたしは大丈夫。

 今までそうやって生きてきたのだ。

 けれども生きていく上で、自分だけではできないこと、知らないこと、わからないことは必ず目の前に立ちはだかる。

 今は仕事のこととか、妖怪のこととか。

 本当は「頼ってよ」って言われてすっごく嬉しいくせに。

 素直な自分がそう言った。

 甘えちゃいけない。そんなんじゃ一人で生きていけないよ。

 素直じゃない自分がそう言った。

 天秤は後者に傾く。


「迷惑を掛けないように頑張ります」


 わたしの口をついて出たのは当たり障りのないそんな言葉だった。

 久閑さんが「そうきたかー」と眉尻を下げる。


「頑張ってくれるのは勿論嬉しいんだけど、ほんと無理はしないように」

「……」

「無理はしないように、ね?」

「……はい」


 無理はしないようにだなんて、それこそ無理なことなのに……。うう……久閑さんの目が笑ってなくて怖い……やっぱり圧が強過ぎる!

 威圧感に負けたわたしは渋々と頷いた。

 わたしたちの間に漂う何とも言えない空気を壊したのは、白宇くんだった。


「お会計をしてくれたそこのお嬢さん、シフト上がりは何時ですかな?」

「……え?」


 突然のことにわたしは素っ頓狂な声を上げる。

 どうやら、客役を白宇くんはまだ続けているようだ。


「もし良ければ、この後一緒に喫茶店にでも行きませんか?」

「ええっと……」

「待て待て待て」


 わたしが狼狽えていると、待ったを掛けたのは久閑さんだった。

 眉間に皺を寄せて久閑さんが白宇くんを睨む。


「お前は一体何を訊いているんだ?」

「いやだって、留花ちゃんにちょっかいを掛けてくる輩がいるかもしれないだろ?その時どう対処するかも考えておかないと」

「……確かに」


 うーん、と深刻に考え始める男二人に苦笑するしかない。


「そんなヒトいないと思いますけど……」

「初めて会った時、ナンパされていたよね?」

「……あれってやっぱりナンパだったんですか?」


 踊り猫のことを言っているのだと察して訊き返す。自意識過剰かなと思っていたのだが、側から見てもそのように見えていたらしい。

 良かった良かった。……いや、何も良くはないな?隙を見せないように気をつけていかないと。

 わたしが思案している傍らで、久閑さんと白宇くんがお互いに顔を見合わせた。


「これは危ないな」

「ふむ、危ない」

「危機管理能力がなさ過ぎる」

「同意見だ」

「古澄さん、この店につれて来た僕が言うのもなんだけど、知らない人にはついて行っちゃダメだよ」

「ついて行きませんよ!」


 散々な言われように思わず立腹する。「わたしは大丈夫です」と言っても、男二人は納得していないようで、


「……やっぱり、対処法を考えないとだな」

「うむ」


 と、二人が話し合いを続けている。

 大丈夫なのになぁ……。

 不服に思いながらも、空いた時間ができたので、メモを見返してレジ打ちの練習を脳内で何度も反芻した。

 男二人の話し合いなんて知らない。知らないったら知らない。


「――よし、取り敢えず、穏便に言ってもダメそうなら実力行使ということで」

「ふむ。その後は勿論出禁だな。二度とこの店に足を踏み入れることのないようにしてやろう」


 男二人が頷き合う。彼らに突っ込む声は何処からも聞こえない。

 何だか物騒なこと言っているなぁ……。

 練習に徹しながら、二人の会話を聞いていたわたしは他人事のように思うだけだった。

 ふと、わたしは疑問を口にした。


「そういえば、お客さんの中には妖怪がいるって前に久閑さん言っていましたよね?それって、妖怪が人間のお金を持っているということですよね?」


 当たり前のことを訊いている自覚はあった。だが、妖怪がどうやって人間のお金を工面しているのか気になったのだ。

 質問の意図を読み取った久閑さんが答えた。


「人間に変化して人間社会に紛れて暮してお金を稼いでいる妖怪って結構いるんだ。こいつみたいにね」


 久閑さんが指差した先に目を向ければ、白髪の少年がこちらを見ていて――


「いやー、そんなに見つめられると照れますな」


 白宇くんがちっとも照れていない様子で頭を掻く。

 一方のわたしはというと瞠目して、一拍おいて、そして大きな声を発した。


「……白宇くんって妖怪なんですか!?」

「妖怪ですなー」

「こんな身なりをしているけど、僕たちよりもずっと年上の妖怪だよ」

「えっ!?」

「こんな身なりなんて言うなよー。動きやすくて結構気に入っているんだぞこの姿」

「因みに、大人の姿にもなれます」

「えっ!?」

「稀にだけどな」

「そして、こんなんでもこの店の店主です」

「えっ!?」

「こんなんなんて言うなよー。歴とした店長だぞー」


 なんて事のないように二人が会話を続けているが、わたしはそれどころじゃなかった。

 次から次へと言われる新事実に、驚きの声を発することしかできない。

 ま、まさか、白宇くんが妖怪だったとは……。しかも年上で、このお店の主だなんて……!

 失礼ながらもそう驚愕してしまった。

 なるほど、『人を見た目で判断してはいけません』なんてよく言うけれど、それは妖怪にも当てはまるようだ。

 わたしはわなわなと震えていたが、これはいけないとがばりと頭を下げた。


「す、すみませんでした!」

「……司樹よ。何故留花ちゃんは謝っているのだ?」

「いや、僕にもわからない」

「し、知らなかったとはいえ、『白宇くん』と気安く呼んでしまってごめんなさい!これからは『白宇さん』とお呼びします!」

「あー、そういうこと。古澄さんは真面目だなぁ」

「ふーむ、おれは別に『くん』でも『さん』でもどちらでも構わないが、『白宇くん』の方が親近感があるから今まで通りで良いぞ」

「……わ、わかりました」


 お、怒られなくてよかった……。

 もう『様』付けでもした方が良いのではないかと考えてしまった程にはテンパっていた。

 お咎めは特になく、ほっと胸を撫で下ろしていると、「そうだ」と何かを思いついた白宇くんがとある提案をした。


「これを機に司樹と留花ちゃんも名前で呼び合ったらどうだ?」

「は?」

「はい?」


 久閑さんとわたしは同時に首を傾げた。


 ……えっと、白宇くんは一体何を言っているのかな?


「苗字で呼び合うなんて色気がな……距離を感じるからな。名前で呼び合った方がおもしろ……親睦を深められると思うんだ」

「おい、何かいろいろと言おうとしただろ」

「何のことだ?」


 突っ込んだ久閑さんに白宇くんはすっとぼけた。


「名前を呼び合うぐらい簡単なことだろ?ほらほら、呼んでみたまえよ」


 白宇くんはニヤニヤと笑っている。

 た、楽しんでいるなこれは……。


「いやいや、名前は一番身近で一番短い呪なんだから、そう易々と呼べるわけ……」

「何をぐちぐち言っているのだ。全く、ほんと司樹はへたれだなー」

「へたれ言うな!」


 ぎゃーぎゃー騒ぐ声を耳で拾いつつも、わたしの頭の中はぐるぐると回っていて。

 名前で呼び合う、とは……?いや、そのまんまの意味なんだろうけど……家族以外に呼ばれた記憶は……ないな、うん。

 呼ばれたとしてももっと幼かった頃ぐらいだ。今では苗字だったり、『貴女』だったり、『お前』だったり、『おい』だったり、『ちょっと』だったり……うん、まともな呼ばれ方をされていないな。いや、わたしも相手を名前で呼んだ記憶はないんだけど。

 白宇くんの場合は、『白宇』としか教えられていなかったし、自分で進んで誰かを名前で呼んだことは……あるようなないような……。

 わたしが一人で過去を振り返っていると、がばりと久閑さんが振り返った。


「古澄さんも名前で呼ばれるのは嫌だよね!?」

「……うーん、久閑さんに呼ばれるのは別に嫌ではないですよ?」

「えっ!?」


 久閑さんがこれでもかと目を見開いた。


 ……あれ、何か間違えたか?でも、想像してみたが、久閑さんに名前を呼ばれたとしても別に嫌な感じはしない。

 寧ろ、自分の名前は気に入っているので、名前を呼んでもらいたいし、久しぶりに誰かの名前を呼んでみたいという気持ちがわき上がった。


 名前を呼ばれるのも呼ぶのも全然嫌じゃないことを素直に告げると、久閑さんが固まった。

 うっ、と言葉に詰まってしどろもどろする久閑さんに、白宇くんがしっかりしろと言わんばかりに「ほれ」と蹴りを入れる。

 その衝撃で久閑さんがたたらを踏んだ。その分だけわたしとの距離が縮まった。

 しっかりと立った久閑さんが視線を合わせてくる。そして、意を決した様子で口を開いた。


「えっと……留花さんって呼んでも良い、ですか?」

「はい……司樹さん」


 二人でいざ名前で呼び合うと、気恥ずかしくて顔が熱くなった。


 ……何これ思っていたよりも恥ずかしい!……でも、何だか、落ち着くなぁ。


 よくわからない感情がわたしの中で迫り上がる。

 熱くなった頬に手を当てつつちらりと司樹さんの様子を窺うと、彼の顔も些か赤い気がする。

 再び目が合って、司樹さんが照れ臭そうに頬を掻きながら笑った。幼く感じるその笑みに心臓がぎゅっと締め付けられるような気がした。

 何とも言えない感情を誤魔化すように、わたしは白宇くんに話を振った。


「あ、あの、白宇くんってどんな妖怪なんですか?」


 些か話の方向転換が強引過ぎただろうかと思いつつ、それはさっきから気になっていたことの一つだったので訊いてみた。


「おれか?おれはだなー」


 白宇くんは腕を組み、ちらりとこちらを窺った。「ふーむ……」と暫し逡巡した後、


「まだ内緒だ」


 意地悪っぽい笑みを浮かべて、きっぱりとそう告げた。


「……『まだ』ってことは、いつかは教えてくれるってことですよね?」

「まあ、そういうことになるかな。因みに、こんなことができるぞ」


 と言って、白宇くんは会計の練習に使っていた商品――お香を箱から取り出して、お香立てに乗せた。

 白宇くんがパチンと指を鳴らせば、お香にポッと火がついた。

 ゆらりと揺らめく煙が店内に良い匂いを漂わせていく。


「……白宇くんって魔法使いなんですか?それとも手品師?」

「残念。魔法使いでも手品師でもなく妖怪です。おれがどんな妖怪か知りたいのなら、もっと親密度を上げることだな」

「親密度、ですか……」

「そうだ。おれの場合だと食べ物――特に果物とかを貢いでくれると嬉し、いっ!?」


 白宇くんの言葉の語尾が上擦った。「いててて……」と自身の頭を撫でつつ、手刀打ちをした人物こと司樹さんを睨んだ。


「何をするんだ司樹」

「それはこっちの台詞だ。古澄さ……留花さんにたかろうとするんじゃない」

「お、早速名前呼びしたな。偉いぞ司樹」

「黙れ」


 またもや司樹さんと白宇くんが騒ぎ出してしまった。

 二人を止めることなんてわたしにはできなくて。

 きっと、これがこの二人のコミュニケーションなんだろうなぁ……。それにしても、妖怪である白宇くんに手刀打ちする司樹さんって凄いな。

 感心していたその時、ある考えがわたしの頭の中を過ぎった。


 ……もしかして……いや、でも……うーん……。


 わたしは考え込んでいて気がつかなかった。既に二人の遣り取りが終わっていることに。


「留花さん、どうかした?」

「え?」

「何やら難しい顔をしていたぞ?」


 司樹さんと白宇くんに見つめられる中、一瞬躊躇ったものの、「ええい、訊いてしまえ!」と徐に訊ねる。


「あの、久閑さ……し、司樹さんは、人間、ですよね?」


 妖怪が人間に化けている場合もあると知ったからこその問いだ。妖怪である白宇くんと対等に話ができていて、妖怪に関する知識もあって。もしかしたら、という思いがわたしの中に浮かんでいたのだ。

 まだまだ慣れない名前呼びに若干噛みながらも恐る恐る訊ねたわたしに、訊ねられた司樹さんは小さく笑った。


「僕は人間だよ」


 はっきりと告げた司樹さんだったがそれだけでは終わらなくて。

 ぽつりと一言付け加えられた。


「一応ね」

「いち、おう……?」


 ……一応って何、一応って!?どういうこと!?


 困惑したわたしに気づいているはずなのに、これ以上司樹さんは答える気はなさそうだ。


「相手を知りたいという気持ちは大事さ。僕だって留花さんのことを知りたいと思っているよ」


 悪戯っぽく笑った先程までとは打って変わった司樹さんに真摯に見つめられ、わたしは目を逸らすなんてことはできなかった。


「だから、お互いに頑張って親密度を上げていこうね」


 目の前でにっこりと楽しそうに微笑む男と、先程まで名前呼びで恥ずかしがっていた男が同一人物だとはどうしても思えなくて。

 この人さっきまで恥ずかしがっていたよね!?それなのにこの余裕は何!?もう詐欺だよ詐欺!

 心中でそう叫びながらも、わたしは「お、お手柔らかにお願いします……」と弱々しく返すことしかできなくて。


「ふむ、やればできるじゃないか司樹。この調子でぐいぐい押していくんだぞ」

「黙れ」


 なんて遣り取りをしている男たちに、突っ込む気力などなかった。

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