第九話
よろずやは出張販売もしている。そう説明は受けていた。
今日はその出張販売の日だ。初めてのことにどきどきしながら、わたしは司樹さんの後ろをついて行く。
辿り着いたのは、店の裏庭だった。
そこにいたのは白宇くんだ。そして、彼の傍には普段はないあるモノがとまっていた。
何と言っても目につくのは大きな箱と大きな車輪だ。雛人形で見たことはあるけどこうして実物で見るのはわたしにとって初めてのことである。
店の裏に止まっているそれは牛車だった。
だが、牛車と言っても、肝心の牛はいなくて。代わりと言ってはあれだが、普通の牛車にはないあるモノがあった。
本来簾がかかっているはずの部分にあるのは大きな色白の顔だ。形相は恐ろしく、鬼のような角が頭についており、長く伸びた髪が地面につきそうである。
司樹さんがくるりと振り返って何ともなしに言う。
「今日はこの朧車こと朧さんに乗って、山に行きます」
「どうも朧と申します。以後お見知りおきを」
朧さんがぺこりと頭を下げればそれにあわせて車体も動いた。
朧さんの顔は恐ろしいが振る舞いはとても丁寧で。
「古澄留花です。こちらこそ、よろしくお願いします」
わたしも丁寧に挨拶を返した。
朧さんがぎょろりと目を動かして白宇に問う。
「白宇の旦那は今日はパスですか?」
「うむ。今回は若い二人に任せることにした。おれがいるとお邪魔だからな」
「なるほどなるほど」
にやりと口角を上げた白宇くんに、朧さんが相槌を打った。
司樹さんが目を眇めて悪態を吐く。
「……何か妖怪どもが言っているけど放っておこう」
「は、はい……」
「持っていく商品リストを作っておいたから、まずはこれを見て商品を朧さんに積んでいこうか」
「わかりました」
幾つか商品を持って朧さんの後方へと向かえば、さっと簾が上がり、踏み台が出て来た。
……おお、自動で出て来るとは……いや、朧さんが出しているだけか。
箱の中へと入ったわたしはたいそう驚いた。
中はどう考えても外見よりも広い空間となっていて。
大きな棚には沢山の商品を並べられそうだし、この広さならちょっとした家電製品を入れることもできるだろう。車内は空調も効いており、それだけではなく小さな冷蔵庫まで完備されている。
奥には座席があって、ちゃんとシートベルトまでついている。
外見と中身がちぐはぐ過ぎない!?
牛車に乗ったことがないわたしでも、この牛車もとい朧車が普通ではないと察した。
車内を一通り観察した後、わたしは司樹さんに訊いた。
「朧車の中って全部こんな感じになっている訳じゃないですよね?」
「うん、朧車によるかな。昔ながらの小さな座敷のようになっている奴とか、アウトドアに特化して車内でも星空が見えるように上部が開くようになっている奴とかもいるみたいだよ」
「世の中需要と供給が大事なんで」
話が聞こえていたようで、朧さんの声が車内に響き渡った。
「因みに、後ろから箱に入って、降りる時は前からっていう決まりあるので気をつけてくださいね」
「それを守らなかったばかりに昔々の偉い人は笑いものになったらしいよ」
「そういう決まりがあるんですね……でも、それだと朧さんの顔にぶつかるんじゃ……」
外から見た時、前面の簾が掛かっているはずの場所には巨大な顔があった。だが、車内から見ると普通に簾が掛かっているようにしか見えなくて。
もしかして、出る時は朧さんの口から出される、とか……。
朧の口から己らが出て来るイメージが頭の中に浮かんだ。少し……いや、できれば回避したい光景ではあるが、先程降りる時は前からと教えられたばかりだ。
「何も心配はいりません。お二人が降りる時は顔を引っ込めますので、普通に降りられますよ」
そう言ったのは、朧さんだった。
原理はわからないが、普通に降りられるなら無駄に心配しなくても良いかとわたしは思考を放棄した。深く考えたらダメだ。
リストを確認しながら、朧さんに商品をどんどん積んでいく。重い商品は率先して司樹さんが運んでくれるので、わたしは比較的軽い商品を担当した。白宇くんも手伝ってくれて、滞りなく商品を積み終えた。
「よし。それじゃあ出発しようか」
「くれぐれも気をつけてな」
「はいはい、いってきます」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
白宇くんに挨拶してから、わたしと司樹さんは朧さんに乗り込み座席へと座る。
シートベルトをすれば、ゆっくりと朧さんが動き出した。
ぎしぎしと車輪が回る音が聞こえてくる。
……車輪が外れる、なんてことないよね?
音を聞いて不安に駆られたその時、突如浮遊感に襲われた。
「うわっ!?」
車に乗っていたとしたら普通は感じない感覚だ。しかし、それも一瞬のことで。
何が起きたのかわからなくて、わたしは目を白黒させた。
困惑状態のわたしに向かって全然動じていない司樹さんが言う。
「留花さん、外を見てごらん」
その言葉に従って、ゆっくりと物見――窓のことだ――から外を見遣る。すると、眼下に街の風景が広がっていた。
「……は?」
間の抜けた声が口から零れ出た。
わたしは一度物見から顔を離して一呼吸をした。そして、もう一度物見を覗き込んでみた。
「……司樹さん」
「何?」
「もしかして、この朧車飛んでいます?」
「飛んでいるねぇ」
呆けるわたしに対し、のんびりと司樹さんが言ってのけた。
へぇー、朧車って空も飛べるんだー。知らなかったなー。
自分が今乗っているモノが空を飛んでいると認知した途端、わたしの頭が現実逃避をし始めた。ポンコツになったと言っても過言ではない。
上空から街を一望するなんて滅多にないことで。それこそ、この市のシンボルとも言えるタワーにのぼるぐらいでしか普通なら見られないはずだ。
貴重な経験に本来なら楽しんだり喜んだりするべきかもしれない。けれど、眼下に広がる街並みを楽しむ余裕なんてものはわたしにはなくて。
実は、わたしは観覧車とかジェットコースターの類――要は高い所が苦手なのである。わたしの人生において片手で数える程しか乗ったことがない。
……うう、もし落ちたらどうしよう。
ちらちと外を見て、すぐに目を逸らす。
慣れない浮遊感から、縁起でもないことばかり考えてしまう。
嫌な思考にとらわれ、わたしは小さく震え上がった。
そんなわたしの異変に目敏くも気がついた司樹さんが問うてくる。
「留花さんってもしかして高所恐怖症?」
「……」
無言は肯定とみなされたようで。
司樹さんがくすりと余裕そうに笑った。
「震えていて可愛いね」
「ふざけているんですか!?こっちは必死なんですよ!これだから高所恐怖症じゃない人間は!」
わたしは思わずくわっと目を開いて大声を出してしまった。自分でも口が悪いと思うが、余裕がないので仕方がない。
すぐにはっとなって「大声を出してすみませんでした」と謝る。少しひねたようになってしまったのはご愛嬌だ。
司樹さんは特に気にした様子はなかった。寧ろ、
「はい、どうぞ」
なんて言って、手を差し出して来た。
差し出された手の意図が読めずにわたしは首を傾げた。
「この手は一体なんですか?」
そう訊けば、同じく司樹さんが首を傾げた。そんな彼に対し、わたしはさっと顔をそむけた。
……くっ、あざとい!相手は年上の男性のはずなのに!
可愛らしい仕草に若干ときめきかける。いろんな意味で落ち着けわたし。
わたしの心中など露知らずの司樹さんが提案してきた。
「怖いのなら、手でも繋ぐ?」
「……大丈夫です。苦手なだけなので。怖い訳じゃないので」
自分でも可愛げのないことを言っているなぁと思った。
本当なら、繋ぎたい。繋いで、この恐怖を少しでも霧散させたい。
でも、司樹さんと手を繋ぐのは憚られた。
以前挨拶した時に手を握ったじゃないかと言われたら何も言い返せないが、手を繋ぐのが純粋に恥ずかしいという気持ちと、今手を繋いだら何だか負けたような気がするのだ。決して勝負をしている訳ではないのは重々承知してはいるのだけれども。それに、憚られる理由は他にもあって……。
手汗がヤバくて、手を繋ぐとか本当に無理……!
なけなしの乙女心故に手を差し出すことができなかった。
もし手を握ったとして、「あ、こいつ手汗ヤバいな」とか思われたら立ち直れそうにない。
「そう。残念」
司樹さんに本当にそう思っているのかわからない温度で言われ、軽々と手が引っ込められた。
わたしは思わず名残惜しくもじーっと司樹さんの手を見つめてしまった。その自分の行動に気付いて、顔が熱くなった。
惜しむように手を見つめてしまった……うわー、恥ずかしい!
誰に言うでもなく叫ぶ。勿論心の中でだ。
そんなわたしを司樹さんが微笑ましそうに眺めていたが、余裕のないわたしは反応などできるはずもなかった。
*
空中を飛んでいた朧さんがゆっくりと下降を始めた。そして、あまり揺れることなく着陸した。
言われた通り前方の簾から降りて、わたしは地に足をつけた。
そういえば、わたしたちが降りている時の、朧さんの顔ってどうなっているんだろう……。
そんなことを考えていたら、足もとがふらついた。
あ、ヤバい……!
体幹に問題ありのわたしにはどうすることもできなくて。……運動神経が悪くて悪かったですね!
このままでは倒れると思った矢先、
「おっと」
地面とこんにちはをする覚悟を決めたわたしを難なく支えたのは司樹さんだった。
触れた部分に熱を感じる。わたしは慌てて口を開いた。
「す、すみません……」
「気にしないで。それより、足捻ったり、酔ったりしていない?」
「己のひ弱さに泣きそうです」
「うん、大丈夫そうだね」
少なくとも軽口を叩ける元気はあった。
司樹さんの支えなしで足に力を入れてしっかりと立ち、辺りを窺う。
着地した場所は、山の中でも開けた土地のようだ。
目の前にはぽつんと小さな家が立っていて、周辺は手入れの行き届いた畑が広がっている。干された洗濯物が風によって翻った。
「すみませーん、よろずやでーす」
どうやら家には呼び鈴はないらしい。かわりに司樹さんが大声を発した。
「はいはい。そんな大きな声じゃなくても聞こえとるわ」
家の中から出て来たのは、一人の老婆だった。
着物姿でその袖は動きやすいようにたすきによって纏められている。長い白髪を後ろで一つに結っており、日に焼けた肌はしわくちゃだ。
老婆を認めたわたしは思わず叫びそうになったのを何とか堪えた。
……ほ、包丁!?
老婆の右手にはまるで持っているのが当然と言わんばかりに包丁が握られていた。しかも何やらべっとりと赤い液体がついていて……。
……えーっと……お料理の途中だったのかしら?うん、そうだそうに違いない。
わたしが現実逃避をしている間にも、老婆と司樹さんの会話は続いていた。
「あ、また包丁を持って出て来て!危ないから置いてくるようにって何度言えばわかるんだよ!」
「あらあらまあまあ本当だわ。癖でつい」
「癖でつい包丁なんて持って出て来られたら普通ビビるって。ね、留花さん?」
ぽんと司樹さんに肩に手を置かれて、わたしははっと現実逃避から戻って来た。話を半分しか聞いていなかったが――聞こえていただけでも褒めてほしい。それだけ驚いていたのだ――、わたしから言えることはただ一つ。
「包丁は危ないので置いてきましょう」
はっきりとそう述べた。
そんなわたしに、老婆は何故か嬉しそうに口角を上げた。
「おやまあ、人間の
いえ、びっくりし過ぎて変に冷静になっているだけです。
わたしが心の中で呟いた。
というか、わたしのことを『人間の女子』と言っているってことは、このお婆さんは妖怪ってことだよね……?
妖怪に包丁。絵面も字面も何だか物騒だ。
黙って思考するわたしに対して、テンションが高い老婆は包丁を握ったままこちらに来ようとした。ひえっと声が零れそうになる。
司樹さんが慌てて老婆を止めた。
「だから!包丁!」
「ああそうだったね。置いてくるわ」
いそいそと家の中へ戻って行った老婆に、全く、と司樹さんが悪態を吐いた。
「さっきのは山姥。人を取って喰らう恐ろしい妖怪だよ」
「ひっ!?」
それじゃあ包丁についていた赤い液体は……やめろ、考えるな、わたし。
わたしはさっと顔を青褪めさせる。考えるなと思えば思う程考えてしまう……。
ぐっと口を引き結んで耐える。そんなわたしの表情の変化に司樹さんが肩を震わせた。
……ああ、これは揶揄われたな。
経験論で察した。
半目で不満を訴えれば、司樹さんが笑いを堪えて言う。
「ごめんて。まあ、そういう伝承も確かにあるけど、この山の山姥は良い妖怪だよ。
「山ばあ?」
「あいよ」
戻って来た山姥――山ばあさんの手には勿論包丁はなかった。
そのかわりに腕の中には魚の干物やら瓶やら何やら沢山の物が抱えられている。
これは一体……。
「ちょうど川魚を料っていたんよ」
先程の赤い液体のついた包丁は魚を料理していたためだとわかり、わたしはほっと胸を撫で下ろした。
ここでくすくすと笑った司樹さんのことは無視するに限る。あなたが驚かせたせいもあるんですからね!
「ほら、今回はこれらで交換しておくれ」
山ばあさんは玄関で次から次へとモノを置いていく。
「いやだからまずこっちが商品を見て、そっちにも見てもらってから物々交換するって毎回言っているよね?」
司樹さんが山ばあさんの行動に呆れている。山ばあさんのこの行動は一度や二度のことじゃないようだ。
どうやら、これから物々交換をする模様。そうなるとよろずやで働いてまだ数ヶ月のわたしではわからない。
うーん……わたし、役立たずでは?ついて来た意味はあるのかな?
何もやることがないと知ってわたしが少しばかり落ち込んでいた時、くいっと腕を引っ張られた。
「ほれほれ。良ければあんたも一緒に商品を選んでおくれ」
「わたしも、ですか?」
「商品は買わなくて良いからさ。女子としょっぴんぐを楽しみたいんよ」
山ばあさんはうきうきとしていて、とても断れる雰囲気ではない。年若い女子のようにテンションが高い。引っ張る力も強い。これは逃れられそうにない。
わたしが戸惑っているとこっそりと司樹さんが教えてくれた。
「この前来た時、山ばあ腰を痛めていてさ。もう治ったみたいなんだけど、ちょっと心が弱っていそうだから、もし良かったら付き添ってあげて」
「わかりました」
そういうことなら、とわたしは快諾した。
朧車の中に入って山ばあさんとともに商品を物色する。
「はー、今時の包丁研ぎはこんなにもこんぱくとなんやね。これでちゃんと研げるん?」
「研げますよ。あ、これなんかどうですか?環境にやさしい石鹸なんですけど……」
「ああ、それりぴ買いしとるやつやわ。へぇー、新しい香りが出たんやね。……うん、良い匂いやね。んや?この商品は何かしら?」
「これはですね……」
絵柄が綺麗な扇子やら可愛らしいエプロンやら美味しい食べ物やら面白い本やら様々な商品を山ばあさんと二人で見ていく。
……おばあちゃんが生きていた頃を思い出すなぁ……。
「どうかしたん?」
「何でもないですよ」
ちょっぴりしんみりとしてしまった。けれど、山ばあさんとの買い物はとても楽しかった。
散々見て回ってから、漸く会計という名の物々交換へと進む。わたしには物々交換のことはわからないから、司樹さんへと引き継いだ。
「長かったね」
「山ばあさんもですけど、わたしも思ったよりもはしゃいでしまいました」
「みたいだね」
「女の買い物に男が口を出すもんじゃないよ」
「はいはいわかっていますとも」
山ばあさんの言葉に眉尻を下げて司樹さんが苦笑を零す。
「こっちの木苺のじゃむもつけるから、そっちの商品もちょうだい」
「うーん……それだとちょっと……」
「男がケチケチしてんじゃないよ。そんなんだともてないよ」
「モテる云々の話はやめてもらえます!?」
何やら二人で騒がしくしている様子をわたしはのんびりと眺めていた。
……うん、やっぱり物々交換ってわからないや。
見ていてもさっぱりわからないが、見ないと始まらないため二人の遣り取りをずっと見守っていた。
物々交換とは言っているが、正確に言うと違うようだ。山ばあが作ったジャムやはちみつ漬け、干物等といった物をよろずやで売っているという所謂委託販売をしているのだ。
時期によって商品は変わるし、取れ具合によっても販売価格が変動するし、勿論売れ具合によってもいろいろとお金の遣り取りは変わってくるわけで。
手数料やら何やらといった言葉が会話の端々から聞こえてくるが、わたしの頭の中はごちゃごちゃしていた。数字の話はあまり得意ではないのだ。
暫く経って、交渉は無事成立したようだ。
ぐったりとした司樹さんに対し、山ばあさんの肌がツヤツヤしているように見える。山ばあさんは買い物……もとい、取引が上手いと窺える。年の功というやつだろうか。
「そうだ、司樹。ついでに、切れた電球を取り替えておくれよ」
「えー、うちは便利屋じゃないんだけど?」
「勿論、その分のお駄賃はあげるよ」
「……仕方がないなぁ」
よっこらせっと年寄りのような掛け声とともに司樹さんが立ち上がった。やっぱり、山ばあさんの方が一枚上手みたいだ。
「わたしも手伝います」
「留花ちゃんにそんなことは頼めないさ。休んでいて良いよ」
短い時間ですっかり名前呼びが定着してしまった山ばあさんに、わたしは思いついたことを訊ねる。
「それなら、畑を見ていても良いですか?」
「良いけど畑なんか見て面白いかね?」
「昔祖母と畑仕事をしていたのを思い出したら懐かしくなっちゃって」
「そういうことなら、思う存分飽きるまで見ていて良いよ。さ、司樹。こっちだ」
「ふぇーい」
山ばあさんの後に、やる気のないような声を発しつつも司樹さんが続く。
わたしは二人を見送った後、玄関を出た。
一面の畑は手入れが行き届いていた。
「畑かぁ……懐かしいなぁ」
畑仕事を手伝っていたといっても、今思うと簡単な作業ばかりだったな……。苗に水をやったり、間引きをしたり、収穫の手伝いをしたり……。
虫が出てきてびっくりしていると祖母が笑って虫を追い払ってくれた。
つやつやとした赤いトマト。収穫には少しコツがいるとうもろこし。大きなさつまいもが掘れて自慢げに笑いかければ、祖母もよくやったねと褒めてくれた。ヘチマでたわしを作ったこともあれば、鬼灯で遊んだこともあった。
いろんな野菜や植物を育てるのは大変だったけれど楽しい記憶で。どれも祖母との大切な思い出だ。……今はもう家も畑もないし、祖母もいないけれど。
広がる畑の風景を眺めていると、懐かしさと少しの寂しさが込み上げてきた。
またもや一人でしんみりとしていたその時、足に何かが当たった。
「……何でこんなところに石鹸が?」
何故か地面には固形石鹸が落ちていた。
さっき山ばあさんが買っていたはずだけど……。
疑問に思っていると、するすると石鹸が動いた。
「せ、石鹸が動いた!?」
びっくりしたが、よく見てみると石鹸には細い糸がついていた。
「何だろうこの糸……」
よくよく見て微かに見られるだけのその糸は千切れそうで千切れなかった。
手で軽く払おうとしたのだが――
「……!?」
気づいた時には遅かった。
体の至る所に違和感があって。声を発しようとしても、首が締め付けられるだけで呻き声も出せない状態であった。
そうだ、締め付けられているのだ。手にも足にも首元にも、見えない糸が絡まっている感じがする。
纏わりつく糸に操られるように、勝手に足が動き出した。まるで操り人形のように自分の意志とは関係なく動く手足に恐怖を感じた。
抗えば抗う程締め付けは強くなる一方であるため、これ以上下手に抗うこともできなくて。
パニックに陥りながらも、懸命に口を動かす。
……司樹、さん!
けれども、その名が声になることはなかった。
*
薄暗い森の中、木々に囲まれた空間にて、細く、だが粘着質のある糸で形成された巣にわたしはとらわれていた。
「まさか『よろずや』なんて面白いモノが来ているなんてねぇ……」
くふふふとそれ――下半身は蜘蛛、上半身は女の妖怪が嘲笑う。
その特徴から、司樹さんや白宇くんから教えられていた妖怪の名前が思い浮かんだ。
……この妖怪は……もしかして
幾重にも張り巡らされた糸の上を器用に動きながら、絡新婦がわたしの眼前に迫った。
絡新婦はにんまりとその顔に笑みを浮かべる。
「ねぇ、貴女。吾とお話しましょう?」
絡新婦がそう言ったが、わたしは苦悶の表情を浮かべることしかできない。糸が首元を締め付けており、声を出そうにも出せないのだ。
ああ、と気づいた絡新婦がわたしの首元の糸を緩める。
解放感から、けほけほとわたしは咳き込んだ。
「それにしても、気に入らないあの山姥からちょっとモノを盗んでやろうと思ったら……まさかおまけに人間が手に入るとは思ってもみなかったわ……吾はなんてついているのかしら!」
「……知っていますか?他人からモノを盗むのを世間では『泥棒』って言うんですよ?」
石鹸の代金を払っても許されるとは思うなよ!というかわたしのことを『おまけ』って言うな!
震え上がりそうになるのを何とか堪えて、絡新婦に負けじとわたしは声を張り上げた。
キッと絡新婦を睨みつける。けれども、あまり効果はなく、絡新婦は何処か不貞腐れたように言う。
「仕方がないじゃない。持ち合わせがないんだもの。……それにしても、吾を前にしてもそのふてぶてしさ!気に入ったわ!」
機嫌が良さそうに絡新婦がけらけらと嘲笑う。
……いやいや、気に入られても困るんですけど!?
わたしは内心で突っ込み、思い切り顔を顰めた。
そんなわたしのことなど気にすることなく、絡新婦が一人で喋る。
「まあ、この際石鹸なんてどうでもいいわ。そうねぇ……あなた、吾と友人になる、なんてどうかしら?」
告げられた言葉にわたしは「は?」と声を零した。
「ゆう、じん……?」
「そうよ。吾ね、ちょうど話し相手が欲しかったのよ。吾は寂しいの。寂しくて惨めで仕方がないの。だから、吾の友人になってちょうだい。それなら、お金とかそんな無粋なことを考えなくてもいいでしょう?ああ、返答は別にいいわ。吾が貴女に話しかけるだけだから。貴女はただ、吾の話を聞くだけでいいわ」
「……そんな、一方的なのは……友人なんかじゃないです!」
「そう?それなら何て呼べば良いのかしら?まあ、そんなことどうでもいいわ。他者との関係なんてそんなものよね。いらなくなったら、面倒になったら、捨てればいい。物であろうと他人であろうとそれは同じ。貴女もそう思わない?」
まるでこちらを見透かすかのような絡新婦の視線にわたしは怯んだ。
身がすくみかけたが、ぐっと耐える。すぅと一つ息を吸って、わたしは口を開いた。
「……わたしは、他人との関係が希薄です。それは、わたし自身が一番わかっています。正直、他人との関係を何と呼べば良いのかわからない時はあります。でも、大事にしたい関係は……ある!」
以前のわたしだったら、きっと何も言い返せなかっただろう。
わたしにとって、他人との関わりは至極希薄で淡々としたものだった。なされる会話は必要最低限のもので、でもそれで良いと思っていた。十分だと思っていた。相手を知りたいと思う気持ちはあまりなかった。
祖母が亡くなってそれは更に顕著になった。一人で生きて行かなければならないと思っていた。
けれど、今では少しずつだがそれは変わりつつあった。
妖怪が視えるようになって、司樹さんと白宇くんと出会って、よろずやで働くようになって、いろんなモノと関わり合いを持つようになって。
他者との交流は冷めきったわたしの心にあたたかさをもたらしたのだ。
相手を知りたい、相手を想うことは大切なことなんだって、そう思えるようになった。
だから、今こうしてはっきりと言えるのだ。
人も妖怪もどんなモノにだって、接すれば関わりは生まれる。
全ての関係を大事にできる訳ではないけれど、どうしても譲れない、大切にしたい関係性はある。たとえ、その関係性を何と呼べば良いのかわからなくても。
それは、人も妖怪も同じではないのか。
キッと睨むわたしを絡新婦が嘲笑する。
「他者との関係なんて細い細い糸のようなもの。切れてしまえば、切ってしまえば、切られてしまえば、それまでよ。……なんて、そんなことどうだっていいのよ。さっき言った通り、貴女は吾の話を聞いてくれるだけでいいの」
絡新婦がそう言えば、わたしの首元が再びぐっと絞まった。どうやら、もう喋らせる気はないらしい。
「事切れるまで、吾の話に付き合ってちょうだい」
「それは困るな」
否定の声が聞こえたと思った瞬間、鬱々とした中、辺りが急に明るくなった。
何処からともなく現れた炎が煌々と燃え盛る。
火はわたしの体を締め付けていた糸をも燃やす。けれど、わたし自身に熱さは感じられなかった。
糸から解放されたわたしの体が後ろからそっと抱き寄せられた。
「夜の蜘蛛は盗難に遭う、なんて言うけどさ。まだ夜にもなってないっていうのにね?」
耳に触れるのは聞き慣れた声だった。
「……司樹、さん」
目を動かせば、司樹さんと視線が合った。
その瞳はもう大丈夫と告げていて。思わずわたしは泣きそうになった。
自分が思っていたよりも緊張と恐怖に飲み込まれていたようで、一度自分以外の体温を感じたら体の力が抜けてしまった。そのまま後方の司樹さんへともたれかかってしまったが、司樹さんはしっかりとわたしを支えた。
彼は一瞬目を眇めた後、視線を前へと向ける。
わたしもそれに倣えば、目の前で絡新婦と純白の獣が対峙していた。
獣の後ろ姿を見て、わたしの心臓がどくんと強く鳴った。。
……わたしは、この獣を視たことがある……。
そう認知した瞬間、ある記憶が蘇った。
――ひとりぼっちの自分。
――視界に映る奇怪なモノたち。
――純白の獣と、一人の少年。
映像が一瞬のうちに流れて行き、それは忘れ去られることなくわたしの頭の中にとどまった。
頭上から司樹さんの声が聞こえて来て、わたしを過去から現実へと戻す。
「白宇、頼むよ」
「了解」
これまた聞き慣れた名と声に、目前の獣が白宇くんなのだとわたしは知った。
純白の獣――白宇くんの立ち上げた尻尾からは炎が勢いよく燃えている。
どうやら、辺り一面の炎は白宇くんによるモノらしい。
「よくも
絡新婦に向けた言葉だと理解している。だが、白宇の口から発せられたのはこちらまでも震えそうになるぐらい低く重たい声で、とても白宇くんから発せられたものとは思えなかった。
「さて、ここは白宇に任せて、僕たちは帰ろうか」
「うわっ!?」
唖然としていたわたしは突然浮遊感に襲われた。
……何でわたし、こんなことになっているの!?
わたしは今、司樹さんに所謂『お姫様抱っこ』というものをされていた。
こんな状況なのに鼻歌でも歌いそうな司樹さんはわたしをお姫様抱っこしたままくるりと身を翻して歩き出す。
絡新婦と白宇くんが対決しているはずなのに。轟々と燃える炎の音や断末魔やらが聞こえているはずなのに。
司樹さんは意気揚々としていて。お姫様抱っこされているわたしは司樹さんのその向こうの状況は全く見えなくて。
人間であるわたしたちは怪我一つすることなくその場を後にした。
*
あのまま無事山ばあさんのもとに戻ったわたしと司樹さんは、山ばあさんに別れの挨拶をして山を去った。
帰る間に、司樹さんに訊きたいことがいっぱいあるはずなのにわたしは訊けなくて。
朧車に乗ってあれよあれよという間に無事によろずやへと戻って来た。
店の中に入る。すると、カウンターには純白の獣もとい白宇くんがわたしたちを出迎えた。
……え、何でいるの!?
わたしは驚いて目を瞬かせる。
司樹さんもまた驚いていたようだが、多少は予想していたようで、普通に白宇くんに声を掛けた。
「何だ、もう帰っていたのか」
「あの程度の妖怪なんておれの敵ではないのだよ。二人とも、お疲れさんだったな」
「白宇もお疲れ様。助かったよ」
「大事な従業員のためだ。店主としては当然のことだよ」
「こうなるってわかっていたんだろ?それなら最初から言っておいてくれよ」
「いやー、それはもう低い確率だったからな。それに一応言っただろ?『くれぐれも気をつけてな』って」
「そうだっけ?」
「……確かに言っていましたね」
二人の言葉の端々が理解できない中、それでもわかる範囲でわたしが同意すれば「ほらね」と白宇くんが踏ん反り返った。
はいはい、と司樹さんが受け流す。
いつものよろずやの風景に、何処か夢心地だったわたしは漸く「ああ、帰って来たんだな」と思った。
わたしは司樹さんと白宇くんに向き合う。その口から出たのは謝罪だった。
「……あの、迷惑を掛けて本当にすみませんでした!」
がばりと頭を下げる。ちょっとふらついたが何とか堪えた。
「迷惑って何が?山ばあは留花さんと買い物できて喜んでいたようだけど?」
眉尻を下げて司樹さんが言った。
確かに、司樹さんの言う通り、山から帰る際に「買い物楽しかったよ。またおいで」と山おばあさんは言っていたけれど……。
戻って来たわたしたちを酷く心配した様子で迎えてくれ、安心させるかのように言った山ばあさんの姿が思い浮かんだ。
「そうじゃなくて……その、絡新婦に捕まって、司樹さんや白宇くんに迷惑を掛けたから……」
「いやいや、あれは不可抗力でしょ。留花さんは畑を見ていただけで、自分からあの巣に行った訳じゃないんでしょ?」
「そう、ですけど……」
「留花さんは被害者なんだからそんなに気にしないで。まあ、一つ言うとしたら、危機感を持って行動するのは大切だよっていうくらいかな」
「司樹の言う通りだぞ。もしそれでも詫びたいというのなら、お礼は瑞々しい果物が欲しいかな」
カウンターからひらりとジャンプをして白宇くんが床に着地した。
目の前に来た白宇くんをわたしはまじまじと観察する。
ピンと立った三角の耳に純白の細い体躯。瞳の色は黄昏色で、ふさふさとした太い尻尾は触り心地がよさそうで。
――『犬じゃなくて狐です』
そんな台詞が頭を過った。
……そうだ。昔、本人から教えてもらったんだ。
今まで忘れていた自分に呆れて笑いたくなってくる。いやでも働き始めてからこの姿を見るのは、今日が初めてだから仕方がない。
……うん、間違いない。
わたしはゆっくりと口を開いた。
「わたし、昔迷子になったことがあるんです」
不意に話を切り出したわたしに、司樹さんと白宇くんが耳を傾けた。
「祖母とはぐれて、しかもよくわからない奇怪なモノたちも視えて、怖くてとても不安だったんです。そんな時、男の子と狐が助けてくれたんです」
過去のことを思い出しつつも、わたしは現在を見つめていて。
「あの時の、男の子と狐って……」
わたしの確信を持った瞳を見て、そして言葉を聞いて、司樹さんが一つ息を吐いた。白宇くんは黙って目を瞑った。
「……やっと思い出してくれた?」
少し意地悪そうに、切なそうに、優しく微笑む司樹さんの姿がいつかの少年と重なった。
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