母の愛
これは中学生の時に私が体験した出来事だ。
私は父と母、そして父方の祖父母と一緒に暮らしていた。小学校の低学年までは、どこにでもいる波も無ければ山も無い平凡な家庭であった。
両親が共働きで家にいなかったので、私の幼少期の面倒を見てくれたのは主に祖父母だった。
昔から遊んでばかりで家庭を持たなかった息子の結婚、そして私が生まれて初孫を見ることが出来た祖父母は、私に愛情たっぷりに接してくれた。
私もそんな祖父母の事が好きだった。
私が小学校の高学年になる頃、両親の間ですれ違いが起きるようになった。些細な事で喧嘩をするようになった。
父は数年前から愛人を作っていたようで、とっくの昔に家庭は崩壊していたのだ。
そんな時、長年、私を可愛がってくれていた祖父母が立て続けに亡くなった。悲しみに暮れる私を前に、追い打ちをかけるように両親は離婚した。
父は愛人と籍を入れると地元を離れ、連絡はつかなくなった。私は母についていった。
同じ町にアパートを借りて、母と2人だけの生活が始まった。母は不安な私を心配させまいと、明るく振舞った。なんとかやっていけそうな気がした。
だが、中二の夏。悲劇が起きた。
母と私の乗った軽自動車が、トラックに追突される交通事故が起きた。運転席の母と助手席にいた私は、事故の衝撃で気を失った。
後から知った事だが、私たちは生死の境を彷徨う程の重症だった。病院に担ぎ込まれ、医師たちは懸命に私たちへ治療を施した。
事故を聞いて遠方から駆けつけた母の両親は、医師から「万が一に備えて覚悟はしておくように」と言われたという。生命力の勝負だった。
目が覚める前、私は奇妙な夢を見ていた。
靄のかかった、広い草原のような場所に、2人の人が立っていた。
それは亡くなった、父方の祖父母だった。2人は手を振って、満面の笑顔で私を出迎えた。母の姿はなく、私は吸い寄せられるように近付いていった。
懐かしい顔だった。私を可愛がってくれた祖父母の姿を見て、私は無性に嬉しい気持ちになった。
次の瞬間、祖父母の姿は私の顔を覆う手で隠された。私はその手の平を見て誰なのかが分かった。あれは母の手だった。
私は顔を覆われ、真っ暗闇の中で連れ出された。誰か――おそらくは母が私を連れて行ったのだろう。祖父母の声がしたが、私は聞き取る事が出来なかった。
それからすぐに、身体がふわっとしたかと思うと、私は集中治療室で目が覚めた。
私は意識を取り戻した、母の両親は喜んだが、まだ予断を許さない状況だった。母が目覚めていないのだ。
治療を受け続け、痛みに耐えながら私は必死に母が助かるように祈った。祈りが通じたのか、私から遅れる事1週間後、母は昏睡状態から目を覚ました。
それからはリハビリの日々が続き、冬になる頃、なんとか退院する事が出来た。
母の両親は事故を機に自分達のいる街――母の生まれ故郷への引っ越しを提案した。
母はすぐに承諾し、私は地元を離れ、新しい故郷で暮らす事になった。
私は何とか高校に進学し、母は故郷で職を見つけた。
暮らしもひと段落したある日、私は事故当時に体験した出来事を母に打ち明けた。
私が夢の中で、父方の亡くなった祖父母と会って来たという話をした所で、母の顔色が青ざめていくのがわかった。
私の話をどうにか受け入れた母は「私も同じような夢を見ていた」と語ってくれた。
もしかしたら、私たちを助けてくれたのかもしれないね、と私は答えた。
母は首を左右に振った。
それから、母はそこで何を見たのかを語り始めた。
事故が起きた後、母は私と同じ場所にいた。
白い靄も、草原も同じだったが、母は私よりも後ろの場所にいたという。2つの人影の前に立つ私の姿にすぐ気が付いた。
母はすぐに状況を理解し始めた。自分たちはたぶん死んでいる。交通事故の鮮明な記憶を、母はしっかりと思い出した。
母は、私の目の前にいる人影が「義理の両親」であるとすぐに理解したという。
そこで、母はふと冷静になった。迎えに来たのがなぜ、離婚した元夫の両親なのか?ここがあの世なら、どうして昔亡くなった私の祖父母がいないのか?と。
私が祖父母のにこやかな顔をじーっと眺めているうちに、母は直感的にこう思ったらしい。
娘を連れていかれる。
おぞましい物を感じた母は、私の顔を手で覆い隠し、急いで手を引いてぐいっと引き寄せた。
その瞬間、草原のような場所は一瞬にして真っ黒な沼のように変わり果て、辺りの白い靄は真っ赤に染まった。
祖父母は、まだ笑みを浮かべたまま答えたという。
「「ここは寂しいよ、A(私の名前)ちゃんとB(母の名前)さんも来ないかね?」」
見開いた祖父母の目は、瞳も白目もなく、ただただ真っ黒だった。
母は私を連れて無我夢中で走り出した。
振り向いてはいけない、止まってはいけない、ここにいたら連れ去られる、どこかもわからない場所に!
少し走った時、母は靄の中に切れ目を見た。青い空のようなものが広がる、何かの出入り口のような、そんな場所を。
その向こうに、ベッドの上で管に繋がれる包帯だらけの私の姿が見えた。あれは現実だ。
母は躊躇いなく私をそこへ放り投げた。ここにいれば助かると、そう思って母は私を投げ込んだ。
私が吸い込まれると、出入り口は閉じた。
声はすぐさま迫って来た。
ばしゃばしゃと水音が響き、祖父母たちの声はびったりと貼りつく様に母を追い立てた。
「「どうしてそんなことを」」
「「大事な孫だ」」
「「私たちの孫娘を」」」
母は走り続けた。
ときおり、沼のようなぬかるみに足を取られ続けながら、なお走った。
「孫の死を喜ぶ馬鹿がどこにいる!」
「ろくでなしどもめ」
「私の娘は絶対に渡さない!」
母はあらんばかりの罵り声を上げ、気を保ち続けながら、ずっと走り続けた。走り続けるうちに、母は「こっちだ」「早くこっちへ」と呼びかける、懐かしい声のする方向へと向かっていた。
やがて、私を放り投げたのと同じ切れ目を母は見つけた。そこへ飛び込んだ瞬間、母の視界に入って来たのは集中治療室の天井だったという。
すべてを語り終える頃には、母は泣いていた。
私をぎゅっと抱きしめると呟いた。もう大丈夫よ、例えあなたがどこへ行こうとも、必ず私が守って見せるから、と。
その後、母は再婚し、私には弟が出来た。新しい家族は上手くやっているし、母の再婚相手は、私を娘として愛してくれている。
私はこの話を思い出す度に、関係のこじれた前の父の家と、私を完全に切り離したくてウソをついたのかもしれない――そう思う事がある。
でも、あの時に私の腕を引っ張った手は、間違いなく母のものだった。それだけは確かだった。
父方の祖父母の顔はもう思い出す事が出来ない。
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