第11話
汕舵の地の深奥に、
とはいえ万一、彼らの住処がしれ渡れば、周辺の勢力に踏み潰されてしまう危険があった。
『北に丹綺、南に馬稚。これらがいつ攻めてくるかと思うと、夜も寝られませぬ!』
『死ぬ気でこの地へ逃れてきたというのに、これでは、死を引き延ばすためにやってきたのと、変わりませぬ!』
そこで
その年の秋の夕暮れ、
村の北部にある、注連縄で封じられた結界の中である。
汕舵の民のいずれをしても、そんな生き物を見たのははじめてだった。
人々はこの生き物を呪われたものとして忌避した。同時に、近い将来に完成する、村の守り神として恐れ敬った。
その生き物は、汕舵の民が信じる両頭の蛇神をかたどって造られており、その名を
人間の小指ほどの胴体を持った、白い蛇と黒い蛇が合わさった生き物、とでも表現すべきか。あるいは、二匹の蛇の尻尾を切り落とし、その切り口を合わせた生き物、とでも表現すべきか。
「おちびさん。早う大きくおなり」
やや児を寝かしつけるように、
この頃はまだ、小蛇は何も語らなかった。
「たくさん養分を摂るんだよ、そして、大きく、大きくなるんだよ。おまえたちは、とても、偉大な力を与えられているんだから。――夫婦のように、夜と昼のように、反発しては寄り添う、ふたつの力を……」
すると、
「さあ、黒いおちびさん。しっかりと、よく噛んで飲み込みなさい」
その言葉に従うように、黒い小蛇は
ついで
むろん、白い小蛇――すなわち
「そうだよ……。たっぷりとお食べなさい」
やがて、成長した両頭の蛇は、自らの力で獲物を狩るようになった。
汕舵の民は
その日も、北の盆地で小競り合いがあった。
そこで、いつものように活躍した
早くも夕刻が迫りつつあった。
蛇は大木のような胴体を引きずり、森の奥へと消えていった。
白い
「きょうは、満腹になったかい?」
と、白がいった。はたから聞いたら、唸り声を上げているくらいにしか思われないだろう。しかし、蛇は兄弟の声を聞き分けることができた。黒は細い舌をはためかせながら、答えた。
「ああ。おれの方は、いやっていうほど、
「もちろんおれも、これ以上ないほど、
黒は口の中に残る、酸っぱいような、塩っぽいような肉片を吐き出して、うんざりとした様子で、いった。
「わからない。ただ――。最近おれは、どうにも気分が重い。いや、それは昔からか。……おれは昔から、気分が悪い。そういうことだ」
「わかるよ。おまえが食べ物としている、
そこで、白はふたつの力について語った。ほとんどが、初代の
人間は、最後の休息地として、救済として、舞台の奥に死があるからこそ、人生を舞うことができるのだ。――だとすれば、日々の生活を営む力、太陽に祝福された力こそが、
「やめろ。そんなことは、飽きるほど聞いた」
と、
「わかったよ。――とにかくおまえは、
「仕方があるまい? ほかに何を食べよというのか。木の実を? 鹿を? 駄目だ駄目だ。そんなものは、何の足しにもならん。やはり、人の体に詰まった、じくじくと渦巻く
「同情するよ。……おまえは、いわば人々の死を喰らっているみたいなものだから」
「ふん。おまえが羨ましくもなる。同じものを食べても、おまえは上澄みの
「どういうことだ?」
「あれは……。やつらの声は、たまったものじゃない。おまえも聞こえるはずさ。――そうさ、あの、空腹にあえぐ声! 介錯を待つ侍のうめき声! 病に伏した老人の咳の音! そういったもろもろの声は、外からやってくるのさ。――つまり、おれはいつしか、世界中の呻吟に襲われるようになったんだ」
「そんな……。そんなことが……」
「かまととぶるんじゃない! そのことは、とっくに、おまえはしっていたはずだ。……おまえが聞いているのは、歓喜の声や勝利の声、産声や笑い声など、晴れがましいものばかりだな。それだって、おれはしっているぞ」
「しかし……それは……」
「それはそれで、いいのだ。おれたちは昔から、そう宿命付けられているのだからな。――それでもおれには、やり切れないときがあるんだ。どうにも、人々があまりに苦しんでいるような気がしてしまって。彼らは、なにかの間違いで、こんな世界に生まれてしまったのではないかって……」
「そんなことを考えるのは、どうかしてるよ。もちろん、おれにも、おまえの言っていることはわかるよ。しかし、生き物や人々の存在が、坂を転がる間違った石ころだ、なんてことは、ないと思う。――いずれにせよおれたちは、そんな人間を容赦なく喰ってしまうわけだけど」
「そうだ。それだけに、おれの体には、溢れんばかりの
「いや、おれには、わからない」
「しらない振りはやめろって! 痛いよう、って。辛いようって。生きていてもいいことがないようって。……おお。やつらは、こんなことを、望んじゃいないのさ。……おお、やつらは、間違った石ころだ。坂を転がっていって、いったい、どこに行き着くんだっていうんだよ? ……なんにもならない。――そこは、泥沼さ。まったく、わからないよ。生き物は、なぜ苦しみながらも、生きようとするのだろう」
「西の。おまえはちょっと、疲れているんだよ。何百年も、同じことをやってきたんだから、無理もないだろうけど」
「……いやだ。もう、こんなことを続けるのは!」
「落ち着けよ。人間たちとおまえは別の存在だろう。おまえは、おまえさ」
「おれにはもう、耐えられないんだよ!」
そうして、
* *
鹿彦はそこで、意識を取り戻した。長い幻を見ていたようだった。目が覚めても、さながら悪夢のような、暗い鍾乳洞の光景は変わっていなかった。
ぼんやりと輪郭のみがうかがえる、大蛇の声が響いてきた。
「あの夜、ついにおれは逃げ出したな。おまえを噛みちぎって。なあ、東の」
「わからない。……おれは、鹿彦だ」
「いいや、おまえは人間の体をまとってはいるが、元はといえば、白蛇の化身であり、
「違う! そんなことはない……」
「ふん、そんなことはどちらでもいい。――とにかく、ここを去ることだ。仕事の邪魔をしないで欲しいんだ」
「仕事――。人々に呪いをかけて、沼へ引きずり込むことが?」
「仕方のないことだ。彼らが、それを望んでいるのだから。おれは、逃げ場を供しているにすぎない。ここにくれば、救われる、と」
「続けさせるわけにはいかない」
そういって、鹿彦は斧を構えた。
「そんなもので、どうするというのだ、東の」
にわかに、
ついで、体勢を崩して転び、岩壁に頭と肩をしたたかに打った。
鹿彦は朦朧とした意識で、黒い蛇の体が再び、自分に迫ってくる様子を眺めていた。
すぐに、鹿彦の体は、蛇の牙に挟まれた。呻き声を漏らすも、牙は容赦なく体に喰い込んできた。
鹿彦は薄れた意識の中で、自身の内奥から湧き上がる、熱のようなものを感じた。
それは鹿彦の生命を守るべく、永年に渡って、陰ながら見守っていた存在である。
ひとりの人間に複数の人格が内在するように、さながら隠れた鹿彦の本性として、半ばは別の人格として、半ばは鹿彦そのものとして眠っていた存在……。その本性が、とうとう首をもたげたのだ。
白光するかたまりは膨張し、鹿彦の体を呑み込み、やがて鹿彦そのものとなった。
鹿彦は目の前で戸惑う黒蛇へとぶつかっていき、そのまま大きな顎で首根っこへと噛み付いた。いきおい、二匹は絡まり合って、鍾乳洞を転がっていく。
鹿彦にはもはや、どこをどう転がったのかも分からない。
がむしゃらに
そこは、広大な地底湖だった。
天井には例の光り苔がまばらに張り付いており、星空のごとく光たっていた。一方水中には、緑色にうっすらと白光する、海月かなにかのような透明な生物が幽暗と漂っていた。
そんな水中に沈んでいくときであっても、鹿彦は顎の力を緩めようとはしなかった。
するとそこに、
「どうあっても、おれを離さぬのか」
「そうだよ。あいにく、おまえを逃がすわけにはいかないからね」
鹿彦は、口に
「このままだと、ふたりとも、窒息してしまうぞ」
「……ぞっとしないね」
「強がるなよ。苦しそうだぞ、東の」
「おまえも、苦しそうだね、西の」
* *
「おい、眠ったのか?」
突然の声に、鹿彦は目を覚ました。
あたりは夜の森の中のようだった。眼前には焚火が燃えている。絶えず炎は荒々しい音をたてて、木の皮や枝を食んでいる。
右隣には、先ほどの声の主がいた。
会ったことのない人物だったが、なぜだか、鹿彦は懐かしさを覚えた。浅黒い肌に、引き締まった筋肉が隆々と身に付いていた。鹿彦はその瞬間、その男が、自分の父である
「大丈夫だよ、おれは起きてる」
「そうか。もうじき、お母がくる。それまで、起きていろや」
「わかってるよ」
梟の声と山犬の遠吠えがこだまする夜の森で、
「小僧。なかなか大きくなったな」
と、
「そうかな」
「うむ。大きくなったぞ」
と、
そのとき、鹿彦の眼前に一匹の蝶が見えた。青い翅は焚火の光によってきらきらと輝いた。ほのかな燐光をまといながら、蝶は鹿彦の頭上を旋回し、近くの地面に降りた。すると
「遅かったな、《天ノ青玉》よ」
すると、蝶はそれに答えるかのように、背中でぴたりと合わせられた翅を左右に広げ、また軽やかに閉じた。ふいに、鹿彦は違和感を覚えた。
(そうだ、お父も、お母も、死んでしまったはずじゃないか!)
そこで、
「おまえは、まだこっちにきてはだめだ。目を覚ますんだ」
そんな声を無視して、鹿彦は青い蝶を眺めていた。
蝶は規則正しく、呼吸でもするように明滅を繰り返していた。
光っては、暗くなり、光っては、暗くなり……。
* *
そこで意識を取り戻した鹿彦は、相変わらず湖水の中をどこまでも落ちていく最中だった。
傍らには、ぴくりとも動かない
そのとき、鹿彦の頭の中に響いてくる声があった。
「……お聞きなさい、鹿彦」
それは、母親の声だった。
「わたしのお腹にいたあなたは、あのとき、
「どういうことだい……?」
「深く結びついたふたつの霊を、分かつときがきたのです。さあ、鹿彦よ。その蛇の体を離れて、いま……」
すると、鹿彦の体に電撃が走った。ついで、大きな力によって、蛇の体から自分自身が引き離されていった。
――ふと鹿彦が下方を見ると、二匹の蛇が絡み合いながら、暗い湖水へと消えていく所だった。
鹿彦の霊は、湖水の中を浮上していった。
その夢うつつの意識の中で、鹿彦はひとつの夢を見た。
* *
蛇の声に誘われて、多くの人々が崖を下り、沼へと旅をするという夢。
人々は次々に沼へと落ちていく。
やがて、沼の中に溶け込んだ人々の荒魂は、蒸気のように宙へと浮かび、半分は
やがて、雨雲はますます凝縮され、生物の形をなしていった。
いや、生物と呼べるのだろうか。
人々の荒魂は、真っ黒な蜥蜴になっていった。
また、その夢の中で鹿彦はぼんやりと思った。
一連のできごとは、光と闇を峻別することではじまった悪夢なのではないか、と。
* *
大巫女は祭壇の前に座して、呪を唱えていた。
大巫女は瞑目し、顔や首筋、手脚に汗を浮かべながら、ひたすらに呪文を口にしている。
汕舵の戦士や馬稚の兵を送り込んだあと、大巫女は彼らの行く末を霊視していたのだ。
むろん、鹿彦が大蛇の姿になったことや、蛇の霊体が切り離され、再び人間の姿に戻ったことも見通していた。
もろもろの戦いは終わり、しかるべき結末を迎えようとしていたのだ。――しかし、その結末とは、汕舵の創り上げた神の死と、旅人たちの死を意味していた。
大巫女が霊視にて見たのは、地響きを立てて崩れゆく、西の盆地の様子だった。最果ての沼や洞穴を中心として、地盤が軋み、崩落しようとしていた。
「まずいな」
と、呪を止めた大巫女はつぶやいて、顔を上げた。
陽那は薄れゆく意識の中で、皺だらけになった自分の手を眺めていた。
周囲では、陽那を守るために残された五人の兵が、たびたび襲ってくる蜥蜴たちを追い払っていた。あたりには黒い泥のような蜥蜴の死骸が重なり、兵の死骸が積み重なっていた。
そして背後には、巨大な崖が冷厳とそびえている。――崖を降りてきてすぐに蜥蜴の襲撃を受けたとき、命懸けの呪法を使ったせいで、陽那の体は齢八〇か九〇を数える老婆のごとくなっていた。
その体を地面に倒し、馬稚の兵たちが戦い、また、疲弊してゆくのを見ていた。
(こうなることは、わかっていたはずだ)
と、陽那は自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、後悔と悲哀のせいで、胸が張り裂けてしまいそうだった。
(わたしは、宮や人々のために、力を使ったのだ。これこそ、わたしの生き方であり、死に方なのだ。間違ってはいない!)
そうやって乾いた唇をもごもごと動かしては、涙まじりに咳をした。
(鹿彦。きみはもう、然るべき、敵の寝ぐらに至ったのか? それさえ叶えば、わたしの命など……)
周囲には絶え間なく、兵たちの掛け声や、剣が蜥蜴を切り裂く音や、蜥蜴の悲鳴がこだましていた。
「陽那殿! どうかお気をたしかに! 間もなく、援軍がくるはずです!」
なかなか力の入らない首をまわして、陽那は崖を見上げた。助けが来たとしても、どうやってこの崖を登ってゆくのか、想像もつかなかった。すでに、引き返せぬ道だと覚悟を決めて、死地にやってきたのではないか。そう思いながら、陽那は視線を落とした。
そのとき、地面の底から重々しい音が響いてきた。積み重なった岩がこすれ、崩れていくような、恐ろしい音だった。すると次第に、地面が振動しはじめた。陽那は地面に横たわったまま、身をこわばらせた。
(鹿彦。……きみはきっと、何か、肝心なことをやり遂げたんだな。そうだ! これから一体、何が起こるのかはしれないが、例の、蛇の魔性は始末したと、そういうことなんだろう? ならば、恐ろしくなどない。後悔など、あるものか)
一方そのころ
沙耶は相変わらず、半死人のごとく地面に伏して、呻き声を上げていた。少しでも隙があれば、自ら沼へ落ちていってしまいそうだ。
そこへ詰めかけるのは、まだまだやってくる蜥蜴の群れだ。
「なかなか蜥蜴どもが途切れぬのう」
と、信貞はいまにも倒れそうなほど、ふらふらとした足取りで、太刀を杖代わりにしながらいった。
沙耶を尻目に、斧を右手に提げた
「そうだな。まったく」
そういって、
するとそのとき、突如として地面が震撼した。真下から、突き上げるような揺れが襲ってきた。
「なんじゃ、これは!」
と、信貞は怒鳴り散らした。
揺れはますます激しくなっていった。
洞穴から沼にかけて大きな地割れが走り、間もなく沼のあった場所は落とし穴のような空洞になった。
そこへ向かって全てが滑り落ちてゆく。岩や砂や蜥蜴の死骸。怪我をした兵や、汕舵の戦士の死骸など……。
「なにが起こっておる!?」
と、信貞は大声を上げた。
鬼神――すなわち信成も、驚愕した様子で立ちつくしている。
そもそも、誰しもが立っているだけで精一杯だった。
常世の西端の地は、崩壊しつつあった。
いまや
大巫女は
そうすることの危険をしらぬ彼女ではないが、愛娘や男たちの苦境をしりながら、じっと座っていることはできなかった。
大巫女は霊体となって門をくぐると、一息に常世の空を駆けて、崖の前までやってきた。見下ろすと、すでに崖の下には縦横無尽に亀裂が広がり、地面は半分ほども見えず、真っ黒な地割ればかりが目立つ状況となっていた。鹿彦たちはもちろん、盆地をさまよっていた、沼に落ちる前の人間たちも、犠牲になってしまったのだと、大巫女は嘆き悲しんだ。
遅きに失したと、大巫女は悲嘆に暮れた。……しかし、それであきらめる彼女ではなかった。
ここで、大巫女は生命の全てを賭して、最後の秘技を試みたのであった。
大巫女は両手を天に突き上げ、目を瞑り、呪を称えはじめた。
大巫女の体から光がほとばしり、それが腕へと集まっていく。
光は無数の紐となり、網のように、崖下に伸びてゆく……。
大巫女は、その巨大な光の網により、地底に落ちてゆくあらゆる人々の霊を救おうとしているのである。彼女の眉はきつく歪み、口元は引きつっている。みるみる体じゅうの血色が失せ、その代わりに光の網は、大きく太くなっていった。
途中大巫女は。自身が作った網の中に、陽那がいることに気がついた。
光の網に掬われた陽那は、二〇歳そこそこの娘だとは思えぬほど、老いさらばえているように見えた。
「愚か者……。門へ飛び込んでいったと想えば、後先を考えずに、力を使ったのだな……」
切なそうにつぶやく大巫女は、眼下に見える陽那の体に向かって意識を集中させると、残り少ない自らの生命力を分け与えた。
鹿彦は鳥の声によって目覚めた。
あたりには、朝日の登りかけた白ノ宮の光景が広がっていた。それに、汕舵や馬稚の兵たちが地面に倒れていた。陽那の姿もあったが、やはり地面に倒れたままだった。そして、その外周には何人もの巫女たちが囲っていた。
鹿彦が振り返ると、
眠るように目を閉じている大巫女は、ぴくりとも動く様子はない。
次第に目覚めはじめた汕舵の戦士や、馬稚の侍たちの中には、大巫女が作った光の網に救われたことを憶えている者もいた。鹿彦も、大巫女がもたらした奇跡のことを、ぼんやりとは憶えていた。とはいえその結果、大巫女がどのような犠牲を払うことになったか、しる由はなかった。――事実、大巫女はその命を失うことになったのだ。
鹿彦は朦朧とした意識のまま、大巫女の元へと近づいていった。すると、白装束に包まれた大巫女の体が、以前よりも深い皺に覆われ、青ざめていることがしれた。鹿彦は大声を上げることもせず、駆け寄ることもせず、生気の失せた大巫女の姿を見ていた。
やがて、鹿彦の周囲に目覚めた者たちが集まってきた。
信貞は、自身が生きていることに驚くように、手足を眺めまわしていた。
「おわったようだな」
鹿彦はうなずいて、そうだよ、と答えた。
「おれは憶えている。大巫女殿が、我らを死地から拾いあげてくれたことを……」
「ああ。もちろんおれも、わかっているよ。命をかけて、助けてくれたんだろうよ」
そのとき、近くから女のうめき声がした。鹿彦が振り向くと、そこには体を起こしかけた陽那の姿があった。陽那は馬稚の侍に助け起こされると、鹿彦たちに声をかけてくるまでもなく、覚束ない足取りで大巫女へと近づいていった。
「母上……」
声にならぬ声を漏らしながら、陽那は歩いていった。そして、大巫女の目前までやってきた陽那は、がむしゃらに母へと抱きつくなり、涙ながらに声を張り上げた。
「母上が犠牲になることはなかったのに!」
そこへ、見習いの巫女がわきから声をかけた。
「どうか、乱暴になさらぬように……。大巫女様はもう、亡くなられております」
そんな言葉など耳に入らない、といった様子で、陽那は座ったままの大巫女の肩に抱き付き、泣き続けた。
そこへ近づいていったのは、信貞だった。彼は朱塗りの甲冑をかちゃかちゃと鳴らしながら歩み寄り、陽那の右肩へ手を載せた。
陽那はふと動きを止め、信貞を見上げた。信貞はゆっくりとした口調でいった。
「誠に残念だった。……こうなるべくして、なったのだろう。犠牲なくして、成し遂げられるようなことではなかったのだ」
陽那は目をきつく閉じてから、重々しくうなずいた。
「……わかっています」
「これから、宮は新しい大巫女を必要とするであろう」
それには陽那はなにも答えず、ただ、目を刮と開けて、信貞を見つめた。
鹿彦はそんな光景を見守りながら、やがて沙耶のことを思い出した。
「やはり、気がかりなのか」
と、声をかけてきたのは、
「ああ、そうだ。沙耶さんは、どうなったんだろう……」
「わからんな。無事だろうか……。いずれにしても、村に戻る必要があるな」
ひとりの汕舵の少年が、蝶を追いかけて走っていた。蝶の翅は朝日を浴びて、黄色味を帯びた白色に輝いている。
やがて蝶は、一軒の家の戸口に舞っていった。そこは、眠ったままの沙耶がいる家だ。
おそるおそる少年が戸口を覗き込むと、長老の
「どうした? そんなにあわてて」
と、長老は微笑を浮かべる。
「――蝶が」
と言いさした少年だったが、すでに蝶がどこにも見えないことに気がついて、口をつぐんだ。
そのとき、少年はなにか、小さな動物が動いたような気がして、反射的に沙耶の方を見た。
そこには、なんの動物もいなかった。代わりに、沙耶の口元がぴくりと動いたのがわかった。
次第にまぶたや頬が、細かく動きはじめたようだった。
蛇霊記 おわり
蛇霊記 浅里絋太 @kou_sh
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