第11話

 汕舵の地の深奥に、長神ノ現ながかみのうつしが造られたのは、はるか昔のことだ。

 白鷺ノ羽しらさぎのはねは、はるか遠方より汕舵の民を率いてきた。また、当時の汕舵の民には、弓矢と斧の他、身を守る術はなかった。しいて挙げれば、偶然辿り着いた森の木々が、身を隠す目くらましになるくらいだった。

 とはいえ万一、彼らの住処がしれ渡れば、周辺の勢力に踏み潰されてしまう危険があった。


 白鷺ノ羽しらさぎのはねは、少女といえぬまでも若かった。その秀でた額に黒髪を垂らし、浅黒い肌に白い衣をまとい、人々を率いる長としてあれこれと指示を出した。むろん、自身が修めた知識や術を使って、民を守ろうともした。人々は口々に、これなる不安を訴えたこともある。

『北に丹綺、南に馬稚。これらがいつ攻めてくるかと思うと、夜も寝られませぬ!』

『死ぬ気でこの地へ逃れてきたというのに、これでは、死を引き延ばすためにやってきたのと、変わりませぬ!』

 そこで白鷺ノ羽しらさぎのはねは、偉大な呪法のひとつを使い、現神うつしかみを造り、人々を守ることにしたのである。


 その年の秋の夕暮れ、白鷺ノ羽しらさぎのはねは森の中で腰をかがめていた。

 村の北部にある、注連縄で封じられた結界の中である。

 白鷺ノ羽しらさぎのはねの手には一体の、奇妙な生き物が載せられていた。

 汕舵の民のいずれをしても、そんな生き物を見たのははじめてだった。

 人々はこの生き物を呪われたものとして忌避した。同時に、近い将来に完成する、村の守り神として恐れ敬った。

 その生き物は、汕舵の民が信じる両頭の蛇神をかたどって造られており、その名を長神ノ現ながかみのうつしといった。そんな大層な名前とは裏腹に、細く弱々しい体つきをしていた。

 人間の小指ほどの胴体を持った、白い蛇と黒い蛇が合わさった生き物、とでも表現すべきか。あるいは、二匹の蛇の尻尾を切り落とし、その切り口を合わせた生き物、とでも表現すべきか。

「おちびさん。早う大きくおなり」

 やや児を寝かしつけるように、白鷺ノ羽しらさぎのはねは右手で小蛇を撫でた。はじめに黒い頭――西ノ顎にしのあぎとの頭を撫で、次に白い頭――東ノ顎ひがしのあぎとの鼻先を突いた。

 この頃はまだ、小蛇は何も語らなかった。白鷺ノ羽しらさぎのうでが話しかけても、その声を聞いているのか、いないのかすら、判然としなかった。それでも、白鷺ノ羽しらさぎのはねは将来の村の守護神に、村を守ることの意義を伝え続けた。

「たくさん養分を摂るんだよ、そして、大きく、大きくなるんだよ。おまえたちは、とても、偉大な力を与えられているんだから。――夫婦のように、夜と昼のように、反発しては寄り添う、ふたつの力を……」

 すると、白鷺ノ羽しらさぎのはねは右手を額の前に掲げて、呪文を唱えた。次第に、右手へと気味の悪い薄もやが集まっていった。白鷺ノ羽しらさぎのはねは右手を開いて、西ノ顎にしのあぎとの黒い頭の前へと差し出した。小鳥に餌付けでもするかのような光景である。ただし、その餌となるものは、尋常ではなかった。――粘質に黒く蠢く、ろくでもない塊、と言わねばなるまい。

「さあ、黒いおちびさん。しっかりと、よく噛んで飲み込みなさい」

 その言葉に従うように、黒い小蛇は白鷺ノ羽しらさぎのはねの手に載った塊を口に入れ、目を細めて飲み込んだ。

 ついで白鷺ノ羽しらさぎのはねは、やはり右手を額の前に持ち上げ、先ほどとは違った呪文を唱えた。すると、右手の周りに明るい光が集まってきた。

 白鷺ノ羽しらさぎのはねはその光をこねるようにしながら、手を広げた。――そこには、どろりとした白い、固まりかけの団子のようなものがあった。

 むろん、白い小蛇――すなわち東ノ顎ひがしのあぎとの糧である。

 東ノ顎ひがしのあぎとは眼前の餌に首を延ばし、おのれの取り分を食べはじめた。

「そうだよ……。たっぷりとお食べなさい」

 白鷺ノ羽しらさぎのはねは満足そうに、慈愛に満ちた眼差しで、左手に載った小蛇を眺めている。秘術によって創造した、現神うつしかみの成就を確信しながら……。


 やがて、成長した両頭の蛇は、自らの力で獲物を狩るようになった。

 東ノ顎ひがしのあぎとは獲物の体から荒魂あらみたまをすすった。一方、西ノ顎にしのあぎと和魂にぎみたまをすすった。そうして彼らは大きくなっていき、やがて、名実ともに汕舵の守り神となったのだった。


 汕舵の民は長神ノ現ながかみのうつしを使うことで周辺国に武力を示すとともに、友好的な関係を築いていった。しかし、北西の丹綺国については、永年に渡って敵対してきた。

 その日も、北の盆地で小競り合いがあった。

 そこで、いつものように活躍した長神ノ現ながかみのうつしは、一四代目の長老である沙羅ノ腕さらのうでに導かれ、村の奥の聖域に戻った。

 早くも夕刻が迫りつつあった。

 沙羅ノ腕さらのうでは蛇の力を讃える歌をうたい、一礼して去っていった。

 蛇は大木のような胴体を引きずり、森の奥へと消えていった。

 白い東ノ顎ひがしのあぎとも、黒い西ノ顎にしのあぎとも、見上げるべき大きさになっていた。

「きょうは、満腹になったかい?」

 と、白がいった。はたから聞いたら、唸り声を上げているくらいにしか思われないだろう。しかし、蛇は兄弟の声を聞き分けることができた。黒は細い舌をはためかせながら、答えた。

「ああ。おれの方は、いやっていうほど、荒魂あらみたまを喰ったさ。おまえはどうだ?」

「もちろんおれも、これ以上ないほど、和魂にぎみたまを食べたよ。おかげで、また太りそうだ。――しかし、具合が悪そうだね? まったく、おまえは前後なく暴れていたからね。疲れたのかい?」

 黒は口の中に残る、酸っぱいような、塩っぽいような肉片を吐き出して、うんざりとした様子で、いった。

「わからない。ただ――。最近おれは、どうにも気分が重い。いや、それは昔からか。……おれは昔から、気分が悪い。そういうことだ」

「わかるよ。おまえが食べ物としている、荒魂あらみたまがいけないんだろう」

 そこで、白はふたつの力について語った。ほとんどが、初代の白鷺ノ羽しらさぎのはねより聞いたことだった。

 荒魂あらみたまは万物に潜む、破壊へ向かう力だ。消滅し、無に帰そうとする力だ。いわば、死に向かう力とも呼べる。人間の体には様々な力が宿るが、そのうち荒魂あらみたまはもっとも根源的なものである。――それはいわば、死への欲求、とも呼べるものだ。

 人間は、最後の休息地として、救済として、舞台の奥に死があるからこそ、人生を舞うことができるのだ。――だとすれば、日々の生活を営む力、太陽に祝福された力こそが、和魂にぎみたまである。人間や生き物は、自らや家族を守り、前へ進むことを本能的に宿命付けられている。その後押しをする、根源的な力が和魂にぎみたまなのだ。

「やめろ。そんなことは、飽きるほど聞いた」

 と、西ノ顎にしのあぎとはさえぎった。東ノ顎ひがしのあぎとはがっかりとした様子で、いった。

「わかったよ。――とにかくおまえは、荒魂あらみたまを溜め込みすぎたんだよ」

「仕方があるまい? ほかに何を食べよというのか。木の実を? 鹿を? 駄目だ駄目だ。そんなものは、何の足しにもならん。やはり、人の体に詰まった、じくじくと渦巻く荒魂あらみたまでなけりゃ。――せいぜい、次は食べすぎないようにするとしよう」

「同情するよ。……おまえは、いわば人々の死を喰らっているみたいなものだから」

「ふん。おまえが羨ましくもなる。同じものを食べても、おまえは上澄みの和魂にぎみたまを取り込めばよいのだからな。一方、おれなんかは、悲惨なものさ。――夜、あたりが静かになると、聞こえるんだ。おれの腹の中から……いや、周りの梢から、夜風の向こうから、おぞましい声がな。――やつらは、死にたい、消えちまいたい、と喚いては、おれの体にまとわりついてくるんだ! ……はじめ、おれはこう思ったんだ。やつらは、おれが腹におさめた人間どもの、荒魂あらみたまが声を持ったのだろう、と。しかし、最近おれは、そうでもない気がしている」

「どういうことだ?」

「あれは……。やつらの声は、たまったものじゃない。おまえも聞こえるはずさ。――そうさ、あの、空腹にあえぐ声! 介錯を待つ侍のうめき声! 病に伏した老人の咳の音! そういったもろもろの声は、外からやってくるのさ。――つまり、おれはいつしか、世界中の呻吟に襲われるようになったんだ」

「そんな……。そんなことが……」

「かまととぶるんじゃない! そのことは、とっくに、おまえはしっていたはずだ。……おまえが聞いているのは、歓喜の声や勝利の声、産声や笑い声など、晴れがましいものばかりだな。それだって、おれはしっているぞ」

「しかし……それは……」

「それはそれで、いいのだ。おれたちは昔から、そう宿命付けられているのだからな。――それでもおれには、やり切れないときがあるんだ。どうにも、人々があまりに苦しんでいるような気がしてしまって。彼らは、なにかの間違いで、こんな世界に生まれてしまったのではないかって……」

「そんなことを考えるのは、どうかしてるよ。もちろん、おれにも、おまえの言っていることはわかるよ。しかし、生き物や人々の存在が、坂を転がる間違った石ころだ、なんてことは、ないと思う。――いずれにせよおれたちは、そんな人間を容赦なく喰ってしまうわけだけど」

「そうだ。それだけに、おれの体には、溢れんばかりの荒魂あらみたまに侵されてしまったんだ。おれは、死を喰らいすぎたんだろうか? ……それにしても、なあ、東のよ。聞こえるだろう? ――いまも、死にたいよう、死にたいよう、って。この女の声が」

「いや、おれには、わからない」

「しらない振りはやめろって! 痛いよう、って。辛いようって。生きていてもいいことがないようって。……おお。やつらは、こんなことを、望んじゃいないのさ。……おお、やつらは、間違った石ころだ。坂を転がっていって、いったい、どこに行き着くんだっていうんだよ? ……なんにもならない。――そこは、泥沼さ。まったく、わからないよ。生き物は、なぜ苦しみながらも、生きようとするのだろう」

「西の。おまえはちょっと、疲れているんだよ。何百年も、同じことをやってきたんだから、無理もないだろうけど」

「……いやだ。もう、こんなことを続けるのは!」

「落ち着けよ。人間たちとおまえは別の存在だろう。おまえは、おまえさ」

「おれにはもう、耐えられないんだよ!」

 そうして、西ノ顎にしのあぎとは結界から外に出ようと、移動しようとしはじめた。東ノ顎ひがしのあぎとはそれを阻もうと、木に巻きついて抵抗した。


  * *


 鹿彦はそこで、意識を取り戻した。長い幻を見ていたようだった。目が覚めても、さながら悪夢のような、暗い鍾乳洞の光景は変わっていなかった。

 ぼんやりと輪郭のみがうかがえる、大蛇の声が響いてきた。

「あの夜、ついにおれは逃げ出したな。おまえを噛みちぎって。なあ、東の」

「わからない。……おれは、鹿彦だ」

「いいや、おまえは人間の体をまとってはいるが、元はといえば、白蛇の化身であり、和魂にぎみたまの化身なのだ。忘れたのか?」

「違う! そんなことはない……」

「ふん、そんなことはどちらでもいい。――とにかく、ここを去ることだ。仕事の邪魔をしないで欲しいんだ」

「仕事――。人々に呪いをかけて、沼へ引きずり込むことが?」

「仕方のないことだ。彼らが、それを望んでいるのだから。おれは、逃げ場を供しているにすぎない。ここにくれば、救われる、と」

「続けさせるわけにはいかない」

 そういって、鹿彦は斧を構えた。

「そんなもので、どうするというのだ、東の」

 にわかに、西ノ顎にしのあぎとは体を動かした。光り苔が茫と照らすその体が、ゆらりと持ち上がったと思うと、鍾乳石を弾き飛ばしながら、恐るべき速度で迫ってきた。鹿彦は襲ってきた蛇の牙をかろうじてかわしたものの、斧を落とした。

 ついで、体勢を崩して転び、岩壁に頭と肩をしたたかに打った。

 鹿彦は朦朧とした意識で、黒い蛇の体が再び、自分に迫ってくる様子を眺めていた。

 すぐに、鹿彦の体は、蛇の牙に挟まれた。呻き声を漏らすも、牙は容赦なく体に喰い込んできた。

 鹿彦は薄れた意識の中で、自身の内奥から湧き上がる、熱のようなものを感じた。

 それは鹿彦の生命を守るべく、永年に渡って、陰ながら見守っていた存在である。

 ひとりの人間に複数の人格が内在するように、さながら隠れた鹿彦の本性として、半ばは別の人格として、半ばは鹿彦そのものとして眠っていた存在……。その本性が、とうとう首をもたげたのだ。

 白光するかたまりは膨張し、鹿彦の体を呑み込み、やがて鹿彦そのものとなった。

 西ノ顎にしのあぎとの口を押し開くように、熱く膨れ上がったのは、白蛇――すなわち東ノ顎ひがしのあぎとの姿である。かつては一体であった二匹の神は、今や尻尾の途切れたように見える、白と黒の蛇となって、対峙していた。

 鹿彦は目の前で戸惑う黒蛇へとぶつかっていき、そのまま大きな顎で首根っこへと噛み付いた。いきおい、二匹は絡まり合って、鍾乳洞を転がっていく。

 鹿彦にはもはや、どこをどう転がったのかも分からない。

 がむしゃらに西ノ顎にしのあぎとへと噛み付いて、息の根を止めようとしていた。そうやってもがくうちに、こんどは水の中に落ちてしまった。大きな水音をたてて、二匹は沈んでいく……。

 そこは、広大な地底湖だった。

 天井には例の光り苔がまばらに張り付いており、星空のごとく光たっていた。一方水中には、緑色にうっすらと白光する、海月かなにかのような透明な生物が幽暗と漂っていた。

 西ノ顎にしのあぎとの首元からは、濃い墨のような体液が、大量に流れ出ていた。体液は湖水に止めどなく流れていっては、鹿彦たちの周りを暗く染めていった。

 そんな水中に沈んでいくときであっても、鹿彦は顎の力を緩めようとはしなかった。

 するとそこに、西ノ顎にしのあぎとの声が聞こえてきた。声、といっても、直接頭に語りかけてくるような響きでもあった。

「どうあっても、おれを離さぬのか」

「そうだよ。あいにく、おまえを逃がすわけにはいかないからね」

 鹿彦は、口に西ノ顎にしのあぎとをくわえたまま、牙の隙間からいい返した。――言葉にはなっていないが、伝えようとした意図は、相手に届くようだ。

「このままだと、ふたりとも、窒息してしまうぞ」

「……ぞっとしないね」

「強がるなよ。苦しそうだぞ、東の」

「おまえも、苦しそうだね、西の」

 西ノ顎にしのあぎとは暴れることもなく、静かに目を閉じたようだった。鹿彦も、その白く大きな口を心なしかゆるめ、目を薄らと閉じ、羊水のごとき温もりをもった湖水に、身を預けていた。急な眠気に見まわれていた。


  * *


「おい、眠ったのか?」

 突然の声に、鹿彦は目を覚ました。

 あたりは夜の森の中のようだった。眼前には焚火が燃えている。絶えず炎は荒々しい音をたてて、木の皮や枝を食んでいる。

 右隣には、先ほどの声の主がいた。

 会ったことのない人物だったが、なぜだか、鹿彦は懐かしさを覚えた。浅黒い肌に、引き締まった筋肉が隆々と身に付いていた。鹿彦はその瞬間、その男が、自分の父である岩山ノ鹿いわやまのしかであることを悟った。

「大丈夫だよ、おれは起きてる」

「そうか。もうじき、お母がくる。それまで、起きていろや」

「わかってるよ」

 梟の声と山犬の遠吠えがこだまする夜の森で、岩山ノ鹿いわやまのしかとずっと待っていた。

「小僧。なかなか大きくなったな」

 と、岩山ノ鹿いわやまのしかはぶっきらぼうにいった。

「そうかな」

「うむ。大きくなったぞ」

 と、岩山ノ鹿いわやまのしかはつぶやいた。

 そのとき、鹿彦の眼前に一匹の蝶が見えた。青い翅は焚火の光によってきらきらと輝いた。ほのかな燐光をまといながら、蝶は鹿彦の頭上を旋回し、近くの地面に降りた。すると岩山ノ鹿いわやまのしかはいった。

「遅かったな、《天ノ青玉》よ」

 すると、蝶はそれに答えるかのように、背中でぴたりと合わせられた翅を左右に広げ、また軽やかに閉じた。ふいに、鹿彦は違和感を覚えた。

(そうだ、お父も、お母も、死んでしまったはずじゃないか!)

 そこで、岩山ノ鹿いわやまのしかはいった。

「おまえは、まだこっちにきてはだめだ。目を覚ますんだ」

 そんな声を無視して、鹿彦は青い蝶を眺めていた。

 蝶は規則正しく、呼吸でもするように明滅を繰り返していた。

 光っては、暗くなり、光っては、暗くなり……。


  * *


 そこで意識を取り戻した鹿彦は、相変わらず湖水の中をどこまでも落ちていく最中だった。

 傍らには、ぴくりとも動かない西ノ顎にしのあぎとの姿があった。――もはや二匹の蛇は、絡まる綱のように身を近づけて、暗い水の中を沈み続けていた。

 そのとき、鹿彦の頭の中に響いてくる声があった。

「……お聞きなさい、鹿彦」

 それは、母親の声だった。

「わたしのお腹にいたあなたは、あのとき、東ノ顎ひがしのあぎとの霊と同化しましたね。――けれど、人間としてのあなたと、神たる東ノ顎は、本来別々のものなのです」

「どういうことだい……?」

「深く結びついたふたつの霊を、分かつときがきたのです。さあ、鹿彦よ。その蛇の体を離れて、いま……」

 すると、鹿彦の体に電撃が走った。ついで、大きな力によって、蛇の体から自分自身が引き離されていった。

 ――ふと鹿彦が下方を見ると、二匹の蛇が絡み合いながら、暗い湖水へと消えていく所だった。

 鹿彦の霊は、湖水の中を浮上していった。

 その夢うつつの意識の中で、鹿彦はひとつの夢を見た。


  * *


 蛇の声に誘われて、多くの人々が崖を下り、沼へと旅をするという夢。

 人々は次々に沼へと落ちていく。

 やがて、沼の中に溶け込んだ人々の荒魂は、蒸気のように宙へと浮かび、半分は西ノ顎にしのあぎとの体に吸い込まれていく。――そしてもう半分は、雨雲のように固まっていく。

 やがて、雨雲はますます凝縮され、生物の形をなしていった。

 いや、生物と呼べるのだろうか。

 人々の荒魂は、真っ黒な蜥蜴になっていった。

 また、その夢の中で鹿彦はぼんやりと思った。

 一連のできごとは、光と闇を峻別することではじまった悪夢なのではないか、と。


  * *


 大巫女は祭壇の前に座して、呪を唱えていた。

 冥門ノ術めいもんのじゅつで使っている木の門は、相変わらず祭壇の向こう側に屹立している。

 大巫女は瞑目し、顔や首筋、手脚に汗を浮かべながら、ひたすらに呪文を口にしている。

 汕舵の戦士や馬稚の兵を送り込んだあと、大巫女は彼らの行く末を霊視していたのだ。

 むろん、鹿彦が大蛇の姿になったことや、蛇の霊体が切り離され、再び人間の姿に戻ったことも見通していた。

 もろもろの戦いは終わり、しかるべき結末を迎えようとしていたのだ。――しかし、その結末とは、汕舵の創り上げた神の死と、旅人たちの死を意味していた。

 大巫女が霊視にて見たのは、地響きを立てて崩れゆく、西の盆地の様子だった。最果ての沼や洞穴を中心として、地盤が軋み、崩落しようとしていた。

「まずいな」

 と、呪を止めた大巫女はつぶやいて、顔を上げた。


 陽那は薄れゆく意識の中で、皺だらけになった自分の手を眺めていた。

 周囲では、陽那を守るために残された五人の兵が、たびたび襲ってくる蜥蜴たちを追い払っていた。あたりには黒い泥のような蜥蜴の死骸が重なり、兵の死骸が積み重なっていた。

 そして背後には、巨大な崖が冷厳とそびえている。――崖を降りてきてすぐに蜥蜴の襲撃を受けたとき、命懸けの呪法を使ったせいで、陽那の体は齢八〇か九〇を数える老婆のごとくなっていた。

 その体を地面に倒し、馬稚の兵たちが戦い、また、疲弊してゆくのを見ていた。

(こうなることは、わかっていたはずだ)

 と、陽那は自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、後悔と悲哀のせいで、胸が張り裂けてしまいそうだった。

(わたしは、宮や人々のために、力を使ったのだ。これこそ、わたしの生き方であり、死に方なのだ。間違ってはいない!)

 そうやって乾いた唇をもごもごと動かしては、涙まじりに咳をした。

(鹿彦。きみはもう、然るべき、敵の寝ぐらに至ったのか? それさえ叶えば、わたしの命など……)

 周囲には絶え間なく、兵たちの掛け声や、剣が蜥蜴を切り裂く音や、蜥蜴の悲鳴がこだましていた。

「陽那殿! どうかお気をたしかに! 間もなく、援軍がくるはずです!」

 なかなか力の入らない首をまわして、陽那は崖を見上げた。助けが来たとしても、どうやってこの崖を登ってゆくのか、想像もつかなかった。すでに、引き返せぬ道だと覚悟を決めて、死地にやってきたのではないか。そう思いながら、陽那は視線を落とした。

 そのとき、地面の底から重々しい音が響いてきた。積み重なった岩がこすれ、崩れていくような、恐ろしい音だった。すると次第に、地面が振動しはじめた。陽那は地面に横たわったまま、身をこわばらせた。

(鹿彦。……きみはきっと、何か、肝心なことをやり遂げたんだな。そうだ! これから一体、何が起こるのかはしれないが、例の、蛇の魔性は始末したと、そういうことなんだろう? ならば、恐ろしくなどない。後悔など、あるものか)


 一方そのころ鷹ノ左目たかのひだりめは、満身創痍といった状態で、沙耶の近くで斧を構えていた。すでに矢は尽き、弓は役に立たなくなっていたため、息絶えた他の戦士の斧を拾ったのだ。近くには信貞が、黒い甲冑の鬼神とともに、蜥蜴たちへ刃を振るっていた。

 沙耶は相変わらず、半死人のごとく地面に伏して、呻き声を上げていた。少しでも隙があれば、自ら沼へ落ちていってしまいそうだ。

 そこへ詰めかけるのは、まだまだやってくる蜥蜴の群れだ。

 鷹ノ左目たかのひだりめは沙耶を守りながら斧を振るい、信貞と鬼神はがむしゃらに太刀を振り回している。足元には、倒れた兵たちの姿も見える。生死が判然としないが、ときおり呻き声が上がるところをみると、何人かは存命の者もいるのだろう。

「なかなか蜥蜴どもが途切れぬのう」

 と、信貞はいまにも倒れそうなほど、ふらふらとした足取りで、太刀を杖代わりにしながらいった。

 沙耶を尻目に、斧を右手に提げた鷹ノ左目たかのひだりめは、あきらめのこもった声で答えた。

「そうだな。まったく」

 そういって、鷹ノ左目たかのひだりめは眼前にやってきた蜥蜴に立ち向かうも、腕はぴくりとも上がらなかった。

 するとそのとき、突如として地面が震撼した。真下から、突き上げるような揺れが襲ってきた。

「なんじゃ、これは!」

 と、信貞は怒鳴り散らした。

 揺れはますます激しくなっていった。

 洞穴から沼にかけて大きな地割れが走り、間もなく沼のあった場所は落とし穴のような空洞になった。

 そこへ向かって全てが滑り落ちてゆく。岩や砂や蜥蜴の死骸。怪我をした兵や、汕舵の戦士の死骸など……。

「なにが起こっておる!?」

 と、信貞は大声を上げた。

 鬼神――すなわち信成も、驚愕した様子で立ちつくしている。

 そもそも、誰しもが立っているだけで精一杯だった。

 常世の西端の地は、崩壊しつつあった。

 いまや西ノ顎にしのあぎとの力が失われ、荒魂あらみたまによる力の輪環が損なわれたことで、崖より下に造られた西ノ顎にしのあぎとの領土が滅びようとしていたのだ。


 大巫女は冥門ノ術めいもんのじゅつを維持しながらも、霊体の大半を体から引き剥がし、自ら常世へと身を乗り入れた。

 そうすることの危険をしらぬ彼女ではないが、愛娘や男たちの苦境をしりながら、じっと座っていることはできなかった。

 大巫女は霊体となって門をくぐると、一息に常世の空を駆けて、崖の前までやってきた。見下ろすと、すでに崖の下には縦横無尽に亀裂が広がり、地面は半分ほども見えず、真っ黒な地割ればかりが目立つ状況となっていた。鹿彦たちはもちろん、盆地をさまよっていた、沼に落ちる前の人間たちも、犠牲になってしまったのだと、大巫女は嘆き悲しんだ。

 遅きに失したと、大巫女は悲嘆に暮れた。……しかし、それであきらめる彼女ではなかった。

 ここで、大巫女は生命の全てを賭して、最後の秘技を試みたのであった。

 大巫女は両手を天に突き上げ、目を瞑り、呪を称えはじめた。

 大巫女の体から光がほとばしり、それが腕へと集まっていく。

 光は無数の紐となり、網のように、崖下に伸びてゆく……。

 大巫女は、その巨大な光の網により、地底に落ちてゆくあらゆる人々の霊を救おうとしているのである。彼女の眉はきつく歪み、口元は引きつっている。みるみる体じゅうの血色が失せ、その代わりに光の網は、大きく太くなっていった。

 途中大巫女は。自身が作った網の中に、陽那がいることに気がついた。

 光の網に掬われた陽那は、二〇歳そこそこの娘だとは思えぬほど、老いさらばえているように見えた。

「愚か者……。門へ飛び込んでいったと想えば、後先を考えずに、力を使ったのだな……」

 切なそうにつぶやく大巫女は、眼下に見える陽那の体に向かって意識を集中させると、残り少ない自らの生命力を分け与えた。




 鹿彦は鳥の声によって目覚めた。

 あたりには、朝日の登りかけた白ノ宮の光景が広がっていた。それに、汕舵や馬稚の兵たちが地面に倒れていた。陽那の姿もあったが、やはり地面に倒れたままだった。そして、その外周には何人もの巫女たちが囲っていた。

 鹿彦が振り返ると、冥門ノ術めいもんのじゅつに使った木製の門と、その向こう側の祭壇が見えた。祭壇の向こうには、大巫女が座っていた。また、大巫女の姿は朝日を浴びて、真っ白に輝いていた。

 眠るように目を閉じている大巫女は、ぴくりとも動く様子はない。

 次第に目覚めはじめた汕舵の戦士や、馬稚の侍たちの中には、大巫女が作った光の網に救われたことを憶えている者もいた。鹿彦も、大巫女がもたらした奇跡のことを、ぼんやりとは憶えていた。とはいえその結果、大巫女がどのような犠牲を払うことになったか、しる由はなかった。――事実、大巫女はその命を失うことになったのだ。

 鹿彦は朦朧とした意識のまま、大巫女の元へと近づいていった。すると、白装束に包まれた大巫女の体が、以前よりも深い皺に覆われ、青ざめていることがしれた。鹿彦は大声を上げることもせず、駆け寄ることもせず、生気の失せた大巫女の姿を見ていた。

 やがて、鹿彦の周囲に目覚めた者たちが集まってきた。

 信貞は、自身が生きていることに驚くように、手足を眺めまわしていた。

 鷹ノ左目たかのひだりめは、いつまでも起き上がらない半数ほどの男たちを残念そうに見てから、いまだ狼狽している生き残りの戦士たちをすり抜け、鹿彦の前へとやってきた。

「おわったようだな」

 鹿彦はうなずいて、そうだよ、と答えた。鷹ノ左目たかのひだりめは、祭壇に向かって座したまま動かずにいる、大巫女の方を見た。

「おれは憶えている。大巫女殿が、我らを死地から拾いあげてくれたことを……」

「ああ。もちろんおれも、わかっているよ。命をかけて、助けてくれたんだろうよ」

 そのとき、近くから女のうめき声がした。鹿彦が振り向くと、そこには体を起こしかけた陽那の姿があった。陽那は馬稚の侍に助け起こされると、鹿彦たちに声をかけてくるまでもなく、覚束ない足取りで大巫女へと近づいていった。

「母上……」

 声にならぬ声を漏らしながら、陽那は歩いていった。そして、大巫女の目前までやってきた陽那は、がむしゃらに母へと抱きつくなり、涙ながらに声を張り上げた。

「母上が犠牲になることはなかったのに!」

 そこへ、見習いの巫女がわきから声をかけた。

「どうか、乱暴になさらぬように……。大巫女様はもう、亡くなられております」

 そんな言葉など耳に入らない、といった様子で、陽那は座ったままの大巫女の肩に抱き付き、泣き続けた。

 そこへ近づいていったのは、信貞だった。彼は朱塗りの甲冑をかちゃかちゃと鳴らしながら歩み寄り、陽那の右肩へ手を載せた。

 陽那はふと動きを止め、信貞を見上げた。信貞はゆっくりとした口調でいった。

「誠に残念だった。……こうなるべくして、なったのだろう。犠牲なくして、成し遂げられるようなことではなかったのだ」

 陽那は目をきつく閉じてから、重々しくうなずいた。

「……わかっています」

「これから、宮は新しい大巫女を必要とするであろう」

 それには陽那はなにも答えず、ただ、目を刮と開けて、信貞を見つめた。

 鹿彦はそんな光景を見守りながら、やがて沙耶のことを思い出した。

「やはり、気がかりなのか」

 と、声をかけてきたのは、鷹ノ左目たかのひだりめだ。

「ああ、そうだ。沙耶は、どうなったんだろう……」

「わからんな。無事だろうか……。いずれにしても、村に戻る必要があるな」



 ひとりの汕舵の少年が、蝶を追いかけて走っていた。蝶の翅は朝日を浴びて、黄色味を帯びた白色に輝いている。

 やがて蝶は、一軒の家の戸口に舞っていった。そこは、眠ったままの沙耶がいる家だ。

 おそるおそる少年が戸口を覗き込むと、長老の沙羅ノ腕さらのうでが、沙耶の眠る寝具の横に腰を下ろしていた。

「どうした? そんなにあわてて」

 と、長老は微笑を浮かべる。

 沙羅ノ腕さらのうではときおり、沙耶の様子を見にきていた。

「――蝶が」

 と言いさした少年だったが、すでに蝶がどこにも見えないことに気がついて、口をつぐんだ。

 そのとき、少年はなにか、小さな動物が動いたような気がして、反射的に沙耶の方を見た。

 そこには、なんの動物もいなかった。代わりに、沙耶の口元がぴくりと動いたのがわかった。

 次第にまぶたや頬が、細かく動きはじめたようだった。




 蛇霊記 おわり

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蛇霊記 浅里絋太(Kou) @kou_sh

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