第10話
その日は台風が近づいているのか、白ノ宮は強い風雨にさらされた。無論、その程度のことで門が倒れることはなかった。とはいえ唸りを上げる風は、人々の心に先行きの不安を植え付けずに置かなかった。
鹿彦は男たちに混じって、門の手入れや補強を行った。
その日の夜、鹿彦は夢を見た。
珍しく、早い段階で夢だと気がついたのだが、だからといって、自身を御すことはできなかった。
漠とした自意識を保ってはいながら、しかし半ば以上朦朧として斜面を歩いていた。
そう、常世を西へと下ってゆく、あの斜面のことだ。
眠りの中でたまたま迷い込むくらいならば、誰でもあり得ることである。
またその場合でも、大抵は途中で目覚めるか、自身を守護する存在によって、安全な場所へと連れ戻されるということになる。
このとき鹿彦は、それほど深くはない眠りだったため、蛇の声に魅入られることはなかった。
かすかに聞こえる蛇の唸り声を耳にしながら、徐々に、徐々に歩いていった。
周囲には、蛇に吸い寄せられるように歩いていく者もあれば、鹿彦と同様に、夢の中で迷い込んだらしき、ある程度の自我を保ったような者がいた。――それらは、目の輝きで容易に区別できた。
斜面は次第に薄暗くなっていった。
どういうわけか、鹿彦はせかされるように足を早めはじめた。
どんどん進むと、ついに西の果てに辿りついたのだった。
そこで突然と、斜面は崖になった。
急峻な崖の底には、まだまだ西に向かって、暗い領域が広がっていた。
蛇に心を呑まれた者たちは、その崖を転がり落ちていった。
また、鹿彦は彼らの末路を汕舵の民より聞いていた。――ことに汕舵の長たる
崖を見下ろして立ちつくす鹿彦の横を、ふと、緩慢と歩く白い影が横切った。
白い巫女装束に身を包んだ、ひとりの女だった。
墨を満たしたような、新月の夜のごとき瞳には、一片の意思の光すら見い出せなかった。
巫女はなにごとかを呟きながら、崖へとふらふらと吸い寄せられていった。
「いけない!」
鹿彦は手を延ばすのだが、その手は白い布をかすり、湿った空気のみを掴んだ。
また、その横顔を見紛う鹿彦ではなかった。
「沙耶……さん」
その声にさして反応を示すこともなく、巫女は落ちていった。
――そこで鹿彦ははたと目を醒ます。
さきほどの夢が、どこまで夢なのかはわからなかった。手遅れになる前に救わなければ。そう強く思った。
六日目の夜、ついに
戦士はいずれも手斧や弓を持ち、毛皮や麻の服を着ていた。日々の暮らしの中で鍛えられた体躯は、松明の炎を浴びて黒光りした。
夜はささやかな壮行の宴が催された。
戦士たちは巫女たちの酌を受け、魚や酒に舌つづみを打ち、巫女舞いに酔いしれた。彼らは、天女に出会った熊の集団のごとく色めき立ち、豪快に笑い、騒いだ。
とはいえ
「陽那殿はいないようだな」
と、
「そうだね。あんたが去ってから、一度も見ていないよ」
と、鹿彦は答えた。
「よほど、難しい術なのだろうか」
「だろうね。なにせ、命がけで挑むわけだからね。――おれたちにしても命がけだが」
「元はといえば、われわれ、汕舵の責に帰すことなのだから、当然だ。……ところで、おまえに渡さなけりゃならないものがある」
そこで
「受け取れ。
「なんだって? おっ父の、斧……」
鹿彦は辿々しい手つきで手斧を受け取った。――ついで、おそるおそる抱き寄せた。
「おい。そいつは、赤ん坊じゃないぞ」
「ああ。わかってるよ」
「少しは、扱えるようにしなけりゃならないぞ。いくらも時間がないが、多少は教えておいてやろう」
「そうだね」
鹿彦には、武器で他者を痛めつけたという経験などはなかった。そのため、鹿彦は手斧の冷たさと重さに怖気づきそうになっていた。
「怖いのか? それを振るうことが」
「……そうじゃない、といったら、嘘になる」
「すぐに慣れるさ」
そこで、鹿彦は口をひらきかけ、言葉を呑み込んだ。『斧の扱いに? それとも、殺すことに?』とは聞けなかったのだ。
翌日の昼に、陽那が人々の前に姿を現した。痩躯は修行の壮絶さを物語っていた。
大巫女は姿を見せる気配がなく、相変わらず本宮の奥に控えているようだった。
やがて陽那は広場に立てられた門を確かめ、その前に祭壇を築いた。祭壇には白い布がかぶせられ、神酒と榊が配された。陽那はまるで、一呼吸ごとに、一言ごとに霊力が漏れていってしまうのを疎むかのごとく、寡黙で冷然とした所作をしていた。
そんな準備がほとんど終わった頃、血色を取り戻した陽那が、鹿彦の近くへやってきた。
「さて、あとは、やるだけだ」
「それにしても、大変だったね。まったく七日間も、よくやるよ。大巫女様に張り付いて、始終教えを受けていたんだってね?」
「ああ、それはそうなんだが……」
と、陽那は煮え切らぬ表情をした。
「気になることでもあるのかい?」
「……うむ。いままでわたしは、
「大巫女様も、それだけ真剣だったってことさ」
「そうだな。全ては、今宵の成功のためだ」
「陽那さん。……あんたは、いいのかい? 人々を救うためとはいえ、その犠牲になっても」
陽那は俯いてしまった。それでも、勇気を奮い起こすように顔を上げると、強い意思の光が灯った瞳をして、いった。
「もちろんだ。覚悟はできている」
すると、陽那は再び儀式の仕上げのため、祭壇の前へと戻っていった。
夜になると、
陽那は祭壇に向かって座している。汕舵の戦士たちは武器を手に興奮の面持ちだ。巫女たちはいずれも真剣な様子で、陽那と門を見守っている。
そのとき、背後の方から突如、ざわめきが起こった。
鹿彦や周囲の者が何事かと振り向くと、なんとそこには、大巫女の姿があった。
――普段は本宮の幕の向こうに座る大巫女を、直接見たことがある者は限られていた。そのため、鹿彦を含め、はじめて大巫女の姿を目にする者も多かった。
左右に中年の巫女を従え、その身を上等の巫女装束に包み、金の頭環を頂いて、大巫女は端然と歩いてくる。
顔に刻まれた幾つもの皺は、大巫女が相応の年齢であることを、人々に納得させた。
群衆に紛れていた鹿彦は、そこで大巫女の凛とした姿に我を忘れ、水にでも打たれたように括目した。
松明の炎に照らされた装束は白く光り立ち、さながらに溢れる霊力が放出されているがごとく見える。
目は煌々と輝き、頭環の金をも霞ませるほどだ。
この場に大巫女がやってくることは、陽那ですらしらされていなかったのだろう。陽那はさっと立ち上がると、大巫女を迎えた。
「どうされたのですか? このような所に。――このわたしを、励ましに来て下さったのだとしたら、不要な心配といわねばなりませんが……」
すると、大巫女は静かにいった。
「陽那よ。
「なんの確認でしょうか? もちろん、母上がこの七日間で教示下さったものが全てだとしたら、それはもう、余さずこの身に納めてあります」
「よかろう。なれば、そこをどくがよい」
「ど、どういう意味ですか?」
「そこをどけ。そなたは、儀式を行ってはならぬ」
「なにを? これまで、なんのために厳しい修行してきたとお思いですか!? それはこの日のためなのです! それをなぜ……。なるほど、臆した、ということですか。たしかに、門を開けば、向こうよりどのような魔性が飛び出てくるか、しれたものではありません。そのため、臆した、ということですね!?」
「誰ぞ、陽那を祭壇の前から連れ出せ」
と、大巫女が右手を上げると、脇から二人の兵が歩み出て、暴れる陽那の両肩を抑え込んだ。
「何をなさるのですか、母上! ご乱心されたのですか?」
すると、陽那は祭壇からしばらく離れた場所に、体を抑えられたまま、座らされたようだ。
大巫女はなにを思ったか、自ら祭壇の前に腰をおろし、片足を立てて趺坐の姿勢をとった。
「こんな機会でもなければ、きちんと伝授することなど、なかったろうよ。なあ、陽那よ。――わらわから逃げるように、そなたは好き放題に飛び周って、時を儚くしたな。しかし、もう、必要なことは伝授した」
陽那は顔を紅潮させ、目に涙を浮かべていた。
「それがどうしたというのです? 母上がそこに座る必要はありません! 死ぬおつもりですか?」
そのとき、ふいに大巫女は声を荒げた。
「たわけ! わらわが、これしきの術でどうにかなると思うのか? ……まったく、侮られたものよ。とにかく、そなたはそこで見ておれ。こうなった以上、そなたが無為に騒げば騒ぐほど、時が移るぞ。すれば、助かる者も、助からぬようになる。――違うか?」
陽那はなにかをいいさしたのだが、あきらめたように、ゆっくりと頷いた。観念したように見える陽那であったが、二人の兵はなおも、油断なく陽那の両脇に控えていた。
「皆の者。これより術をはじめるぞ。一度開けば、すぐには閉じられぬ。――汕舵の戦士ども、準備はよいな?」
すると、ずっと黙っていた
「いつなりとも、準備はできている」
大巫女が呪文を唱えはじめたせいか、夜気がますます冷たくなっていた。ときに高く、ときに低く響く呪文は、鹿彦がこれまでに聞いてきた、いかなるものとも異なっていた。
まるで多国の言葉のような呪文が、緩やかではありながら重々しい、終わることのない音律の波を作り上げていった。
そのうち、人々は門の異変を目の当たりにした。
先刻まで、木で組まれた野蛮なだけだった門が、低く唸っているような音を発したのがきっかけだ。
次第に、門の周囲の情景が歪んで見えるようになった。
鹿彦の位置から門の向こうに見えていた松明は、ときおりひどく捻じれ、水面の向こうのように揺らいだ。
やがて、門の奥になにも見えなくなり、そこにはただ、底しれぬ湖底のような闇が嵌め込まれていた。
「つながったぞ」
と、大巫女がいった。
にわかに、人々の中にざわめきが起こる。
鹿彦は
すぐ後ろには、五八人からなる汕舵の男たちが息巻いている。
「いつでもいいぞ」
と、
鹿彦は振り向いて、
「さあ、時がきたぞ」
それに対して、戦士たちは一言、「おう!」と、地響きのような掛け声で応じた。
鹿彦は門に満ちた闇に向かって、少しずつ体を差し入れていった。そして、とうとう顔が浸される所までくると、意を決して、一息に飛び込んでいった。
そこで鹿彦は、不気味な感触に襲われた。粘質な闇が押し寄せてきて、濡れた絹のように体を撫でつけてくる。めまいがし、吐き気が込み上げてくる。それは、沙耶の術で常世に行ったときと、まったく違った感覚だった。とにかく今回は霊体の一部だけではなく、肉体も含む全てが、異質な次元へと運ばれていったのだ。
甲高い耳鳴りが止まない。
まるで鼻を強打したかのような、熱い血の臭いがほとばしる。
鹿彦は全身の震えに襲われ、怯えながら体を丸めた。
もはや、自分がどこでなにをしているのかも分からない。ただひたすら、引きつるような体の痛みと途方もない耳鳴りに包まれ、戸惑っていた。
まるで、常世という世界そのものが、鹿彦という異物を拒んでいるようでもある。いや、新しい世界に順応するため、鹿彦の本能が、自身を作り変えてでもいるのか。
骨が全て溶けていき、新しい骨を与えられる感覚だった。
――それでも、鹿彦を襲った諸々の異変は、少しずつ減じていった。
次第に、辺りの光景がはっきりと見えはじめた。
鹿彦がたどり着いたそこは、森と平地の境目のような場所だった。
普段ならば頭上で輝いているはずの太陽は、どこにも見当たらない。空には雲がなく、ひたすら、くすんだ青い空間が広がっているだけだ。
背後にはそれでも、いくばくかの生命力を感じさせる森が広がっており、鹿彦の立っている平地に向かって、森の斜面がおりてきている。
そのとき、太い弦をはじいたような、低い音が響いてきた。一瞬、空中に陽炎が立ったと見えるや否や、その陽炎から
どうやら、その空中の一点が、現世に繋がっているようだった。
汕舵の戦士たちは積み重なるように倒れ込んでいったのだが、まごついていては押し潰されるため、門の前から離れていった。
やがて、総勢四八人の戦士のすべてがそろった。
「いまの所は、敵らしき者は見えないな」
「みたいだね。いまの所は……。だけど、気を付けなきゃならないよ。おれはつくづく、蜥蜴どもと縁があるみたいだからね」
「ふん。ろくな縁じゃないな」
「そのとおり。やつらはろくなもんじゃない! 黒い、てかてかした、本当に不気味なやつらなんだよ。しかし、これだけ手勢がいれば、なんとかなるだろう。――いや、足りるかは分からないが。とにかく、ここまで来たら、進むまでだ」
鹿彦は
汕舵の戦士たちは、常に油断なく腰をため、緊迫した様子で歩いていった。
鹿彦もびくびくとしながら、しがみつくように構えた斧を右手に、西へと歩を進めていった。
ときおり、半死人となった者が、脚を引きずるように歩いていくのが見えた。そんなとき、鹿彦はどうしても沙耶のことを思い出してしまった。
崖に転げ落ちていく沙耶の横顔。
暗い眼窩と乾いた唇。
そんな痛々しい沙耶の面影が脳裏に浮かぶと、鹿彦の脚は覚えず早まった。
しばらくしてから、
「おい、沼があるぞ。あんなところに」
鹿彦は立ち止まり、目を細めて、
「たしかに……。あれは、なんだろうか……」
そのうち、沼は波打つように蠢き、心なしか近づいてきているようにも見えた。
――たしかに、それは動いていた。
また、近づいてくればくるほど、沼は大きなものであることがわかった。
そして、沼はやがて鹿彦たちに真の姿を明かすことになった。――それは、無数の生物の集合体だった。それも、百か二百か、数え切れぬほどの大群が、津波のごとく隙間なく押し寄せてくるのだ。
鹿彦はすぐさま、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「あれは蜥蜴だ! 身構えろ! ……来るぞッ!」
戦士たちは口ぐちに、頓狂な声を上げた。
「なんだよあれは! ちきしょう!」
「しらねえよ! とにかく、戦うしかねえ!」
蜥蜴たちは加速しながら、縦横無尽に展開し、鹿彦たちを囲い込むように迫ってくる。
そこで、このまま待ち受けるのは不利と見てとって鹿彦は、辺りに視線を走らせた。と、少し離れた場所に大きな岩棚があることに気がついた。
「あそこの岩を背に戦うんだ! このまま囲まれたら不利だ!」
「聞こえたか! 急げ!」
そうして戦士たちは鹿彦に続いて走り、岩の前に陣取ると、ある者は弓に矢をつがえ、ある者は斧を剛腕に握り、蜥蜴の来襲にそなえた。
二百匹に届かんばかりの蜥蜴たちは、白く細かい乱杭歯を剥き出しにして、石を蹴散らして迫りくる。
鹿彦は慣れぬ斧を構えて、戦士たちと共に前線に立った。
そこで、早くも
矢はまっすぐ飛んで、黒い津波の先頭を走る、一匹の眉間に突き刺さった。
その一匹は醜い唸り声を上げてうずくまったが、すぐさま、波に呑みこまれていく。
「射て! 射て射て!」
汕舵の射手は十名ほど。彼らも遅れじと次々に矢を放って蜥蜴を仕留めていくのだが、それでもいかんせん、多勢に無勢である。
早くも蜥蜴たちは岩場に詰めかけてきた。
そこで、とうとう鹿彦へと、はじめの一匹が飛びかかってきた。すかさず、鹿彦は我を忘れて蜥蜴に斧を叩きつけた。
弓を持っていた者は、大半は斧や短刀に持ち替え、手当り次第に蜥蜴たちに襲いかかった。
蜥蜴の手足や頭が飛び散っていくのだが、それにもまして、汕舵の被害も少なくはない。
乱戦の中、鹿彦がふと周囲に目をやると、ざっと見えるだけでも七人が倒れ、蜥蜴の餌食になっていた。
「くそッ! だめだ!」
左手に喰いついてきた蜥蜴を振り払い、鹿彦は叫んだ。
「泣き言は後にしろ!」
と、
蜥蜴はまだ八割型は残っている。その一方、汕舵の戦士は半数ほどになっていた。
「無理だ……」
鹿彦は思わず、そんな弱音を漏らす。
そのとき、背にしている岩棚の上から、影が落ちてきた。
――と見えたのは、鎧を着こんだ武者の姿だ。
それに続いて、二人、三人と、同じく武者が飛び降りてきては、蜥蜴に立ち向かっていった。
総勢で四十人ばかりの武者が、汕舵の戦士に混じって岩棚を守る格好になった。いずれも槍や刀を持って、微塵の隙もない構えをしている。
「遅くなって、面目もない」
と、鹿彦に近づいてきた武者がいる。
兜の中の顔は、まさしく馬稚国の太守、幸畠信貞公のものだった。
「信貞様! いったいどうして?」
「うむ、仔細はあとだ! まずは敵を片付けるべし。――さあ、者ども。日ごろの鍛錬の成果を見せるときぞ!」
すると、武者たちは地響きとも紛う声で、おう、と応じた。
汕舵の戦士たちも心得たとばかりに、唸り声や奇声を発して、斧を振り上げた。
馬稚の武者たちの助力は頼もしくも心強いものだった。
それでも、蜥蜴たちは根強く、戦いは拮抗していた。
蜥蜴たちの猛攻もすさまじく、武者たちですら、一人、二人と犠牲になっていくありさまだ。
――そこに、こんどは白い影が躍り出た。どこから現れたのかもしれぬひとりの巫女が、鹿彦の脇を通り抜け、右手に札を掲げたまま、前線に飛び出ていったのだ。
巫女がなにごとかを呟くと、札からは燦然たる白光がほとばしった。すると、光を浴びた蜥蜴たちは、弱々しい鳴き声を上げて脚を止めた。そこに戦士たちが一気に押し寄せ、これまでの拮抗した戦いが嘘でもあったかのように、次々と蜥蜴たちを屠っていった。
巫女は額や首筋におびただしい汗を浮かべ、力つきるように地へ膝を突いた。そこに、鹿彦は駆け寄って身を支えた。
「大丈夫かい!? 陽那さん!」
巫女は弱々しく首を上げると、「間に合ったようだね」と呟いて、苦々しげにはにかんだ。
その顔には、いつになく疲弊の影がにじんでいた。
目には隈ができ、顔は青白く、うっすらと皺が浮いていた。
「しっかりしろよ!」
と、鹿彦は陽那へと呼びかけた。陽那は苦しそうに呻いてから、眉間に皺を寄せていった。
「ああ……。問題ない。一息に、霊力を使いすぎただけだ。きみが西の果てへ辿りつくまでは、なんとか、持たせなければな」
「いけないよ。……あんたたち、巫女の力には限りがあるんだろ?」
「ふん。わたしのことを、侮らないことだ。こう見えても、蜥蜴どもをあしらうことには、慣れているからな。――きみのお陰でね」
すると、陽那は鹿彦の胸を押しやり、たどたどしくも自らの足で立ち上がった。そこに、兜を外した信貞が近づいてきた。
「久しいな、鹿彦」
「あんたも相変わらずだね。しかし、おどろいたよ! 馬稚の兵が援軍に駆けつけてくれるとは、夢にも思わなかった!」
信貞はため息まじりに、刀を鞘に納めながらいった。
「うむ。宮からの要請があったのだ。なにやら、そなたが人々のために、死地へ挑むとのことだった。しかるに、命の恩人たるそなたを、見殺しにするという法はない。家老どもの反対を押し切って、精鋭を率いてきたのだ!」
「そうか……。ありがとう。あんたには敵わないよ」
「さて、ぐずぐずと話し込んでいる暇なぞなかろう。そなたは、西の果てを目指すのだろう? 早う、沙耶殿を救わねばなるまい。無論、馬稚の民の多くも、救ってやらねば……」
すると、信貞はぎりりと歯噛みをし、蜥蜴の屍体の向こうに広がる斜面を見据えた。鹿彦は答えた。
「もちろんだよ」
信貞はこくりと頷いてから、声を張り上げた。
「武者どもよ! 勇猛で鳴る荒くれどもよ! 戦はこれからぞ。――いざ、進めい!」
すると、「おう」「承知」などいう、地響きのような掛け声が、あちらこちらから返ってきた。
汕舵の戦士と馬稚の武者という、稀有な取り合わせの混成部隊は、半ば飛ぶように斜面を下っていった。
やがて、とうとう彼らは、崖から広大な盆地を見下ろせる所まで辿りついた。
あたりは薄暗く、崖の下がどのようになっているか、明確にはわからない。ただ、亡者――といっても、魂を操られた、不幸な人々――の黒い頭が、豆粒のように動いているのが見えた。
また、それらの人々は、盆地の奥の、ある一点に向かって集まっているようだ。ひときわ暗く見える一画は、沼のようにも見えた。判然としないが、崖からは一里といった距離のように思われた。
鹿彦は陽那へと尋ねた。
「彼らは、どこに向かっているんだろう。あの、沼みたいなところかな? だとしたら、あそこには、なにが……」
「わからない。ただ、この窪地に――、地獄の底みたいなこの崖の下に、すべての答えがあるのだろう」
「ああ。そして、沙耶さんも」
陽那は口惜しそうな顔をした。
「そうだ。沙耶もあそこの沼に向かい、歩いていることだろう。いや、場合によっては、すでに手遅れに……。いや、行ってみなければ、はじまらないな」
鹿彦は意を決して、「いくぞ!」と言い放つと、中腰の姿勢になり、崖へと身を躍らせた。
次々に
彼らはごつごつとした岩肌の上を、すべり落ちるように下っていった。
次第にあたりはもやがかかり、ますます暗くなっていった。
ついに、一行は崖の底に辿りついた。
辺りは常に黒っぽいもやが渦まき、地面は赤茶け、乾燥していた。
草木はかけらもなく、空を見上げても、淀んだ大気の向こうに、うっすらと空の光が透かし見れる程度だった。
さながら、神仏から見放されたような盆地に至った鹿彦たちは、いましがた下ってきた崖を背に、慄然と立ちつくしていた。
ときおり、崖の上から例の半死人たちが、声にならぬうめき声を上げつつ転げ落ちてくる。彼らはのっそりと起き上がっては、緩慢な動作で歩きはじめ、目的地もなく進んでいくようにも見えた。――いや、鹿彦がよく目をこらして彼らを観察していると、おぼろげな意識ではあろうが、遠回りをしたり迷ったりしながらも、着実に沼の方角を目指して進んでいることがうかがいしれた。それに、蛇のうなり声も、より大きく、明瞭に響いてきていた。
西の方から醜々とこだましてくる耳障りな声は、ひっきりなく頭を占領してくる。――それはまるで、耳元で百匹の毒蛇がとぐろを巻いて、恨みがましい威嚇の声を上げているようでもあった。
命令を待って立ち並ぶ武者たちを背に、信貞はいった。
「堪らぬな。この声を聞いていると、気がどうにかなってしまいそうだ。ここからでは見えぬが……。やはり、あの沼に、なにかがあるのだろうな」
鹿彦は半死人たちを見ながら、蛇の声の顔をしかめて答えた。
「そうだね、きっと」
思わず、鹿彦は怖気づいたかのように身震いし、肩を落とした。
すると、こんどは陽那が近づいてきて、きっぱりといった。
「恐れている場合ではない。引き返そうにも、手遅れだろうに」
「わかっているよ。……さあ。ここまできたら、進むまでだ」
そこへ、
「おい、戦士たちは、暴れ足りんといってるぞ」
「そうかい。でも、心配は、いらないようだよ」
といって、鹿彦は斧を手に身構えた。
武者や戦士たちからどよめきが起こる。
――崖を背にした彼らに迫ってきていたのは、大小様々な蜥蜴の大群だった。
大きなものは、立ち上がった熊の背丈ほどもある。
それらが、夜の高台から見渡す連山のごとく、黒い体躯を震わせて詰めかけてきていたのだ。
信貞は刀を掲げ、怒号を上げた。
「馬稚の武者どもよ! 好んで死地にやってきた戦馬鹿どもよ! あらくれどもよ! 我に続け!」
それに遅れじと
「蛇が人々に害するようになったのは、元より我らに責のあることだ! 馬稚の獅子どもに獲物を奪われることを恥と思え!」
かくして、蜥蜴と人の総力戦がはじまった。
はじめに汕舵の弓が空を裂いた。
迫りくる大小の蜥蜴を蹴散らすのは、武者たちの仕事だった。
攻防は長く続いた。
死んだ蜥蜴の山の中に、武者や戦士が力つきて倒れ込んでいった。
当初の士気も失せてきたとき、陽那が札を掲げて、呪を唱えはじめた。
すると、陽那の右手から、鮮烈な光がほとばしった。
その光の強さとまぶしさは、これまで鹿彦が見舞われたこともないものだった。
たとえば、密閉された山小屋の暗闇から、一気に真夏の白昼へ飛び出れば、同じようなまぶしさを感じるだろうか。――いや、それすら生ぬるいほどの白光が、一面を覆いつくしたのだ。
蜥蜴たちはたじろぎ、身悶え、その動きを止めた。
また、その隙を逃さず、鹿彦たちは目を細め、ほとんど視界が真っ白な状態で、敵にとどめを刺していった。
あらかた蜥蜴たちを仕留めたあと、ついに光は減じていった。
陽那は血にまみれた地面に膝をつき、両腕を力なくたらし、朦朧とした表情をしていた。その顔はまるで、年老いた老婆のように皺枯れ、唇は蒼く、目は灰色に濁っていた。
鹿彦は思わず、そんな陽那へと駆け寄った。
「だ、大丈夫かい、陽那さん!」
その声に、陽那はぴくりと、乾ききった頬を動かした。
「わたしは、いったい。……そうか。力を、使いすぎたんだろうな」
「陽那さん……」
「さぞ、……醜い姿になっているのだろうな」
鹿彦は、黒ずんで皺だらけになった、陽那の右手を掴んだ。
「そんなことはない。……そんなことはないよ」
すると、陽那の視線が宙を泳ぎはじめた。もう、座っているのも辛そうだった。それでも、陽那は鹿彦の手を振りはらって、苦しそうではあるが、凛とした声を発した。
「行け。さあ、きみには、やることがあるんだから。行くんだよ」
そういって、陽那は崩れ落ちた。
鹿彦は抱え込むように抱きつこうとしたが、強い力にその肩が引っ張られた。
そこには信貞がいた。
「陽那殿は、何人かの兵に守らせておく。――どうなるかはわからぬが、いまはこんなことをしている場合ではない。違うか?」
鹿彦はしばし動きを止めると、やがて、意を決したようにうなずいて、立ち上がった。
「ああ。すまなかったよ」
そのとき、
「おい、油断するなよ! まだまだ奴らは押し寄せてくるぞ!」
見ると、新たな蜥蜴の群れが、鹿彦たちを目がけて迫りつつあった。
「こうなれば、沼に向けて突き進むまでだ!」
そういって、鹿彦は仲間たちとともに、西を目指して駆け出した。
鹿彦と信貞と
それでも、彼らは襲いくる蜥蜴たちを斬り伏して、矢を射かけながら、ひたすら進んでいった。
馬稚の武者は十人ほど、汕舵の戦士は五名ほどになっていたが、最後のひとりになるまで戦い抜かんという、気概だけは並々ならぬものがあった。
やがて、遠くに沼が見えた。
ふんぷんたる悪臭を漂わせるその沼は、暗澹とした瘴気の満ちた地面に、暗い水たまりのごとく広がっていた。
溢れかえるような半死人たちは、その一点を目指して、やはりのろのろと脚を引きずって歩いている。
沼の向こう側には、真っ暗な洞穴らしきものがあった。洞穴――そうでなければ、地面に対してほとんど垂直に貫かれた、丸い穴とでもいうべきか。その、穴からは絶えず、耳障りな蛇の声がこだましていた。
また、沼に向かう半死人の群れの中に、鹿彦はひとりの少女を見つけた。
少女は地面に伏し、沼に向かって這いずっていた。
かつては巫女装束であったであろう衣服は擦れ、破れ果て、土にまみれて黒ずんでいた。
たまらず、鹿彦はその少女に駆け寄っていった。
「沙耶さん!」
絶えず迫りくる蜥蜴たちと戦っていた仲間は、突然走りだした鹿彦を追っていった。
鹿彦は沼の前に屈み込み、沙耶を引き止めようと手を延ばした。
「だめだよ、あんなところに入ったら!」
そういうそばから、背後の沼から、くぐもった水音が聞こえた。半死人たちが沼へ身を投げる音だ。
沙耶はそんな音になんら反応も示さず、鹿彦の声もまるで聞こえない様子で、ずるずると這っていこうとする。
そこへ、
「無理だ。――おそらく、蛇の声に心を乗っ取られているんだろう。どうしようもない」
「そんなことをいったって! どうしろっていうんだよ!」
すると、
「蛇の声は、あそこから聞こえてくるだろう? おまえは、
そんなときにも、蜥蜴たちは鹿彦たちを目がけて迫ってくる。
とうとう、鹿彦たちは沼の前で、数十匹からなる蜥蜴たちに囲まれてしまった。
鹿彦を守るように奮闘していた信貞は、ついに悲痛な声を漏らした。
「くそ! これまでかッ!」
信貞はまるで、最後の力を振り絞るように一匹の蜥蜴に刀を振り下ろした。
そのとき、頭上から雷鳴がとどろいた。
ついで雷が信貞の眼前に落ち、あたりを光で包んだ。
――鹿彦がおそるおそる目を開けると、なんとそこには、黒い甲冑を身に付けた、武者の姿があった。
須臾の間もなく、黒い武者は太刀を振るうと、周囲の蜥蜴を蹴散らした。
「父上!」
と、信貞は左手を延ばした。
「たわけ、かような敵に弱音を吐いてなんとする?」
馬稚の武者たちは唖然とした表情で、大きな体躯を見上げた。
「あ、あのお方は、もしや……」
そこで、黒い武者は荒い声を上げた。
「馬稚の強者どもよ。わしが見ぬ間に、腑抜けたか? ――そうでないと申すなら、この信成に、太刀と槍で示してみよ」
すると、武者たちはにわかに正気を取り戻した様子で、口々に掛け声を発した。「おう!」「いまこそ!」
信成は巨躯を翻し、こんどは鹿彦にいった。
「ここはまかせて、そなたは、あれなる穴を目指せ! あそこに、すべての答えがあるはずだ」
「信成様には、何度も救われたことになりますね……」
「かまわぬ。さて、こちらはこちらで、ひと暴れといこう。――それ、そなたは早う行くがよい」
「沙耶殿は、沼に落ちないようにおれたちが見ておく。ここは任せるんだ」
鹿彦はうなずいて、沼の向こうに見える洞穴の入り口へと駆け出した。押し寄せる蜥蜴の間をすり抜け、上を飛び越え、命からがらに沼を迂回して、穴の前へ辿りついた。その穴は、鹿彦が容易に飛びこめそうな広さだった。
とはいえ、真っ暗な口を開けるその穴は、決して気持ちのいいものではなかった。
穴の奥からは、ぬるい風が吹き付けてきては、生臭いにおいを運んでくる。
ふいに、蛇の鳴き声が止んだ。――死人たちを沼へと導き、敵する訪問者を拒むようなその声は、すっかりと途切れたのだ。そこで、鹿彦はまるで、蛇に招かれているような気持ちにさえなった。
どう考えても、穴の先になにかがあるようだった。――とはいえ、真っ暗な穴の中に単身飛び込んでいくなど、簡単にできることではない。
しばらく戸惑っていた鹿彦であったが、周囲から迫ってくる蜥蜴たちが牙を剥いて襲ってくるのを見るに、どちらにしてもろくな末路は辿らぬだろうと覚悟を決め、暗い穴へと飛びこんだ。
無残に喰い散らかされるよりは、少しでも可能性がある方に賭けた格好か。いずれにせよ、蛇を目指して西の果てまでやってきたのだから、他にどうすることができただろうか。
鹿彦は暗い穴の中を降りていった。
完全に垂直なわけではなく、わずかに傾斜がついていたため、手足を突っ張って降りていった。
それに、どうやら蜥蜴は、穴の中まで追ってくる気配はなかった。
穴の中には完全な闇が広がっていた。
視界の利かぬ狭小な穴を、下方へとひたすら降りていく。
その穴は不思議なことに、常に一定の高さと幅を維持したまま、下方へと延びていた。
やがて、突然体が宙に投げ出され、しばらくの浮遊感に襲われた。――どうやら、鍾乳洞のような場所へと落ちたようだった。
岩肌に付着した苔は、薄っすらとした光を放っていた。
それらのかすかな光を頼りに、体を起こした鹿彦は、岩ばった洞の中を進んでいった。
鍾乳石が連なって垂れる天井は、どこまでも続いている。鹿彦は苔が放つ淡い光の中を歩みながら、徐々に迫りつつある、相手の気配を敏感に感じとっていた。
そう。
鹿彦は確実に、
しばし先に固まった濃密な闇の中に、そういった蛇の気配が満ち満ちていた。
蛇は不気味なほど静かに、沈黙していた。
あれほど人々を狂わせていた、例の銅鑼の音や鳴き声は聞こえなくなっていた。
鹿彦はあちらこちらから反響してくる、自身の足音や息遣いを聞きながら、声をかければ確実に、蛇の耳に届くという確証を胸に秘め、ひたすらに進んでいった。
ふいに鹿彦は、広間のごとき場所に行き着いた。
辺りには地下水が流れ、広間の外周を満たしている。その中央に、まるで海に浮かぶ大陸のように盛り上がった岩場に、黒色の塊がうずくまっていた。
相変わらず苔の放つ光が淡く満ちているものの、全ての闇を溶かすほどの光量はなかった。
そのため、広間に辿り着いた鹿彦は、中央にうずくまった存在が放つ、その淀んだ気配に怯え、足を止め、沈黙していることしかできなかった。
黒い塊は身じろぎするように蠢いた。――しかし、なにかを語り始めるような気配はない。
また、黒い塊の傍らには、巨大な金属の銅鑼が設えてあった。
そのとき、鹿彦の下腹から胸にかけた辺りが、脈動しはじめた。その暖かい脈動が包み込んでくるような感覚が、体じゅうに広がっていった。
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