第10話

 鷹ノ左目たかのひだりめが汕舵の地に向かってから、四日が経った。

 その日は台風が近づいているのか、白ノ宮は強い風雨にさらされた。無論、その程度のことで門が倒れることはなかった。とはいえ唸りを上げる風は、人々の心に先行きの不安を植え付けずに置かなかった。

 鹿彦は男たちに混じって、門の手入れや補強を行った。


 その日の夜、鹿彦は夢を見た。

 珍しく、早い段階で夢だと気がついたのだが、だからといって、自身を御すことはできなかった。

 漠とした自意識を保ってはいながら、しかし半ば以上朦朧として斜面を歩いていた。

 そう、常世を西へと下ってゆく、あの斜面のことだ。

 眠りの中でたまたま迷い込むくらいならば、誰でもあり得ることである。

 またその場合でも、大抵は途中で目覚めるか、自身を守護する存在によって、安全な場所へと連れ戻されるということになる。

 このとき鹿彦は、それほど深くはない眠りだったため、蛇の声に魅入られることはなかった。

 かすかに聞こえる蛇の唸り声を耳にしながら、徐々に、徐々に歩いていった。

 周囲には、蛇に吸い寄せられるように歩いていく者もあれば、鹿彦と同様に、夢の中で迷い込んだらしき、ある程度の自我を保ったような者がいた。――それらは、目の輝きで容易に区別できた。

 斜面は次第に薄暗くなっていった。

 どういうわけか、鹿彦はせかされるように足を早めはじめた。

 どんどん進むと、ついに西の果てに辿りついたのだった。

 そこで突然と、斜面は崖になった。

 急峻な崖の底には、まだまだ西に向かって、暗い領域が広がっていた。

 蛇に心を呑まれた者たちは、その崖を転がり落ちていった。

 また、鹿彦は彼らの末路を汕舵の民より聞いていた。――ことに汕舵の長たる沙羅ノ腕さらのうでによれば、深部に至った者は蛇の餌食になる、とのことだった。

 崖を見下ろして立ちつくす鹿彦の横を、ふと、緩慢と歩く白い影が横切った。

 白い巫女装束に身を包んだ、ひとりの女だった。

 墨を満たしたような、新月の夜のごとき瞳には、一片の意思の光すら見い出せなかった。

 巫女はなにごとかを呟きながら、崖へとふらふらと吸い寄せられていった。

「いけない!」

 鹿彦は手を延ばすのだが、その手は白い布をかすり、湿った空気のみを掴んだ。

 また、その横顔を見紛う鹿彦ではなかった。

「沙耶……さん」

 その声にさして反応を示すこともなく、巫女は落ちていった。

 ――そこで鹿彦ははたと目を醒ます。

 さきほどの夢が、どこまで夢なのかはわからなかった。手遅れになる前に救わなければ。そう強く思った。


 六日目の夜、ついに鷹ノ左目たかのひだりめは戦士を率いて戻ってきた。それも、旅立つときに約束した四〇人を上回る、四八人を連れての帰還である。

 戦士はいずれも手斧や弓を持ち、毛皮や麻の服を着ていた。日々の暮らしの中で鍛えられた体躯は、松明の炎を浴びて黒光りした。

 夜はささやかな壮行の宴が催された。

 戦士たちは巫女たちの酌を受け、魚や酒に舌つづみを打ち、巫女舞いに酔いしれた。彼らは、天女に出会った熊の集団のごとく色めき立ち、豪快に笑い、騒いだ。

 とはいえ鷹ノ左目たかのひだりめと鹿彦は、饗宴もそこそこに、険しい顔をしていた。

「陽那殿はいないようだな」

 と、鷹ノ左目たかのひだりめは杯を左手にしながらいった。

「そうだね。あんたが去ってから、一度も見ていないよ」

 と、鹿彦は答えた。

「よほど、難しい術なのだろうか」

「だろうね。なにせ、命がけで挑むわけだからね。――おれたちにしても命がけだが」

「元はといえば、われわれ、汕舵の責に帰すことなのだから、当然だ。……ところで、おまえに渡さなけりゃならないものがある」

 そこで鷹ノ左目たかのひだりめは、腰に提げた手斧に手を伸ばした。その片歯の手斧は輪状の革紐に引っ掛けられていた。鷹ノ左目たかのひだりめはそれを持ち上げると、鹿彦に差し出した。

「受け取れ。岩山ノ鹿いわやまのしかが使っていた手斧だ。錆を除って、鍛え直した」

「なんだって? おっ父の、斧……」

 鹿彦は辿々しい手つきで手斧を受け取った。――ついで、おそるおそる抱き寄せた。

「おい。そいつは、赤ん坊じゃないぞ」

「ああ。わかってるよ」

「少しは、扱えるようにしなけりゃならないぞ。いくらも時間がないが、多少は教えておいてやろう」

「そうだね」

 鹿彦には、武器で他者を痛めつけたという経験などはなかった。そのため、鹿彦は手斧の冷たさと重さに怖気づきそうになっていた。

「怖いのか? それを振るうことが」

「……そうじゃない、といったら、嘘になる」

「すぐに慣れるさ」

 そこで、鹿彦は口をひらきかけ、言葉を呑み込んだ。『斧の扱いに? それとも、殺すことに?』とは聞けなかったのだ。


 翌日の昼に、陽那が人々の前に姿を現した。痩躯は修行の壮絶さを物語っていた。

 大巫女は姿を見せる気配がなく、相変わらず本宮の奥に控えているようだった。

 やがて陽那は広場に立てられた門を確かめ、その前に祭壇を築いた。祭壇には白い布がかぶせられ、神酒と榊が配された。陽那はまるで、一呼吸ごとに、一言ごとに霊力が漏れていってしまうのを疎むかのごとく、寡黙で冷然とした所作をしていた。

 そんな準備がほとんど終わった頃、血色を取り戻した陽那が、鹿彦の近くへやってきた。

「さて、あとは、やるだけだ」

「それにしても、大変だったね。まったく七日間も、よくやるよ。大巫女様に張り付いて、始終教えを受けていたんだってね?」

「ああ、それはそうなんだが……」

 と、陽那は煮え切らぬ表情をした。

「気になることでもあるのかい?」

「……うむ。いままでわたしは、冥門ノ術めいもんのじゅつどころか、まだ習っていない、大掛かりな秘儀の幾つかを叩き込まれていたのだ。まるで、母上――いや大巫女様は、人が変わったようだった。おそらく、様々な秘儀を学ぶことで冥門ノ術めいもんのじゅつをより確実なものとする、という意味があったのだろう。……たしかに、それぞれの術には、根底で繋がる部分があるのだ。しかし、あそこまでする必要があったのだろうか……」

「大巫女様も、それだけ真剣だったってことさ」

「そうだな。全ては、今宵の成功のためだ」

「陽那さん。……あんたは、いいのかい? 人々を救うためとはいえ、その犠牲になっても」

 陽那は俯いてしまった。それでも、勇気を奮い起こすように顔を上げると、強い意思の光が灯った瞳をして、いった。

「もちろんだ。覚悟はできている」

 すると、陽那は再び儀式の仕上げのため、祭壇の前へと戻っていった。


 夜になると、冥門ノ術めいもんのじゅつの儀式がはじまる頃合いになった。

 陽那は祭壇に向かって座している。汕舵の戦士たちは武器を手に興奮の面持ちだ。巫女たちはいずれも真剣な様子で、陽那と門を見守っている。

 そのとき、背後の方から突如、ざわめきが起こった。

 鹿彦や周囲の者が何事かと振り向くと、なんとそこには、大巫女の姿があった。

 ――普段は本宮の幕の向こうに座る大巫女を、直接見たことがある者は限られていた。そのため、鹿彦を含め、はじめて大巫女の姿を目にする者も多かった。

 左右に中年の巫女を従え、その身を上等の巫女装束に包み、金の頭環を頂いて、大巫女は端然と歩いてくる。

 顔に刻まれた幾つもの皺は、大巫女が相応の年齢であることを、人々に納得させた。

 群衆に紛れていた鹿彦は、そこで大巫女の凛とした姿に我を忘れ、水にでも打たれたように括目した。

 松明の炎に照らされた装束は白く光り立ち、さながらに溢れる霊力が放出されているがごとく見える。

 目は煌々と輝き、頭環の金をも霞ませるほどだ。

 この場に大巫女がやってくることは、陽那ですらしらされていなかったのだろう。陽那はさっと立ち上がると、大巫女を迎えた。

「どうされたのですか? このような所に。――このわたしを、励ましに来て下さったのだとしたら、不要な心配といわねばなりませんが……」

 すると、大巫女は静かにいった。

「陽那よ。冥門ノ術めいもんのじゅつはもちろん、そなたはすでに、あらゆる秘儀を修めたな?」

「なんの確認でしょうか? もちろん、母上がこの七日間で教示下さったものが全てだとしたら、それはもう、余さずこの身に納めてあります」

「よかろう。なれば、そこをどくがよい」

「ど、どういう意味ですか?」

「そこをどけ。そなたは、儀式を行ってはならぬ」

「なにを? これまで、なんのために厳しい修行してきたとお思いですか!? それはこの日のためなのです! それをなぜ……。なるほど、臆した、ということですか。たしかに、門を開けば、向こうよりどのような魔性が飛び出てくるか、しれたものではありません。そのため、臆した、ということですね!?」

「誰ぞ、陽那を祭壇の前から連れ出せ」

 と、大巫女が右手を上げると、脇から二人の兵が歩み出て、暴れる陽那の両肩を抑え込んだ。

「何をなさるのですか、母上! ご乱心されたのですか?」

 すると、陽那は祭壇からしばらく離れた場所に、体を抑えられたまま、座らされたようだ。

 大巫女はなにを思ったか、自ら祭壇の前に腰をおろし、片足を立てて趺坐の姿勢をとった。

「こんな機会でもなければ、きちんと伝授することなど、なかったろうよ。なあ、陽那よ。――わらわから逃げるように、そなたは好き放題に飛び周って、時を儚くしたな。しかし、もう、必要なことは伝授した」

 陽那は顔を紅潮させ、目に涙を浮かべていた。

「それがどうしたというのです? 母上がそこに座る必要はありません! 死ぬおつもりですか?」

 そのとき、ふいに大巫女は声を荒げた。

「たわけ! わらわが、これしきの術でどうにかなると思うのか? ……まったく、侮られたものよ。とにかく、そなたはそこで見ておれ。こうなった以上、そなたが無為に騒げば騒ぐほど、時が移るぞ。すれば、助かる者も、助からぬようになる。――違うか?」

 陽那はなにかをいいさしたのだが、あきらめたように、ゆっくりと頷いた。観念したように見える陽那であったが、二人の兵はなおも、油断なく陽那の両脇に控えていた。

「皆の者。これより術をはじめるぞ。一度開けば、すぐには閉じられぬ。――汕舵の戦士ども、準備はよいな?」

 すると、ずっと黙っていた鷹ノ左目たかのひだりめは、右手の弓を突き上げて、大巫女の背中にいった。

「いつなりとも、準備はできている」


 大巫女が呪文を唱えはじめたせいか、夜気がますます冷たくなっていた。ときに高く、ときに低く響く呪文は、鹿彦がこれまでに聞いてきた、いかなるものとも異なっていた。

 まるで多国の言葉のような呪文が、緩やかではありながら重々しい、終わることのない音律の波を作り上げていった。

 そのうち、人々は門の異変を目の当たりにした。

 先刻まで、木で組まれた野蛮なだけだった門が、低く唸っているような音を発したのがきっかけだ。

 次第に、門の周囲の情景が歪んで見えるようになった。

 鹿彦の位置から門の向こうに見えていた松明は、ときおりひどく捻じれ、水面の向こうのように揺らいだ。

 やがて、門の奥になにも見えなくなり、そこにはただ、底しれぬ湖底のような闇が嵌め込まれていた。

「つながったぞ」

 と、大巫女がいった。

 にわかに、人々の中にざわめきが起こる。

 鹿彦は鷹ノ左目たかのひだりめとともに、祭壇を迂回して門の前に立った。

 すぐ後ろには、五八人からなる汕舵の男たちが息巻いている。

「いつでもいいぞ」

 と、鷹ノ左目たかのひだりめがいった。

 鹿彦は振り向いて、鷹ノ左目たかのひだりめと、それから後ろに詰めかけている男たちに呼びかけた。

「さあ、時がきたぞ」

 それに対して、戦士たちは一言、「おう!」と、地響きのような掛け声で応じた。

 鹿彦は門に満ちた闇に向かって、少しずつ体を差し入れていった。そして、とうとう顔が浸される所までくると、意を決して、一息に飛び込んでいった。

 そこで鹿彦は、不気味な感触に襲われた。粘質な闇が押し寄せてきて、濡れた絹のように体を撫でつけてくる。めまいがし、吐き気が込み上げてくる。それは、沙耶の術で常世に行ったときと、まったく違った感覚だった。とにかく今回は霊体の一部だけではなく、肉体も含む全てが、異質な次元へと運ばれていったのだ。

 甲高い耳鳴りが止まない。

 まるで鼻を強打したかのような、熱い血の臭いがほとばしる。

 鹿彦は全身の震えに襲われ、怯えながら体を丸めた。

 もはや、自分がどこでなにをしているのかも分からない。ただひたすら、引きつるような体の痛みと途方もない耳鳴りに包まれ、戸惑っていた。

 まるで、常世という世界そのものが、鹿彦という異物を拒んでいるようでもある。いや、新しい世界に順応するため、鹿彦の本能が、自身を作り変えてでもいるのか。

 骨が全て溶けていき、新しい骨を与えられる感覚だった。

 ――それでも、鹿彦を襲った諸々の異変は、少しずつ減じていった。

 次第に、辺りの光景がはっきりと見えはじめた。



 鹿彦がたどり着いたそこは、森と平地の境目のような場所だった。

 普段ならば頭上で輝いているはずの太陽は、どこにも見当たらない。空には雲がなく、ひたすら、くすんだ青い空間が広がっているだけだ。

 背後にはそれでも、いくばくかの生命力を感じさせる森が広がっており、鹿彦の立っている平地に向かって、森の斜面がおりてきている。

 そのとき、太い弦をはじいたような、低い音が響いてきた。一瞬、空中に陽炎が立ったと見えるや否や、その陽炎から鷹ノ左目たかのひだりめが現れた。それに続き、次々に汕舵の戦士たちがなだれ込んできた。

 どうやら、その空中の一点が、現世に繋がっているようだった。

 汕舵の戦士たちは積み重なるように倒れ込んでいったのだが、まごついていては押し潰されるため、門の前から離れていった。

 やがて、総勢四八人の戦士のすべてがそろった。

「いまの所は、敵らしき者は見えないな」

 鷹ノ左目たかのひだりめは弓を左手に、そう呟いた。鹿彦は辺りに視線を走らせてから、その言葉の通りであることに同意した。

「みたいだね。いまの所は……。だけど、気を付けなきゃならないよ。おれはつくづく、蜥蜴どもと縁があるみたいだからね」

「ふん。ろくな縁じゃないな」

「そのとおり。やつらはろくなもんじゃない! 黒い、てかてかした、本当に不気味なやつらなんだよ。しかし、これだけ手勢がいれば、なんとかなるだろう。――いや、足りるかは分からないが。とにかく、ここまで来たら、進むまでだ」

 鹿彦は鷹ノ左目たかのひだりめと戦士たちを引き連れ、荒涼とした斜面を西へ向かって進んでいった。あちらこちらに岩場があるほか、さして目に入るものはない。

 汕舵の戦士たちは、常に油断なく腰をため、緊迫した様子で歩いていった。

 鹿彦もびくびくとしながら、しがみつくように構えた斧を右手に、西へと歩を進めていった。

 ときおり、半死人となった者が、脚を引きずるように歩いていくのが見えた。そんなとき、鹿彦はどうしても沙耶のことを思い出してしまった。

 崖に転げ落ちていく沙耶の横顔。

 暗い眼窩と乾いた唇。

 そんな痛々しい沙耶の面影が脳裏に浮かぶと、鹿彦の脚は覚えず早まった。


 しばらくしてから、鷹ノ左目たかのひだりめは足を止めて、斜面の先を指していった。

「おい、沼があるぞ。あんなところに」

 鹿彦は立ち止まり、目を細めて、鷹ノ左目たかのひだりめが示す場所を眺めた。距離があるため判然とはしなかったが、そこには、てらてらと黒光りする、広い水たまりのような一画があった。

「たしかに……。あれは、なんだろうか……」

 そのうち、沼は波打つように蠢き、心なしか近づいてきているようにも見えた。

 ――たしかに、それは動いていた。

 また、近づいてくればくるほど、沼は大きなものであることがわかった。

 そして、沼はやがて鹿彦たちに真の姿を明かすことになった。――それは、無数の生物の集合体だった。それも、百か二百か、数え切れぬほどの大群が、津波のごとく隙間なく押し寄せてくるのだ。

 鹿彦はすぐさま、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

「あれは蜥蜴だ! 身構えろ! ……来るぞッ!」

 戦士たちは口ぐちに、頓狂な声を上げた。

「なんだよあれは! ちきしょう!」

「しらねえよ! とにかく、戦うしかねえ!」

 蜥蜴たちは加速しながら、縦横無尽に展開し、鹿彦たちを囲い込むように迫ってくる。

 そこで、このまま待ち受けるのは不利と見てとって鹿彦は、辺りに視線を走らせた。と、少し離れた場所に大きな岩棚があることに気がついた。

「あそこの岩を背に戦うんだ! このまま囲まれたら不利だ!」

 鷹ノ左目たかのひだりめも声を張り上げる。

「聞こえたか! 急げ!」

 そうして戦士たちは鹿彦に続いて走り、岩の前に陣取ると、ある者は弓に矢をつがえ、ある者は斧を剛腕に握り、蜥蜴の来襲にそなえた。

 二百匹に届かんばかりの蜥蜴たちは、白く細かい乱杭歯を剥き出しにして、石を蹴散らして迫りくる。

 鹿彦は慣れぬ斧を構えて、戦士たちと共に前線に立った。

 そこで、早くも鷹ノ左目たかのひだりめは一矢を放った。

 矢はまっすぐ飛んで、黒い津波の先頭を走る、一匹の眉間に突き刺さった。

 その一匹は醜い唸り声を上げてうずくまったが、すぐさま、波に呑みこまれていく。

「射て! 射て射て!」

 鷹ノ左目たかのひだりめはそうがなり立てながら、矢筒から次の矢を引き抜いた。

 汕舵の射手は十名ほど。彼らも遅れじと次々に矢を放って蜥蜴を仕留めていくのだが、それでもいかんせん、多勢に無勢である。

 早くも蜥蜴たちは岩場に詰めかけてきた。

 そこで、とうとう鹿彦へと、はじめの一匹が飛びかかってきた。すかさず、鹿彦は我を忘れて蜥蜴に斧を叩きつけた。

 鷹ノ左目たかのひだりめは蜥蜴を蹴りであしらいながら、何度も矢を放つ。

 弓を持っていた者は、大半は斧や短刀に持ち替え、手当り次第に蜥蜴たちに襲いかかった。

 蜥蜴の手足や頭が飛び散っていくのだが、それにもまして、汕舵の被害も少なくはない。

 乱戦の中、鹿彦がふと周囲に目をやると、ざっと見えるだけでも七人が倒れ、蜥蜴の餌食になっていた。

「くそッ! だめだ!」

 左手に喰いついてきた蜥蜴を振り払い、鹿彦は叫んだ。

「泣き言は後にしろ!」

 と、鷹ノ左目たかのひだりめは怒鳴りつつ、落ちていた斧を拾い上げた。

 蜥蜴はまだ八割型は残っている。その一方、汕舵の戦士は半数ほどになっていた。

「無理だ……」

 鹿彦は思わず、そんな弱音を漏らす。

 そのとき、背にしている岩棚の上から、影が落ちてきた。

 ――と見えたのは、鎧を着こんだ武者の姿だ。

 それに続いて、二人、三人と、同じく武者が飛び降りてきては、蜥蜴に立ち向かっていった。

 総勢で四十人ばかりの武者が、汕舵の戦士に混じって岩棚を守る格好になった。いずれも槍や刀を持って、微塵の隙もない構えをしている。

「遅くなって、面目もない」

 と、鹿彦に近づいてきた武者がいる。

 兜の中の顔は、まさしく馬稚国の太守、幸畠信貞公のものだった。

「信貞様! いったいどうして?」

「うむ、仔細はあとだ! まずは敵を片付けるべし。――さあ、者ども。日ごろの鍛錬の成果を見せるときぞ!」

 すると、武者たちは地響きとも紛う声で、おう、と応じた。

 汕舵の戦士たちも心得たとばかりに、唸り声や奇声を発して、斧を振り上げた。

 馬稚の武者たちの助力は頼もしくも心強いものだった。

 それでも、蜥蜴たちは根強く、戦いは拮抗していた。

 蜥蜴たちの猛攻もすさまじく、武者たちですら、一人、二人と犠牲になっていくありさまだ。

 ――そこに、こんどは白い影が躍り出た。どこから現れたのかもしれぬひとりの巫女が、鹿彦の脇を通り抜け、右手に札を掲げたまま、前線に飛び出ていったのだ。

 巫女がなにごとかを呟くと、札からは燦然たる白光がほとばしった。すると、光を浴びた蜥蜴たちは、弱々しい鳴き声を上げて脚を止めた。そこに戦士たちが一気に押し寄せ、これまでの拮抗した戦いが嘘でもあったかのように、次々と蜥蜴たちを屠っていった。

 巫女は額や首筋におびただしい汗を浮かべ、力つきるように地へ膝を突いた。そこに、鹿彦は駆け寄って身を支えた。

「大丈夫かい!? 陽那さん!」

 巫女は弱々しく首を上げると、「間に合ったようだね」と呟いて、苦々しげにはにかんだ。

 その顔には、いつになく疲弊の影がにじんでいた。

 目には隈ができ、顔は青白く、うっすらと皺が浮いていた。

「しっかりしろよ!」

 と、鹿彦は陽那へと呼びかけた。陽那は苦しそうに呻いてから、眉間に皺を寄せていった。

「ああ……。問題ない。一息に、霊力を使いすぎただけだ。きみが西の果てへ辿りつくまでは、なんとか、持たせなければな」

「いけないよ。……あんたたち、巫女の力には限りがあるんだろ?」

「ふん。わたしのことを、侮らないことだ。こう見えても、蜥蜴どもをあしらうことには、慣れているからな。――きみのお陰でね」

 すると、陽那は鹿彦の胸を押しやり、たどたどしくも自らの足で立ち上がった。そこに、兜を外した信貞が近づいてきた。

「久しいな、鹿彦」

「あんたも相変わらずだね。しかし、おどろいたよ! 馬稚の兵が援軍に駆けつけてくれるとは、夢にも思わなかった!」

 信貞はため息まじりに、刀を鞘に納めながらいった。

「うむ。宮からの要請があったのだ。なにやら、そなたが人々のために、死地へ挑むとのことだった。しかるに、命の恩人たるそなたを、見殺しにするという法はない。家老どもの反対を押し切って、精鋭を率いてきたのだ!」

「そうか……。ありがとう。あんたには敵わないよ」

「さて、ぐずぐずと話し込んでいる暇なぞなかろう。そなたは、西の果てを目指すのだろう? 早う、沙耶殿を救わねばなるまい。無論、馬稚の民の多くも、救ってやらねば……」

 すると、信貞はぎりりと歯噛みをし、蜥蜴の屍体の向こうに広がる斜面を見据えた。鹿彦は答えた。

「もちろんだよ」

 信貞はこくりと頷いてから、声を張り上げた。

「武者どもよ! 勇猛で鳴る荒くれどもよ! 戦はこれからぞ。――いざ、進めい!」

 すると、「おう」「承知」などいう、地響きのような掛け声が、あちらこちらから返ってきた。


 汕舵の戦士と馬稚の武者という、稀有な取り合わせの混成部隊は、半ば飛ぶように斜面を下っていった。

 やがて、とうとう彼らは、崖から広大な盆地を見下ろせる所まで辿りついた。

 あたりは薄暗く、崖の下がどのようになっているか、明確にはわからない。ただ、亡者――といっても、魂を操られた、不幸な人々――の黒い頭が、豆粒のように動いているのが見えた。

 また、それらの人々は、盆地の奥の、ある一点に向かって集まっているようだ。ひときわ暗く見える一画は、沼のようにも見えた。判然としないが、崖からは一里といった距離のように思われた。

 鹿彦は陽那へと尋ねた。

「彼らは、どこに向かっているんだろう。あの、沼みたいなところかな? だとしたら、あそこには、なにが……」

「わからない。ただ、この窪地に――、地獄の底みたいなこの崖の下に、すべての答えがあるのだろう」

「ああ。そして、沙耶さんも」

 陽那は口惜しそうな顔をした。

「そうだ。沙耶もあそこの沼に向かい、歩いていることだろう。いや、場合によっては、すでに手遅れに……。いや、行ってみなければ、はじまらないな」

 鹿彦は意を決して、「いくぞ!」と言い放つと、中腰の姿勢になり、崖へと身を躍らせた。

 次々に鷹ノ左目たかのひだりめをはじめ、すべての者がそれに従った。

 彼らはごつごつとした岩肌の上を、すべり落ちるように下っていった。

 次第にあたりはもやがかかり、ますます暗くなっていった。

 ついに、一行は崖の底に辿りついた。


 辺りは常に黒っぽいもやが渦まき、地面は赤茶け、乾燥していた。

 草木はかけらもなく、空を見上げても、淀んだ大気の向こうに、うっすらと空の光が透かし見れる程度だった。

 さながら、神仏から見放されたような盆地に至った鹿彦たちは、いましがた下ってきた崖を背に、慄然と立ちつくしていた。

 ときおり、崖の上から例の半死人たちが、声にならぬうめき声を上げつつ転げ落ちてくる。彼らはのっそりと起き上がっては、緩慢な動作で歩きはじめ、目的地もなく進んでいくようにも見えた。――いや、鹿彦がよく目をこらして彼らを観察していると、おぼろげな意識ではあろうが、遠回りをしたり迷ったりしながらも、着実に沼の方角を目指して進んでいることがうかがいしれた。それに、蛇のうなり声も、より大きく、明瞭に響いてきていた。

 西の方から醜々とこだましてくる耳障りな声は、ひっきりなく頭を占領してくる。――それはまるで、耳元で百匹の毒蛇がとぐろを巻いて、恨みがましい威嚇の声を上げているようでもあった。

 命令を待って立ち並ぶ武者たちを背に、信貞はいった。

「堪らぬな。この声を聞いていると、気がどうにかなってしまいそうだ。ここからでは見えぬが……。やはり、あの沼に、なにかがあるのだろうな」

 鹿彦は半死人たちを見ながら、蛇の声の顔をしかめて答えた。

「そうだね、きっと」

 思わず、鹿彦は怖気づいたかのように身震いし、肩を落とした。

 すると、こんどは陽那が近づいてきて、きっぱりといった。

「恐れている場合ではない。引き返そうにも、手遅れだろうに」

「わかっているよ。……さあ。ここまできたら、進むまでだ」

 そこへ、鷹ノ左目たかのひだりめが汕舵の戦士たちの集団から進み出た。

「おい、戦士たちは、暴れ足りんといってるぞ」

「そうかい。でも、心配は、いらないようだよ」

 といって、鹿彦は斧を手に身構えた。

 武者や戦士たちからどよめきが起こる。

 ――崖を背にした彼らに迫ってきていたのは、大小様々な蜥蜴の大群だった。

 大きなものは、立ち上がった熊の背丈ほどもある。

 それらが、夜の高台から見渡す連山のごとく、黒い体躯を震わせて詰めかけてきていたのだ。

 信貞は刀を掲げ、怒号を上げた。

「馬稚の武者どもよ! 好んで死地にやってきた戦馬鹿どもよ! あらくれどもよ! 我に続け!」

 それに遅れじと鷹ノ左目たかのひだりめは弓を掲げた。

「蛇が人々に害するようになったのは、元より我らに責のあることだ! 馬稚の獅子どもに獲物を奪われることを恥と思え!」


 かくして、蜥蜴と人の総力戦がはじまった。

 はじめに汕舵の弓が空を裂いた。

 迫りくる大小の蜥蜴を蹴散らすのは、武者たちの仕事だった。

 攻防は長く続いた。

 死んだ蜥蜴の山の中に、武者や戦士が力つきて倒れ込んでいった。

 当初の士気も失せてきたとき、陽那が札を掲げて、呪を唱えはじめた。

 すると、陽那の右手から、鮮烈な光がほとばしった。

 その光の強さとまぶしさは、これまで鹿彦が見舞われたこともないものだった。

 たとえば、密閉された山小屋の暗闇から、一気に真夏の白昼へ飛び出れば、同じようなまぶしさを感じるだろうか。――いや、それすら生ぬるいほどの白光が、一面を覆いつくしたのだ。

 蜥蜴たちはたじろぎ、身悶え、その動きを止めた。

 また、その隙を逃さず、鹿彦たちは目を細め、ほとんど視界が真っ白な状態で、敵にとどめを刺していった。


 あらかた蜥蜴たちを仕留めたあと、ついに光は減じていった。

 陽那は血にまみれた地面に膝をつき、両腕を力なくたらし、朦朧とした表情をしていた。その顔はまるで、年老いた老婆のように皺枯れ、唇は蒼く、目は灰色に濁っていた。

 鹿彦は思わず、そんな陽那へと駆け寄った。

「だ、大丈夫かい、陽那さん!」

 その声に、陽那はぴくりと、乾ききった頬を動かした。

「わたしは、いったい。……そうか。力を、使いすぎたんだろうな」

「陽那さん……」

「さぞ、……醜い姿になっているのだろうな」

 鹿彦は、黒ずんで皺だらけになった、陽那の右手を掴んだ。

「そんなことはない。……そんなことはないよ」

 すると、陽那の視線が宙を泳ぎはじめた。もう、座っているのも辛そうだった。それでも、陽那は鹿彦の手を振りはらって、苦しそうではあるが、凛とした声を発した。

「行け。さあ、きみには、やることがあるんだから。行くんだよ」

 そういって、陽那は崩れ落ちた。

 鹿彦は抱え込むように抱きつこうとしたが、強い力にその肩が引っ張られた。

 そこには信貞がいた。

「陽那殿は、何人かの兵に守らせておく。――どうなるかはわからぬが、いまはこんなことをしている場合ではない。違うか?」

 鹿彦はしばし動きを止めると、やがて、意を決したようにうなずいて、立ち上がった。

「ああ。すまなかったよ」

 そのとき、鷹ノ左目たかのひだりめは大声を張り上げた。

「おい、油断するなよ! まだまだ奴らは押し寄せてくるぞ!」

 見ると、新たな蜥蜴の群れが、鹿彦たちを目がけて迫りつつあった。

「こうなれば、沼に向けて突き進むまでだ!」

 そういって、鹿彦は仲間たちとともに、西を目指して駆け出した。


 鹿彦と信貞と鷹ノ左目たかのひだりめ、そればかりか武者や戦士たちのいずれも、満身創痍だった。

 それでも、彼らは襲いくる蜥蜴たちを斬り伏して、矢を射かけながら、ひたすら進んでいった。

 馬稚の武者は十人ほど、汕舵の戦士は五名ほどになっていたが、最後のひとりになるまで戦い抜かんという、気概だけは並々ならぬものがあった。

 やがて、遠くに沼が見えた。

 ふんぷんたる悪臭を漂わせるその沼は、暗澹とした瘴気の満ちた地面に、暗い水たまりのごとく広がっていた。

 溢れかえるような半死人たちは、その一点を目指して、やはりのろのろと脚を引きずって歩いている。

 沼の向こう側には、真っ暗な洞穴らしきものがあった。洞穴――そうでなければ、地面に対してほとんど垂直に貫かれた、丸い穴とでもいうべきか。その、穴からは絶えず、耳障りな蛇の声がこだましていた。

 また、沼に向かう半死人の群れの中に、鹿彦はひとりの少女を見つけた。

 少女は地面に伏し、沼に向かって這いずっていた。

 かつては巫女装束であったであろう衣服は擦れ、破れ果て、土にまみれて黒ずんでいた。

 たまらず、鹿彦はその少女に駆け寄っていった。

「沙耶さん!」

 絶えず迫りくる蜥蜴たちと戦っていた仲間は、突然走りだした鹿彦を追っていった。


 鹿彦は沼の前に屈み込み、沙耶を引き止めようと手を延ばした。

「だめだよ、あんなところに入ったら!」

 そういうそばから、背後の沼から、くぐもった水音が聞こえた。半死人たちが沼へ身を投げる音だ。

 沙耶はそんな音になんら反応も示さず、鹿彦の声もまるで聞こえない様子で、ずるずると這っていこうとする。

 そこへ、鷹ノ左目たかのひだりめがやってきた。

「無理だ。――おそらく、蛇の声に心を乗っ取られているんだろう。どうしようもない」

「そんなことをいったって! どうしろっていうんだよ!」

 すると、鷹ノ左目たかのひだりめは洞穴を指して、

「蛇の声は、あそこから聞こえてくるだろう? おまえは、西ノ顎にしのあぎとを目指せ! それによって沙耶殿が救われるかは分からぬが、そうするほかにあるまい!」

 そんなときにも、蜥蜴たちは鹿彦たちを目がけて迫ってくる。

 とうとう、鹿彦たちは沼の前で、数十匹からなる蜥蜴たちに囲まれてしまった。

 鹿彦を守るように奮闘していた信貞は、ついに悲痛な声を漏らした。

「くそ! これまでかッ!」

 信貞はまるで、最後の力を振り絞るように一匹の蜥蜴に刀を振り下ろした。

 そのとき、頭上から雷鳴がとどろいた。

 ついで雷が信貞の眼前に落ち、あたりを光で包んだ。

 ――鹿彦がおそるおそる目を開けると、なんとそこには、黒い甲冑を身に付けた、武者の姿があった。

 須臾の間もなく、黒い武者は太刀を振るうと、周囲の蜥蜴を蹴散らした。

「父上!」

 と、信貞は左手を延ばした。

「たわけ、かような敵に弱音を吐いてなんとする?」

 馬稚の武者たちは唖然とした表情で、大きな体躯を見上げた。

「あ、あのお方は、もしや……」

 そこで、黒い武者は荒い声を上げた。

「馬稚の強者どもよ。わしが見ぬ間に、腑抜けたか? ――そうでないと申すなら、この信成に、太刀と槍で示してみよ」

 すると、武者たちはにわかに正気を取り戻した様子で、口々に掛け声を発した。「おう!」「いまこそ!」

 信成は巨躯を翻し、こんどは鹿彦にいった。

「ここはまかせて、そなたは、あれなる穴を目指せ! あそこに、すべての答えがあるはずだ」

「信成様には、何度も救われたことになりますね……」

「かまわぬ。さて、こちらはこちらで、ひと暴れといこう。――それ、そなたは早う行くがよい」

鷹ノ左目たかのひだりめが鹿彦の背中を叩いて、呟いた。

「沙耶殿は、沼に落ちないようにおれたちが見ておく。ここは任せるんだ」

 鹿彦はうなずいて、沼の向こうに見える洞穴の入り口へと駆け出した。押し寄せる蜥蜴の間をすり抜け、上を飛び越え、命からがらに沼を迂回して、穴の前へ辿りついた。その穴は、鹿彦が容易に飛びこめそうな広さだった。

 とはいえ、真っ暗な口を開けるその穴は、決して気持ちのいいものではなかった。

 穴の奥からは、ぬるい風が吹き付けてきては、生臭いにおいを運んでくる。

 ふいに、蛇の鳴き声が止んだ。――死人たちを沼へと導き、敵する訪問者を拒むようなその声は、すっかりと途切れたのだ。そこで、鹿彦はまるで、蛇に招かれているような気持ちにさえなった。

 どう考えても、穴の先になにかがあるようだった。――とはいえ、真っ暗な穴の中に単身飛び込んでいくなど、簡単にできることではない。

 しばらく戸惑っていた鹿彦であったが、周囲から迫ってくる蜥蜴たちが牙を剥いて襲ってくるのを見るに、どちらにしてもろくな末路は辿らぬだろうと覚悟を決め、暗い穴へと飛びこんだ。

 無残に喰い散らかされるよりは、少しでも可能性がある方に賭けた格好か。いずれにせよ、蛇を目指して西の果てまでやってきたのだから、他にどうすることができただろうか。


 鹿彦は暗い穴の中を降りていった。

 完全に垂直なわけではなく、わずかに傾斜がついていたため、手足を突っ張って降りていった。

 それに、どうやら蜥蜴は、穴の中まで追ってくる気配はなかった。

 穴の中には完全な闇が広がっていた。

 視界の利かぬ狭小な穴を、下方へとひたすら降りていく。

 その穴は不思議なことに、常に一定の高さと幅を維持したまま、下方へと延びていた。

 やがて、突然体が宙に投げ出され、しばらくの浮遊感に襲われた。――どうやら、鍾乳洞のような場所へと落ちたようだった。

 岩肌に付着した苔は、薄っすらとした光を放っていた。

 それらのかすかな光を頼りに、体を起こした鹿彦は、岩ばった洞の中を進んでいった。

 鍾乳石が連なって垂れる天井は、どこまでも続いている。鹿彦は苔が放つ淡い光の中を歩みながら、徐々に迫りつつある、相手の気配を敏感に感じとっていた。

 そう。

 鹿彦は確実に、西ノ顎にしのあぎとの許へと近づいていた。洞を流れる風に乗った、生臭い体臭は、それを裏付けている。蛇の吐息がどこからともなく、響いてくるようでもある。

 しばし先に固まった濃密な闇の中に、そういった蛇の気配が満ち満ちていた。

 蛇は不気味なほど静かに、沈黙していた。

 あれほど人々を狂わせていた、例の銅鑼の音や鳴き声は聞こえなくなっていた。

 鹿彦はあちらこちらから反響してくる、自身の足音や息遣いを聞きながら、声をかければ確実に、蛇の耳に届くという確証を胸に秘め、ひたすらに進んでいった。

 ふいに鹿彦は、広間のごとき場所に行き着いた。

 辺りには地下水が流れ、広間の外周を満たしている。その中央に、まるで海に浮かぶ大陸のように盛り上がった岩場に、黒色の塊がうずくまっていた。

 相変わらず苔の放つ光が淡く満ちているものの、全ての闇を溶かすほどの光量はなかった。

 そのため、広間に辿り着いた鹿彦は、中央にうずくまった存在が放つ、その淀んだ気配に怯え、足を止め、沈黙していることしかできなかった。

 黒い塊は身じろぎするように蠢いた。――しかし、なにかを語り始めるような気配はない。

 また、黒い塊の傍らには、巨大な金属の銅鑼が設えてあった。

 そのとき、鹿彦の下腹から胸にかけた辺りが、脈動しはじめた。その暖かい脈動が包み込んでくるような感覚が、体じゅうに広がっていった。

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