第9話

 鹿彦は鷹ノ左目たかのひだりめとともに白ノ宮へ向かった。

 沙耶の容態が気がかりではあったが、とにかく巫女の助けを得ないことには手立てもなく、ひたすら道を急いだのだった。

 日を継いで山道を歩き、街道を進み、やがて馬稚の都に辿りついた。

 そこでも夜明けとともに宿を発ち、とうとう白ノ宮を見おろせる丘に来た。

 森に囲まれた白ノ宮の中央には本宮がそびえ、八つの外宮が本宮を囲むように並んでいる。また、いずれの建物も白木で組まれており、それらは、ふくいくたる陽光にまばゆく輝いていた。

 それら宮の敷地の全体は、周囲を木の塀によって囲まれていた。また、塀の四方には、大きな門が設えられていた。

 こういった静謐とも呼べる白い宮の領域が、森をくり抜いて広がっているのだ。

 とはいえ、本宮や外宮のそれぞれは、完全な秩序の元に並んでいるというわけでもない。

 これらの外宮はそれぞれ別の時期に、異なる用途で建てられたため、佇まいや大きさはそれぞれ異なっているのだ。本宮を中心に、森を切り開きながら外宮の敷地を確保していった、というこれまでの歴史を感じさせるありようだ。

 そのうちの南方にある外宮のひとつは、以前鹿彦が立ち寄った――あるいは運び込まれた――言忌ノ宮こといみのみやである。

 そのほかの七つの外宮は、例えば以下のようなものがある。

 食料を蓄えておくための、穂積ノ宮ほづみのみや

 馬稚の城より派遣された、宮の衛兵たちが寝起きする、守護ノ宮しゅごのみや

 来賓をもてなしたり、宴を開いたりする、慶紗ノ宮けいさのみや

 もっとも大きな宮でもある、見習いの巫女たちが暮らす、雛蘇ノ宮ひなそのみや

 いずれの建物も、ほとんどが高床式になっており、一階部分は柱のみが立ち、建物自体は二階部分にあるようだった。

 とはいえ、馬稚の都でも見たような庭のある平屋もあったし、納屋のようなものも散見された。――事実、鹿彦が逗留した言忌ノ宮は、庭のある一階だての様式だった。


 そんな眺望を眼下にして、鹿彦は丘の上で嘆息した。

「さて、うまくいくだろうか。なにせ、おれは追われる身だからね……。あのとき、何人かに顔を見られているから、ばれやしないかって、不安なのさ」

 すると鷹ノ左目たかのひだりめは、呆れるようにいった。

「そんな悠長なことをいっている猶予があるのか? そのときはそのときだ」

「ああ。――わかっているよ。おれが捕まって難儀するのなんか、たいした問題じゃない。……しかし、蛇を止めることができなければ、もっと恐ろしいことになる。だから、失敗は許されないのさ」

 それだけいうと、再び鹿彦は白ノ宮に向かって進みはじめた。

 丘を降りた先の、まばらな杉の立ち並ぶ森を越えると、ついに西側の門前まで至った。

 門の右脇には、青銅の鎧兜をまとった門番の青年が、鉾を携えて立っていた。

「何者だ、おまえたちは。――見たところ汕舵の者のようだが」

 と、兜の奥から低い声が聞こえた。

 鹿彦はためらいながらも、意を決していった。

「おれは汕舵の村よりきた、鹿……いや、東ノ顎ひがしのあぎとという者だ。きょうは、大巫女さまに大事な用があって、やってきた」

 すると、門番はいぶかしげに首を傾けた。そればかりか、鷹ノ左目たかのひだりめが背負う大きな弓を見て、いっそう警戒心を持ったようだ。

「聞いておらんな。そんな話は」

 鹿彦は臆せずいい返した。

「もちろんだ。前もっての約束ではない。――かねてから人々を悩ませている、眠り病のことについて、火急に大巫女様へお目通りを願いたい」

「なんだと?」

 そこで鹿彦は、沙羅ノ腕さらのうでより預かった首飾りを外し、右手に持ち上げた。

「これは、汕舵の長だけが持つ、汕舵の象徴たるものだ。いわば、汕舵の民の総意として、ことに重大な話をしにきたと思って欲しい」

 門番は渋い顔で思案するそぶりを見せたのち、

「ううむ。そうはいっても、おれにはなんともわからんな。――よし、誰か、しかるべき者を連れてこさせよう」

 すると門番は、宮の敷地を歩いていた別の兵に声をかけ、誰かしらを呼びに行かせた。

「しばし、そこで待っておれ」


 やがて門の向こうに見える宮の影から、ひとりの巫女が現れた。

 鹿彦はその姿を見るに、驚嘆せずにはいられなかった。

 その巫女の顔は、陽那のものであった。――そう、見た目は陽那には違いなかった。

 顔や腕には、それほど目立たなくはあるも、新しい傷痕がちらほらとあり、心なしか、右脚を引きずるかのようでもある。

 その驚くべき再会は、鹿彦に喜びではなく、過去への悲しみと、陽那への畏敬の念をもたらした。

 まるでつい先刻のことのように、稲妻が閃くがごとく、鹿彦の脳裏にはかつての情景が蘇っていた。

 故郷に突然現れ、水を求めてきたときの、陽那の苦々しい笑顔。

 慣れぬ田畑の仕事を手伝ってくれたときの、とめどない汗とゆえもしらぬ涙。

 なにより、蜥蜴どもが押し寄せてきたときに、命を賭して立ちはだかった、勇ましい横顔。

 その後、沙耶に宛てた手紙――陽那が沙耶の父の訃報を伝えるものだった――を見た他は、鹿彦が陽那の消息をしるすべはなかった。

 旅人は神人、とはよくいったものだが、まさに鹿彦にとって、命の恩人であり、汕舵の地へ至るきっかけを与えてくれた人物でもあった。


 そんな、陽那らしき巫女は朱の袴と白い上衣をたなびかせ、冷然とした面持ちで歩み寄ってきた。

 鹿彦は目に涙さえ浮かべながら、ともすれば抱きつかんばかりに手を差しだした。

 ――しかし。

 巫女はまるで、初対面でもあるかのようにいった。

「そなたが、汕舵よりの使者であるか。して、うしろの者は」

 すると、ずっと黙っていた鷹ノ左目たかのひだりめは、憮然として答えた。

「おれは、鷹ノ左目たかのひだりめという。付き添いでやってきた」

「あなたは。……見た顔ですね。以前も宮へ?」

「ああ。おととしにも、宮へきたが。しかし、あんたとは話をしていないだろうな。……そのときおれは、別の者と一緒に、鹿の毛皮を持ってきた。そして、その代償に珍しい青石をもらったな」

「なるほど。わたしが応じたわけではありませんが、たしかに、そのような話は聞いています」

 巫女は大儀そうにうなずくと、ついで、鹿彦が手にしていた首飾りに視線を向けた。

「首飾りも、おそらく本物のようですね。――ひとまず、奥で話を聞きましょう」

 すると、どうぞこちらへ、と巫女はいってから背中を見せた。

 鹿彦はまったく肩透かしを食らったように、口を大きくあけたまま、

「陽那さん……だろ。おれを、忘れちまったのか。鷹のことは憶えているのに、どうして……」

 などと、うわ言のようにつぶやいた。

「なんだかわからんが、あとにした方がいいぞ」

 と、鷹ノ左目たかのひだりめは肩を小突いてきた。


 ともかく、二人は巫女のあとに続いて、白ノ宮の敷地に入っていった。

 敷地の中からは森の木々の先端が見え、それらは空と遠い山稜の影にとけ込んでいる。むろん、外の光景――森の生き物や、街道や、草花など――はほとんど視界に入ってこない。

 この閉ざされた聖域の中で、ふいに鹿彦は沙耶のことを思いだした。

 かつての沙耶は、宮の敷地から外にでることもなく、籠の鳥のごとき毎日を過ごしてきた。その生活の中で沙耶は、安寧の代償に、勇気を逆の意味で支払ってきたのだろう、と想像した。閉じ込められた鳥たちがいたとしたら、彼らは羽の存在を忘れてしまった方が幸福であろう。

 そこまで明確にではないにせよ、鹿彦は宮に住む者たちに対する憐憫の情を抱きながら、それでも霊験と神威に満ちた白ノ宮への畏怖に震えつつ、薄茶色をした土を踏んでゆくのである。

 すれ違う兵や見習いらしき巫女たちは、先導の巫女に対して、いずれも荷物を置いて頭を下げ、あるいはうやうやしい口調で天地の恵みをことほぐのだった。

 ――こんにちも、よろしい日和でございます。

 ――天に日、地に種のあるごとく、人に和みのありますよう。

 もっとも兵については敬礼――鉾を地に立て、首を深くうなずかせるやり方――でやり過ごす者がほとんどだったが。

 彼らが先導の巫女を、『陽那さま』と呼ぶことを、鹿彦は聞き逃さなかった。


 ほどなく先導の巫女は、南東に位置する《慶紗ノ宮》の前にやってきた。

 大きな宴が催されることもある宮なのだが、来賓の応対などに使う小部屋もいくつかある。鹿彦たちは巫女に続いて、履物を脱いで水で浄め、高床の二階へ延びる階段をのぼった。

 左脇にある小部屋の前まできたとき、ひとりの見習い巫女が駆け寄ってきた。

「お茶をご用意いたしましょうか」

 と尋ねてくるも先導の巫女は、「構わずともよい」と追い払った。それから陽那は右手を差しだして、「どうぞ」と鹿彦と鷹ノ左目たかのひだりめを部屋の中へうながした。麻の敷物がしかれた手狭な部屋だった。

 鹿彦は悄然とした面持ちのまま、部屋に入ることもなく、巫女へいった。

「……陽那さん。あんたは、おれを救ってくれた、あの陽那さんなんだろう? さっき、とおりかかった人たちも、その名を口にしていたよ」

 すると、巫女は鹿彦の近くにやってきて、

「まさしく、わたしは陽那さ。それにしても、まったく……きみはもう少し、自分の置かれた状況ってものを考えてみても、いいでしょうね。さあ、ひとまず中に入りなさいな」

 それから、鹿彦と鷹ノ左目たかのひだりめは部屋に上がり、ついで陽那も入ってきて、戸を閉めた。

 鹿彦は声を裏返えらせていった。

「おお――やっぱり憶えていたんだね!」

「忘れるわけがないでしょう。――ただ、あの場では、黙っているほかはなかったのだ。沙耶もきみも、白ノ宮から追われる身ということを忘れるな。迂闊なことを喋ってしまったら、きみの命取りになる。わたしときみとの縁については、どこをどう切り取っても、沙耶や、あの脱走の話につながってしまう」

「ああ。……そうだね。そのとおりだ。それにしたって、陽那さん。あんたには本当に世話になったよ。おれは、蜥蜴たちから命を救ってくれたあんたのことを、一度も忘れたことはない」

「たいしたことではない」

「そうだ! 村はどうなったんだい? 蜥蜴どもは、他の人たちを襲ったのか?」

「いいや。蜥蜴どもについては、わたしがあしらっているうちに、あんたが逃げちまったことを悟ったのか、そぞろに帰っていったね。――もっとも、やつらがどこからきて、どこへ帰るのか、なんてしりたくもないけど」

「そうか。村のみんなは無事だってことか。それだけでも、良かったよ……」

「そうだね。わたしはそのあと、きみのお母上を弔って、ちょっと休んでから白ノ宮に戻ってきたってわけさ」

「やっぱり、怪我をしたんだね?」

 鹿彦は、陽那の右脚や、細かな体の傷を申しわけない気持ちで眺めた。

「右脚については、いささか深く噛みつかれたがね。しかし、怪我をなんとかする術くらいは、心得ているつもりだよ。――それにしたって、まさか、あの沙耶が、大胆な冒険に出たみたいだな。驚いたのなんのって! 宮にとって不名誉な事件だからおおっぴらには伏せられているものの、注意しなさい。乱心した《言忌ノ宮》の巫女が、汕舵の者らしき少年を連れて駆け落ちした、なんてことになっているから」

「莫迦な。あんなお役自体が、無意味だったんだよ。おれは、沙耶さんと一緒に、あれの正体を見たんだ……。現神うつしかみの元になった、猿の死体を見たよ……」

 陽那は無言のまま、『果たしてこの少年はどこまでしっているのだろう』などと訝しむような、鋭い視線を向けてきた。しかし、いつまでも黙ってはいなかった。

「たしかにわたしときみとの縁は、どうにもややこしく絡み合っていて……。まるで、川底で運命を織る時の翁が、いたずらでもしているじゃないか、って思えるほどに。――それにしても、きみたちははるばる汕舵の地から、宮の見物に来たわけじゃないんだろう?」

「もちろんだよ。おれたちは、眠り病をなんとかするために、白ノ宮の助けを得ようとやって来たんだ」

「ほう。あの病は……やはり、汕舵が関係していたのだな」

 そこで鹿彦は、これまでのあらましを説明しはじめた。馬稚の都での、殿を巡る事件の顛末。汕舵の民が祀っていた長神ノ現ながかみのうつしが、おそらく人々を常世へ導いていること。沙耶についても、その毒牙にかかり、汕舵の地で臥せっていること。汕舵の導き手であり、白ノ宮の始祖たる白鷺ノ羽しらさぎのうでのこと。

 ――しかし、鹿彦の体に宿る、蛇の霊のことは黙っていた。

 陽那は疑問を呈した。

「ひとつわからないのだけど。……なぜ、長神ノ現ながかみのうつしは、突然に暴れ出したんだ? その目的は? どうやら、その蛇は知能を有しているようじゃないか。なんの理由もなく、狂ったように暴れだす、なんてことはあるまい」

 鹿彦は首を振って、わからない、と答えた。

「いずれわかってくることだと思う。それより大事なのは、これからのことだ。――長の沙羅ノ腕さらのうではいっていたよ。白ノ宮に、常世へ攻め入る方法が伝えられているのではないか、って」

 陽那はしばし考え込むように俯いていた。やがて顔を上げて、真剣な様子でいった。

「なるほど。わたしたち巫女の学ぶ術の中に、生者の魂を常世に送る術がある。きみが、例のお殿様を救ったやり方だ。――ところが、問題がいくつかある。まずあの術は、誰でも使いこなせるものではない。ゆえに、きみの助けになるような人数を送り込むのは、不可能に近い。よしんば実現したとしても、あの方法では、霊体の一部を送るだけだから、蜥蜴どもを屠るための力が足りない可能性がある」

「ええ。そのことも長がいっていたよ。――あの術に変わる、よい方法はないだろうか?」

「ううむ。門ならば、もしや……。そうだ。もし、冥門ノ術めいもんのじゅつを使えるならば……」

「門? それはいったいなんなんだ?」

「ああ――。常世と現世をつなぐための入り口をつくる、冥門ノ術めいもんのじゅつという秘儀があってな……。ただし、それを正しくしるのは、大巫女様だけなんだ。……わかった。きみたちを、大巫女様に引き合わせよう。わたしからも、仔細を伝えておく。きょうすぐには無理だろうが、あしたにはなんとかなると思う」

「助かるよ」

「なあに。眠り病については、いずれにしても放っておくわけにはいかないからね」

「そうか。やはり、白ノ宮にも、犠牲者がいるのかい?」

「いいや。幸いにして、宮には結界が張られているため、忌まわしい力が届いてきていないようだ」

「そうかい。それは救われたね」

「無論だ。そのための結界、だからな。――さあ、しばらく、ここでくつろいでいなさい」

 そういって、陽那は部屋を出ていった。


 それから二刻も経って夕刻が迫っても、まだ陽那は戻ってこなかった。鹿彦は無聊を紛らわすように、道中でも語っていなかった、沙耶の役目のことや、陽那との出会いのことを鷹ノ左目たかのひだりめに説明した。故郷に押し寄せてきて、母を貪り喰った蜥蜴の話になると、思わず涙が溢れ、声が震えてしまった。

「おれはいまだに、あれが本当に起きたことなのか、自信がなくなることがあるんだ」

 鷹ノ左目たかのひだりめは胡坐を組み、弓の弦を縛りながら、

「おまえの話を聞いていると、おれも子供の頃のことを思いだす」

「蛇が、逃げだしたときのことだね」

「……うむ」

「――鷹よ、あんたの親父さんは、おれのおっ母を救うために、犠牲になってくれたって聞いたよ」

「そうだな」

「すまなかった」

「いうな。おまえがあやまっても、変わらない」

「もし、おっ母が足手まといになっていなければ……」

「いいや、東ノ顎ひがしのあぎとよ。……この世には、もし、なんてことはないんだ。すべて、なるべくして、こうなっているんだから。――いいか、おれたちは木船に乗って、急流を下りはじめたんだ。上流よりも、先を見なきゃならない」

「あんたは、おれのおっ母やおれのことを、恨んでいるんじゃないのかい?」

 鷹ノ左目たかのひだりめは、弓を左手に持って、右手で弦をはじいた。びいん、という音が空気を震わせた。

 そのときちょうど、小部屋の戸がひらいた。そこには陽那の姿があった。

「待たせたね。……あした、戌の刻に、謁見が許された。それを伝えにきたの」


 強い日差しが降り注ぐ中、鹿彦は本宮の階段をのぼりながら、周囲を見まわした。

 あちらこちらに鉾を手にした兵がおり、巫女たちはせわしなく歩き周っている。まったく白ノ宮では、職務で言えば正反対である兵士たちと巫女たちが、蟻と蝶の共存とばかりに、それぞれの仕事に当たっているのだ。

 ことに本宮については人手が多い。

 その本宮については高床の設えで、周囲の建物に比べて一段と大きな造りをしている。その建物の二階部分に向かって、地面から続く幅の広い階段を、一行は進んでいた。

 先導するのは陽那、左方には鷹ノ左目たかのひだりめがいた。

 普段はめったなことで動揺しない鷹ノ左目たかのひだりめも、このときばかりはいつになくそわそわとしていた。そんな彼を見た鹿彦は、声を潜めていった。

「緊張しているのかい?」

「だまって進んだらどうだ」

「汕舵の戦士でも、そんなときがあるんだね」

 すると、鷹ノ左目たかのひだりめは鼻を鳴らして顔をそむけた。

 そんな風に相棒をからかった鹿彦についても、白ノ宮の中央部に向かう階段に至って、ただならぬ興奮の熱に当てられていた。ほとんどその照れ隠しのために、鷹ノ左目たかのひだりめを冷やかすという横暴に出たにすぎない。


 実際に白ノ宮は、馬稚国をはじめ周辺諸国から、神威と未知の聖域として畏怖されている。

 それに、畏怖の対象というだけではなく、もろもろの生活の中で、白ノ宮の呪力というものが、なくてはならないものになっていた。そのため、ことあるごとに国々の有力者は、貢物を持参して相談にやってくるのだ。

 ――たとえば。

 日照りや土砂崩れなどの災害があれば、国主の遣いがやってくる。

 戦が起きれば、吉凶の太占を依頼にくるし、ともすれば呪術を敵国に向けるように頼まれることもある。

 国の祭りや儀式に招待されたおりには、大巫女は難しいにしても、上位の巫女などが赴く。

 こんな具合である。

 つまるところ白ノ宮は、暗黙的な支配権を持っているものと言えよう。

 そんな強大な影響力をもった勢力が、名義の上とはいえ馬稚国に含まれているのだから、当然、馬稚国は周辺国に対して常に優位に立っていた。そのため、馬稚国は白ノ宮との関係を維持するため、食料や日用品の提供をはじめ、将兵の派遣などを旧来より行っているのだ。


 鹿彦は階段をのぼりきると、清々しく薫る木のにおいに陶然となりながら、二階部分の外周を巡る廊下に目を走らせ、白い小動物のような巫女たちを微笑ましく見た。欄干からは、周辺に建つ種々の宮を見渡すことができる。やはり白木であつらえた屋根は陽をよくはね返し、目にまぶしく白光している。

 鹿彦の目に写る宮の様々な情景は、ほとんど飾り気がなく、どこまでも端然としている。

 豪奢な飾りや金銀の装飾ではなく、建築の正確さと丁寧さが、白ノ宮の頂点と呼ぶにふさわしい神殿を造りだしたのだ。木材同士が組まれている部分も、床や柱の表面も、この上なく見事な仕上がりになっている。そういった細部に注目すればするほど、さながらに神々の仕事とさえ思われるほどだ。


「大巫女様は、この先だ」

 陽那の声に、唖然としていた鹿彦は正気に返る。

「あ、ああ。わかってるよ」

 そういって正面を望むと、畳が敷かれた広々とした屋内が見渡せた。

 左右には障子があり、正面には襖がある。襖の両脇には、開け閉めの係と思わしき巫女がいる。そんな部屋の四隅には、剣を腰に提げた兵士がいかめしく立っていた。

 そこへ陽那は静々と立ち入り、正面の襖の前へと歩いていくと、つと立ち止まっていった。

「さあ、きみ方もこちらに」

 鹿彦たちが陽那のうしろに行くと、陽那は襖に向かって明々たる声を上げた。

「これなるは陽那でございます。先にもうしあげた件にて、汕舵の使者をお連れいたしました」

 すると、襖の奥から女の声がした。

「どうぞお入りなさい」

 すると、左右に構えていた二人の巫女が襖に手をかけ、それをひらいていった。

 やがて、鹿彦たちは次の部屋に入っていった。

 その部屋の天井のからは、大きな絹の幕がさがっていた。

 やはり四隅には兵が立っており、微塵の油断もなく厳然と立っている。

 部屋の左右の障子から漏れる控え目な光は、畳や梁をゆるく照らしている。絹の幕は光をふくみ、やわらかく風に揺れていた。

 その幕の向こうに、影が見える。

 女人のものらしきほっそりとした肩と頭の輪郭が、幕を透かしてうっすらと見えるのだ。

 鹿彦は覚えず身震いをした。

 空気が張りつめており、いまにも肌が裂かれてしまいそうな感覚さえあった。

 それに怖じることもなく、鹿彦は陽那に続いて幕の手前まで進んでいき、陽那にならって平伏した。少し遅れて鷹ノ左目たかのひだりめが横にやってきて、同じく平伏した。

「面をお上げなさい」

 と、やわらかくも凛とした声がする。

 そこで、陽那は顔を上げていった。

「例の者たちをお連れしました。若い方が東ノ顎ひがしのあぎと、もう一方が鷹ノ左目たかのひだりめです」

 鹿彦は緊張しながら、幕の向こうに会釈した。鷹ノ左目たかのひだりめは微動だにせず、神妙な面持ちをしている。

「ようこそ。遠路はるばる、よくぞまいったな。汕舵の民といえば、宮にとって、きょうだいも同然。祖を同じくする同朋であるのじゃから」

 それに対して、汕舵の客人はいずれも、気の利いた返礼をするような世辞の言葉を持っていない。沙羅ノ腕さらのうでその人であれば、相応の世辞で渡り合うのだろうが、鹿彦にしても、鷹ノ左目たかのひだりめにしても、白なら白、黒なら黒というまでだ。それでも一応、鹿彦は大巫女の好意の言葉に、謝意を示した。

「寝床の世話から食事の世話まで、ありがとうございます。急なことだったのに、時間をとってくださいましたね」

「うむ。他ならぬ同朋の頼みとあらば、時間をとることなど当然じゃ。――さて、ことの仔細は聞いておる。ありていにもうせば、例の、眠り病の元凶たる蛇を討つために、冥門ノ術めいもんのじゅつを必要としている、と。そういうことであったか」

 鹿彦はうなずいて、返答した。

「そのとおりです。蛇を屠らねば、これからも犠牲者が、もっと増えることでしょう」

「なるほど、そなたのいうことも、もっともじゃろう。蛇が元凶である以上、早々に常世へ参り、それを封じねばならぬ。――して、そのためにはわたしのしる、冥門ノ術めいもんのじゅつが必要となる。……しかし、あの術に限らず、高度な術であるほど、術者の負担も大きいのじゃ。事実、そういった術のために、寿命を削った大巫女もおった。――蛇とはすなわち、汕舵の造った現神うつしかみであろう? その後始末のために、わらわの命を寄越せ、と。そういうのか?」

「そ、それは……」

 鹿彦は思わず絶句するのだが、そこに、陽那はためらいながらもいった。

「おそれながら……。いま、各地では、蛇に命を呑まれかけている者が数しれずおります。われわれ白ノ宮では、結界の力によって幸いにして、被害を食い止めておりますが、これもいつまで持つものか分かりません。それに――。われわれは日々の食糧や、その他の生活に必要なものを、自分たちでつくっているわけではありません。常に、馬稚やその他の国から献上を受けることで、成り立っております。それらの支援者が弱っていけば、おのずと、われわれの生活にも波及がありましょう。ですから、大巫女様。われわれが立つことで事態が解決に向かう可能性があるのならば、手をこまねいている場合ではございません。――そののち、必要とあらば、汕舵に対してしかるべき追求なり、弁償なりを問えばよろしいのではないでしょうか? とはいえ、汕舵の民はわれわれと祖を同じくする、同朋であります。近年においても、彼らより授かった術を役立てております。ゆえに、お互い様という考え方もできるわけです。それに、汕舵の者は、すべてを他人任せにするつもりではありません。門がひらいた暁には、先陣をきって常世に挑み、蛇を討伐する、と。そうもうしております。――そうですね?」

 陽那は後方に座す鹿彦たちに尋ねた。すると、《蛇ノ左目》は事もなげにいった。

「もちろんそのつもりだ。すぐにおれは汕舵の戦士を呼んでくる」

 すると、幕の向こうの大巫女の影は、額に手を当てて思案するような素振りをした。

「陽那よ……。そなたも、わらわに犠牲を求めるということか。――ふむ。大巫女という立場である以上、ことあらば身を滅ぼしてでも、宮のために犠牲を払うくらいの覚悟はある。しかし、その後はどうする? 万一それで、わらわが朽ちたら、誰が宮を担うのじゃ?」

 陽那は俯いて何事かを考えているようだった。やがて、決心を固めたように顔をあげた。

「大巫女様が、犠牲になることはありません」

「どういうことじゃ?」

「母上、わたしがその冥門ノ術めいもんのじゅつを習い、行使いたします!」

 それを聞いた鷹ノ左目たかのひだりめは、おどろいたように、小さな声で尋ねてきた。

「おい、陽那殿は、大巫女の娘ということなのか?」

 鹿彦は困惑しながら答えた。

「おれだって、はじめて聞いたよ」

 すると、陽那が振り返って、二人にいった。

「……お二人とも、黙っていて悪かったな。特に必要もなかったからいっていなかったんだ。わたしはいずれ、大巫女の地位を継ぐ身なのだ。まあ、それについては、あらためて」

 そのとき、大巫女の声がした。

「正気か? 陽那よ」

「ええ。――このわたしなら、例の術を受け継いだとしても、しきたりに逆らう、ということにはならないでしょう。危険があるのだとしても、母上に比べれば生命力があり余っております。……万一のことがあったとしても、大巫女の候補が他にいない、というわけでもありませんし。――わたしはいままで、修行の合間に、各地へ出向いて見聞を広める自由を与えられてきました。その中で出会った人々のことを思うと、どうしても黙ってはいられなくなったのです」

 すると、大巫女はいった。

「多くのものを支払うことになるぞ。わかっておるのか? 未熟なそなたなら、なおさら」

「無論です。たとえ術のために寿命が縮まろうと、息絶えようと、覚悟はできています」


 西日が炯々と輝く敷地をぬって、鹿彦たちは貸し与えられた部屋に戻った。

 はじめに沈黙を破ったのは、鷹ノ左目たかのひだりめだ。

「すまない。おれたちが生み出した蛇のために、陽那殿へ負担を強いることになってしまった」

「いいえ。白ノ宮そのものが、いわば汕舵の民があっての存在だから。こんなわたしでも、沙耶や、人々を救うことができるのならば、甲斐があるというもの」

 そういいながら、御しきれない怯懦のためか体を小刻みに震わせる陽那を、鹿彦は黙って見ていることができなかった。

「おれのしる限り、あんたはいつも、人の世話を焼いているね。沙耶さんの飛脚になったり。おれを蜥蜴どもから救ってくれたり。ましてや、今回のこと。あんたは十分すぎるほど、やってきたように思うよ。……どうだろう? 他に、もっといい方法があるんじゃないだろうか。あんたが犠牲にならなくとも、この白ノ宮になら……」

 陽那は断固とした口調でいった。

「なにをいまさら。そんなことを考えている間に、蛇は日に日に糧を得るだけだ。沙耶も、人々も、助かる見込みがなくなっていくだけなのだ。――もう、はっきりしているじゃないか。きみたちは汕舵の戦士を集めて、常世へ挑む準備をする。わたしは、母上から冥門ノ術めいもんのじゅつを学ぶ。それも、十日、なんて悠長なことをいってはいられない。そうだな、七日といったところか。鷹ノ左目たかのひだりめ殿が汕舵の戦士を呼んでくるのに必要な時間は……。さあ、やるしかないのさ」

 鹿彦は拳を固めて、床を殴りつけた。

「時の翁は耄碌だ! わざわざ苦しむ者を見つけては、呪わしい運命を分け与えるんだから。沙耶さんに対しても、あんたに対しても」

「仕方のない。われわれの存在が、神々の酔狂の産物であるがゆえ」

 と、陽那は立ち上がった。


 陽那が去ったあと、日没を待たずして、鷹ノ左目たかのひだりめは汕舵の地へ旅立った。

「七日といわず、六日もあれば、戻ってこられるはずだ。――北西の丹綺国のことを考えると、戦える者全てを連れてくるわけにはいかないが……。それでも、四十人はくだらないだろう」

 そういって、さしたる身支度もせずに白ノ宮を発った。


 鷹ノ左目たかのひだりめが旅立った翌日には、早くも術の準備がはじまった。

 陽那に至っては、大巫女のもとで冥門ノ術めいもんのじゅつの極意を学んでいた。また、警護の兵たちや巫女たちも、仕事を割り与えられたものは、それぞれ任に当たっていた。

 もろもろの準備の中で、目に見えて大きなものは、広場での門の建立である。

 冥門ノ術めいもんのじゅつを執り行うことが決まった翌日、巫女たちは木こりたちを連れて森に入った。そして、しかるべき占いをもって、門柱となる二本の桧を選んだ。それらを木こりが切り倒すと、人々は広場に運んだ。

 すぐに職人が群がって、枝を落とし皮をはぎ、かんなややすりをかけた。そして夜になる頃には、見事に二本の門柱を仕上げてしまったのである。その後、門柱を立てる穴が十分な深さになった頃には、朝日がのぼっていた。

 作業は夜通し、日をついで行われた。

 動員された木こりは六名、大工は八名、穴掘り役は十人にもおよび、いずれも、互いの仕事を手伝っていた。

 やがて翌日の正午すぎに、とうとう門を立てる段階になった。

 門とはいえ、その構造は簡素なものである。いや、きわめて無骨で原始的なもの、というべきか。

 二本の丸太の上部に、一本の細長い丸太を渡した、粗野な鳥居とでもいうべきものなのだ。

 その上部に縄をかけ、二十人からなる男たちの力で立てようというのである。

 太陽のもと、汗と埃にまみれた半裸の男たちは、それぞれの持ち場についていた。

 なにかをしていないと気が気ではない鹿彦についても、これらの人足に加わっており、とりわけ縄を牽く一団に紛れていた。

 門柱はこのとき地面に倒されており、二本の門柱の脚元には、立ち上げる過程で差し込むための穴が空いていた。

 人足の配置については……。

 まず、門柱の足元を固定するものが左右に五名ずつ。上部から延びる縄を牽いて、門を起こすものが五名。地面に置かれた門の頭を持ち上げるものが、四名だった。

 職人たちの中でも年かさの、筋骨隆々たる白髭が、立ち上げに当たっての音頭をとった。

 白髭は腕を振り上げて、決められた掛け声を先導する。

 散逸としていた掛け声は次第に、白髭の音頭に収束してゆく。

 はじめにもっとも力んだのは、頭を持ち上げる役割の者たちだ。

 足元を固定する者たちも、渾身の力で押さえつけている。

 縄を牽く者たちとて、油断のない表情だ。

 門柱の軋む音、それから男たちの唸り声や掛け声、それらがさながら一体の白い獣のようになって、燃える太陽を目がけて立ち上がってゆく。

 鹿彦たちは、いっそうの力をこめて縄を牽いた。

 左右の門柱を支えるものたちは、眉に皺を寄せて、汗水、あまつさえ涎さえ垂らし、門の足元をおさえつつ、穴の中へ差し入れていった。

 半ばほど立ち上がったとき、門柱の足は見事に、穴の中へすとんと落ちた。

 あとは穴の隙間に湿らせた土を埋め、固めていくだけだ。

 あたりから歓声が上がり、笑い声や泣き声が入り乱れた。

 鹿彦は、四方から延びてくる泥だらけの腕に頭を撫でられ、腕を引っ張られ、揉みくちゃになった。

「いいかげんにしてくれよ! 嬉しいのはわかるけど、喜ぶのはまだ早い。なにもかも、これからだ!」

 そう怒鳴った鹿彦の顔に、水しぶきが飛び込んできた。

 男たちが太陽の熱に当てられぬように、あるいは単なる景気付けのためか、何者かが気ままに水を撒いているのだ。

 いつしか鹿彦は彼らとともに笑い、体を叩きあっていた。

 それでも、修行に挑む陽那や、常世をさまよっているであろう沙耶や、汕舵を目指す鷹ノ左目たかのひだりめのことを思うと、笑顔の底の影を消すことはできなかった。

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