第8話

 沙羅ノ腕さらのうでは語り終えると、村の男衆のような恰好であぐらをかいたまま、鹿彦を見上げてきた。

 沙耶は突然聞かされたあまりに重い秘密を持て余しているのか、地面に視線を向けて絶句していた。

「にわかには信じられないことですね」 

 鹿彦は生来の性格ゆえか、そんな大人びた言葉を吐いて、長老の反応を待った。

 内実、鹿彦は長老の昔話を訝しんでいさえした。それは一種の寓話や伝説のようなものに過ぎないのだ。ゆえに全てをそのまま呑みこんでしまっては、恐ろしい齟齬を産んでしまうのではないか。そんな危惧があった。

 しかし、長老は自身が語った昔話について、なんら訂正や注釈を加えようとはせず、濁って黄ばんだ目に涙を湛えているのみ。やがて彼女はためらいがちに口を開いた。

「すべては、真実なのだよ。……そう、東ノ顎ひがしのあぎととは、そなたのことだ。西ノ顎にしのあぎとに喰いちぎられたもう片方の頭――東ノ顎ひがしのあぎとは、霊体となって天ノ青石あめのあおいしの腹に宿った。その霊体が同化した胎児。……それがそなただ」

 鹿彦は自身の手の平や腕、足を見まわして、それらがきちんと人間のものであることを確認しはじめた。あるいは、心の中に人間らしくない考え方や感覚が芽生えていないか、内省してみた。むろん、正確に自己の内面を省みることができる人間などいようはずもない。それでもとにかく、自身が紛れもない人間であることの確証を求めた。

「おれの体の中に、その、東のなんとやらという蛇の霊が。――いいや。そんなことがあるはずがない!」

「困惑するのも、無理はない。そなたにとっては、なにもかも、いましがたしったところなのだからな。しかし、われらに残された時は限られておる。――西ノ顎にしのあぎと、すなわち蛇は、この地の人々を常世に誘い、領土に閉じ込め、養分に変えておるのだ。蛇の力は日に日に力をましておるし、このままいけば、あらゆる人間が、生物が、蛇に呑まれていくことになろう」

 鹿彦は無意識に、厄介な荷物を押し返すような手ぶりをして、なおもいった。

「なぜ西ノ顎にしのあぎとは突然暴れ出したのですか? 汕舵の民を守るために、あなたたちが造ったのではないのですか?」

「ふむ……。理由は分からんのだ。しかし、そなたなら、憶えているだろうな。深い、魂の奥深くに、答えを抱えているはずなのだ。いわんや、それが判明せんのだとしても、事実は変わらぬ。蛇とそなたの間には因果がある。ゆえに、そなたが蛇を止めることができるのだということ」

「そうだとして……。あなたは、おれにどうしろっていうんですか?」

「うむ。そなたは常世の西のはてにある、蛇の領土に挑み、やつを滅ぼさねばならない」

 鹿彦はふいに、馬稚国での出来事を思いだした。かつて、田山という家老に脅されて、殿の霊を救うために向かった世界のことを。

「あの、荒涼とした斜面と、その先のことをいっているんだとしたら、とんでもない話ですね! どういうわけかおれは、蜥蜴の奴らに……」

 鹿彦はその声のせいで宿敵たちが場所を突き止め、襲ってこないかと危惧して、にわかに声を落とした。

「とにかく、おれはあそこで、得体のしれない蜥蜴みたいなやつらに追われたんです。やつらはどこにでも現れて、喰いかかってくるんですよ。おれのおっ母だって、やつらにやられたんだ」

「しかるに、それらは蛇の手下だな。力を増したゆえか、蛇は手下を使いおるようになったか」

「それなら、そうでしょうよ。そして、やつらがいる限り、西のはてにある、――あそこが西であればですが、あの呪われた窪地に至ることはできないでしょう。あるいは、崖の眼前までいったとして。おれに飛び込んでいく勇気があるかは、分かったものじゃありませんが」

 沙羅ノ腕さらのうでは眉根を寄せて考え込んだ。やがて、鋭い眼をして顔を上げた。

「蛇の下僕どものことは、方策を考えておこう。いずれにしても、今後のことはそなた次第だな。――さて、きょうはもう、ゆっくりと休んだらどうだ? よし。そなたらには、あとで空き家を案内しよう。しばらく、広場で待っていてくれんか」



 鹿彦は沙耶とともに神域の坂をくだり、村の広場へとやってきた。赤茶けた土や中央の焚火の跡に、沙羅ノ腕さらのうでより聞かされた物語の情景を重ねてみたが、いまひとつ現実感が湧かなかった。

「本当に、ここで、先ほどの話のようなことがあったのでしょうか」

 沙耶は、やっと言葉を思い出したかのように、そういった。

「わからないよ。ただ、長老がまるで嘘をいっているようにも思えないね」

 極めて冷静で控え目な言葉とは裏腹に、鹿彦の心は揺れ動いていた。事実、先刻の話の後から、あるいは神域のものものしい注連縄を見てから、彼の体の深奥にて、感情の塊のようなものがわだかまっていた。その塊とは、それこそ東ノ顎ひがしのあぎとなる蛇の頭だといわれれば、はっきりとは否定し難いものだった。とはいえ、その塊は以前より心にあったものだし、それに間違った名前を与えられたにすぎない可能性もあった。

 いったい人間は、その心の中に幾つの自我を飼っているのだろうか。怒るとき、安らぐとき、疑うとき。それぞれの契機にわだかまる心の働きが、すべてそのひとの人格に属するものだと、誰が断じれるのだろうか。

 ――鹿彦は心の奥に、黒い蛇を怖れ、また憎む存在をたしかに感じていた。あらためて、鹿彦は心の中で、それを東ノ顎ひがしのあぎとと名指してみた。その塊は干からびた白い頭をもたげて、睨みをきかせてくるようでもあった。


 西の空に夕陽が輝きつつあった。沙羅ノ腕さらのうでは今夜の寝床を案内してくれるといっていたが、なかなか姿が見えない。そのため二人は、好奇心にまかせて辺りを散策しはじめた。

 ふと、ある一軒の家へさしかかったときに、声が聞こえた。

「いつになったら目覚めるの!?」

 鹿彦はびくつきながらも、家の戸口に近づいた。戸は開いており、中には三人の姿があった。

 部屋の片隅には、麻の寝具にくるまって死んだように眠る少女がいた。

 立ち上がっている母親と思わしき初老の女は、錯乱した様子で家の壁を叩き付けている。

 そんな女の腕を押さえつけて、「落ち着くんだ、おふくろ」と諌めているのは、先刻、村の入り口で出会った鷹ノ左目たかのひだりめだ。

「こらえるんだ。――そんなに喚いても、白ノ花しろのはなは目覚めない」

「うう――。やつは、なにもかも奪った。あのひとを――わたしの鷹を! それに飽きたらず、白ノ花しろのはなの魂までも……」

 やがて女は力を失ったように座り込んだ。

 鷹ノ左目たかのひだりめは女の背中に手を当て、

「いずれ、よくなる。なにもかも」

 といってため息をついた。

 やがて、鷹ノ左目たかのひだりめは戸口の方へ鋭い眼差しを向け、鹿彦へと詰め寄った。

「そこで、何を見ているんだ」

 鹿彦は気圧されつつも、なんとか答えた。

「いいや、おれは何も……。声がしたから、何だろうと思っただけさ……」

「例の、眠り病という奴さ。聞くところによれば、都でも犠牲者が増えているらしいな」

「ああ……。おれが馬稚の都に立ち寄ったときも、眠ったまま、動かなくなった人たちがいたよ」

「妹の白ノ花しろのはなは、もともと体が弱くてな。そういった、心身の脆弱な者から、蛇に付け込まれるのさ。まったく、蛇はおれにとって、疫病神みたいなやつだ。かつては親父を殺し、いまでは妹をうばおうとしているんだからな」

 鹿彦は視線を落として、「それは残念だ」といってから背中を向けた。沙耶はもごもごと口を動かしたが、結局何も語らず、再び口を結んだ。

「逃げるのか」

 と、背中から飛んでくる鷹ノ左目たかのひだりめの声に、鹿彦は足を止めた。

「おれの親父も、おまえの親父さんも、勇敢だったぞ。おれはまだ幼かったが、そのことはよく憶えている。――親父が飛ばした矢は、誰が放った矢よりも遠くまで飛んだし、おまえの親父さんは、斧を振るって幾多の敵を仕留めた。……そして、おまえときたらどうだ? 本当に岩山ノ鹿いわやまのしかの息子なのか?」

 鹿彦は一刻も早く立ち去ってしまいたかった。しかし、それは許さない、という気迫が背後から感じられた。おそるおそると振り返った鹿彦は、弁解がましくいった。

「おれには、何もないんだよ。……弓を引いたり、斧を振るったりする力はない。それに、戦に出たこともない!」

「いや。おまえには、誰よりも強い力が宿っているはずだ。――おまえは東ノ顎ひがしのあぎとを体に宿しているのだろう? その力を使って、蛇を屠りに行かないのか?」

「あんたたちのおとぎ話に、付き合う筋合いはないね。おれが汕舵の血を引く者だとしても、どうして命を賭して、蛇を倒しにいかなけりゃならないんだい?」

「――そうか、やはり、間違いだったようだな」

「何が?」

 すると、鷹ノ左目たかのひだりめは失望したような、冷淡な目をしていった。

「汕舵の男に、おまえのような臆病者は、ひとりとしていない」

 鷹ノ左目たかのひだりめは、もはや用はない、といった様子で、背中を向けて戸口を閉ざしてしまった。

 鹿彦はそのまま、呆然と立ち尽くした。やがて、背後から沙耶の声がした。

「あの、なんといえばいいのか、分かりませんが――」

 憮然とした表情のまま、鹿彦は振り返った。

「ああ。なんだい?」

「鹿彦さん。……あなたは、自分が何者であるかを探すために、汕舵の地を目指していたのでしたね」

「ああ。そのとおりだよ」

「それは分かりましたか?」

「ああ。大体はね。……おれはやはり、汕舵の血を引いているみたいだね。それに、あの長老の話が本当なら、化け物の片割れなのだろうよ」

「しかし、それは、生まれ持った運命に過ぎませんね」

「どうしたっていうんだよ、沙耶さんまで。何をいいたいんだい?」

 沙耶は驚いたように肩を震わせたものの、それ以上怯むことはなかった。

「憶えていますか? あなたが気を失って、言忌ノ宮に運ばれてきた日のことを」

「もちろんだよ。それがどうかしたのかい?」

「あのときまで――あなたがわたしを連れ出してくれるまで、言忌ノ宮が世界の全てでした。そして、言忌様をお祀りするという役目が、わたしの生活の全てでした」

「ああ。……そうだったみたいだね」

「あの役目を授かるまで、わたしは、幼い巫女見習いでしかありませんでした。しかるに、それは何者でもない人間、だといっても、決して大げさではありません。――そこで、鹿彦さんにお尋ねします。人間とは、自身の出自を知っているからといって、何者かである、と呼べるのでしょうか?」

「なんだって? どうしてそんなことを、おれに聞くんだ!?」

「少なくとも……。ええ、少なくとも、わたしは役目を授かるまで、何者でもありませんでした。――あの役目がどれほど惨めで、呪われたものであろうと、あの役目によって、わたしは、自分を手に入れることができたのです」

「いいたいことはそれだけかい?」

「ええ……」

「沙耶さん」

 鹿彦は鼻をひくつかせながら、怒りにまかせていった。

「そういうあんたは、逃げちまっただろう、ご立派な役目から。そんなあんたが、おれに、逃げるな、なんていえるのかい?」

 すると、沙耶は目に涙を浮かべはじめた。

「ああするしかなかったのです。捕まってしまえば、死をもって償うことになったのかもしれません。――そうです。わたしは卑怯者なのです。……そして、自分自身から逃げだしたわたしは、もう、何者でもない。だからこそ、あなたには、そうなって欲しくはないのです」

「それは勝手ないい草だよ! なるほど、あんたは卑怯なのかも知れないが、おれはまだ、引き受けてもいないんだよ」

 沙耶は悲しげな目で鹿彦を見ると、背中を向けて、待ち合わせ場所である村の広場へと歩いていった。


 半刻もすると、沙羅ノ腕さらのうでがやってきた。

「遅うなったな。他の者の手を借りて掃除をしとったのだが、これがなかなかに手こずってな。――さて、腹も減っているだろう? よかったら先に川で汗を洗い流して、食事としようか」

 そういわれるまで、鹿彦は自身の空腹に気がついていなかった。

「ええ。助かります。……考えてみれば、おれたち、今朝方に干し肉を齧ってから、何も食べてないんです」

 喜び勇む鹿彦だったが、沙耶は依然として無口だった。

「まだ、さっきのことを気にしてるのかい?」

「いえ。なんでもありません」


 沙羅ノ腕さらのうでの住居はほかの家々と同じように、堀に囲まれた竪穴式の住まいだった。長老の住まいというからには豪奢なものだろうと期待した鹿彦だったが、いくらかその期待は裏切られる形になった。とはいえ、周囲の家の二周りほどは広い家だった。

 麻や干し草を編んだ敷物が全体に敷かれ、その下は土になっているようだった。

 中央には小型の囲炉裏が設えられているのだが、それはほとんど焚火に近かった。

 内壁には様々な動物の毛皮や角が飾られており、極彩色で塗り分けられた壁布が飾ってあった。

 感嘆の声をあげて内装を見まわす鹿彦だったが、沙羅ノ腕さらのうでの勧めで、水浴びをすることになった。

 そんなわけで、鹿彦は桶を持たされ、小川へと歩いていった。

 村の中を流れる小川は、沙羅ノ腕さらのうでの家を出て、すぐ東にあった。

 村や森の上には紫色の夕闇が迫りつつあり、川の流れは実際よりも深く、濃く見えた。

 鹿彦は持参した桶を流れに浸し、教えてもらった作法の通り、汚れた水が川に戻らぬよう、少し離れた位置で手足を浄めた。次いで顔、首筋、額と水をかけていくと、熱に火照った体の部位が次第に、垢となって流れ落ちていくような心地を得た。――高地とはいえ、夏ともなればこの村でも蒸すように暑くなる。日がな陽光にさらされた肌にとって、川の水はこの上なく清涼だった。


 水浴びを終えて長老の家に戻ると、こんどは沙耶が川へ水浴びに出かけた。

 鹿彦は内心びくびくとしながら、沙羅ノ腕さらのうでの表情を盗み見て、村を囲う塀のことや、北西に位置する丹綺国のことなどを尋ねた。他愛もない話題を振ることで、鹿彦自身の決意を問いただされるようなことを避けたかったのだ。

 沙羅ノ腕さらのうでは決して、『いいかげん、自分の運命を受け入れて、覚悟を決めたらどうだ。蛇を屠るための決意を示さぬか』などという言葉を突きつけてくることはなかった。ただただ鹿彦の愚直な質問へ、丁寧に返答しただけだ。

 ほどなく戻ってきた沙耶を見て、沙羅ノ腕さらのうではいった。

「さて、食事を運んでこさせよう」

 沙羅ノ腕さらのうでが戸口の方へ、「そろそろ、料理を頼めるかな」と声をかけると、やがて十五歳かそこらの少女が、土製の浅く大きな器を持ってきた。少女は戸口を行き来して、囲炉裏のとなりに器を並べると、「これで全部です」といって、家を出ていった。器は四つあり、その内三つは各人ごとの汁ものだ。中央に置かれたひとつには、木の実の団子が盛られていた。

「食べようじゃないか。ほら、遠慮せずに。……まあ、たいしたものは用意しとらんがね」

 沙羅ノ腕さらのうではそういって、ずらりとならんだ器の前に腰をおろした。

 鹿彦も同じく腰をおろすと、木の匙を掴んで、眼前の汁ものから手をつけることにした。骨付き肉と香草が、透明な汁の中に沈んでいる。おそるおそる汁をすくって口に運ぶと、舌先で舐めてみた。――ほのかな塩味があり、肉と香草の風味が引き立っている。

「うむ。それは鹿の肉だ。骨髄も入れてあるから、塩気がきいておるだろう?」

 鹿彦はあいまいな返事をしながら、猛烈ないきおいで肉を頬張りはじめた。

 沙耶はなにもしゃべらず、黙々と匙を汁に差し入れては、それを口に運んだ。憮然とした沙耶の様子が気になった鹿彦は、おずおずと話しかけた。

「……あのさ。さっきから、機嫌が悪いみたいだね」

 すると、どういうわけか沙耶の目に涙が溢れてきた。

「どうしたんだい?」

「いえ……。なんでもありません」

「なんでもない、ってことはないだろう。おかしいよ」

 そこへ、沙羅ノ腕さらのうでがかばうように言葉を継いだ。

「無理もない。沙耶にしてみれば、育ってきた宮を逃げだして、地の果てとも思えるような場所まできたのだ。あまつさえ、昼間の話を聞いてしまったわけだからな。長神ノ現ながかみのうつし――あの蛇の話も、沙耶にはあまりに恐ろしいものだったのだろうよ。……まあ、これについては鹿彦、そなたにとっても、より恐ろしいものに他ならんと思うが」

 鹿彦はぎくりとして、沙羅ノ腕さらのうでを見た。

「……正直、おれも、戸惑っています。いまだに、おれの中に東ノ顎ひがしのあぎとの霊が宿っているなんて、想像がつきません」

「そうだろうな。――それも無理はない。よく考え、決めればよい。……もし決心ができれば、すぐにでも準備をするつもりだが。こうしているいまでも、蛇は人間を常世に導いておる……。いや、よそう。まずは、その腹を満たすがいいさ」

 それから、沙羅ノ腕さらのうでは柔和な表情をして、沙耶の顔をのぞき込んだ。

「人生には、転換期がある。たいていそれは、突然、思わぬ形でやってくる。すると、それまで当たり前だった生き方が遠のき、代わりに新しい生き方が差し迫ってくるものだ。……のう、沙耶よ。ここまでやってきたからには、汕舵の民として生きていくつもりだったのだろう? わしらは、喜んで迎えるぞ。――だから。過去は過去として大切に胸へとしまって、前を向いてもいいのではないかな?」

 目を閉じて黙していた沙耶は、深くためいきをついて、ゆっくりとうなずいた。

「ありがとうございます。――ええ、そうですね。……しかし、考えてもみれば、わたしはやはり、宮の巫女として育ってきた人間です。白ノ宮を逃げだしたわたしが、こんな無責任なわたしが、いったい何者になれるのでしょうか?」

 それからというもの、沙耶は何も食べずに、始終うつむいたままだった。


 やがて鹿彦は松明を持って、沙耶と共に、寝所として貸し与えられた住居に向かった。

 沙羅ノ腕さらのうでの住居に比べると手狭なようだった。

 沙耶はあいかわらず陰鬱とした表情のまま、真っ暗な家の中に入り、そのまま麻の寝具に体を横たえた。

 鹿彦は松明を地面に置いて踏み消すと、沙耶のとなりに敷かれた寝具に寝そべった。

 木製らしき枕が思いのほか固く、眠るのに難儀しそうだった。

「沙耶さん。起きているかい?」

 沙耶の呼吸がぴたりと止まったようだったが、返事をする気配はなかった。

「夕方は、変なことをいっちまって、悪かったよ。本当に。……おれは、あんたを卑怯だなんて、思っていない」

 すると、呟くような、ともすれば寝言とも思わしき掠れた声が聞こえた。

「会いたい。父上に。母上に。わたしはもう……」

 鹿彦は思わず上体を起こして、闇の中、沙耶の方に顔を向けた。

 とはいえ、なんと声をかけたものかもしれず、あきらめて再び体を横たえた。


 翌朝になると、鳥の甲高い啼き声によって、鹿彦は目を覚ました。

 ちらりと沙耶の方を見ると、まだ眠っているようだった。

 手持ち無沙汰なまましばらく沙耶を見ていた鹿彦は、やがて立ち上がって、家の外へでた。

 村の小川をすくって水を飲み、広場などを散策したのち、再び家に戻ったのだが、まだ沙耶は眠っていた。

「いつまで寝ているんだい? 夜更かししたわけじゃないのに」

 と、戸口から声をかけても、なんの反応もない。

「呑気なものだよ、まったく」

 などと呟いた鹿彦は、ふと、おそるべき予感におそわれ、突き動かされるように、家の中へ駆け込んだ。

 仰向けで眠っている沙耶の顔をのぞき込むと、死者のように青白くなっていた。「起きてくれよ!」と、声を荒げても反応がない。肩を強く揺すっても目覚めない。

「冗談だろう? なあ、沙耶さん。……どうして。……どうして、あんたまで!」



 戸口の外から、村の者が心配そうに中をのぞき込んできている。

 午後になっても沙耶は目覚めず、それどころかますます、顔色が悪くなっていくありさまだ。

 鹿彦は沙耶の褥の横に座し、沙羅ノ腕さらのうでと向かい合っていた。

「ついに、沙耶までも犠牲になったようだな。それに――元より霊力が備わった沙耶は、ふつうの者よりも、悪化が早いようだな」

 苦渋の面持ちで、鹿彦はうなずいた。

「きっと、おれのせいなんだ。きのう、沙耶さんといい争いみたいなものがあって――。そのとき、おれはひどいことを……。宮から追われる沙耶さんは、気丈にふるまっていながらも、内実、苦しんでいたんだと思う。そんな沙耶さんに、おれは追い打ちをかけてしまった。卑怯、だなんて。くそッ!」

 鹿彦は拳を握ると、自身の腿を殴りつけた。

「止めい。いまはもう、過去のことをいっておっても、仕方がない。それより、分かっておろう? なにをしなければならないか」

「……ええ。たしかに、もう迷っている場合ではありませんね。おれは蛇を――西ノ顎にしのあぎとを倒さなければならない」

「しかり。そして、そのためには、正気を保ったまま、夢の淵――すなわち常世に挑まねばならない」

「そうですね。それについては……。先日、おれはある人を救うために、沙耶さんの術によって常世へ行ったことがあります。おそらく、白ノ宮の巫女なら、沙耶さん以外にも、あの術を使うことができるのだと思いますが……分かりません」

「ふむ。それなら、ともかく宮へ行ってみなければならんのう」

「はい。……ただ」

「どうした?」

「以前常世に行ったとき、おれは蛇の声に導かれて、斜面をずっと下って行ったんです。すると、それはそれは大きな窪地に辿りつきました。――そのときでした。おれの故郷にやってきた例の蜥蜴どもが、そこいらから襲いかかってきて! やつらがいる限り、どうにも窪地の奥まで行くことはできないでしょう」

「そうか……。それも、巫女の知恵を借りねばならんだろうな。しかし、情けないことだ。元はといえば、長神ノ現ながかみのうつしを造ったのは、我々だ。それなのに、後始末をすることも叶わぬとは……。まったく情けない」

 すると沙羅ノ腕さらのうでは、さぞ嘆かわしそうに首を振った。

「それにしても、白ノ宮と汕舵の間には、どんな関係があるんですか? 沙耶さんがいた言忌ノ宮にも、汕舵に伝わる秘術で――それこそ、おそらく長神ノ現ながかみのうつしと似たような方法で造られたらしい、神体が祀られていました。もっとも、おれが行ったときには、滅びてしまっていたようですが」

「ふむ。それならばこれを話しておこうかの。汕舵の民に伝わる伝承のうち、もっとも古い話を……」

 沙羅ノ腕さらのうでは唇へ舌を這わせ、湿らせてから続けた。

「わしら汕舵の民は、《汕舵国》という遠い場所からやってきたのだと伝えられておる。そこは、北にあるのか、南にあるのか、天にあるのか、地底にあるのか、はっきりとは分からんのだが。……とにかく、われらは元々汕舵国に住んでおったのだそうだ。その国では、周囲の国々を支配するため、多くの現神うつしかみを造り、祀っていたのだという。やがて、《汕舵国》に危機が訪れた。……祀っておった多くの現神うつしかみが暴走し、人間を襲いはじめたのだ。そのとき、もっとも呪術の力が強かったひとりの者が、人々を連れて旅に出たのだ。そして、長い旅の末に辿りついたのが、この森だったというわけだ。――して、そのとき人々を導いた指導者は、白鷺ノ羽しらさぎのうでという、白い長衣を着た女だった」

 そこで沙羅ノ腕さらのうでは咳払いをして、再び語りはじめた。

「われらの主神たる《日月ノ長神》を模した、例の蛇を造ったのも、白鷺ノ羽しらさぎのうでなのだ。

 それから数年後、白鷺ノ羽しらさぎのうでは何人かの民を連れて、再び旅へ出た。

 やがて、馬稚国の南部へ至った白鷺ノ羽しらさぎのうでは、そこに集落を作った。そこはやがて、馬稚国やその他の隣国を影ながら支配する白ノ宮として、畏怖を集めるようになった。

 ――と、まあ、これが伝承のあらましだ。白鷺ノ羽しらさぎのうでが汕舵の地を去っていった理由は、諸説あるがはっきりとはせん。

 ……そこでわしが思うに、白鷺ノ羽しらさぎのうで現神うつしかみに頼ることが嫌になったのだろうな。だから彼女は、現神うつしかみに頼らずとも自分たちを守れるよう、術の研究や研鑽を続けて、白ノ宮にこそ、秘伝の数々を残したのだろう。

 いましがた、そなたは言忌ノ宮の名を出したな。あそこで祀られておった《言忌ノ神》の造り方は、近年になって汕舵より伝えたものなのだ。白鷺ノ羽しらさぎのうでは常世より、さぞ不本意な気持ちで見ていたかもしれぬな。

 ――そうだとしても、白ノ宮が強力な力を持つことで、かえって地域の不毛な争いを避けられていた部分もあるだろう」

「なるほど。――そんな過去があったのですね。しかしいまは……」

「ああ。そんな過去の話しをしている場合ではないな。そなたは一刻も早く白ノ宮に向かい、助勢を求めねばならん」

「ええ。もちろんです」

 すると、沙羅ノ腕さらのうでは手を延ばして、胸元にかかっていた首飾りを取り外し、差しだしてきた。汕舵の象徴たる両頭の蛇を象った首飾りだ。

「これが、わしの代行者という証しになろう。宮の者が素直に力を貸してくれるかはわからぬが、これを見せれば、まったく無碍に断られるということはないだろう」

「わかりました……」

 そういって、鹿彦は首飾りを受けとった。

 銀製の握りこぶしほどの飾りは、ずしりと手に重かった。鹿彦は革紐を首にかけると、胸の前に飾りの部分を据えた。


 それからというもの、鹿彦は旅立ちの準備を急いで行った。

 竹筒に水を満たし、木の実の団子を革の袋に詰め、草鞋を五脚束ねたものを腰に提げた。

 汕舵の村を訪れたときに身につけていた、笠と合羽を再びまとった。

 意識のない沙耶にしばしの別れを告げると、ついに村の出入り口にやってきた。――村を囲う柵の切れ目の、街道へと続く山道の手前だ。

 鹿彦はそこで、見送りにきた村人たちに頭を下げ、沙羅ノ腕さらのうでと向かい合っていた。

「それでは、行ってまいります。沙耶さんのことは、くれぐれも頼みました。四日もあれば、白ノ宮に辿りつくと思います。それからまた、なにが起こるか分かりませんが……。とにかくおれは、沙耶さんのためにも、その他の人々のためにも、なんとかするつもりです」

 沙羅ノ腕さらのうでは深くうなずいて、

「苦労をかけてしまうな。しかし、鹿彦よ――東ノ顎ひがしのあぎとの霊を宿す者よ。この地の命運は、そなたにかかっておる。――ところで、わしらとしても、そなたひとりにすべてを押しつけるわけではない。……あいにくと、このような老体では旅はできぬが……。代わりに白ノ宮までそなたを守り、かつ、宮での交渉を助ける、いわば補佐役となる者を選んだ」

 というなり、振り返った。

「準備はよいか?」

 すると、見送りに来ていた人々のうしろから、ひとりの男が現れた。

「ああ。大丈夫だ」

 そこには、大きな弓と矢筒を背負った鷹ノ左目たかのひだりめが立っていた。

 鷹ノ左目たかのひだりめは歩み出てくるなり、

「おれが相伴することになった。依存はないな」

 と、あいかわらず無愛想にいった。

「構わないよ。――それどころか、心強く思うよ」

「当然だ。おれは汕舵の戦士の中で、もっとも強い男だからな」

 沙羅ノ腕さらのうでは満足そうに頷くと、

「さて、旅立つがいい、戦士たちよ!」

 と、高らかに声を上げて、鹿彦と鷹ノ左目たかのひだりめの顔を交互に見た。

 鹿彦は先行きの不安と、背に負った責任の重さに、覚えず顔を引き締めた。感傷や怯懦が勇気を薄めてしまわぬうちに、「それでは、また。――本当に、色々と世話になりました」といって、汕舵の人々に背を向けた。

 付き従ってくるのは、鷹ノ左目たかのひだりめの力強く機敏そうな足音のみだった。

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