第8話
沙耶は突然聞かされたあまりに重い秘密を持て余しているのか、地面に視線を向けて絶句していた。
「にわかには信じられないことですね」
鹿彦は生来の性格ゆえか、そんな大人びた言葉を吐いて、長老の反応を待った。
内実、鹿彦は長老の昔話を訝しんでいさえした。それは一種の寓話や伝説のようなものに過ぎないのだ。ゆえに全てをそのまま呑みこんでしまっては、恐ろしい齟齬を産んでしまうのではないか。そんな危惧があった。
しかし、長老は自身が語った昔話について、なんら訂正や注釈を加えようとはせず、濁って黄ばんだ目に涙を湛えているのみ。やがて彼女はためらいがちに口を開いた。
「すべては、真実なのだよ。……そう、
鹿彦は自身の手の平や腕、足を見まわして、それらがきちんと人間のものであることを確認しはじめた。あるいは、心の中に人間らしくない考え方や感覚が芽生えていないか、内省してみた。むろん、正確に自己の内面を省みることができる人間などいようはずもない。それでもとにかく、自身が紛れもない人間であることの確証を求めた。
「おれの体の中に、その、東のなんとやらという蛇の霊が。――いいや。そんなことがあるはずがない!」
「困惑するのも、無理はない。そなたにとっては、なにもかも、いましがたしったところなのだからな。しかし、われらに残された時は限られておる。――
鹿彦は無意識に、厄介な荷物を押し返すような手ぶりをして、なおもいった。
「なぜ
「ふむ……。理由は分からんのだ。しかし、そなたなら、憶えているだろうな。深い、魂の奥深くに、答えを抱えているはずなのだ。いわんや、それが判明せんのだとしても、事実は変わらぬ。蛇とそなたの間には因果がある。ゆえに、そなたが蛇を止めることができるのだということ」
「そうだとして……。あなたは、おれにどうしろっていうんですか?」
「うむ。そなたは常世の西のはてにある、蛇の領土に挑み、やつを滅ぼさねばならない」
鹿彦はふいに、馬稚国での出来事を思いだした。かつて、田山という家老に脅されて、殿の霊を救うために向かった世界のことを。
「あの、荒涼とした斜面と、その先のことをいっているんだとしたら、とんでもない話ですね! どういうわけかおれは、蜥蜴の奴らに……」
鹿彦はその声のせいで宿敵たちが場所を突き止め、襲ってこないかと危惧して、にわかに声を落とした。
「とにかく、おれはあそこで、得体のしれない蜥蜴みたいなやつらに追われたんです。やつらはどこにでも現れて、喰いかかってくるんですよ。おれのおっ母だって、やつらにやられたんだ」
「しかるに、それらは蛇の手下だな。力を増したゆえか、蛇は手下を使いおるようになったか」
「それなら、そうでしょうよ。そして、やつらがいる限り、西のはてにある、――あそこが西であればですが、あの呪われた窪地に至ることはできないでしょう。あるいは、崖の眼前までいったとして。おれに飛び込んでいく勇気があるかは、分かったものじゃありませんが」
「蛇の下僕どものことは、方策を考えておこう。いずれにしても、今後のことはそなた次第だな。――さて、きょうはもう、ゆっくりと休んだらどうだ? よし。そなたらには、あとで空き家を案内しよう。しばらく、広場で待っていてくれんか」
鹿彦は沙耶とともに神域の坂をくだり、村の広場へとやってきた。赤茶けた土や中央の焚火の跡に、
「本当に、ここで、先ほどの話のようなことがあったのでしょうか」
沙耶は、やっと言葉を思い出したかのように、そういった。
「わからないよ。ただ、長老がまるで嘘をいっているようにも思えないね」
極めて冷静で控え目な言葉とは裏腹に、鹿彦の心は揺れ動いていた。事実、先刻の話の後から、あるいは神域のものものしい注連縄を見てから、彼の体の深奥にて、感情の塊のようなものがわだかまっていた。その塊とは、それこそ
いったい人間は、その心の中に幾つの自我を飼っているのだろうか。怒るとき、安らぐとき、疑うとき。それぞれの契機にわだかまる心の働きが、すべてそのひとの人格に属するものだと、誰が断じられるのだろうか。
――鹿彦は心の奥に、黒い蛇を怖れ、また憎む存在をたしかに感じていた。あらためて、鹿彦は心の中で、それを
西の空に夕陽が輝きつつあった。
ふと、ある一軒の家へさしかかったときに、声が聞こえた。
「いつになったら目覚めるの!?」
鹿彦はびくつきながらも、家の戸口に近づいた。戸は開いており、中には三人の姿があった。
部屋の片隅には、麻の寝具にくるまって死んだように眠る少女がいた。
立ち上がっている母親と思わしき初老の女は、錯乱した様子で家の壁を叩き付けている。
そんな女の腕を押さえつけて、「落ち着くんだ、おふくろ」と諌めているのは、先刻、村の入り口で出会った
「こらえるんだ。――そんなに喚いても、
「うう――。やつは、なにもかも奪った。あのひとを――わたしの鷹を! それに飽きたらず、
やがて女は力を失ったように座り込んだ。
「いずれ、よくなる。なにもかも」
といってため息をついた。
やがて、
「そこで、何を見ているんだ」
鹿彦は気圧されつつも、なんとか答えた。
「いいや、おれは何も……。声がしたから、何だろうと思っただけさ……」
「例の、眠り病という奴さ。聞くところによれば、都でも犠牲者が増えているらしいな」
「ああ……。おれが馬稚の都に立ち寄ったときも、眠ったまま、動かなくなった人たちがいたよ」
「妹の
鹿彦は視線を落として、「それは残念だ」といってから背中を向けた。沙耶はもごもごと口を動かしたが、結局何も語らず、再び口を結んだ。
「逃げるのか」
と、背中から飛んでくる
「おれの親父も、おまえの親父さんも、勇敢だったぞ。おれはまだ幼かったが、そのことはよく憶えている。――親父が飛ばした矢は、誰が放った矢よりも遠くまで飛んだし、おまえの親父さんは、斧を振るって幾多の敵を仕留めた。……そして、おまえときたらどうだ? 本当に
鹿彦は一刻も早く立ち去ってしまいたかった。しかし、それは許さない、という気迫が背後から感じられた。おそるおそると振り返った鹿彦は、弁解がましくいった。
「おれには、何もないんだよ。……弓を引いたり、斧を振るったりする力はない。それに、戦に出たこともない!」
「いや。おまえには、誰よりも強い力が宿っているはずだ。――おまえは
「あんたたちのおとぎ話に、付き合う筋合いはないね。おれが汕舵の血を引く者だとしても、どうして命を賭して、蛇を倒しにいかなけりゃならないんだい?」
「――そうか、やはり、間違いだったようだな」
「何が?」
すると、
「汕舵の男に、おまえのような臆病者は、ひとりとしていない」
鹿彦はそのまま、呆然と立ち尽くした。やがて、背後から沙耶の声がした。
「あの、なんといえばいいのか、分かりませんが――」
憮然とした表情のまま、鹿彦は振り返った。
「ああ。なんだい?」
「鹿彦さん。……あなたは、自分が何者であるかを探すために、汕舵の地を目指していたのでしたね」
「ああ。そのとおりだよ」
「それは分かりましたか?」
「ああ。大体はね。……おれはやはり、汕舵の血を引いているみたいだね。それに、あの長老の話が本当なら、化け物の片割れなのだろうよ」
「しかし、それは、生まれ持った運命に過ぎませんね」
「どうしたっていうんだよ、沙耶さんまで。何をいいたいんだい?」
沙耶は驚いたように肩を震わせたものの、それ以上怯むことはなかった。
「憶えていますか? あなたが気を失って、言忌ノ宮に運ばれてきた日のことを」
「もちろんだよ。それがどうかしたのかい?」
「あのときまで――あなたがわたしを連れ出してくれるまで、言忌ノ宮が世界の全てでした。そして、言忌様をお祀りするという役目が、わたしの生活の全てでした」
「ああ。……そうだったみたいだね」
「あの役目を授かるまで、わたしは、幼い巫女見習いでしかありませんでした。しかるに、それは何者でもない人間、だといっても、決して大げさではありません。――そこで、鹿彦さんにお尋ねします。人間とは、自身の出自を知っているからといって、何者かである、と呼べるのでしょうか?」
「なんだって? どうしてそんなことを、おれに聞くんだ!?」
「少なくとも……。ええ、少なくとも、わたしは役目を授かるまで、何者でもありませんでした。――あの役目がどれほど惨めで、呪われたものであろうと、あの役目によって、わたしは、自分を手に入れることができたのです」
「いいたいことはそれだけかい?」
「ええ……」
「沙耶さん」
鹿彦は鼻をひくつかせながら、怒りにまかせていった。
「そういうあんたは、逃げちまっただろう、ご立派な役目から。そんなあんたが、おれに、逃げるな、なんていえるのかい?」
すると、沙耶は目に涙を浮かべはじめた。
「ああするしかなかったのです。捕まってしまえば、死をもって償うことになったのかもしれません。――そうです。わたしは卑怯者なのです。……そして、自分自身から逃げだしたわたしは、もう、何者でもない。だからこそ、あなたには、そうなって欲しくはないのです」
「それは勝手ないい草だよ! なるほど、あんたは卑怯なのかも知れないが、おれはまだ、引き受けてもいないんだよ」
沙耶は悲しげな目で鹿彦を見ると、背中を向けて、待ち合わせ場所である村の広場へと歩いていった。
半刻もすると、
「遅うなったな。他の者の手を借りて掃除をしとったのだが、これがなかなかに手こずってな。――さて、腹も減っているだろう? よかったら先に川で汗を洗い流して、食事としようか」
そういわれるまで、鹿彦は自身の空腹に気がついていなかった。
「ええ。助かります。……考えてみれば、おれたち、今朝方に干し肉を齧ってから、何も食べてないんです」
喜び勇む鹿彦だったが、沙耶は依然として無口だった。
「まだ、さっきのことを気にしてるのかい?」
「いえ。なんでもありません」
麻や干し草を編んだ敷物が全体に敷かれ、その下は土になっているようだった。
中央には小型の囲炉裏が設えられているのだが、それはほとんど焚火に近かった。
内壁には様々な動物の毛皮や角が飾られており、極彩色で塗り分けられた壁布が飾ってあった。
感嘆の声をあげて内装を見まわす鹿彦だったが、
そんなわけで、鹿彦は桶を持たされ、小川へと歩いていった。
村の中を流れる小川は、
村や森の上には紫色の夕闇が迫りつつあり、川の流れは実際よりも深く、濃く見えた。
鹿彦は持参した桶を流れに浸し、教えてもらった作法の通り、汚れた水が川に戻らぬよう、少し離れた位置で手足を浄めた。次いで顔、首筋、額と水をかけていくと、熱に火照った体の部位が次第に、垢となって流れ落ちていくような心地を得た。――高地とはいえ、夏ともなればこの村でも蒸すように暑くなる。日がな陽光にさらされた肌にとって、川の水はこの上なく清涼だった。
水浴びを終えて長老の家に戻ると、こんどは沙耶が川へ水浴びに出かけた。
鹿彦は内心びくびくとしながら、
ほどなく戻ってきた沙耶を見て、
「さて、食事を運んでこさせよう」
「食べようじゃないか。ほら、遠慮せずに。……まあ、たいしたものは用意しとらんがね」
鹿彦も同じく腰をおろすと、木の匙を掴んで、眼前の汁ものから手をつけることにした。骨付き肉と香草が、透明な汁の中に沈んでいる。おそるおそる汁をすくって口に運ぶと、舌先で舐めてみた。――ほのかな塩味があり、肉と香草の風味が引き立っている。
「うむ。それは鹿の肉だ。骨髄も入れてあるから、塩気がきいておるだろう?」
鹿彦はあいまいな返事をしながら、猛烈ないきおいで肉を頬張りはじめた。
沙耶はなにもしゃべらず、黙々と匙を汁に差し入れては、それを口に運んだ。憮然とした沙耶の様子が気になった鹿彦は、おずおずと話しかけた。
「……あのさ。さっきから、機嫌が悪いみたいだね」
すると、どういうわけか沙耶の目に涙が溢れてきた。
「どうしたんだい?」
「いえ……。なんでもありません」
「なんでもない、ってことはないだろう。おかしいよ」
そこへ、
「無理もない。沙耶にしてみれば、育ってきた宮を逃げだして、地の果てとも思えるような場所まできたのだ。あまつさえ、昼間の話を聞いてしまったわけだからな。
鹿彦はぎくりとして、
「……正直、おれも、戸惑っています。いまだに、おれの中に
「そうだろうな。――それも無理はない。よく考え、決めればよい。……もし決心ができれば、すぐにでも準備をするつもりだが。こうしているいまでも、蛇は人間を常世に導いておる……。いや、よそう。まずは、その腹を満たすがいいさ」
それから、
「人生には、転換期がある。たいていそれは、突然、思わぬ形でやってくる。すると、それまで当たり前だった生き方が遠のき、代わりに新しい生き方が差し迫ってくるものだ。……のう、沙耶よ。ここまでやってきたからには、汕舵の民として生きていくつもりだったのだろう? わしらは、喜んで迎えるぞ。――だから。過去は過去として大切に胸へとしまって、前を向いてもいいのではないかな?」
目を閉じて黙していた沙耶は、深くためいきをついて、ゆっくりとうなずいた。
「ありがとうございます。――ええ、そうですね。……しかし、考えてもみれば、わたしはやはり、宮の巫女として育ってきた人間です。白ノ宮を逃げだしたわたしが、こんな無責任なわたしが、いったい何者になれるのでしょうか?」
それからというもの、沙耶は何も食べずに、始終うつむいたままだった。
やがて鹿彦は松明を持って、沙耶と共に、寝所として貸し与えられた住居に向かった。
沙耶はあいかわらず陰鬱とした表情のまま、真っ暗な家の中に入り、そのまま麻の寝具に体を横たえた。
鹿彦は松明を地面に置いて踏み消すと、沙耶のとなりに敷かれた寝具に寝そべった。
木製らしき枕が思いのほか固く、眠るのに難儀しそうだった。
「沙耶さん。起きているかい?」
沙耶の呼吸がぴたりと止まったようだったが、返事をする気配はなかった。
「夕方は、変なことをいっちまって、悪かったよ。本当に。……おれは、あんたを卑怯だなんて、思っていない」
すると、呟くような、ともすれば寝言とも思わしき掠れた声が聞こえた。
「会いたい。父上に。母上に。わたしはもう……」
鹿彦は思わず上体を起こして、闇の中、沙耶の方に顔を向けた。
とはいえ、なんと声をかけたものかもしれず、あきらめて再び体を横たえた。
翌朝になると、鳥の甲高い啼き声によって、鹿彦は目を覚ました。
ちらりと沙耶の方を見ると、まだ眠っているようだった。
手持ち無沙汰なまましばらく沙耶を見ていた鹿彦は、やがて立ち上がって、家の外へでた。
村の小川をすくって水を飲み、広場などを散策したのち、再び家に戻ったのだが、まだ沙耶は眠っていた。
「いつまで寝ているんだい? 夜更かししたわけじゃないのに」
と、戸口から声をかけても、なんの反応もない。
「呑気なものだよ、まったく」
などと呟いた鹿彦は、ふと、おそるべき予感におそわれ、突き動かされるように、家の中へ駆け込んだ。
仰向けで眠っている沙耶の顔をのぞき込むと、死者のように青白くなっていた。「起きてくれよ!」と、声を荒げても反応がない。肩を強く揺すっても目覚めない。
「冗談だろう? なあ、沙耶さん。……どうして。……どうして、あんたまで!」
戸口の外から、村の者が心配そうに中をのぞき込んできている。
午後になっても沙耶は目覚めず、それどころかますます、顔色が悪くなっていくありさまだ。
鹿彦は沙耶の褥の横に座し、
「ついに、沙耶までも犠牲になったようだな。それに――元より霊力が備わった沙耶は、ふつうの者よりも、悪化が早いようだな」
苦渋の面持ちで、鹿彦はうなずいた。
「きっと、おれのせいなんだ。きのう、沙耶さんといい争いみたいなものがあって――。そのとき、おれはひどいことを……。宮から追われる沙耶さんは、気丈にふるまっていながらも、内実、苦しんでいたんだと思う。そんな沙耶さんに、おれは追い打ちをかけてしまった。卑怯、だなんて。くそッ!」
鹿彦は拳を握ると、自身の腿を殴りつけた。
「止めい。いまはもう、過去のことをいっておっても、仕方がない。それより、分かっておろう? なにをしなければならないか」
「……ええ。たしかに、もう迷っている場合ではありませんね。おれは蛇を――
「しかり。そして、そのためには、正気を保ったまま、夢の淵――すなわち常世に挑まねばならない」
「そうですね。それについては……。先日、おれはある人を救うために、沙耶さんの術によって常世へ行ったことがあります。おそらく、白ノ宮の巫女なら、沙耶さん以外にも、あの術を使うことができるのだと思いますが……分かりません」
「ふむ。それなら、ともかく宮へ行ってみなければならんのう」
「はい。……ただ」
「どうした?」
「以前常世に行ったとき、おれは蛇の声に導かれて、斜面をずっと下って行ったんです。すると、それはそれは大きな窪地に辿りつきました。――そのときでした。おれの故郷にやってきた例の蜥蜴どもが、そこいらから襲いかかってきて! やつらがいる限り、どうにも窪地の奥まで行くことはできないでしょう」
「そうか……。それも、巫女の知恵を借りねばならんだろうな。しかし、情けないことだ。元はといえば、
すると
「それにしても、白ノ宮と汕舵の間には、どんな関係があるんですか? 沙耶さんがいた言忌ノ宮にも、汕舵に伝わる秘術で――それこそ、おそらく
「ふむ。それならばこれを話しておこうかの。汕舵の民に伝わる伝承のうち、もっとも古い話を……」
「わしら汕舵の民は、《汕舵国》という遠い場所からやってきたのだと伝えられておる。そこは、北にあるのか、南にあるのか、天にあるのか、地底にあるのか、はっきりとは分からんのだが。……とにかく、われらは
そこで
「われらの主神たる《日月ノ長神》を模した、例の蛇を造ったのも、
それから数年後、
やがて、馬稚国の南部へ至った
――と、まあ、これが伝承のあらましだ。
……そこでわしが思うに、
いましがた、そなたは言忌ノ宮の名を出したな。あそこで祀られておった《言忌ノ神》の造り方は、近年になって汕舵より伝えたものなのだ。
――そうだとしても、白ノ宮が強力な力を持つことで、かえって地域の不毛な争いを避けられていた部分もあるだろう」
「なるほど。――そんな過去があったのですね。しかしいまは……」
「ああ。そんな過去の話しをしている場合ではないな。そなたは一刻も早く白ノ宮に向かい、助勢を求めねばならん」
「ええ。もちろんです」
すると、
「これが、わしの代行者という証しになろう。宮の者が素直に力を貸してくれるかはわからぬが、これを見せれば、まったく無碍に断られるということはないだろう」
「わかりました……」
そういって、鹿彦は首飾りを受けとった。
銀製の握りこぶしほどの飾りは、ずしりと手に重かった。鹿彦は革紐を首にかけると、胸の前に飾りの部分を据えた。
それからというもの、鹿彦は旅立ちの準備を急いで行った。
竹筒に水を満たし、木の実の団子を革の袋に詰め、草鞋を五脚束ねたものを腰に提げた。
汕舵の村を訪れたときに身につけていた、笠と合羽を再びまとった。
意識のない沙耶にしばしの別れを告げると、ついに村の出入り口にやってきた。――村を囲う柵の切れ目の、街道へと続く山道の手前だ。
鹿彦はそこで、見送りにきた村人たちに頭を下げ、
「それでは、行ってまいります。沙耶さんのことは、くれぐれも頼みました。四日もあれば、白ノ宮に辿りつくと思います。それからまた、なにが起こるか分かりませんが……。とにかくおれは、沙耶さんのためにも、その他の人々のためにも、なんとかするつもりです」
「苦労をかけてしまうな。しかし、鹿彦よ――
というなり、振り返った。
「準備はよいか?」
すると、見送りに来ていた人々のうしろから、ひとりの男が現れた。
「ああ。大丈夫だ」
そこには、大きな弓と矢筒を背負った
「おれが相伴することになった。依存はないな」
と、あいかわらず無愛想にいった。
「構わないよ。――それどころか、心強く思うよ」
「当然だ。おれは汕舵の戦士の中で、もっとも強い男だからな」
「さて、旅立つがいい、戦士たちよ!」
と、高らかに声を上げて、鹿彦と
鹿彦は先行きの不安と、背に負った責任の重さに、覚えず顔を引き締めた。感傷や怯懦が勇気を薄めてしまわぬうちに、「それでは、また。――本当に、色々と世話になりました」といって、汕舵の人々に背を向けた。
付き従ってくるのは、
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