第7話

 時は十六年を遡る。

 異変が起きたのは、汕舵暦でいう、八〇七年の秋のことだ。その秋を境に、汕舵の民は多くのものを失った。

 力を失い、誇りを失い、民の命を失った。祭りで減る酒の量が半分になった。笑い声が小さくなった。

 東西と天地の均衡を守り給う日月ノ長神にちげつのながかみは、その蛇の両頭をもたげ、最初にして最大の試練を与えたのだ。


 当時、馬稚国の北東に位置する丹綺国は、領土を拡大しようという意欲が強く、頻繁に南東を牽制していた。また、馬稚国とは国境付近の盆地で両軍が激突することが多かった。

 その盆地は葦ノ原と呼ばれていた。どちらの軍も国境の線にその盆地を含めようと、果敢に兵の命をぶつけ合っていた。馬稚で作られた地図には葦ノ原は馬稚に含まれていたし、丹綺の地図においても推して知るべし、というものだ。

 そして、葦ノ原よりやや南部には、汕舵の民が住む森が広がっていた。

 汕舵の民は、歴史上は馬稚と結び付きが強く、一応は馬稚の版図に含まれていた。

 白ノ宮には汕舵の文化が受け継がれているし、身内とするには、幾らか馬稚の方がましだったからだ。

 名君でしられた幸畠信成が指揮する馬稚軍は、ときに力をもって、ときに頭脳をもって丹綺軍を翻弄した。彼らの黄色い鎧兜は、遠くからでもよく目立った。

 対する丹綺の兵たちは、例の赤黒い鎧を着込んで、ひたすら武力で押し切ろうと猛火のごとく詰めかけてきた。

 天の神がいたなら、白木さながらの馬稚軍に、蠢く業火が押し寄せるように見えただろう。

 しかし、白木の軍はよく戦った。

 長年に渡り、丹綺の軍から葦ノ原を守り抜いたのだから。

 丹綺の軍は、面をかむった剛腕の将軍が率いていた。そして、矛をもって北方を広く統治する彼らの玉座には、有名な女王が鎮座していた。噂には背鰭尾鰭がつくものだが、とにかく様々ないわくのある女王だった。


 五百歳という神がかった高齢でありながら、見た目は可憐な乙女なのだ。

 杖の一振りで放つ呪われた大火は、大軍を一瞬で呑み込むのだ。

 配下には人ならぬ魔性がひしめいているのだ。


 そんな噂がまかり通るほど、丹綺国は謎に包まれ、恐れられていたのだ。

 さて、粗暴で知られる丹綺の軍とはいえ、なかなか《葦ノ原》を制圧できないことに業を煮やし、攻め方を考えはじめた。そこで彼らが思いついたのが、汕舵の森を経由しての馬稚への奇襲だったのだ。


 汕舵の森の北端には小高い丘――月見ノ丘というものがあり、岩か木にでも登れば、かなり見通しの効く場所だった。

 紅葉の燃えるさなか、二人の汕舵の男が岩場に立ち、北西より押し寄せてくる丹綺の軍勢を見ていた。

 ひとりは岩山ノ鹿いわやまのしかという名前の青年だった。いざとなれば山野を誰よりも早く駆け、狼のごとく敵におそいかかるものだが、しかし、ここでは森に侵入しようとする斥候や隠密を見つけるため、目をこらしていた。髪は短く刈られており、大きな目には炎のような眉毛がかかっている。大振りの斧にこびりついた血は、珍しく乾いていた。

 その隣には、汕舵の中で最も目の良い、鷹ノ嘴たかのくちばしという長身の青年がいた。岩山ノ鹿いわやまのしかよりもいくらか年上のようだ。後ろになびかせた総髪が背中の矢筒にかかり、左手には大きな弓を携えていた。また二人とも、汕舵の象徴である《日月ノ長神》のしるしが彫り込まれた、木の胸当てをしていた。


 そんな二人の眼下では、汕舵の戦士たちが斧や弓を掲げ、森を守るために奮迅の戦いぶりを見せていた。彼らは森での戦いを得意とするのだが、できれば森の手前で敵を喰い止めたかった。幾つかの理由のうちで最たるものは、火矢を射かけられたらひとたまりもない、という事実。そのため、森を出てやや北方にある、岩ばった平地での戦いを余儀なくされていた。

 二百人ばかりからなる汕舵の戦士たちは、馬稚国の援軍もない状態で、丹綺の軍勢に立ち向かっていた。

 一方、敵兵の数は千人に届かんばかりだ。よって汕舵の戦士は羽虫のごとくあしらわれては、血を流して死んでいった。

 敵に切り伏せられていく仲間を見るのは、岩山ノ鹿いわやまのしかにとってこの上ない苦痛だった。

「鷹よ。なんとかならんか? やはりわれらは、丹綺の狂犬に敵わないというのか?」

 鷹ノ嘴たかのくちばしは左手の弓を強く握り、苦々しい表情でいった。

「もう少しすれば、馬稚の援軍がくるだろう」

「いや、このままでは、のろまどもがやってくる前に、森を攻められるぞ!」

「落ち着け、鹿よ。われわれの方も、そろそろ、あれが出るはずだ」

 岩山ノ鹿いわやまのしかは喉を鳴らして唾を呑みこんだ。頭に浮かぶのは、これまでの幾つかの戦いで見た、現神うつしかみの姿だ。

 それは巨大な蛇のごとき長神ノ現ながかみのうつしだった。汕舵に伝わる秘法によって、人間の感情の力を集め、生物の形に凝縮させたものである。

「あれが出ると思うと、ぞっとしないな」

 と、岩山ノ鹿いわやまのしかがいった。

「そうだろうな。しかし、あれに守られているのも、事実だ。あの、蛇に」

 鷹ノ嘴たかのくちばしがいうように、長神ノ現ながかみのうつしは、まさしく蛇のような姿をしていた。

 正確には、両端に頭を持ったおそるべき大蛇、とでもいうべきか。

 汕舵の民は、最も偉大な神として両頭の蛇を崇めていた。彼らの象徴である《S》の形は、これを現すものだ。

 蛇神の片側の、白い頭は太陽と生命を司り、もう一方の黒い頭は月と死を司っているとされる。その主神の権化ともいうべき長神ノ現ながかみのうつしこそが、汕舵に伝えられた最大の武器であることに間違いはない。


 無残になぶられていく汕舵の戦士たちを、心痛はだはだしい様子で眺める岩山ノ鹿いわやまのしかだったが、このとき、背中より迫る気配によって、体中の毛を逆立てた。ふいに振り返ると、森を進む長い影が見えた。

 長老である沙羅ノ腕さらのうでの姿は見えないが、村の塀の中で現神うつしかみを操る歌をうたっているのだろう。あるいはそのうち、見晴らしの効くこの場所にくるかもしれない。

 木立を進む蛇は、木々に体をぶつけては軋ませ、場合によってはなぎ倒し、間断なく進んでいく、禍々しくも勇壮な姿であった。現神うつしかみを模したその蛇は、たしかに両頭だった。また、蛇はそれ自身で、矛盾を抱えているようでもあった。

 黒い方の頭は狂おしく敵をめがけて突き進んでいく。一方、白い方の頭に至っては、黒い頭に比べれば控え目である。

 とはいえその両頭は、絡まりながら木々を薙ぎ倒して進む、一塊の甚大な狂気の象徴として、敵よりもまず、味方である汕舵の者たちを慄然とさせずに止まない。

 蛇――すなわち長神ノ現ながかみのうつしを冷静に見る者がいたとしたら――神々ならぬ普通の人間にそんな豪胆な者がいたとしたら――、いささか蛇の動き方に異常な点があることを、発見せずにおられまい。

 森の中でもっとも大きな木を倒し、魔術で肉を与えたような体は、実に素早く進んでいくのである。見かけに伴う重量があれば、もっと重々しく、地面に身を擦り付けて進むべきなのだ。

 しかし、蛇はなかば、天地の法則を愚弄するかのように、ともすれば、重力を無視するかのような動き方をする。そのせいで、どことなく蛇の進軍は非現実的で、悪夢めいた様相を呈しているのだ。

 ――事実、両頭の蛇はときおり地面を離れ、絡まった縄のように浮かび上がって、大木や岩を破壊して進んでいった。するとまた、思い出したように、まるで子供が我を忘れて逸脱した行儀を思い出したように、地面に着地するのだ。――また、そうでもなければ、正味、両頭の蛇が素早く前進することなど叶わぬだろう。


 森や平地にいる汕舵の戦士はいずれも振り返り、ある者は目を見開き、ある者は叫び声を漏らして、呪われた蛇に道をあけてゆく。――なぜなら、蛇は味方を襲うこともあるからだ。というよりも、往々にして、味方でさえもよく餌食にした、というべきか。

 丘の上の岩山ノ鹿いわやまのしかにも、黒光りする鱗や、並んだ刃のような乱杭歯が見える。

 森を抜ける頃に、蛇は地鳴りとも思われる雄叫びをあげた。蛇らしき、しゅうしゅう、という耳障りなものだった。

 もはや、蛇の進路には汕舵の者はほとんどいなかった。

 森を抜けた長神ノ現ながかみのうつしは、丹綺の軍に向かって突っ込んでいく。


 蛇に対面したものは、驚愕しながらその頭を見る。無機質で光沢のある鼻先や口元。それから赤く濁った両目。

 朽ちて白骨化した雄牛のあばらを集め、上手く並べたらそうなるかも知れない、乱れ密集した牙の奥には、真っ暗な空洞が待ち構えている。

 赤く熟れた、熟れ過ぎた果物のように爛れた穴には、底しれない闇があった。闇の底には鎧や骨すら溶かす胃液がなみなみと溢れるのか。あるいはろくでもない異界や地獄につながっているのか。そんなことは汕舵の民にすら定かではない。

 貪婪とひらいた蛇の口内を見たものは、次の瞬間には喰われることになった。

 黒く脂ぎった胴体や頭は、次々に血を浴び、乾く暇さえもない。

 首をもたげ、それを叩きつければ数人が圧死する。いちど顎を開ければ、二三人を呑み込む。

 逃げ遅れた汕舵の戦士も、蛇の牙にかかったかも知れない。いや、どう考えても、十人近くはこの狂獣の生贄になったはずだ。

 千人からなる丹綺の軍勢は、突風のごとく駆けまわる蛇によって分断され、蹂躙され、散り散りになっていった。汕舵の民が仕上げの掃討を行うまでもなく、恐れをなした小動物の群れのように、丹綺の軍勢は退却していった。


 岩山ノ鹿いわやまのしかは一連の光景を、戦慄しながら見ていた。強く握りしめた拳から血が滲んでいるのだが、その痛みにすら気がつかない様子で。

 隣に立っている鷹ノ嘴たかのくちばしは、自慢の弓を地面に落として、右手をこめかみに当てて、言葉にならぬ呻き声を上げている。

 そのとき、長老である沙羅ノ腕さらのうでが丘にやってきた。

 皺がいくらか目立つが、まだまだ目の輝きは、体を飾る宝石に劣ってはいない。柔らかくふくらんだ両胸や、服に浮かぶしなやかな足腰は、いくばくかの成熟した色香さえまとっていた。

 岩山ノ鹿いわやまのしかがその気配に振り返ると、彼女が口元をせわしなく動かしているのが見えた。

 ささやくような低い歌声が響いてきて、耳の奥が痺れる感じがした。

 ゆったりとした音律で、音の数も多くはない。長老は半眼となって、ごく小さな声で遠方の蛇に向かって呟いているのだ。その日の中で、岩山ノ鹿いわやまのしかがもっとも恐怖した瞬間である。


 骨を砕けよ 血を呑めよ

 憎き憎き 生き血をば

 啜りて啜りて 甘し蜜

 満たされぬ 飢えに注ぎて

 血は赤く 赤く 赤く 舌は濡れ


 岩山ノ鹿いわやまのしかはこの歌をはじめて聞いたわけではない。しかし、いつ耳にしても、それは背筋が凍るほどに不気味なものだった。

 それに、長老はやすやすと蛇を操っているようでもなさそうだった。長老は額に玉の汗を浮かべ、眉間に皺を寄せ、細く危うい糸でもって蛇を操るかのように、須臾の油断も許されぬ、といった様子で歌を口にしていたのだ。岩山ノ鹿いわやまのしかは、蛇を操るのに苦心する長老を見ながら、疑問に思った。過去のいずれの戦や小競り合いにおいても、ここまで蛇を操るのに苦労していた様子はなかった。岩山ノ鹿いわやまのしかは、なにかがおかしい、と思わずにいられなかった。そこで鹿はちらりと鷹ノ嘴たかのくちばしを見た。普段はそれこそ孤高な鷹のごとく、なにごとにも左右されない鷹なのだが、このときばかりは顔に狼狽を浮かべていた。

 鷹は無言のまま、苦々しくうなずいた。まるで、『おれも、おかしいと思う』とでもいわんばかりだ。


 やがて、陰惨な歌を舌に転がしていた長老は、丘から戦況を見るに首をうなずかせて、違った歌を口にしはじめた。

 蛇の猛進によって、すでに丹綺の兵はちりぢりに逃げ去っていた。そのため、長老は潮時と見たのだろう。

 長老が詠唱したのは、波が引いていくような、落ち着いた音律の歌だ。

 すると、かなりの距離があるというのに、蛇の動きが止まった。

 長老は相変わらず苦しそうな表情で歌を続けた。なんにしても、蛇はいつになく強情なようだ。

 それでもやがて、蛇は何度か身震いをすると、夢から覚めたかのように、森へ向かって引き返しはじめた。

 汕舵の戦士たちは、勝利を得たというのに、いずれも敗残兵のように青白い顔をしていた。

 戦場となった平地には、丹綺や汕舵の兵の死体が溢れ、ところどころに光り輝く剣や斧が落ちていた。


 蛇は長老の導きで注連縄に囲われた結界の中へと戻された。



 夜には祝宴が催された。

 人々は大いに祝杯を交わしたが、いずれの顔にも蔭がさしていた。村人の誰もが、真の敵が必ずしも外にいるとは思っていなかった。それはまったくの直観ではありながら、自分たちを待ち受ける運命を敏感にかぎ分けていた、といわねばならない。

 そんな陰惨とした雰囲気を紛らわすように、戦勝の宴には秘蔵の酒がふんだんに供された。


 村の広場には火が焚かれ、夜半がすぎても嬌声と太鼓の音が止むことはなかった。

 男たちはたいてい、自分で作った太鼓を持っていた。

 彼らは木製の胴に、鹿や猪などの動物の皮を張ったそれを地面に傾けて置き、手や撥をつかって打ち鳴らすのだ。

 彼らの音楽は単調で粗野なのだが、それだけに、音律はまっすぐと心に届く。

 おおむね同じ構造の太鼓であるというのに、不思議とそれぞれの音は異なった個性を持っていた。妙に高音が響くもの。雄牛の唸り声のような音をとどろかせるもの。硬質な音もあれば、まろみのある音もあった。

 岩山ノ鹿いわやまのしかも横に寝かした丸太を椅子にして、自らの友である太鼓を両手で演奏している。ますます熱を帯びてくる音の奔流に乗り遅れまいと、変化をくわえながらもしっかりと、流れの中心の旋律に音をかぶせていく。そこに、右手に座る女――岩山ノ鹿いわやまのしかの妻である天ノ青石あめのあおいしが笛の音を挿し入れてくる。鷹の鳴き声のように明澄な響きは、軽快な音律を紡ぎだした。しかし、笛の音にはどこか、ひずみというか、すっきりとしない暗鬱さが感じられた。


 ――さて、こうして鳴き続ける楽器たちは、それぞれ、持ち主の魂に深く結びついているものだった。また、その理由についていくつか説明を加えることもできる。

 まず、彼らの名前には、たとえば岩山ノ鹿いわやまのしかあるいは鷹ノ嘴たかのくちばしなどとあるように、ことさら男については特定の動物の名前が含まれることが多い。幼名については出生の際に親が付けるのだが、十六歳になると、彼らは元服の儀式を行うことになる。

 この儀式のあらましを説明するならば、それは『真名を得るための、おのれの魂と結びついた自然物を特定するための旅』とでもいえようか。

 岩山で牡鹿と戦って勝利した岩山ノ鹿いわやまのしかも、弓矢で鷹を射止めた鷹ノ嘴たかのくちばしも、汕舵の男としての真名を得ることに成功していたといえる。そして、晴れて真名を手にした者はひとつの楽器をつくり、これに獲物や自然物の魂を封じることで、元服の儀式がおわるのだ。男ならば多くは太鼓、女ならば多くは笛や琴を作るのだが、厳しい定めはない。

 この際、岩山ノ鹿いわやまのしかのように仕留めた獲物の皮で太鼓を張ってもよいし、鷹ノ嘴たかのくちばしのように落ちた鷹の羽を太鼓の装飾に使ってもよいとされている。

 さて、真名とする自然物についてだが、これにもいろいろと傾向がある。

 男ならば、仲間たちに勇壮さや戦いの能力を示すために、大きな動物やめずらしい動物を狩ることが多い。その一方、女ならば、美しさや家事の才を象徴するような真名を選んだ。たとえば瞑想ののち、植物や山河に強く心が惹かれれば、必ずしも持ち帰ったり、削りとったりすることもなく、それを真名とすることもできた。それに、男であっても雪や川におのれの魂が惹かれることがあるし、女であっても熊や狼に魂が惹かれることもある。そうした場合の直感も尊重されるため、結果、名のみをもって男女の区別をすることが難しい、ひとつの原因となっている。


 岩山ノ鹿いわやまのしかは太鼓を置いて、脇にあった酒杯をぐいと仰ぐと、紅潮した顔を右に向け、妻である天ノ青石あめのあおいしを見た。妻も笛への接吻を止め、見返してきた。岩山ノ鹿いわやまのしかは酒のためにぼんやりと痺れた舌を、懸命に動かしていった。

「青石よ、おまえは呑まないのか」

「ええ。腹の赤ん坊に障るといけないから」

「まだまだ先のことだろう? 赤ん坊が産声を上げるのは。だいいち、腹もまだ、ふくらみはじめたばかりだ」

 そうですね、と天ノ青石あめのあおいしは笛を持った右手の指先で臍のあたりを撫でる。

「いったい、どのような子を授かるのかしらね。男か、女か」

 岩山ノ鹿いわやまのしかは顎に手を当てて、焚火の炎を見つめてうなった。

「ううむ。おれの予想では、女だな。おまえのように、宝玉のごとく美しいのだ。罪づくりなほどに」

「そう――わたしは、男だと思う。理由はわからないけど……なんとなく。そうよ! きっとそうなのよ。この子は、あなたのように優しく、そして強くなるでしょう。仲間を守り、先陣を切って戦うような。……もっとも、争いごとなど、ないに越したことはないけど」

 そのとき、岩山ノ鹿いわやまのしかは渋い表情で、いらいらと短髪を撫ではじめた。異変に気がついたのか、天ノ青石あめのあおいしはなだめるようにいった。

「きょうは、大勝だったみたいね。もちろん、勝利の犠牲について考えれば、とても胸が痛むけれど……。ともかく、祝勝の宴には、戦で散った戦士の霊がやってくるというじゃないの。死者は生者の身を借りて酔う、とも。だから、どうか、あなたも」

「ああ、わかっている。それはもちろん。しかし、どうにもおれは、あの光景のことを思い出すと、いまでも気味が悪くなるんだ。あれが。蛇が……」

 岩山ノ鹿いわやまのしかはうつむいて、頭にまつわる羽虫を払うように首を振った。天ノ青石あめのあおいしは声をひそめていった。

現神うつしかみはわたしたちを守ってくださるわ。たしかに戦場では比類ない力をふるうけれど、崇めこそすれ、恐ろしく思うことなどないのでは?」

「おまえは、正気でいっているのか? なあ、青石よ。おまえは、あれが敵味方を問わず貪るさまを、見たことがあるのか? なあ、その上で、恐ろしくない、などというのか?」

 ちょうど、笛を右手に踊りながら歩く村の女が通りかかった。女はぶっそうな話を聞きかじったのか、うろんそうな表情で去っていった。

「そんな、罰あたりなことを、大きな声でいわないで。……ともかく、長神様がいればこそ、汕舵は敵から身を守ることができるのよ。それは昔から続いていること」

「ああ。それは否定しないよ。きちんと操ることができていればな。しかしここのところ、まるで長の命を聞かないようじゃないか」

「長神様は、お疲れなのよ」

「おおかた、汕舵の者を守ることに、飽きたんだろう。何百年と、こき使われてきたんだからな」

 天ノ青石あめのあおいしは呆れたように、「そんなことはないわ」とかむりを振る。とはいえ岩山ノ鹿いわやまのしかがいった言葉にいくばくかの真実が含まれていることを、明かさねばなるまい。

 奇妙なことに、汕舵の者たちはたいてい、現神うつしかみなる半神半生物には心や感情がない、と思い込んでいるふしがあった。しかし、なぜそう決めつけることができたのだろう。血の通った生き物の、霊や感情を凝縮させた現神うつしかみたちは、その素材からして、天地の恵みによる自然の生物たちと、大きく変わるものではないのだ。長年を結界の中ですごし、外に出るときといえば、汕舵に敵がやってきた場合のみ。そのときはそのときで、歌によって駆りたてられ、ひたすら敵と戦わされる。

 そんなことが続ければ、いかな神であっても嫌気がさすというもの。


 この夜、結果として汕舵の民は、その歴史の中で最大といってもよいほどの災厄に見まわれた。

 むべなるかな、それをもたらしたのは、蛇だ。

 長神ノ現ながかみのうつしの白と黒の頭が、互いにどのような葛藤を抱え、どのような議論を交わしたか、汕舵の民にしる由もない。それを知るのは、蛇自身をおいてほかになかろう。


 そのとき妻と並んで座っていた岩山ノ鹿いわやまのしかは、自分を呼ぶ声に気がついた。

 振り返ると、そこには鷹ノ嘴たかのくちばしが立っていた。また、彼の背後には妻である雪ノ黄花ゆきのきはながおり、童女を腕に抱えていた。その脇には、八歳になる長子の鷹丸たかまるがいた。麻の服をまとい、髪は父と同じように後ろに縛っていた。面長で物静かな、歳の割に大人びた雰囲気を持っていた。

「鹿よ。そろそろおれたちは家へ戻るぞ」

 といって、鷹は片手を上げる。鹿はほほ笑んで答えた。

「そうか。おれはもうすこし、ゆっくりしていくよ」

「そうするがいい。どうやら、鹿よ。それほど酒を呑んでいないようだな。まだ白い顔をしているじゃないか」

 そんな鷹ノ嘴たかのくちばしは、いつになく陽気そうな、赤々とした顔をしていた。

「まあな。どうにも、昼間のことを思いだしちまって。気持ちの悪い長虫のやつのせいで、胃が煮えくり返りそうに、気持ちが悪いんだよ」

「無理はない。しかし、忘れることも大切だ。……そういえば、青石よ、子は腹を蹴るようになったか?」

 急に水を向けられた天ノ青石あめのあおいしは、どぎまぎと答えた。

「いえ、まだまだよ。まったく、あなたのように、元気な子供に恵まれたらいいけれど」

 鷹ノ嘴たかのくちばしは笑いながら、鷹丸たかまるの頭に手を載せた。

「こいつが元気かどうかは、わからんがな。おれと似て、ひどく無口だ」

 すると鷹丸たかまるは父の手をうるさそうに見上げ、憮然とした表情をした。岩山ノ鹿いわやまのしかはさぞ、うらやましそうにいった。

「子鷹は、親父と同じく、弓の名手だというな。どれ、十年後が楽しみじゃないか」

「本人の鍛錬次第だな。まだまだ、これからだ。なにもかも」

 やがて、背後で不機嫌そうにしていた妻の様子に気づいた鷹は、そそくさと家族を引きつれて去っていった。


 心なしか、広場は静かになってきたようだ。岩山ノ鹿いわやまのしかはときに酒を舐め、ときに妻に話を振りながら、空を見ていた。

 深更の夜天にはくっきりとした半月が輝き、《魂ノ河》――すなわち銀河の燦然たる帯は、無数の星々をまとっている。

 そのとき、岩山ノ鹿いわやまのしかは奇妙な音に気がついた。彼は杯を持ったままふいに立ちあがると、北西の坂を登ったところにある、蛇を封じた神域へと顔を向けた。

 天ノ青石あめのあおいしはおどろいて尋ねた。

「な、なにを。……突然、どうしたの?」

「いや、わからん。しかし、なにか、音が……」

 しばらくすると再び神域の方から、木々が押し倒されるような荒々しい音がした。広場で焚火を囲む他の者も、立ちあがっている者がいた。

 天ノ青石あめのあおいしは不安そうな声を漏らした。「たしかに、なにか聞こえたわね」

「ああ。少し見てくるよ。待っていてくれ」

 そういって岩山ノ鹿いわやまのしかは広場を横切ると、神域へ続く坂道の方へと近づいていった。

 坂道にさしかかると、四人の村の男と、沙羅ノ腕さらのうでがいた。木々がひしめく坂の上の方からは、けたたましい音が響いていた。木々が軋んで倒れる音。なにかが枝葉にぶつかって、木々を揺らす音。

 長老は右手に杖を突き、左手に松明を持ち、坂道を見あげながらいった。

「まさか、蛇が、結界を破ったか……。この目で確かめねばならぬな」

 岩山ノ鹿いわやまのしかは咎めるようにいった。

「いや。もし蛇が結界から逃げだしたのだとしたら、近づくのは危険だ!」

「わかっておる。しかし、わしの他に、止められる者はおらんじゃろう!」

 いうが早いか、長老は坂を駆け上りはじめた。――杖などはただの象徴にすぎないことを証明するかのように。

 岩山ノ鹿いわやまのしかをはじめ、村の男たちもそれに続いた。しかし、彼らは頂上に至ることもなく、坂の途上で足を止めることになった。彼らを迎え撃つように飛び込んできた、長神ノ現ながかみのうつしによって。


 それはいわば、形をもった夜の襲来であった。

 岩山ノ鹿いわやまのしかは、甚大な肉の紐が絡み合っているのを見た。体の半分は白く、もう半分は白い両頭の蛇が、その身を複雑に絡ませあって、まるで戦うようにお互いを締め上げ、噛みつきあっていたのだ。

 その絡み合った蛇の塊が、なかば坂道を転げるように、周囲の木々に体を擦りつけながら迫ってきていた。

 長老や男たちはとっさに飛びのいて、身を伏せた。岩山ノ鹿いわやまのしかも恐れおののいて木の陰に身を潜めたのだが、その木ですら、蛇の体当たりに耐えきれず、鈍い音を立てて薙ぎ倒されるありさま。倒れてきた幹に足を挟まれて、岩山ノ鹿いわやまのしかは苦悶のうめき声をあげた。

 なおも蛇の塊はもつれながら、鳴き声をあげながら、広場の方へと進んでいく。

 岩山ノ鹿いわやまのしかはやっとの思いで倒木から足を引き抜き、長老や村の男たちと広場へと降りていった。


 天ノ青石あめのあおいしは嵐の前の静けさを思わせる静寂の中に立っていた。

 広場にはまだ幾人もの人が杯を手に、楽器を手に、焚火を囲んでいる。しかし、村に満ちた殺気や怒号は、ただならぬ事態の勃発を感じさせた。神域から土砂崩れのように迫ってくる破砕音は、彼らの味方であるはずの長神ノ現ながかみのうつしによるものとしか思えない。にわかに信じられることではないが、天ノ青石あめのあおいしにとって、他に考えられる原因などはなかった。

 坂の方から男たちの叫び声がこだましてくると、天ノ青石あめのあおいしの身はすくみ、夜風すら刺々しく感じられるようになった。

 そのとき、神域へ続く坂道から、巨大な何かの塊が転げ落ちてきた。

 それは、互いを噛み殺そうともつれあう、長神ノ現ながかみのうつしの姿だ。

 しゅうしゅう、と鳴き声を上げ、ときおり稲妻のような鋭い叫び声を上げ、白と黒の頭が争っていた。両頭の蛇は生きた岩のような塊と化し、広場の地面を転げるように移動し、ついに燃え盛る焚火の前までやってきた。

 広場は絶叫のるつぼと化していた。

 手にしたものを投げ捨て、前後を失い遁走する人々でざわめきたった。

 天ノ青石あめのあおいしは腰がくだけてしまい、逃げることもままならず、眼前で繰り広げられる蛇の狂騒をつぶさに見ていた。

 それは、なんという光景だろうか。

 一体の神の化身として造られた生き物の両頭が、右手で左手を殺すがごとく、血も凍る死闘を演じているのだ。世に決闘の数々はあれど、ここまで矛盾に満ちた、壮絶な決闘があっただろうか。黒い頭は白い胴に喰らい付き、白い頭はその黒い頭に牙を立てる。焚火の炎は蛇を赤々と照らして高くうねっている。

 両頭の戦いは次第に決着しつつあった。

 白い頭の動きが鈍くなっているというのに、黒い頭はますます凶暴に、素早くなっていった。そのときついに、白い頭は力尽きたように喉元をさらけて、頭を夜空に向けた。そこへ間断なく、黒い頭が白い首元に噛み付いた。

 にごった耳障りな叫び声を上げる白い頭であったが、黒い頭は容赦なく顎をぎりぎりと閉じ合わせていく。

 骨の砕ける音、肉の裂ける音、金切り声。

 ついに白い頭は喰いちぎられることとなった。

 黒い頭はくわえた仇の頭を半月に捧げるかのごとく掲げ、ついでそれを地面に吐き捨てた。

 天ノ青石あめのあおいしは震えたまま、目を見開いて、様々なことを考えていた。

 蛇はなぜ白い頭を噛みちぎったのか。そもそも、なぜ結界を破って逃げ出してきたのか。これからなにをしようとしているのか。

 彼女には、その答えをしる由もない。

 

 そのうち、坂から岩山ノ鹿いわやまのしかが駆けおりてきた。やや遅れて、長老も広場へやってきた。二人は広場に残っていた天ノ青石あめのあおいしをかばうように立ちはだかると、ひとつの頭となった長神ノ現ながかみのうつしを見て、立ち尽くした。

「どういうことじゃ、これは」

 そんな長老の問いに、

「わかりません! 長神様は、白い頭を食いちぎったのです!」

 と、天ノ青石あめのあおいしが答えた。

 そんなことに目もくれず蛇は去っていくのだが、そんな蛇に向かって、長老は歌をうたいはじめた。


 草や葉に

 輝く水の 粒載らむ

 うまし水は 舌誘い

 汝の喉ぞ 潤わさむ

 荒野に乾くは 白き骨

 白き墓標と 風の声

 汝の住処と なりけるは

 古き森の 奥なりき


 それは哀願するような、切実な歌だった。

 蛇はぴたりと動きを止め、黒い頭をもたげ、うっとうしそうに長老を見た。それに対して長老は、次なる歌を口にしはじめる。

 長老がうたったのは、先ほどのものとは打って変わった、刺々しい歌だった。天ノ青石あめのあおいしの耳には、その歌の響きはまるで、太い弓の弦を鳴らすようにも思われた。

 すると、蛇は苦々しい唸り声を上げて、身をよじりはじめた。苛立たしげに首を持ち上げ、体を引きずって、蛇は長老へと迫っていく。

「無理だ! 逃げるんだ!」

 とは、岩山ノ鹿いわやまのしかの声だ。それでも長老は、代々受け継いできた役目をまっとうするかのように、歌を続ける。

 そこで蛇は黒い頭を突き上げると、自身の頭の倍も口を開け、牙で長老を仕留めにかかった。

「やめてェー!」

 天ノ青石あめのあおいしは叫びながら手で顔を覆った。ついで地響きの音がしてから、おそるおそる顔を上げた。

 眼前の地面には蛇の頭があり、その左方には長老と、それを抱える岩山ノ鹿いわやまのしかが倒れ込んでいた。――おそらくすんでの所で岩山ノ鹿いわやまのしかが長老を救ったのだろう。

 蛇は憎らしげに赤い目を剥いて岩山ノ鹿いわやまのしかを睨むと、今度は首を横に薙いで、岩山ノ鹿いわやまのしかに向かって顎を広げた。

 岩山ノ鹿いわやまのしかは体を起こそうとするのだが、とうとう疲労も極みに至ったとみえ、明らかに弱々しい様子だった。

 天ノ青石あめのあおいしはそこで、夫の視線が自身に向けられていることに気がついた。それに、夫の視線は天ノ青石あめのあおいしの腹に注がれているようだった。

「逃げよ! そなたは逃げよ! 子供を……」

 そういう岩山ノ鹿いわやまのしかの体は瞬く間に、蛇の顎にくわえられ、宙高く持ち上げられた。そして、蛇の捕食そのままに、獲物の体は黒い喉へと呑みこまれた。

「あなたァー! どうして!?」

 手を延ばして蛇に詰め寄ろうとする天ノ青石あめのあおいしをぐいと引き留めたのは、いつしか立ち上がった長老の姿だった。

「いけない。もう、どうにもならぬ。しっかりせい、そなたの身には、子が宿っておるのだぞ! こうなれば鹿のためにも、子を守らねば!」

 それでも天ノ青石あめのあおいしは抗うのだが、長老に手を強く引かれるうちに、蛇に背を向けて広場の出口へと向かっていった。

 しかし、蛇は二人を逃すつもりがないようだった。

 不穏な気配に天ノ青石あめのあおいしが振り返ると、まさに頭上に蛇が大口を広げて、襲いかかってくる所だった。

 そのとき、脇より風を切る音がしたかと思うと、蛇の左側頭部になにかが突き刺さった。

 なんと、避難したかに思われた鷹ノ嘴たかのくちばしが弓を構えていたのだ。

「逃げよ、青石」と、鷹はいった。

「ここはおれに任せて、早く長と逃げよ! 森の中でもどこでもいい!」

「そんな……。あなたはどうするの? 敵うわけはないわ! 長神様は、一体で丹綺の兵を退けたのよ!」

「おれもすぐに逃げるさ。おまえたちがいけば」

 そういうなり、鷹ノ嘴たかのくちばしは矢を放ち、ついで駆け寄ってきた。すると天ノ青石あめのあおいしと長老をかばうように立ちはだかり、次なる矢を弓につがえた。

 長老はむせ返りながらも強くいった。

「青石、早ういくぞ!」

「わかりました」

 二人は鷹ノ嘴たかのくちばしに背中を預け、ひたすらに駆けた。

 やがて広場の端まで来たときに、背後よりうめき声が聞こえた。とっさに振り向いた天ノ青石あめのあおいしは、焚火のあかりの中、赤々と照らされる蛇の頭と、その顎の餌食となった鷹ノ嘴たかのくちばしの姿を見た。高々と掲げられた彼の体は、玩具のように軽々と振り回された。そして仕舞いにはやはり、首を上に向けた蛇の喉に呑みこまれることとなった。


 天ノ青石あめのあおいしと長老は振り返らず、ひたすらに逃げた。

 村の入り口に至っても、なおも森を走った。

 どうやら蛇はさほど長老には固執していないようで、しばらく逃げていると、いつしか蛇の腹を摺る音をしなくなっていた。


 村人たちはその夜、様々な場所で朝を迎えた。

 ある者は月見ノ丘で。

 ある者は大樹のうろで。

 ある者は森の草むらで。


 日の出とともにおそるおそる舞い戻った人々の中には、天ノ青石あめのあおいしの姿もあった。

 憔悴しきった人々の中で、ひときわ目を腫らし、墨を塗ったような隈をこさえた彼女は、いまにも崩れてしまいそうな足取りで焚火の跡にやってきた。まだ、惨状の舞台となった広場に足を踏みいれている者はいなかった。

(あなた。……あなたのおかげでお腹の子は、守ることができたわ。おお、わたしは、この子と生きていく。この子と……)

 そう呟きながら、天ノ青石あめのあおいしは無意識のうちに、地面に落ちていた白い頭の近くへと行きついたのだった。

 昨夜の死闘の際に、黒い頭に噛みちぎられ、捨てられたままになっていたようだ。

 まさに東と太陽を象徴するそれらしく、燦然たる朝日へと顔を向けて、息絶えていた。また、その死に顔は安らかで、美しいものにも思われた。

 天ノ青石あめのあおいしは白い頭によって、昨夜の惨劇が夢でも幻想でもなく、確固とした真実であることを突きつけられることになった。汕舵の民が古来より崇めてきた長神ノ現ながかみのうつしが狂ったように暴れたこと。黒い頭が白い頭を喰いちぎったこと。――なにより、夫が呑みこまれてしまったこと。

 涙が次から次へと溢れ、天ノ青石あめのあおいしの頬や喉を伝った。

 喉の底が焼けるように熱くなり、泣き声はおさえる術もなく、広場に響き渡った。


 このとき、異変がおきた。

 天ノ青石あめのあおいしの目前に落ちていた白い頭が、朝日によって徐々に干からびていったのだ。

 それも、尋常な速度ではない。

 まるでそのときを――天ノ青石あめのあおいしが現れるときを待っていたかのように、白い頭は小さくなっていった。

 それとともに、白い頭からは蒸気のような、湯気のような白濁した気体が立ち上っていった。天ノ青石あめのあおいしはとっさに、それが白い頭の霊魂だろうと思った。

 白い気体は集まっていき、宙に円を描いて周回すると、最後にはなんと、天ノ青石あめのあおいしの腹に向かって近づいてきた。

 それこそ真っ白な蛇のようになった霊魂が、彼女の腹にすべて吸い込まれるのに、さして時間がかからなかった。

 そのころ広場にやってきた長老や村人は、一連の奇跡的なできごとを目撃したのだった。

 蛇の霊らしきものを腹に宿した天ノ青石あめのあおいしだったが、特に体調が崩れたり、その他のおかしな兆候が見られたりすることはなく、腹の子供は順調に育っていった。やがて、村人はこう噂するようになっていった。

『白い蛇の頭は、霊となって子供に宿ったのだ』

『一体何が産まれるのか知れたものではない』


 天ノ青石あめのあおいしは五か月後の春先に男児を産んだ。

 村の人々はこの子供を東ノ顎ひがしのあぎとと呼び、恐れ、忌み嫌った。むろん、その母親にしても、畏怖の対象となった。

 やがて、天ノ青石あめのあおいしは村人の視線に耐えきれなくなったのか、赤児を抱いて村を去った。

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