第7話
時は十六年を遡る。
異変が起きたのは、汕舵暦でいう、八〇七年の秋のことだ。その秋を境に、汕舵の民は多くのものを失った。
力を失い、誇りを失い、民の命を失った。祭りで減る酒の量が半分になった。笑い声が小さくなった。
東西と天地の均衡を守り給う
当時、馬稚国の北東に位置する丹綺国は、領土を拡大しようという意欲が強く、頻繁に南東を牽制していた。また、馬稚国とは国境付近の盆地で両軍が激突することが多かった。
その盆地は葦ノ原と呼ばれていた。どちらの軍も国境の線にその盆地を含めようと、果敢に兵の命をぶつけ合っていた。馬稚で作られた地図には葦ノ原は馬稚に含まれていたし、丹綺の地図においても推して知るべし、というものだ。
そして、葦ノ原よりやや南部には、汕舵の民が住む森が広がっていた。
汕舵の民は、歴史上は馬稚と結び付きが強く、一応は馬稚の版図に含まれていた。
白ノ宮には汕舵の文化が受け継がれているし、身内とするには、幾らか馬稚の方がましだったからだ。
名君でしられた幸畠信成が指揮する馬稚軍は、ときに力をもって、ときに頭脳をもって丹綺軍を翻弄した。彼らの黄色い鎧兜は、遠くからでもよく目立った。
対する丹綺の兵たちは、例の赤黒い鎧を着込んで、ひたすら武力で押し切ろうと猛火のごとく詰めかけてきた。
天の神がいたなら、白木さながらの馬稚軍に、蠢く業火が押し寄せるように見えただろう。
しかし、白木の軍はよく戦った。
長年に渡り、丹綺の軍から葦ノ原を守り抜いたのだから。
丹綺の軍は、面をかむった剛腕の将軍が率いていた。そして、矛をもって北方を広く統治する彼らの玉座には、有名な女王が鎮座していた。噂には背鰭尾鰭がつくものだが、とにかく様々ないわくのある女王だった。
五百歳という神がかった高齢でありながら、見た目は可憐な乙女なのだ。
杖の一振りで放つ呪われた大火は、大軍を一瞬で呑み込むのだ。
配下には人ならぬ魔性がひしめいているのだ。
そんな噂がまかり通るほど、丹綺国は謎に包まれ、恐れられていたのだ。
さて、粗暴で知られる丹綺の軍とはいえ、なかなか《葦ノ原》を制圧できないことに業を煮やし、攻め方を考えはじめた。そこで彼らが思いついたのが、汕舵の森を経由しての馬稚への奇襲だったのだ。
汕舵の森の北端には小高い丘――月見ノ丘というものがあり、岩か木にでも登れば、かなり見通しの効く場所だった。
紅葉の燃えるさなか、二人の汕舵の男が岩場に立ち、北西より押し寄せてくる丹綺の軍勢を見ていた。
ひとりは
その隣には、汕舵の中で最も目の良い、
そんな二人の眼下では、汕舵の戦士たちが斧や弓を掲げ、森を守るために奮迅の戦いぶりを見せていた。彼らは森での戦いを得意とするのだが、できれば森の手前で敵を喰い止めたかった。幾つかの理由のうちで最たるものは、火矢を射かけられたらひとたまりもない、という事実。そのため、森を出てやや北方にある、岩ばった平地での戦いを余儀なくされていた。
二百人ばかりからなる汕舵の戦士たちは、馬稚国の援軍もない状態で、丹綺の軍勢に立ち向かっていた。
一方、敵兵の数は千人に届かんばかりだ。よって汕舵の戦士は羽虫のごとくあしらわれては、血を流して死んでいった。
敵に切り伏せられていく仲間を見るのは、
「鷹よ。なんとかならんか? やはりわれらは、丹綺の狂犬に敵わないというのか?」
「もう少しすれば、馬稚の援軍がくるだろう」
「いや、このままでは、のろまどもがやってくる前に、森を攻められるぞ!」
「落ち着け、鹿よ。われわれの方も、そろそろ、あれが出るはずだ」
それは巨大な蛇のごとき
「あれが出ると思うと、ぞっとしないな」
と、
「そうだろうな。しかし、あれに守られているのも、事実だ。あの、蛇に」
正確には、両端に頭を持ったおそるべき大蛇、とでもいうべきか。
汕舵の民は、最も偉大な神として両頭の蛇を崇めていた。彼らの象徴である《S》の形は、これを現すものだ。
蛇神の片側の、白い頭は太陽と生命を司り、もう一方の黒い頭は月と死を司っているとされる。その主神の権化ともいうべき
無残になぶられていく汕舵の戦士たちを、心痛はだはだしい様子で眺める
長老である
木立を進む蛇は、木々に体をぶつけては軋ませ、場合によってはなぎ倒し、間断なく進んでいく、禍々しくも勇壮な姿であった。
黒い方の頭は狂おしく敵をめがけて突き進んでいく。一方、白い方の頭に至っては、黒い頭に比べれば控え目である。
とはいえその両頭は、絡まりながら木々を薙ぎ倒して進む、一塊の甚大な狂気の象徴として、敵よりもまず、味方である汕舵の者たちを慄然とさせずに止まない。
蛇――すなわち
森の中でもっとも大きな木を倒し、魔術で肉を与えたような体は、実に素早く進んでいくのである。見かけに伴う重量があれば、もっと重々しく、地面に身を擦り付けて進むべきなのだ。
しかし、蛇はなかば、天地の法則を愚弄するかのように、ともすれば、重力を無視するかのような動き方をする。そのせいで、どことなく蛇の進軍は非現実的で、悪夢めいた様相を呈しているのだ。
――事実、両頭の蛇はときおり地面を離れ、絡まった縄のように浮かび上がって、大木や岩を破壊して進んでいった。するとまた、思い出したように、まるで子供が我を忘れて逸脱した行儀を思い出したように、地面に着地するのだ。――また、そうでもなければ、正味、両頭の蛇が素早く前進することなど叶わぬだろう。
森や平地にいる汕舵の戦士はいずれも振り返り、ある者は目を見開き、ある者は叫び声を漏らして、呪われた蛇に道をあけてゆく。――なぜなら、蛇は味方を襲うこともあるからだ。というよりも、往々にして、味方でさえもよく餌食にした、というべきか。
丘の上の
森を抜ける頃に、蛇は地鳴りとも思われる雄叫びをあげた。蛇らしき、しゅうしゅう、という耳障りなものだった。
もはや、蛇の進路には汕舵の者はほとんどいなかった。
森を抜けた
蛇に対面したものは、驚愕しながらその頭を見る。無機質で光沢のある鼻先や口元。それから赤く濁った両目。
朽ちて白骨化した雄牛のあばらを集め、上手く並べたらそうなるかも知れない、乱れ密集した牙の奥には、真っ暗な空洞が待ち構えている。
赤く熟れた、熟れ過ぎた果物のように爛れた穴には、底しれない闇があった。闇の底には鎧や骨すら溶かす胃液がなみなみと溢れるのか。あるいはろくでもない異界や地獄につながっているのか。そんなことは汕舵の民にすら定かではない。
貪婪とひらいた蛇の口内を見たものは、次の瞬間には喰われることになった。
黒く脂ぎった胴体や頭は、次々に血を浴び、乾く暇さえもない。
首をもたげ、それを叩きつければ数人が圧死する。いちど顎を開ければ、二三人を呑み込む。
逃げ遅れた汕舵の戦士も、蛇の牙にかかったかも知れない。いや、どう考えても、十人近くはこの狂獣の生贄になったはずだ。
千人からなる丹綺の軍勢は、突風のごとく駆けまわる蛇によって分断され、蹂躙され、散り散りになっていった。汕舵の民が仕上げの掃討を行うまでもなく、恐れをなした小動物の群れのように、丹綺の軍勢は退却していった。
隣に立っている
そのとき、長老である
皺がいくらか目立つが、まだまだ目の輝きは、体を飾る宝石に劣ってはいない。柔らかくふくらんだ両胸や、服に浮かぶしなやかな足腰は、いくばくかの成熟した色香さえまとっていた。
ささやくような低い歌声が響いてきて、耳の奥が痺れる感じがした。
ゆったりとした音律で、音の数も多くはない。長老は半眼となって、ごく小さな声で遠方の蛇に向かって呟いているのだ。その日の中で、
骨を砕けよ 血を呑めよ
憎き憎き 生き血をば
啜りて啜りて 甘し蜜
満たされぬ 飢えに注ぎて
血は赤く 赤く 赤く 舌は濡れ
それに、長老はやすやすと蛇を操っているようでもなさそうだった。長老は額に玉の汗を浮かべ、眉間に皺を寄せ、細く危うい糸でもって蛇を操るかのように、須臾の油断も許されぬ、といった様子で歌を口にしていたのだ。
鷹は無言のまま、苦々しくうなずいた。まるで、『おれも、おかしいと思う』とでもいわんばかりだ。
やがて、陰惨な歌を舌に転がしていた長老は、丘から戦況を見るに首をうなずかせて、違った歌を口にしはじめた。
蛇の猛進によって、すでに丹綺の兵はちりぢりに逃げ去っていた。そのため、長老は潮時と見たのだろう。
長老が詠唱したのは、波が引いていくような、落ち着いた音律の歌だ。
すると、かなりの距離があるというのに、蛇の動きが止まった。
長老は相変わらず苦しそうな表情で歌を続けた。なんにしても、蛇はいつになく強情なようだ。
それでもやがて、蛇は何度か身震いをすると、夢から覚めたかのように、森へ向かって引き返しはじめた。
汕舵の戦士たちは、勝利を得たというのに、いずれも敗残兵のように青白い顔をしていた。
戦場となった平地には、丹綺や汕舵の兵の死体が溢れ、ところどころに光り輝く剣や斧が落ちていた。
蛇は長老の導きで注連縄に囲われた結界の中へと戻された。
夜には祝宴が催された。
人々は大いに祝杯を交わしたが、いずれの顔にも蔭がさしていた。村人の誰もが、真の敵が必ずしも外にいるとは思っていなかった。それはまったくの直観ではありながら、自分たちを待ち受ける運命を敏感にかぎ分けていた、といわねばならない。
そんな陰惨とした雰囲気を紛らわすように、戦勝の宴には秘蔵の酒がふんだんに供された。
村の広場には火が焚かれ、夜半がすぎても嬌声と太鼓の音が止むことはなかった。
男たちはたいてい、自分で作った太鼓を持っていた。
彼らは木製の胴に、鹿や猪などの動物の皮を張ったそれを地面に傾けて置き、手や撥をつかって打ち鳴らすのだ。
彼らの音楽は単調で粗野なのだが、それだけに、音律はまっすぐと心に届く。
おおむね同じ構造の太鼓であるというのに、不思議とそれぞれの音は異なった個性を持っていた。妙に高音が響くもの。雄牛の唸り声のような音をとどろかせるもの。硬質な音もあれば、まろみのある音もあった。
――さて、こうして鳴き続ける楽器たちは、それぞれ、持ち主の魂に深く結びついているものだった。また、その理由についていくつか説明を加えることもできる。
まず、彼らの名前には、たとえば
この儀式のあらましを説明するならば、それは『真名を得るための、おのれの魂と結びついた自然物を特定するための旅』とでもいえようか。
岩山で牡鹿と戦って勝利した
この際、
さて、真名とする自然物についてだが、これにもいろいろと傾向がある。
男ならば、仲間たちに勇壮さや戦いの能力を示すために、大きな動物やめずらしい動物を狩ることが多い。その一方、女ならば、美しさや家事の才を象徴するような真名を選んだ。たとえば瞑想ののち、植物や山河に強く心が惹かれれば、必ずしも持ち帰ったり、削りとったりすることもなく、それを真名とすることもできた。それに、男であっても雪や川におのれの魂が惹かれることがあるし、女であっても熊や狼に魂が惹かれることもある。そうした場合の直感も尊重されるため、結果、名のみをもって男女の区別をすることが難しい、ひとつの原因となっている。
「青石よ、おまえは呑まないのか」
「ええ。腹の赤ん坊に障るといけないから」
「まだまだ先のことだろう? 赤ん坊が産声を上げるのは。だいいち、腹もまだ、ふくらみはじめたばかりだ」
そうですね、と
「いったい、どのような子を授かるのかしらね。男か、女か」
「ううむ。おれの予想では、女だな。おまえのように、宝玉のごとく美しいのだ。罪づくりなほどに」
「そう――わたしは、男だと思う。理由はわからないけど……なんとなく。そうよ! きっとそうなのよ。この子は、あなたのように優しく、そして強くなるでしょう。仲間を守り、先陣を切って戦うような。……もっとも、争いごとなど、ないに越したことはないけど」
そのとき、
「きょうは、大勝だったみたいね。もちろん、勝利の犠牲について考えれば、とても胸が痛むけれど……。ともかく、祝勝の宴には、戦で散った戦士の霊がやってくるというじゃないの。死者は生者の身を借りて酔う、とも。だから、どうか、あなたも」
「ああ、わかっている。それはもちろん。しかし、どうにもおれは、あの光景のことを思い出すと、いまでも気味が悪くなるんだ。あれが。蛇が……」
「
「おまえは、正気でいっているのか? なあ、青石よ。おまえは、あれが敵味方を問わず貪るさまを、見たことがあるのか? なあ、その上で、恐ろしくない、などというのか?」
ちょうど、笛を右手に踊りながら歩く村の女が通りかかった。女はぶっそうな話を聞きかじったのか、うろんそうな表情で去っていった。
「そんな、罰あたりなことを、大きな声でいわないで。……ともかく、長神様がいればこそ、汕舵は敵から身を守ることができるのよ。それは昔から続いていること」
「ああ。それは否定しないよ。きちんと操ることができていればな。しかしここのところ、まるで長の命を聞かないようじゃないか」
「長神様は、お疲れなのよ」
「おおかた、汕舵の者を守ることに、飽きたんだろう。何百年と、こき使われてきたんだからな」
奇妙なことに、汕舵の者たちはたいてい、
そんなことが続ければ、いかな神であっても嫌気がさすというもの。
この夜、結果として汕舵の民は、その歴史の中で最大といってもよいほどの災厄に見まわれた。
むべなるかな、それをもたらしたのは、蛇だ。
そのとき妻と並んで座っていた
振り返ると、そこには
「鹿よ。そろそろおれたちは家へ戻るぞ」
といって、鷹は片手を上げる。鹿はほほ笑んで答えた。
「そうか。おれはもうすこし、ゆっくりしていくよ」
「そうするがいい。どうやら、鹿よ。それほど酒を呑んでいないようだな。まだ白い顔をしているじゃないか」
そんな
「まあな。どうにも、昼間のことを思いだしちまって。気持ちの悪い長虫のやつのせいで、胃が煮えくり返りそうに、気持ちが悪いんだよ」
「無理はない。しかし、忘れることも大切だ。……そういえば、青石よ、子は腹を蹴るようになったか?」
急に水を向けられた
「いえ、まだまだよ。まったく、あなたのように、元気な子供に恵まれたらいいけれど」
「こいつが元気かどうかは、わからんがな。おれと似て、ひどく無口だ」
すると
「子鷹は、親父と同じく、弓の名手だというな。どれ、十年後が楽しみじゃないか」
「本人の鍛錬次第だな。まだまだ、これからだ。なにもかも」
やがて、背後で不機嫌そうにしていた妻の様子に気づいた鷹は、そそくさと家族を引きつれて去っていった。
心なしか、広場は静かになってきたようだ。
深更の夜天にはくっきりとした半月が輝き、《魂ノ河》――すなわち銀河の燦然たる帯は、無数の星々をまとっている。
そのとき、
「な、なにを。……突然、どうしたの?」
「いや、わからん。しかし、なにか、音が……」
しばらくすると再び神域の方から、木々が押し倒されるような荒々しい音がした。広場で焚火を囲む他の者も、立ちあがっている者がいた。
「ああ。少し見てくるよ。待っていてくれ」
そういって
坂道にさしかかると、四人の村の男と、
長老は右手に杖を突き、左手に松明を持ち、坂道を見あげながらいった。
「まさか、蛇が、結界を破ったか……。この目で確かめねばならぬな」
「いや。もし蛇が結界から逃げだしたのだとしたら、近づくのは危険だ!」
「わかっておる。しかし、わしの他に、止められる者はおらんじゃろう!」
いうが早いか、長老は坂を駆け上りはじめた。――杖などはただの象徴にすぎないことを証明するかのように。
それはいわば、形をもった夜の襲来であった。
その絡み合った蛇の塊が、なかば坂道を転げるように、周囲の木々に体を擦りつけながら迫ってきていた。
長老や男たちはとっさに飛びのいて、身を伏せた。
なおも蛇の塊はもつれながら、鳴き声をあげながら、広場の方へと進んでいく。
広場にはまだ幾人もの人が杯を手に、楽器を手に、焚火を囲んでいる。しかし、村に満ちた殺気や怒号は、ただならぬ事態の勃発を感じさせた。神域から土砂崩れのように迫ってくる破砕音は、彼らの味方であるはずの
坂の方から男たちの叫び声がこだましてくると、
そのとき、神域へ続く坂道から、巨大な何かの塊が転げ落ちてきた。
それは、互いを噛み殺そうともつれあう、
しゅうしゅう、と鳴き声を上げ、ときおり稲妻のような鋭い叫び声を上げ、白と黒の頭が争っていた。両頭の蛇は生きた岩のような塊と化し、広場の地面を転げるように移動し、ついに燃え盛る焚火の前までやってきた。
広場は絶叫のるつぼと化していた。
手にしたものを投げ捨て、前後を失い遁走する人々でざわめきたった。
それは、なんという光景だろうか。
一体の神の化身として造られた生き物の両頭が、右手で左手を殺すがごとく、血も凍る死闘を演じているのだ。世に決闘の数々はあれど、ここまで矛盾に満ちた、壮絶な決闘があっただろうか。黒い頭は白い胴に喰らい付き、白い頭はその黒い頭に牙を立てる。焚火の炎は蛇を赤々と照らして高くうねっている。
両頭の戦いは次第に決着しつつあった。
白い頭の動きが鈍くなっているというのに、黒い頭はますます凶暴に、素早くなっていった。そのときついに、白い頭は力尽きたように喉元をさらけて、頭を夜空に向けた。そこへ間断なく、黒い頭が白い首元に噛み付いた。
にごった耳障りな叫び声を上げる白い頭であったが、黒い頭は容赦なく顎をぎりぎりと閉じ合わせていく。
骨の砕ける音、肉の裂ける音、金切り声。
ついに白い頭は喰いちぎられることとなった。
黒い頭はくわえた仇の頭を半月に捧げるかのごとく掲げ、ついでそれを地面に吐き捨てた。
蛇はなぜ白い頭を噛みちぎったのか。そもそも、なぜ結界を破って逃げ出してきたのか。これからなにをしようとしているのか。
彼女には、その答えをしる由もない。
そのうち、坂から
「どういうことじゃ、これは」
そんな長老の問いに、
「わかりません! 長神様は、白い頭を食いちぎったのです!」
と、
そんなことに目もくれず蛇は去っていくのだが、そんな蛇に向かって、長老は歌をうたいはじめた。
草や葉に
輝く水の 粒載らむ
うまし水は 舌誘い
汝の喉ぞ 潤わさむ
荒野に乾くは 白き骨
白き墓標と 風の声
汝の住処と なりけるは
古き森の 奥なりき
それは哀願するような、切実な歌だった。
蛇はぴたりと動きを止め、黒い頭をもたげ、うっとうしそうに長老を見た。それに対して長老は、次なる歌を口にしはじめる。
長老がうたったのは、先ほどのものとは打って変わった、刺々しい歌だった。
すると、蛇は苦々しい唸り声を上げて、身をよじりはじめた。苛立たしげに首を持ち上げ、体を引きずって、蛇は長老へと迫っていく。
「無理だ! 逃げるんだ!」
とは、
そこで蛇は黒い頭を突き上げると、自身の頭の倍も口を開け、牙で長老を仕留めにかかった。
「やめてェー!」
眼前の地面には蛇の頭があり、その左方には長老と、それを抱える
蛇は憎らしげに赤い目を剥いて
「逃げよ! そなたは逃げよ! 子供を……」
そういう
「あなたァー! どうして!?」
手を延ばして蛇に詰め寄ろうとする
「いけない。もう、どうにもならぬ。しっかりせい、そなたの身には、子が宿っておるのだぞ! こうなれば鹿のためにも、子を守らねば!」
それでも
しかし、蛇は二人を逃すつもりがないようだった。
不穏な気配に
そのとき、脇より風を切る音がしたかと思うと、蛇の左側頭部になにかが突き刺さった。
なんと、避難したかに思われた
「逃げよ、青石」と、鷹はいった。
「ここはおれに任せて、早く長と逃げよ! 森の中でもどこでもいい!」
「そんな……。あなたはどうするの? 敵うわけはないわ! 長神様は、一体で丹綺の兵を退けたのよ!」
「おれもすぐに逃げるさ。おまえたちがいけば」
そういうなり、
長老はむせ返りながらも強くいった。
「青石、早ういくぞ!」
「わかりました」
二人は
やがて広場の端まで来たときに、背後よりうめき声が聞こえた。とっさに振り向いた
村の入り口に至っても、なおも森を走った。
どうやら蛇はさほど長老には固執していないようで、しばらく逃げていると、いつしか蛇の腹を摺る音をしなくなっていた。
村人たちはその夜、様々な場所で朝を迎えた。
ある者は月見ノ丘で。
ある者は大樹のうろで。
ある者は森の草むらで。
日の出とともにおそるおそる舞い戻った人々の中には、
憔悴しきった人々の中で、ひときわ目を腫らし、墨を塗ったような隈をこさえた彼女は、いまにも崩れてしまいそうな足取りで焚火の跡にやってきた。まだ、惨状の舞台となった広場に足を踏みいれている者はいなかった。
(あなた。……あなたのおかげでお腹の子は、守ることができたわ。おお、わたしは、この子と生きていく。この子と……)
そう呟きながら、
昨夜の死闘の際に、黒い頭に噛みちぎられ、捨てられたままになっていたようだ。
まさに東と太陽を象徴するそれらしく、燦然たる朝日へと顔を向けて、息絶えていた。また、その死に顔は安らかで、美しいものにも思われた。
涙が次から次へと溢れ、
喉の底が焼けるように熱くなり、泣き声はおさえる術もなく、広場に響き渡った。
このとき、異変がおきた。
それも、尋常な速度ではない。
まるでそのときを――
それとともに、白い頭からは蒸気のような、湯気のような白濁した気体が立ち上っていった。
白い気体は集まっていき、宙に円を描いて周回すると、最後にはなんと、
それこそ真っ白な蛇のようになった霊魂が、彼女の腹にすべて吸い込まれるのに、さして時間がかからなかった。
そのころ広場にやってきた長老や村人は、一連の奇跡的なできごとを目撃したのだった。
蛇の霊らしきものを腹に宿した
『白い蛇の頭は、霊となって子供に宿ったのだ』
『一体何が産まれるのか知れたものではない』
村の人々はこの子供を
やがて、
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