第6話

 馬稚国の都をあとにした鹿彦と沙耶は、北方にある汕舵の地を目指した。二人は笠をかむり、蒸すような日差しの中、山道をひたすら進んだ。

 山地にのびる街道を歩くうちに、日が傾きはじめた。ちょうどそのあたりで見えてきた、辺境のさびれた宿場で夜を明かすことになった。路銀については、馬稚国で賜った礼金があったため事欠かなかった。

 二人は宿に荷物を置くと、近くの銭湯で汗を流し、食事を共同の座敷ですませてから、浴衣姿のまま外へでた。

 宿の出入り口には二つの行灯がともっており、向かいの宿にも、幾分か大きな行灯が同じようにともっていた。

 宿場といっても、街道沿いに旅籠が四軒ならぶだけで、あとは茶店と飯屋が一軒ずつある程度だ。しかし、人里を離れて旅を続ける人々にとっては、この上ない憩いの場であることに間違いはない。

 山稜のはざまからのぞく夕雲は、滲んだように赤く染まっている。東の空にくすんでいた月は、夜の訪れとともに輝く満月となった。風はいくぶんか冷え、土のにおいは薄まり、草木のにおいが強まった。

 鹿彦は岩に腰をおろして星霜をながめていた。立ったまま同じように星をながめている沙耶は、ふいにちいさな声をあげた。

「どうしたんだい?」

「災厄のしるしが……」

「なんだって?」

「天の河に浮かぶ、あの、《翁ノ青玉》に流星がかかったのです。……古来より、翁である時の神に流星が重なるのは、凶兆とされていますから」

「白ノ宮で学んだのかい?」

「そうですね。巫女ならば、ある程度はだれでも学びます。それにどうやら、《翁ノ青玉》だけでなく、《火ノ星》の位置も悪い……。《黄ノ星》の近くにきていますね。これも、戦禍の到来を意味します」

「そうか……。凶兆っていうのも、気持ちが悪いね。明日は汕舵の地に到着するっていうのに」

「そうですね」

「おれ、汕舵の民のことをほとんどしらないんだ。だから、余計に気になるよ」

「よかったら、わたしのしっていることを、説明しましょうか? その方が良さそうですね」

「助かるよ」

「わかりました。――まず、汕舵の民が暮らす集落は、馬稚国と丹綺国のあいだの、広大な森の一隅にあります。彼らは主に狩猟に頼った原始的な生活をしています。その一方で農耕や製鉄や天文学など、さまざまな分野の知識を持ち合わせる、不思議な民族なのです。また、異質なのは文化だけではありません。彼らの頭髪は若くして白髪にそまり、周辺国の人々に比べ肌の色が濃いものとなっています。これらのことから、彼らがどこからどんな理由でやってきたのかは、謎につつまれています」

 鹿彦はいぶかしげな表情で沙耶を見た。

「おれのことを見て、汕舵の血筋ではないかという者がいくらもいたね。その理由がよくわかるよ。お母も、お父も、なにも教えてはくれなかった」

「そうですか。……それは、優しさによる沈黙だと思いましょう。きっと、なんらかの事情があったのです」

「いいよ、続けてくれないか?」

「ええ。わかりました。……汕舵の民は原始的な生活を続けながらも、彼らは各国の侵略を寄せつけず、確固として住処を守ってきました。汕舵の地の南には馬稚国、北には丹綺国にきこくが広がっているうえ、東には楼迦国があります。特に馬稚国と丹綺国とのあいだには緊張関係が続いているため、汕舵の地は両国境近くのあやうい立地であるといえます。しかし汕舵の民は、いまだにいずれの国にも支配されたことがありません。これを可能にしたのは、汕舵の民が代々受け継ぐ秘術の力です」

 この話になったとき、沙耶は身をすくませた。

「どうしたんだい?」

「……汕舵の民は、みずからを守るために、あれを生みだしました。わたしは、いちどだけ、あれを見たことがあります。……鹿彦さんも、目にすることになるでしょう。けれど、できればわたしは、もう、見たくはないのです」


 その日の夜、二人は客室で布団に入った。沙耶は並んで敷かれた布団をわざわざ引っ張り、二組の布団を可能な限り離してから、荷物の中から麻紐を出して、畳に延ばした。そうやって、まるで、国境を区切るようにしてから、

「過ちがないように」

 と冷淡にいった。

 鹿彦は呆れた顔をしていい返した。

「人を何だと思ってるんだよ」

「陽那様は、いつも申しておりました。殿方は、狸の皮をかむった狼と思え、と」

 鹿彦はため息をついて、行灯のあかりを落としてから布団に入った。早くも隣国の沙耶は寝息を立てはじめた。

 蚊帳はないものの、高地のためかさほど蚊は出ないため、安心して鹿彦は目を閉じた。

 すると、闇の中から沙耶の声が聞こえてきた。

「どうして」

 鹿彦は暗闇に目を見開いて、なにかをいい返さなければと焦った。しかし、沙耶は寝言をいっているにすぎないようだ。

「父上。待ってください。……どこへ。どこへゆくのですか。父上。わたしをおいてゆかないでください。――父上。そんな西には、なにもありませんよ。だから……」

 そんな寝言を口走る沙耶に、鹿彦は言葉をかけてやりたかった。枕元にいって、慰めてやりたかった。

 しかし、沙耶の布団の手前には、月明かりにぼんやりと浮かんだ、例の麻紐が立ちはだかっていた。

 鹿彦はそれを越える勇気を持てぬまま、煩悶としながら、やがて眠りに落ちた。



 気がつくと、鹿彦は暗い森の中で、土の上に寝転んでいた。

 体を起こそうとしたが、ぴくりとも動かなかった。せいぜいできることといえば、目を動かしたり、鼻や口の周りの筋肉を動かす程度だ。――どうやら、動かそうにも首から下の胴体や手足が存在しないのだ。首元には焼け付くような痛みがある。あまりの激痛に、意識が朦朧としているほどだ。

 人々が持つ松明によって、あたりの光景が照らされている。どうやらそこは、汕舵の集落のようだった。木々や家々が闇に茫と浮かぶ中、人々は何者かに追われ、また、それに反撃をしていた。ある者は弓矢を使って、ある者は斧を持って。

 人々の中には鹿彦を見る者がいたが、多くの者は、それどころではないようだった。

 そのとき、一本の杉が倒れた。そこへ乗り上げるような格好で、長大な黒光りするなにかが現れたのだ。

 人々と戦っていたのは、巨大な黒い蛇だった。

 蛇は鹿彦の眼前を通り過ぎ、矢を射かけてくる男の元へと這っていく。

 そこで鹿彦は、蛇の遠大な姿を目の当たりにした。また、奇妙なことに、蛇の尻尾の方には、痛々しい傷痕があった。まるで尻尾を切り落とされた蜥蜴のように、末尾が途切れていたのだ。それに、蛇の尻尾ということならば先細りしそうなものなのに、傷痕の所まで太さを保ったままのようだ。また、胴体の頭に近い部分は黒色なのに、中ほどは灰色に、それより後ろは白色になっていた。

 そのとき、斧を持った男が躍り出る。総髪をなびかせた、いかにも強靭そうな男だ。

 彼は蛇に斧を打ち下ろしたのだが、大木ほどもある胴体には傷ひとつ負わせられない。ついで、蛇は分厚い鱗に覆われた体をもって、男を取り囲んだ。迫りくる肉の壁から、男は飛び跳ねて逃げようとするが、出てこられないようだ。鹿彦の位置からは、蛇の胴体から男の頭が抜きん出ているように見える。男は叫び声をあげるも、一向に蛇の締め付けから抜け出せない。

 蛇は仕上げとばかりに口を開けて、男の頭に喰いかかった。思わず目を閉じた鹿彦が、しばらくして目を開けると、男の頭はきえていた。

 やがて、大蛇はとぐろを解いて、何かの塊を暗い地面に吐き出すと、鹿彦の前にやってきた。蛇は鎌首をもたげ、牙ののぞく赤い口を広げて、重々しい声を発した。

東ノ顎ひがしのあぎとよ。そのまま滅びるがいい。我はこれより、為すべきことを、為すのだ」

 蛇はやがて、高く舞い上がると、夜空に消えていった。

 鹿彦の意識は、次第にぼんやりとしていった。

 体が痺れ、耳鳴りが響く。

 鹿彦は、自身が死んでいくのだと思った。

 泥のように重たい肉体から徐々に抜け出ていくと、自身が宿っていたものが、いったいなんであるのかがわかった。

 眼下には、噛みちぎられたような白蛇の頭が落ちている。

 たしかに、鹿彦の魂は、白蛇の頭から抜け出てきたのだ。

 そこで鹿彦は、不安な気持ちにかられた。みずからが為すべき仕事が、失敗に終わったことに気がついたからだ。

 やがて、鹿彦の魂はある場所に吸い寄せられていった。

 逃げ惑う人々の中には、ひとりの女がいた。女はこんもりと膨らんだ腹をかかえ、襲来した蛇より逃げ惑っていた。すると、鹿彦の魂はその女の腹へと入っていった。



 翌朝、鹿彦と沙耶の二人は宿場をでた。空には重々しい曇天がおおい、いまにも降りだしそうだった。

 傘と合羽を身につけているものの、本格的な降雨に見まわれるのは、避けたいところだ。とはいえ相手は山の天気。どうあっても堪えて進むほかはない。

 二度ほどにわか雨が降ったが、それ以降は徐々に晴れてきたため、二人はたゆまず進んだ。


 午後になってしばらくすると、沙耶は山道の途中で足を止めた。

 街道の脇にある岩を指さして、「ここね」とつぶやくのだ。ちいさな腰掛けほどの大きさの岩だった。

 鹿彦がよく見ると、岩の片隅に模様というか、文字が彫りこんであった。


 『S』


 自然に傷がついたにしては、あまりに均整のとれたものだ。

「汕舵のしるしです」

 そういって、沙耶は岩の横を通りすぎ、草むらへと入っていった。鹿彦があわててついていくと、そこには獣道が続いていた。

 森はますます深くなっていった。

 杉の巨木がひしめき、薄暗い木立の奥からは耳慣れない鳥の鳴き声がひびいてくる。

 坂をのぼり、沢をわたり、なおも沙耶は迷わずに進んでいく。――どうやら、道の端々にある例のしるしを追いかけているようでもあった。


 半刻はたったころ、ふいに鹿彦は草木のこすれる音を耳にした。

 すかさず振り返ると、木のあいだを逃げていく、影のようなものが見えた。鹿彦はおどろいて、先をゆく沙耶にいった。

「そこに、だれかが……!」

「そうですか?」

「たしかに、さっきそこに……。なにかが、つけてきているんじゃないか?」

「動物かなにかでしょう」

「そうだといいんだけど……」

 納得のいかない鹿彦ではあったが、先を急ぐため、口をつぐんで歩きはじめた。


 やがて二人は川原にいたった。

 「このあたりで一息いれましょうか」と沙耶は振り返った。

 あたりには白い丸石が敷き詰められた川原が広がっていた。川面は降り注ぐ太陽の光を反射させ、周囲を一層まばゆいものとしている。

 高地から流れてくる小川は、鹿彦たちの目の前を横切り、低地へと脈々と流れていく。簡単に踏み越えてしまえるような小川だったが、鹿彦にとっては思いがけず出会った、心の癒される清水の情景だった。周囲にうっそうとした森が囲う中、さながらに、切り取られた聖域のごとく思われる場所だった。

 唯一欠点といえば、夏の烈日をさえぎるものがない、という点だろうか。喉を存分に潤してから、二人は竹筒に水を汲み、川原の外れに立った水楢のふもとに身を寄せる。火照った手足を投げだしながら、目が痛くなるほどの川面の散光に、旅の来し方行く末を思うのだった。



「さて、そろそろいきましょうか。もう一息で、汕舵の集落につきます」

 沙耶は立ちあがって、傘の緒を締めた。

「まだ早いよ」

 と反論する鹿彦だったが、それ以上強くはいえず、しぶしぶと立ちあがった。

 二人は川原を踏み越え、反対側の斜面をのぼり、森を進んでいく。


 そのとき、薄暗い獣道の先に何者かがいた。その青年は弓を引き絞り、矢を二人に向け、動くな、といった。

 矢はぎりぎりと唸る弓につがえられ、いまにも放たれそうだ。なおも青年はいった。

「ここへ、なにをしにきたのだ」

 鹿彦は口をひらきかけたが、なにもいえなかった。

 白い長髪を後ろにまとめ、日焼けした痩せ顏に鋭い目がきわだっている。毛皮の胴着と腰巻を身につけ、腰の右側には鉈らしきものをぶら下げていた。

 鹿彦の斜め前方にいる沙耶は、

「動かないでください。毒矢かもしれません」

 と、張りつめた声でいった。

 とはいえ鹿彦は、それが毒矢でないとしても、抵抗する気がなかった。青年のたたずまいには、老練しているとも呼べる、狩人の風格と威圧感があった。

「頼みがあって、ここにまいりました」

 という沙耶の声に、青年は答える。

「なんの頼みだ」

「冥界の西に導かれてゆく、多くの人々を救うために、助けをお借りしたいと思います」

 油断なく弓を構えたままの青年は、鹿彦へといった。

「巫女の後ろの者よ。見たところ、おまえは、汕舵にゆかりがあるようだが」

 鹿彦はおそるおそるいった。

「汕舵の血。どうやら、おれにはそれが流れているようだ。死んだお母も、髪が白く、肌の色は黒檀のようだった」

「ふむ。集落を離れた者の、倅だということか」

「わからないよ。おれは、それをしるために、ここへきた」

 青年はまだ信用していないのか、警戒を緩める気配はない。そこで、沙耶はこういった。

「わたしたちは、汕舵に敵する者ではありません。あなたがたの長老たる、沙羅ノ腕さらのうでにかけて」

 青年は眉をぴくりと動かす。

「その名をどこでしったのだ」

「白ノ宮にて」

「いつの話だ」

「六年前のことです。わたしが幼い見習いのころ、長老は大きな体格の方を連れて、宮へいらっしゃいました。そのおりに、お話しをさせていただきました。――長老は、汕舵の方にしては色白で、すべてを包むような、優しい女人でした」

 青年はだまっていたが、そのうち弓をおろすと、低い声でいった。

「ついてくるがいい。――しかし、もし嘘ならば、殺す。それでよければ」


 鹿彦は青年に続いて獣道を進んだ。歩きにくい獣道はやがて、平石で舗装された山道と呼べるものになっていった。濃い緑の森にはさまれた道をゆくと、ふいに視界がひらけはじめた。

 そこには、集落があった。

 無数の木の杭を地面に打ち込み、それを村の防壁としているようだった。切れ目より村に入ると、中の光景が視界に広がった。

 山道に敷かれていた平石が地面をおおい、井戸や家々へと続いていた。鹿彦がぱっと見渡すだけで、十軒ばかりの家があった。

 いずれの家の周りにも堀がめぐらされ、大きな葦の屋根がふかれていた。斜面に田畑が見えたが、それほど広くはないようだ。家々の堀の内側には、動物の肉や革が台に吊るされていた。


 やがて青年が、杖を突く老婆の手を引いてやってきた。

 それが長老だとすれば、沙耶がいったとおり、青年や他の村人よりも、肌の色は薄いようだった。たわわな白髪は真ん中で分けられ、皺深い顔の両側に落ちていた。背はしゃんとしており、目には落ち着いた理知の光が宿っていた。

 老婆は麻かなにかの、布の服に身をつつんでいた。さまざまな色で模様づけされた、ゆったりとした上衣に、裾の長い下穿きという姿だ。手にした杖の頂上には、絡まった二匹の蛇の頭骨がかぶさっていた。

 そんな老婆の体は、目もあやな装身具におおわれていた。

 白く輝く貝製の腕輪。青玉や紅玉がはめ込まれた腕輪。磨かれた銀の指輪。彫刻された木製の指輪。なにより、胸飾りが際立った存在感を放っている。胸元で光っているのは、黄金でできた、汕舵のしるしだ。――つまり、鹿彦が道程や集落で幾つも見たような、例の『S』の形をしていた。


 老婆は沙耶のまえにくると、皺に覆われた唇をおしひらいていった。

「大きゅうなったな。見違えたぞ」

 鹿彦は長老の声を、はじめて聞くものとは思えなかった。だとすればいつ、どこで聞いたのだろうか。思案する鹿彦をよそに、沙耶はいった。

「沙羅ノ腕様。わたしのことを憶えていてくださり、光栄です。――以前、白ノ宮でお会いしてから、はや、六年になるでしょうか」

「そうかのう。こう年をとると、いつがいつだか、わからんようになる」

「いえ、まるで、おかわりがないように思われます。ご達者でなによりです」

「ふむ。あのとき、そなたはわしの給仕をしてくれたな。つまずいて膳をひっくり返した娘が、世辞をいうようになったか。時は移るものだのう」

「その節は、とんだ無礼をいたしました」

「なあに、わらべのしたことよ。――そういえば、そなたは、なにかしらの重要な役についたと聞いておったが。先代が年を経て、その後任だとかで……」

 沙耶は顔を曇らせる。

「たしかにわたしは、とあるご神体を祀る、お役をいただいておりました。――いまは、さる事情で、お暇をいただいております」

「ふむ。巫女たちが造った、現神の一種があったな。たしか、それを祀っているだとか」

「そのとおりです。しかし、わたしはもう……。なんというべきでしょうか。禁を破って逃げてきたのです」

「ほう。それで、ここに助けを求めにきた、と」

「ええ……。お察しの通りです。それに、ここにくる途中、馬稚の都にも立ち寄ったのですが、そこで、ここにくる理由が増えました。都で広がっている――いえ。どうやら、この地の国々で広がっている、おそろしい病のことをしりました」

「死の眠り、だな。この集落でも、十人に近い者が、眠りから覚めない状態になっておる。それに、眠りながら死んだ者もでておる」

「なんと……。汕舵の方々にも犠牲者がでているのですね。あれは、病とはいわれていますが、実際はそんなものではありません。どうやら、人々は夢の中で、銅鐸のものらしき奇妙な音に導かれ、冥土の西へと歩き続けているようなのです」

「よくぞそこまでしったな。さよう。蛇はみずからの領土に人々を集めておる。あやつは、人が心にかかえる死への憧憬を揺り動かし、呼び寄せておるのだ! ――ふむ、それはそうと、珍しい道連れがおるな」

 鹿彦は長老の視線を感じて、口をひらいた。

「おれは、鹿彦といいます。馬稚の南部にある、田舎からきました」

「縁は奇しきもの、とはよくいったものだな。わしの声は、届いておったということか」

 鹿彦はふいに、長老の声をどこできいたのかを理解した。蜥蜴に襲われる前に、夢の中でなんども聞いた声ではなかったか。鹿彦は青い顔をして、まじまじと長老の顔を見た。

「まさか、あなたが、おれを呼んでいらしたんですか?」

「その通りだ。東ノ顎ひがしのあぎとよ」

 そのとき、どうしたわけか、長老を連れてきた弓使いの青年が横から口をはさんだ。

「おまえが、東ノ顎ひがしのあぎとだというのか。おまえが……」

 青年は鹿彦へ、睨みつけるような視線を浴びせた。長老はたしなめるようにいった。

鷹ノ左目たかのひだりめよ。この者に罪はないぞ。仕方のないことだったのだ」

 鷹ノ左目たかのひだりめと呼ばれた青年は抗弁した。

「長老……。おれはまだ、忘れてはいません。それは、汕舵のだれしもが同じです」

 鹿彦は、汕舵の者たちが周りを取り囲んでいるのに気がついた。彼らは東ノ顎ひがしのあぎとという名前を口々につぶやきながら、鹿彦を睨んできていた。

 長老はおびえる住民たちを一瞥してから、「すまぬが、場所を移そう」といって、歩きだした。

 長老、鹿彦、沙耶の三人は村はずれのに移動した。口火を切ったのは鹿彦だ。

「さっきの、東ノ顎ひがしのあぎととは、おれのことですか?」

「うむ。それが、生まれたときに与えられた、そなたの名前だ。いや、生まれる前の名、というべきか」

「よくわかりませんが。……おれは、ここで生まれたということですか? それにどうやら、あまり歓迎されていないようですね」

「母親から、なにも聞いておらんようだな」

「ええ。お母は、なにもいってくれませんでした。お父にいたっては、元よりおれは顔さえしりません。結局、おれは、なにも分からないまま、蜥蜴に追いやられて、ここまでやってきたんです」

「蜥蜴だと?」

「ええ。おれの家に、黒い奇妙な蜥蜴が押し寄せてきて……」

「ふむ。それは、蛇の仕業だろうな。かくなる上は、すべてを語らねばならんだろう。そなたには、つらい話になるかもしれんが」

「覚悟はできています」

「わかった。まずは、先に見せなければならぬものがある。ついてくるがいい」

 長老は杖を突いて歩きはじめた。どうしたわけか、沙耶は立ち止まったままだ。

「なにか、見せてくれるみたいだ。早くいこうよ」

「ええ。わかっています。だからわたしは、行きたくないのです。おそろしいのです……」

 そこで長老は沙耶へといった。

「そなたは、無理にこずともよい。その様子だと、あれやこれやと噂を聞いておるのだろう。まことに巫女どもは、目をつむりたがるのだな。見ることが、恐れを消すこともあろうに」

 それだけいうと、長老は向き直り、なだらかな坂をのぼっていく。しばし鹿彦は沙耶を見ていたが、うつむいたままだったため、「おれは見るよ」といい残して、長老を追った。


 左方の木立の向こうには長大な村の塀が見え、右手の木立の奥には二軒の家が建っている。その狭間をぬって延びる緩やかな坂を登りながら、長老はこんなことをいった。

「わしらは身を守るために、いくつかのことをしておる。宮の巫女たちと同じように、守護の結界を張っておるのがそのひとつだ。しかし、結界では妖魔や悪霊を防ぐことはできても、人間を喰い止めることはできん。そのために、わしらは、あれを造った。――汕舵の民を守らせるために」

「守らせるため……なんて。奴隷か、生き物みたいですね」

「そうだ。あれは、生き物……いや。神と呼べるものだ」

「あなたは、造った、とおっしゃいましたね。……神を造った、という意味に聞こえますが」

 長老はなにも答えなかった。

 坂道が終わり、小高い丘の上に至った。ますます森は深くなった。

 晴天だというのに、土に降る光がとぼしい理由は、頭上を見るに明らかだ。立ち並ぶ杉や楢の木は、天を支える柱のごとく厳かにそびえ、頂上にゆくほどに繁る枝葉は、天幕となって烈日を遮っている。

 薄暗い木立に流れるぬるい風は、肌を濡らさんばかりに蒸している。鹿彦は山気を浴びるに悪寒を覚えた。肌の和毛がふるえ、冷えた汗がべっとりと重たく感ぜられる。

 木々の間に、白い紙のようなものが無数に垂れているのが見える。注連縄の紙垂である。

 森をさえぎる注連縄は、高い位置、中ほどの位置、低い位置に張られている。注連縄であるからには、ある区画を囲んでいるのだろうが、その領域が広大すぎて、どこからどこを囲んでいるのかは見当もつかない。鹿彦に見えるのは、眼前に連なる三段の注連縄のみである。

「そなたには、まず、汕舵について説明せねばならんな。

 汕舵の民はどこからきて、どこへゆくのか。

 ――いや、わしとて、すべてのことは知らん。しかし、多くのことは、口伝されておる。

 まず、汕舵の暦によれば、わしらがこの地へ根をおろしたのは、八百年前のことだとされておる。――すべてを端から端まで説明しておっては日が暮れるゆえ、必要なことのみ、話すとしようか。

 わしらは白鷺ノ羽しらさぎのうであるいは単に《始祖》と呼ばれる、ひとりの女によって、この地に導かれてきた。白い衣をまとった、神々しくも美しい女人だったのだ。かつてのわしも、それに劣らぬ美しさをまとっていたものだよ。時の流れに預けた、わしの若さにかけて……。ふん、信じておらん、うろんそうな目だな。まあよいわ。

 そんなわれらは日月ノ長神にちげつのながかみという神を信じてきた。

 それは昼と夜を統べる蛇の主神である。日月ノ長神にちげつのながかみは両頭の大蛇の姿としられ、大地を丸呑みしても、まだあまりある大きな体を持っているのだ。また、その白い頭は東の暁を見つめ、黒い頭は西の日没を見つめるものとされておる。

 ――それはそうと、われらがこの地にやってきたとき、北西の丹綺はもちろん、いまでは同胞ともなった馬稚の者たちとも鉾を交えた。そのとき、われらは身を守るために、武器をつくったのだ。

 そう、われらは汕舵に伝わる秘儀をもって、現神うつしかみという人工的な神を造ったのだ」

 そこまで語ると、沙羅ノ腕さらのうでは口を結んだ。鹿彦はあらためて、長老の背後に渡された注連縄と、その先に広がる結界の領域を見た。鹿彦はいまだ呆然とした表情をしていた。

「汕舵の地で、現神を祀っていたことは分かりました。――しかし、なぜおれに、そんな話を?」

 沙羅ノ腕さらのうではうなずいた。

「ふむ。……よかろう。ここまでくれば、もはや隠すことはない」

 そういって、長老は地面に腰をおろした。

「すまぬな。この老木を、土で休ませておくれ」

 まだまだお若いですよ、などと世辞をいいそうになった鹿彦であったが、そんなおためごかしは汕舵の地では不要なことだった。なにかを過剰に表現したり、真実を曲げて慰めを与えることなど、必要のないことだった。すべてが長老の皺のごとく、太陽のごとく、はっきりとしていた。

「こう見えても、かつて、わしは若かったのだよ。しかし、若さの酒は精霊や神が飲んでしまったがな。――並々と杯に注がれた酒が、神や精霊によって舐め取られていくように。――そうさ、若さなど、杯に満たされた、酒のようなものさ」

 鹿彦は心を鎮めて、できるだけ長老を急かさないようにした。しかし、火花のこぼれそうな鋭い視線を隠せてはいなかった。

「若鹿よ。わしはこれより、そなたへ全てを話そうと思う。おそらく、そなたには、にわかに信じられぬことかもしれん。――しかし、もう進むしかないのだ」

 長老は唾を皺深い喉に音をたてて流し込み、やがて重々しく口を開いた。

「よいか、心せよ……」

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