第6話
馬稚国の都をあとにした鹿彦と沙耶は、北方にある汕舵の地を目指した。二人は笠をかむり、蒸すような日差しの中、山道をひたすら進んだ。
山地にのびる街道を歩くうちに、日が傾きはじめた。ちょうどそのあたりで見えてきた、辺境のさびれた宿場で夜を明かすことになった。路銀については、馬稚国で賜った礼金があったため事欠かなかった。
二人は宿に荷物を置くと、近くの銭湯で汗を流し、食事を共同の座敷ですませてから、浴衣姿のまま外へでた。
宿の出入り口には二つの行灯がともっており、向かいの宿にも、幾分か大きな行灯が同じようにともっていた。
宿場といっても、街道沿いに旅籠が四軒ならぶだけで、あとは茶店と飯屋が一軒ずつある程度だ。しかし、人里を離れて旅を続ける人々にとっては、この上ない憩いの場であることに間違いはない。
山稜のはざまからのぞく夕雲は、滲んだように赤く染まっている。東の空にくすんでいた月は、夜の訪れとともに輝く満月となった。風はいくぶんか冷え、土のにおいは薄まり、草木のにおいが強まった。
鹿彦は岩に腰をおろして星霜をながめていた。立ったまま同じように星をながめている沙耶は、ふいにちいさな声をあげた。
「どうしたんだい?」
「災厄のしるしが……」
「なんだって?」
「天の河に浮かぶ、あの、《翁ノ青玉》に流星がかかったのです。……古来より、翁である時の神に流星が重なるのは、凶兆とされていますから」
「白ノ宮で学んだのかい?」
「そうですね。巫女ならば、ある程度はだれでも学びます。それにどうやら、《翁ノ青玉》だけでなく、《火ノ星》の位置も悪い……。《黄ノ星》の近くにきていますね。これも、戦禍の到来を意味します」
「そうか……。凶兆っていうのも、気持ちが悪いね。明日は汕舵の地に到着するっていうのに」
「そうですね」
「おれ、汕舵の民のことをほとんどしらないんだ。だから、余計に気になるよ」
「よかったら、わたしのしっていることを、説明しましょうか? その方が良さそうですね」
「助かるよ」
「わかりました。――まず、汕舵の民が暮らす集落は、馬稚国と丹綺国のあいだの、広大な森の一隅にあります。彼らは主に狩猟に頼った原始的な生活をしています。その一方で農耕や製鉄や天文学など、さまざまな分野の知識を持ち合わせる、不思議な民族なのです。また、異質なのは文化だけではありません。彼らの頭髪は若くして白髪にそまり、周辺国の人々に比べ肌の色が濃いものとなっています。これらのことから、彼らがどこからどんな理由でやってきたのかは、謎につつまれています」
鹿彦はいぶかしげな表情で沙耶を見た。
「おれのことを見て、汕舵の血筋ではないかという者がいくらもいたね。その理由がよくわかるよ。お母も、お父も、なにも教えてはくれなかった」
「そうですか。……それは、優しさによる沈黙だと思いましょう。きっと、なんらかの事情があったのです」
「いいよ、続けてくれないか?」
「ええ。わかりました。……汕舵の民は原始的な生活を続けながらも、彼らは各国の侵略を寄せつけず、確固として住処を守ってきました。汕舵の地の南には馬稚国、北には
この話になったとき、沙耶は身をすくませた。
「どうしたんだい?」
「……汕舵の民は、みずからを守るために、あれを生みだしました。わたしは、いちどだけ、あれを見たことがあります。……鹿彦さんも、目にすることになるでしょう。けれど、できればわたしは、もう、見たくはないのです」
その日の夜、二人は客室で布団に入った。沙耶は並んで敷かれた布団をわざわざ引っ張り、二組の布団を可能な限り離してから、荷物の中から麻紐を出して、畳に延ばした。そうやって、まるで、国境を区切るようにしてから、
「過ちがないように」
と冷淡にいった。
鹿彦は呆れた顔をしていい返した。
「人を何だと思ってるんだよ」
「陽那様は、いつも申しておりました。殿方は、狸の皮をかむった狼と思え、と」
鹿彦はため息をついて、行灯のあかりを落としてから布団に入った。早くも隣国の沙耶は寝息を立てはじめた。
蚊帳はないものの、高地のためかさほど蚊は出ないため、安心して鹿彦は目を閉じた。
すると、闇の中から沙耶の声が聞こえてきた。
「どうして」
鹿彦は暗闇に目を見開いて、なにかをいい返さなければと焦った。しかし、沙耶は寝言をいっているにすぎないようだ。
「父上。待ってください。……どこへ。どこへゆくのですか。父上。わたしをおいてゆかないでください。――父上。そんな西には、なにもありませんよ。だから……」
そんな寝言を口走る沙耶に、鹿彦は言葉をかけてやりたかった。枕元にいって、慰めてやりたかった。
しかし、沙耶の布団の手前には、月明かりにぼんやりと浮かんだ、例の麻紐が立ちはだかっていた。
鹿彦はそれを越える勇気を持てぬまま、煩悶としながら、やがて眠りに落ちた。
気がつくと、鹿彦は暗い森の中で、土の上に寝転んでいた。
体を起こそうとしたが、ぴくりとも動かなかった。せいぜいできることといえば、目を動かしたり、鼻や口の周りの筋肉を動かす程度だ。――どうやら、動かそうにも首から下の胴体や手足が存在しないのだ。首元には焼け付くような痛みがある。あまりの激痛に、意識が朦朧としているほどだ。
人々が持つ松明によって、あたりの光景が照らされている。どうやらそこは、汕舵の集落のようだった。木々や家々が闇に茫と浮かぶ中、人々は何者かに追われ、また、それに反撃をしていた。ある者は弓矢を使って、ある者は斧を持って。
人々の中には鹿彦を見る者がいたが、多くの者は、それどころではないようだった。
そのとき、一本の杉が倒れた。そこへ乗り上げるような格好で、長大な黒光りするなにかが現れたのだ。
人々と戦っていたのは、巨大な黒い蛇だった。
蛇は鹿彦の眼前を通り過ぎ、矢を射かけてくる男の元へと這っていく。
そこで鹿彦は、蛇の遠大な姿を目の当たりにした。また、奇妙なことに、蛇の尻尾の方には、痛々しい傷痕があった。まるで尻尾を切り落とされた蜥蜴のように、末尾が途切れていたのだ。それに、蛇の尻尾ということならば先細りしそうなものなのに、傷痕の所まで太さを保ったままのようだ。また、胴体の頭に近い部分は黒色なのに、中ほどは灰色に、それより後ろは白色になっていた。
そのとき、斧を持った男が躍り出る。総髪をなびかせた、いかにも強靭そうな男だ。
彼は蛇に斧を打ち下ろしたのだが、大木ほどもある胴体には傷ひとつ負わせられない。ついで、蛇は分厚い鱗に覆われた体をもって、男を取り囲んだ。迫りくる肉の壁から、男は飛び跳ねて逃げようとするが、出てこられないようだ。鹿彦の位置からは、蛇の胴体から男の頭が抜きん出ているように見える。男は叫び声をあげるも、一向に蛇の締め付けから抜け出せない。
蛇は仕上げとばかりに口を開けて、男の頭に喰いかかった。思わず目を閉じた鹿彦が、しばらくして目を開けると、男の頭はきえていた。
やがて、大蛇はとぐろを解いて、何かの塊を暗い地面に吐き出すと、鹿彦の前にやってきた。蛇は鎌首をもたげ、牙ののぞく赤い口を広げて、重々しい声を発した。
「
蛇はやがて、高く舞い上がると、夜空に消えていった。
鹿彦の意識は、次第にぼんやりとしていった。
体が痺れ、耳鳴りが響く。
鹿彦は、自身が死んでいくのだと思った。
泥のように重たい肉体から徐々に抜け出ていくと、自身が宿っていたものが、いったいなんであるのかがわかった。
眼下には、噛みちぎられたような白蛇の頭が落ちている。
たしかに、鹿彦の魂は、白蛇の頭から抜け出てきたのだ。
そこで鹿彦は、不安な気持ちにかられた。みずからが為すべき仕事が、失敗に終わったことに気がついたからだ。
やがて、鹿彦の魂はある場所に吸い寄せられていった。
逃げ惑う人々の中には、ひとりの女がいた。女はこんもりと膨らんだ腹をかかえ、襲来した蛇より逃げ惑っていた。すると、鹿彦の魂はその女の腹へと入っていった。
翌朝、鹿彦と沙耶の二人は宿場をでた。空には重々しい曇天がおおい、いまにも降りだしそうだった。
傘と合羽を身につけているものの、本格的な降雨に見まわれるのは、避けたいところだ。とはいえ相手は山の天気。どうあっても堪えて進むほかはない。
二度ほどにわか雨が降ったが、それ以降は徐々に晴れてきたため、二人はたゆまず進んだ。
午後になってしばらくすると、沙耶は山道の途中で足を止めた。
街道の脇にある岩を指さして、「ここね」とつぶやくのだ。ちいさな腰掛けほどの大きさの岩だった。
鹿彦がよく見ると、岩の片隅に模様というか、文字が彫りこんであった。
『S』
自然に傷がついたにしては、あまりに均整のとれたものだ。
「汕舵のしるしです」
そういって、沙耶は岩の横を通りすぎ、草むらへと入っていった。鹿彦があわててついていくと、そこには獣道が続いていた。
森はますます深くなっていった。
杉の巨木がひしめき、薄暗い木立の奥からは耳慣れない鳥の鳴き声がひびいてくる。
坂をのぼり、沢をわたり、なおも沙耶は迷わずに進んでいく。――どうやら、道の端々にある例のしるしを追いかけているようでもあった。
半刻はたったころ、ふいに鹿彦は草木のこすれる音を耳にした。
すかさず振り返ると、木のあいだを逃げていく、影のようなものが見えた。鹿彦はおどろいて、先をゆく沙耶にいった。
「そこに、だれかが……!」
「そうですか?」
「たしかに、さっきそこに……。なにかが、つけてきているんじゃないか?」
「動物かなにかでしょう」
「そうだといいんだけど……」
納得のいかない鹿彦ではあったが、先を急ぐため、口をつぐんで歩きはじめた。
やがて二人は川原にいたった。
「このあたりで一息いれましょうか」と沙耶は振り返った。
あたりには白い丸石が敷き詰められた川原が広がっていた。川面は降り注ぐ太陽の光を反射させ、周囲を一層まばゆいものとしている。
高地から流れてくる小川は、鹿彦たちの目の前を横切り、低地へと脈々と流れていく。簡単に踏み越えてしまえるような小川だったが、鹿彦にとっては思いがけず出会った、心の癒される清水の情景だった。周囲にうっそうとした森が囲う中、さながらに、切り取られた聖域のごとく思われる場所だった。
唯一欠点といえば、夏の烈日をさえぎるものがない、という点だろうか。喉を存分に潤してから、二人は竹筒に水を汲み、川原の外れに立った水楢のふもとに身を寄せる。火照った手足を投げだしながら、目が痛くなるほどの川面の散光に、旅の来し方行く末を思うのだった。
「さて、そろそろいきましょうか。もう一息で、汕舵の集落につきます」
沙耶は立ちあがって、傘の緒を締めた。
「まだ早いよ」
と反論する鹿彦だったが、それ以上強くはいえず、しぶしぶと立ちあがった。
二人は川原を踏み越え、反対側の斜面をのぼり、森を進んでいく。
そのとき、薄暗い獣道の先に何者かがいた。その青年は弓を引き絞り、矢を二人に向け、動くな、といった。
矢はぎりぎりと唸る弓につがえられ、いまにも放たれそうだ。なおも青年はいった。
「ここへ、なにをしにきたのだ」
鹿彦は口をひらきかけたが、なにもいえなかった。
白い長髪を後ろにまとめ、日焼けした痩せ顏に鋭い目がきわだっている。毛皮の胴着と腰巻を身につけ、腰の右側には鉈らしきものをぶら下げていた。
鹿彦の斜め前方にいる沙耶は、
「動かないでください。毒矢かもしれません」
と、張りつめた声でいった。
とはいえ鹿彦は、それが毒矢でないとしても、抵抗する気がなかった。青年のたたずまいには、老練しているとも呼べる、狩人の風格と威圧感があった。
「頼みがあって、ここにまいりました」
という沙耶の声に、青年は答える。
「なんの頼みだ」
「冥界の西に導かれてゆく、多くの人々を救うために、助けをお借りしたいと思います」
油断なく弓を構えたままの青年は、鹿彦へといった。
「巫女の後ろの者よ。見たところ、おまえは、汕舵にゆかりがあるようだが」
鹿彦はおそるおそるいった。
「汕舵の血。どうやら、おれにはそれが流れているようだ。死んだお母も、髪が白く、肌の色は黒檀のようだった」
「ふむ。集落を離れた者の、倅だということか」
「わからないよ。おれは、それをしるために、ここへきた」
青年はまだ信用していないのか、警戒を緩める気配はない。そこで、沙耶はこういった。
「わたしたちは、汕舵に敵する者ではありません。あなたがたの長老たる、
青年は眉をぴくりと動かす。
「その名をどこでしったのだ」
「白ノ宮にて」
「いつの話だ」
「六年前のことです。わたしが幼い見習いのころ、長老は大きな体格の方を連れて、宮へいらっしゃいました。そのおりに、お話しをさせていただきました。――長老は、汕舵の方にしては色白で、すべてを包むような、優しい女人でした」
青年はだまっていたが、そのうち弓をおろすと、低い声でいった。
「ついてくるがいい。――しかし、もし嘘ならば、殺す。それでよければ」
鹿彦は青年に続いて獣道を進んだ。歩きにくい獣道はやがて、平石で舗装された山道と呼べるものになっていった。濃い緑の森にはさまれた道をゆくと、ふいに視界がひらけはじめた。
そこには、集落があった。
無数の木の杭を地面に打ち込み、それを村の防壁としているようだった。切れ目より村に入ると、中の光景が視界に広がった。
山道に敷かれていた平石が地面をおおい、井戸や家々へと続いていた。鹿彦がぱっと見渡すだけで、十軒ばかりの家があった。
いずれの家の周りにも堀がめぐらされ、大きな葦の屋根がふかれていた。斜面に田畑が見えたが、それほど広くはないようだ。家々の堀の内側には、動物の肉や革が台に吊るされていた。
やがて青年が、杖を突く老婆の手を引いてやってきた。
それが長老だとすれば、沙耶がいったとおり、青年や他の村人よりも、肌の色は薄いようだった。たわわな白髪は真ん中で分けられ、皺深い顔の両側に落ちていた。背はしゃんとしており、目には落ち着いた理知の光が宿っていた。
老婆は麻かなにかの、布の服に身をつつんでいた。さまざまな色で模様づけされた、ゆったりとした上衣に、裾の長い下穿きという姿だ。手にした杖の頂上には、絡まった二匹の蛇の頭骨がかぶさっていた。
そんな老婆の体は、目もあやな装身具におおわれていた。
白く輝く貝製の腕輪。青玉や紅玉がはめ込まれた腕輪。磨かれた銀の指輪。彫刻された木製の指輪。なにより、胸飾りが際立った存在感を放っている。胸元で光っているのは、黄金でできた、汕舵のしるしだ。――つまり、鹿彦が道程や集落で幾つも見たような、例の『S』の形をしていた。
老婆は沙耶のまえにくると、皺に覆われた唇をおしひらいていった。
「大きゅうなったな。見違えたぞ」
鹿彦は長老の声を、はじめて聞くものとは思えなかった。だとすればいつ、どこで聞いたのだろうか。思案する鹿彦をよそに、沙耶はいった。
「沙羅ノ腕様。わたしのことを憶えていてくださり、光栄です。――以前、白ノ宮でお会いしてから、はや、六年になるでしょうか」
「そうかのう。こう年をとると、いつがいつだか、わからんようになる」
「いえ、まるで、おかわりがないように思われます。ご達者でなによりです」
「ふむ。あのとき、そなたはわしの給仕をしてくれたな。つまずいて膳をひっくり返した娘が、世辞をいうようになったか。時は移るものだのう」
「その節は、とんだ無礼をいたしました」
「なあに、わらべのしたことよ。――そういえば、そなたは、なにかしらの重要な役についたと聞いておったが。先代が年を経て、その後任だとかで……」
沙耶は顔を曇らせる。
「たしかにわたしは、とあるご神体を祀る、お役をいただいておりました。――いまは、さる事情で、お暇をいただいております」
「ふむ。巫女たちが造った、現神の一種があったな。たしか、それを祀っているだとか」
「そのとおりです。しかし、わたしはもう……。なんというべきでしょうか。禁を破って逃げてきたのです」
「ほう。それで、ここに助けを求めにきた、と」
「ええ……。お察しの通りです。それに、ここにくる途中、馬稚の都にも立ち寄ったのですが、そこで、ここにくる理由が増えました。都で広がっている――いえ。どうやら、この地の国々で広がっている、おそろしい病のことをしりました」
「死の眠り、だな。この集落でも、十人に近い者が、眠りから覚めない状態になっておる。それに、眠りながら死んだ者もでておる」
「なんと……。汕舵の方々にも犠牲者がでているのですね。あれは、病とはいわれていますが、実際はそんなものではありません。どうやら、人々は夢の中で、銅鐸のものらしき奇妙な音に導かれ、冥土の西へと歩き続けているようなのです」
「よくぞそこまでしったな。さよう。蛇はみずからの領土に人々を集めておる。あやつは、人が心にかかえる死への憧憬を揺り動かし、呼び寄せておるのだ! ――ふむ、それはそうと、珍しい道連れがおるな」
鹿彦は長老の視線を感じて、口をひらいた。
「おれは、鹿彦といいます。馬稚の南部にある、田舎からきました」
「縁は奇しきもの、とはよくいったものだな。わしの声は、届いておったということか」
鹿彦はふいに、長老の声をどこできいたのかを理解した。蜥蜴に襲われる前に、夢の中でなんども聞いた声ではなかったか。鹿彦は青い顔をして、まじまじと長老の顔を見た。
「まさか、あなたが、おれを呼んでいらしたんですか?」
「その通りだ。
そのとき、どうしたわけか、長老を連れてきた弓使いの青年が横から口をはさんだ。
「おまえが、
青年は鹿彦へ、睨みつけるような視線を浴びせた。長老はたしなめるようにいった。
「
「長老……。おれはまだ、忘れてはいません。それは、汕舵のだれしもが同じです」
鹿彦は、汕舵の者たちが周りを取り囲んでいるのに気がついた。彼らは
長老はおびえる住民たちを一瞥してから、「すまぬが、場所を移そう」といって、歩きだした。
長老、鹿彦、沙耶の三人は村はずれのに移動した。口火を切ったのは鹿彦だ。
「さっきの、
「うむ。それが、生まれたときに与えられた、そなたの名前だ。いや、生まれる前の名、というべきか」
「よくわかりませんが。……おれは、ここで生まれたということですか? それにどうやら、あまり歓迎されていないようですね」
「母親から、なにも聞いておらんようだな」
「ええ。お母は、なにもいってくれませんでした。お父にいたっては、元よりおれは顔さえしりません。結局、おれは、なにも分からないまま、蜥蜴に追いやられて、ここまでやってきたんです」
「蜥蜴だと?」
「ええ。おれの家に、黒い奇妙な蜥蜴が押し寄せてきて……」
「ふむ。それは、蛇の仕業だろうな。かくなる上は、すべてを語らねばならんだろう。そなたには、つらい話になるかもしれんが」
「覚悟はできています」
「わかった。まずは、先に見せなければならぬものがある。ついてくるがいい」
長老は杖を突いて歩きはじめた。どうしたわけか、沙耶は立ち止まったままだ。
「なにか、見せてくれるみたいだ。早くいこうよ」
「ええ。わかっています。だからわたしは、行きたくないのです。おそろしいのです……」
そこで長老は沙耶へといった。
「そなたは、無理にこずともよい。その様子だと、あれやこれやと噂を聞いておるのだろう。まことに巫女どもは、目をつむりたがるのだな。見ることが、恐れを消すこともあろうに」
それだけいうと、長老は向き直り、なだらかな坂をのぼっていく。しばし鹿彦は沙耶を見ていたが、うつむいたままだったため、「おれは見るよ」といい残して、長老を追った。
左方の木立の向こうには長大な村の塀が見え、右手の木立の奥には二軒の家が建っている。その狭間をぬって延びる緩やかな坂を登りながら、長老はこんなことをいった。
「わしらは身を守るために、いくつかのことをしておる。宮の巫女たちと同じように、守護の結界を張っておるのがそのひとつだ。しかし、結界では妖魔や悪霊を防ぐことはできても、人間を喰い止めることはできん。そのために、わしらは、あれを造った。――汕舵の民を守らせるために」
「守らせるため……なんて。奴隷か、生き物みたいですね」
「そうだ。あれは、生き物……いや。神と呼べるものだ」
「あなたは、造った、とおっしゃいましたね。……神を造った、という意味に聞こえますが」
長老はなにも答えなかった。
坂道が終わり、小高い丘の上に至った。ますます森は深くなった。
晴天だというのに、土に降る光がとぼしい理由は、頭上を見るに明らかだ。立ち並ぶ杉や楢の木は、天を支える柱のごとく厳かにそびえ、頂上にゆくほどに繁る枝葉は、天幕となって烈日を遮っている。
薄暗い木立に流れるぬるい風は、肌を濡らさんばかりに蒸している。鹿彦は山気を浴びるに悪寒を覚えた。肌の和毛がふるえ、冷えた汗がべっとりと重たく感ぜられる。
木々の間に、白い紙のようなものが無数に垂れているのが見える。注連縄の紙垂である。
森をさえぎる注連縄は、高い位置、中ほどの位置、低い位置に張られている。注連縄であるからには、ある区画を囲んでいるのだろうが、その領域が広大すぎて、どこからどこを囲んでいるのかは見当もつかない。鹿彦に見えるのは、眼前に連なる三段の注連縄のみである。
「そなたには、まず、汕舵について説明せねばならんな。
汕舵の民はどこからきて、どこへゆくのか。
――いや、わしとて、すべてのことは知らん。しかし、多くのことは、口伝されておる。
まず、汕舵の暦によれば、わしらがこの地へ根をおろしたのは、八百年前のことだとされておる。――すべてを端から端まで説明しておっては日が暮れるゆえ、必要なことのみ、話すとしようか。
わしらは
そんなわれらは
それは昼と夜を統べる蛇の主神である。
――それはそうと、われらがこの地にやってきたとき、北西の丹綺はもちろん、いまでは同胞ともなった馬稚の者たちとも鉾を交えた。そのとき、われらは身を守るために、武器をつくったのだ。
そう、われらは汕舵に伝わる秘儀をもって、
そこまで語ると、
「汕舵の地で、現神を祀っていたことは分かりました。――しかし、なぜおれに、そんな話を?」
「ふむ。……よかろう。ここまでくれば、もはや隠すことはない」
そういって、長老は地面に腰をおろした。
「すまぬな。この老木を、土で休ませておくれ」
まだまだお若いですよ、などと世辞をいいそうになった鹿彦であったが、そんなおためごかしは汕舵の地では不要なことだった。なにかを過剰に表現したり、真実を曲げて慰めを与えることなど、必要のないことだった。すべてが長老の皺のごとく、太陽のごとく、はっきりとしていた。
「こう見えても、かつて、わしは若かったのだよ。しかし、若さの酒は精霊や神が飲んでしまったがな。――並々と杯に注がれた酒が、神や精霊によって舐め取られていくように。――そうさ、若さなど、杯に満たされた、酒のようなものさ」
鹿彦は心を鎮めて、できるだけ長老を急かさないようにした。しかし、火花のこぼれそうな鋭い視線を隠せてはいなかった。
「若鹿よ。わしはこれより、そなたへ全てを話そうと思う。おそらく、そなたには、にわかに信じられぬことかもしれん。――しかし、もう進むしかないのだ」
長老は唾を皺深い喉に音をたてて流し込み、やがて重々しく口を開いた。
「よいか、心せよ……」
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