第5話
沙耶が顔をあげると、部屋の中央にひとりの男が眠っていた。それが病身の信貞だろうとしれた。髷はとかれ、落ち武者のように髪が垂れていた。目の下に二つの黒子が、青白い顔にきわだっていた。
部屋の縁側には障子が張られ、三方には松や虎の絵が描かれた襖があった。入って右手には、油断ならぬ目つきで正座する侍がいた。そこで田山は侍にむかっていった。
「しばらく、外してくれぬか。殿の病の見立てをおこなうゆえ」
かしこまりました、と侍は腰をあげ、奥の襖に消えた。そうして部屋にいるのは、沙耶と鹿彦、信貞、田山の四人となった。蝉の声が外からしつこくひびいてきていた。
田山は刀を右脇に置き、信貞の枕元に座った。そこで神妙な面持ちで沙耶へといった。
「さて、こちらがわが殿、幸畠信貞公でございます。先日お話ししたとおり、眠りはじめて、はや十日がたっております。――いまでは見る影もなく、やせ細ってしまわれました」
たしかに信貞の顔は弱りきった、病人然としたものだった。頬はこけ、青白く、生きているのが不思議な様子ですらあった。
沙耶は信貞の痛々しい顔を見て、なぜだか、他界した父の姿を思いだした。父が病床についた、というしらせがあったのは、言忌様のお役についてからのことだ。そのため、心に残る父はいつでも、壮健な体躯に笑顔を浮かべていた。父は病床で、目のまえの信貞と同じように、半死人のようになって朽ちていったのだろうか。看とってやれなかった自分は、なんと親不孝な娘だろうか。
そんなことを思いながら、沙耶は信貞の顔を見おろした。
「なんとか、お力になりたいものです」
こういわせたのは、沙耶の心に疼く贖罪の気持ちだったかもしれない。
田山は頭をさげていった。
「ありがとうございます。して、どのように見立てますか? 殿のご容態を……」
「そうですね。なにか、眠りはじめるまえに、変わったことなどは?」
「思えば、このようになってしまう直前から、元気がなく、ふさいでいたようでしたな。しまいには、始終、鐘の音が聞こえる、鐘の音が聞こえる、などといいはじめられ……」
「なるほど、わかってきました。――眠り病、と呼ばれるこの奇病は、その言葉の通り、眠りそのものについて考えることで、糸口をつかめる気がします。そうですね、たとえば、わたしが学んだ教えによると、眠りについてはこのように考えられています。……眠りとは、現世での生活で消耗した霊力を回復させるため、魂が体をぬけて、常世に帰還している状態を指します。魂の休息時間だとも呼べるでしょう。むろん、常世とは、死後の世界だとされている場所でもあります。――死後の世界にはさまざまな呼び名があり、地域や信仰によってさまざまですが。そして、夢のとなりには、死の川が流れていると考えてよいでしょう。さて、そこでわたしは、奇病の原因について、こう考えました。――目覚めるべき魂が、なんらかの理由で、常世から帰ってこれなくなった、と」
田山は膝をのりだして尋ねてきた。
「ううむ。私どもでは、そこまでは深く考えておりませんでしたな。しかし、常世に魂が帰り、そのままになってしまった、ということですが……。正直なところ、にわかには理解しがたく思います。それはそうと、あなた様が、そのように考えた理由、とは?」
「はい。これは、きわめて個人的な体験なのですが、わたしはつい先日、宿にて、白昼夢を見たのです。その仔細はさておき、夢の中では始終、鐘の音が鳴りひびいていたのです」
そこで田山は膝をうった。
「おお、鐘の音、ですと? 殿も、そのようなことを……」
「そうです。しかも、鐘の音は、眠りにおちたわたしに、心地よい気分をもたらしました。さながら、あかりにつどう蛾のごとく、魂たちは、音にむかって歩いていったのです。――魂があの音に導かれ、いつまでも常世をさまよっている、ということであれば、その者の肉体は目覚めることがないでしょう。しかし、いまのわたしには、鐘の音がなんなのか、ということはわかりません。とはいえ、望みはあります。眠り病の者をすべて呼びもどすことはできなくとも、たとえば、信貞様にねらいを定めて呼びもどすことならば……」
田山はいぶかしげな表情をしていたが、最後のひとことには反応したようだ。
「殿を、呼びもどす? なんと! さすがは、宮の巫女様でございます!」
「いえ、これは、ごく当然の道理をもうしたまでです。――さて、呼びもどすとなれば、いささか、特別な方法をとらねばなりせん。簡単にもうしますと、その方法とは、夢の世界に飛びこみ、殿を連れかえる、というものです。となると、だれが飛びこむか、ということになります。――また、この役は、だれでもできることではありません。まず、常世にいくことに過剰な恐怖心があってはなりません。しかるに、尋常ならざるできごとに耐える、胆力が求められます。――夢の中というのは、現世と似ていながら、奇妙なものですから」
田山はそこで口をはさんだ。
「なるほど。胆力のある者が必要ならば、わが国の武士から、特に豪胆の者を選りすぐりましょう」
「いえ、そうではないのです。夢とはいえ、妖魔や幽霊などの怪異があらわれることもあります。ゆえに、お侍様のおっしゃる胆力とは、意味が異なります。必要な種類の胆力とは、怪異への慣れ、というべきでしょうか」
すると、田山は腕を組んで考えはじめた。
「ふうむ。そうなると、困りますな。どうにかなりませんか?」
沙耶はしばらくうつむいてから、もうしわけない気持ちで鹿彦を見た。
「そうですね。本来はそれこそ、宮の巫女がつとめるべき役なのですが。……しいていえば」
鹿彦はびくりと肩をふるわせた。
「ちょっと待ってくれよ。まさか……」
「こういいきるのはいささか極端かとは思いますが、あなたならば、いくぶんかは慣れているはずです」
鹿彦は口をあんぐりとひらき、信じられない、といった表情をしていた。
屋敷の外からはあいかわらず、蝉の声がなだれこんできていた。
皮肉まじりに沙耶は思う。あまりの騒々しさに、信貞ですら目を覚ますのではないかと。
鹿彦は蝉の鳴き声のせいで、聞きまちがえたのではないかと耳をうたがった。
しかし、いつにない沙耶の真剣な目つきを見ると、聞きまちがいではないようだ。
沙耶さん、と口走ってから、沙耶が偽名で通していることを思いだし、自身の頬を打つ。
「ど、どうしておれが、お殿様のために体を張らなきゃならないんだい? おれはただ、汕舵の地をめざしているだけなんだよ」
沙耶はうなずいた。
「それも、もっともです。役を引き受けるか決めるのは、あなたですよ、鹿彦さん」
すると、田山が咳払いをし、温和な表情のわりには低い声でいった。
「巫女様のおっしゃる通りだ。――鹿彦殿が、ご決断くださればよい。この田山藤次郎。誠意に対しては、誠意を尽くす心づもりでおる。ご助力いただけるのならば、結果はどうあれ、私の目のとどくところではお守りもうしあげる。――もし、ご助力いただけないのならば。……いや、お互いのためにも、そうならないことを祈っておる」
世慣れしていない鹿彦だったが、それが静かな脅迫であることはわかった。
それに、『役』という言葉を聞くと、沙耶のこれまでの身の上を思わずにいられなかった。沙耶へと近づくために、それを背負ってみるのも悪いことではない。そんな風にも思われた。
「わかった。……やってみるよ」
すぐに術の準備がはじまった。
沙耶は田山へとあれやこれやと指示をだした。
澄んだ音をだす、手ごろな鈴を用意すること。
雨戸をしめ、光をとざすこと。
蝋燭を用意すること。
枕を用意すること。
信貞と沙耶と鹿彦以外は退出すること。
――田山はこれらの要望を速やかに満たした。
鹿彦は信貞の横に置かれた枕に頭を載せた。
天井には蝋燭の炎がつくる陰影がおどっている。
それを見ながら沙耶の説明を聞いているのだが、ふと、眠りにおちそうにもなる。
沙耶は枕元で鈴を鳴らしながら、きわめてゆっくりと浄歌をうたった。
金色の 鱗より出で もろともに
海より生じ 浄しなるかな
鈴の音の間隔が、心なしか短くなっていく。
それに合わせて、浄歌の抑揚が強くなっていく。
金色の 鱗より出で もろともに
海より生じ 浄しなるかな
蝋燭がうつす天井の陽炎を見ていると、洞穴での彷徨を思いだす。
闇の中になにを見たか。
恐怖か。
恐怖とはなんだったか。
それは、恐怖する心そのものだった。
鹿彦は目をとじ、洞穴の中で見つけた沙耶の姿を心に浮かべていた。
すると、沙耶の声がした。現実のものかどうか、判然としなかった。
「これより術式をはじめます。最後にひとつだけ、注意があります。それは、あちらの世界で、欠かさず手の平を見る、ということです。忘れないでください。手の平を見つめていれば、心をうしなわずにすみます。特にあちらへいったばかりの頃は、自我が不安定で、夢に呑みこまれやすくなっているため、注意してください。――さあ、となりで眠る、信貞様の呼吸の音が聞こえますね。あなたも、それに合わせて呼吸をしてください。……もっとゆっくり。……徐々に、門が見えてくるはずです。門は目のまえにせまります。あなたは、なにもおそれず、門にはいっていきます。あなたは信貞様をお連れするために、常世へとおりていきます」
鹿彦は覚醒と睡眠のあいだの闇をただよっていた。
沙耶が鳴らす鈴の音が、いずこからともなく、途切れがちに聞こえる。
リーン……リーン……
リーン……
耳をくすぐる鈴の音は、うねるような耳鳴りとともに、鹿彦の体をつつむ。
やがて、離れた場所に大きな門を見つけた。
吸いこまれるように、門へと体が引きよせられていく。
門は頑丈そうだ。樫かなにかの材質だろうか。
門のむこうからは、光が溢れてくる。
体が潮流に押され、門の中へ導かれる。
気がつくと、鹿彦はうつ伏せになり、地面にたおれていた。
両手をついて体を起こすと街並みがあった。それこそ、昨日の宿の外に広がっていたような、ごく普通の街並みだった。ただし、人通りはまばらな様子だった。
(さっきまでは、お城にいたはずなのに……。おれは、夢でも見ていたんだろうか? 道で気をうしなって……。いや。……いや、ちがう!)
鹿彦は沙耶に忠告された通り、自分の手の平を見た。手には細かな皺がなかった。それに、いくつかの太い溝は、見なれない奇妙な曲線を描いていた。
街並みを見ると、人や物の輪郭ははっきりとしているのだが、文字や細部の模様があいまいだ。たとえば看板のちいさな文字などは、見るたびに書かれている内容が変わる始末。
(そうか。おれはいま、夢の中にいる)
そう自身にいいきかせると、鹿彦は顔のまえに左手をかかげ、手の平をいつでも見られるようにした。奇妙な手の皺を見ることで、正気を保っていられる気がしたからだ。その奇妙な姿勢のまま、往来をながめて信貞の姿を探しはじめる。
しかし、簡単には見つからない。
そのうち、西の方から重々しい音が聞こえてきた。
大きな金属を打つような……。
寺の鐘にしては低く、にごっている。
洗練されたものではなく、粗野な、地鳴りのようなひびきだ。
鹿彦はそれでも、その音を鐘かなにかのものだろう、と考えた。
鐘の音に導かれ、左手をかかげた奇妙な少年は歩き続けた。ときおり手の平を見ることを忘れた。すると、とたんに自分が夢の中にいることを忘れそうになった。二度ほどそういった危うい経験をしてから、意地でも手の平を見続けた。左手が疲れてくれば右手を。右手が疲れてくれば左手を。
往来から斜面を西にむかうほど、あたりは荒涼惨憺とした風景になった。空は暗く、道は荒れている。これはさながら、地獄かなにか……ろくでもない、不吉な世界に向かっているようではないか。
それに、鐘の音に誘われる者はみな、生気をうしない、口をひらき、死人のようなありさまだ。黒目は上のまぶたにもぐり、ほとんど白目。女も男もよだれを垂らし、阿片か酒に溺れた者のようだ。
そのくせ、彼らはどこか恍惚とした笑顔を浮かべ、鐘の音を目指しているのだ。
これらの様子を、左手の指のあいだから眺める鹿彦は、ひとつの確信にいたった。
(この夢の世界には、多くの人が夜ごとに訪れるはずだ。その中でも、鐘の音に導かれる人々が、おそらく目覚めることもなく、延々と夢の中にいる者たちだろう。だとしたら、鐘の音の元には、どのような光景が広がっているのだろう……)
人々の歩みはきわめて緩慢だった。
鹿彦が普通に歩む速度に比べれば、人々の歩みは止まっているも同然だった。
鹿彦は意を決して、信貞を見つけるために駆けだした。
あたりをふりかえり、人々の中に信貞の姿がないことを確認しつつ、疾風のごとく斜面をおりていった。
そのとき、頭上で雷鳴がとどろいた。
ついで、空から黒い気流がのびてきた。すこし離れた場所に気流があつまり、やがて、中から黒い具足に身をつつんだ、いかめしい武者があらわれた。皮膚や顔は真っ黒で、液体のようだった。右手には大きな太刀をかかげていた。
武者というよりも、悪鬼か鬼神といった方がよいだろうか。
鬼神は宙を舞い、地も裂けんばかりの怒声をはなち、太刀をふりあげた。
「ここよりうせよ!」
すると鬼神は、半死人たちに向かって太刀を振りおろした。近くにいたひとりは、おどろいて、ころげるように逃げていった。何人かが足をもつらせて地に倒れた。
鹿彦はしばし呆気にとられていたのだが、その鬼神を迂回し、逃れるように先を急いだ。
ますます道は険しくなり、空は赤黒くなっていった。
赤茶けた地面には草木がなく、斜面は急峻になっていく。
どうやら、場所が時間と同じ役割を持っているようだった。
東方の街並みでは、あたりは昼間だった。一方、西にすすむほど、あたりは夜へと近づいていたのだ。
(そうだ。おれは、夜にむかって駆けている。日暮れへとむかっているんだ。……なんだって、おれはいつも、暗い場所を旅しなきゃならないんだよ。蜥蜴たちとの鬼ごっこでは夜の森。言忌様の洞穴……。まったく、たまらないよ、これじゃあ)
斜面はいつしか、崖とも呼べる傾斜になった。その先には広大な盆地が見えた。
うめき声が絶えずひびき、鐘の音はますます重厚にこだましている。
見わたすかぎりに広がる谷底の情景は、鹿彦に戦慄をあたえた。
油断すれば転げ落ちてしまいそうな斜面で踏みとどまり、鹿彦は眼下の、地獄を思わせる世界の底を見ていた。
そうするときにも、半死人たちは次々と斜面をおりていく。――いや、転げおちていく、といった方が適切だろう。
(もし、信貞様があそこの、地の底にいるのだとしたら、もうおれには、どうしようもない……。しかし、まだ信貞様は、崖へとむかっている最中かもしれない……)
嘆息したのち、鹿彦はすこし引きかえし、出迎える形で信貞の姿をさがしはじめた。
いざ信貞を見つけたときに、二人で崖を転げていったら元も子もない。それに、急な斜面にへばりついていては、手の平を見ることができない。
どれほど待ったことだろう。
ときおり数人の亡者が鹿彦の横をとおり、崖の方へむかっていった。
地の底からはあいかわらず、鐘の音と人々のうなり声が一体となって、押しよせてきていた。
長いあいだ斜面に向かってくる人々を検分していると、白い着物をだらしなく身につけ、ふらふらと歩いてくる男が鹿彦の目にはいった。
男の右目の下には、二つの黒子があった。その顔立ちは、鹿彦が夢の世界にくるまえに、病床についていた信貞のものと思われた。
鹿彦は男に駆けよった。
「もし。信貞様ではありませんか」
しかし男は、なにも目に入っていないように、無表情のまま歩き続ける。
「いけません。その先は、地の底です」
鹿彦の声が耳にはいらないのか、男は一顧だにせず、いってしまう。
鹿彦は男にしがみついた。
男はうなり声をあげたものの、それでも鐘の音にむかっていこうとする。
そうして鹿彦は、男に引きずられるようにして、斜面をくだっていった。
そのうち、またさきほどの、ほとんど崖になっているあたりまできてしまった。下方に目を向けると、急峻な崖の下に、地の果てまでも続きそうな、薄暗い谷底が広がっている。鹿彦はふたたび、男のまえに立った。
「だめだ……目を覚ますんだ! このままじゃ、二人とも落ちてしまうよ! 信貞様。おれは、あんたを助けにきたんだ!」
そのとき、頭上で雷鳴がひびいた。
見ると、斜面の一画に黒い渦があつまっていき、そこから先刻の鬼神があらわれた。やはり右手には、大きな太刀を提げている。
鬼神は地面を滑るようにせまってきた。
鹿彦は尻もちをついて、信貞から離れた。信貞は鬼神をも意に介さず、地の底へおりようとしている。
そんな信貞のまえに鬼神は立ちはだかり、足をあげて蹴りとばした。坂の上方にむかって、である。
吹きとばされた信貞は、腹をおさえて、よろよろと立ちあがった。
鬼神はなおもつめより、太刀を握った拳で、信貞の頭を殴りつけた。すると信貞はふたたび、地面に倒れこんだ。
鬼神は顔を天にむけて、嘆くような大声をあげた。その声には、哀切の情が溢れていた。
腰を抜かしていた鹿彦は、信貞をかばうほどの勇気はないまでも、鬼神の横を遠巻きに周りこみ、信貞へと近づこうとした。
それでも鬼神は容赦なく、信貞を痛めつけた。殴りつけ、足蹴にし、ますます信貞はぼろぼろになっていく。顔を腫らし、口に血を流し、それでも信貞は人形のように呆然と虚空に視線を泳がせている。
黒かった鬼神の顔には、ほのかな血色がさし、いつしか壮年の男のようになっていた。鬼神は目に赤い涙を流していた。
そこで、鬼神は吠えた。
「おお、信貞よ! 民を守るべきそなたが! 鐘の音にたぶらかされて、なんとする!」
鬼神は血の涙をとうとうと流しながら、ふたたび信貞を殴りつけた。
「目覚めよ! 目覚めよ!」
それでも信貞の様子は変わらない。
やがて、鬼神は覚悟を決めたように太刀を振りあげた。
鹿彦が息を呑む間もなく太刀が振りおろされ、切っ先は信貞の胸をとらえた。
白い着物が裂かれ、胸より血が垂れていた。――どうやら、さほど深くは斬られていないようだった。
信貞は座りこみ、ゆっくりと右手をあげて、自分の胸をなではじめた。手の平についた血に、おびえている様子でもあった。
鬼神は信貞につめより、声をかけた。
「目が覚めたか。そなたは、死ぬところだったのだ」
信貞は顔をあげ、鬼神へといった。
「ち、父上……。これは、どうしたことでしょう……」
鬼神はいくらか落ちついた声でこたえた。
「うむ。わしが心の臓の病で世を去ったのは、二年前になるか。それから、わしは常世にて馬稚の国を見ておった。先に亡くなられたご先祖たちは、ときおりわしの所にまいっては、生まれかわるなり、修行を積んで天道を目指すなりせよと、しつこくもうしたものじゃ。しかし、わしはそなたらのことが気になっておった。――それから一年ほどしてから、奇妙なことが起きた。何者かが常世の地にまいり、いまでも聞こえる、この鐘を鳴らしはじめたのだ。実際は、鐘ではなく、銅鐸であるが、それはまあよい。その者は常世の西に居座り、延々と銅鐸を鳴らし続けるようになった。その銅鑼は、汕舵にゆかりのある物のようだが、詳しくはわからぬ。して、蛇は……。そうじゃ、その銅鑼を鳴らすのは、どこぞより現れた蛇の魔性なのだ! 蛇は常世の西を掘り、死者を捕らえる牢獄をつくりおった。見よ! あれなる盆地を。昔は、ここに崖などはなかったのだ。しかし蛇は、なんの目的か、あのような蟻地獄の底のごとき領土を築き、銅鐸の音によって死者を次々とおびき寄せておるのだ。次第に音は大きくなり、死者のみならず、生者をも、夢を通じて引きいれるようになった。――崖へむかう亡者たちを見よ。馬稚の民のみならず、さまざまな姿の者がいるであろう。――さよう、蛇はすべての者を、地の底へ導こうとしておるのだ。ためにわしは、このような姿となり、西へゆくものをおどかしつけ、引き返させようとしていたのだ。そこにまさか、そなたまでもやってこようとは! なにしろ、生者の中でも、生きる気力のない者からおびき寄せられるようなのだ。国主たるそなたが、ここへまいるとは」
鬼神は嘆かわしく首をふった。信貞はおどろいたような表情でいった。
「まさか、そのようなことがあったとは。――それに、たしかに、私の気力が足りぬ、ともうされれば、返す言葉もございません。どうしたら父上のようになれるか、ということばかりを考え、ふさぎこんでおりました」
そこで鬼神は太刀を振りあげ、切っ先を谷底へむけた。地の底を這う人々の姿が、おぼろげに見えた。人々は苦しげなうめき声をあげ、なおも底の底からひびく、銅鑼の音を目指しているようだった。
「見よ。あの中にも、馬稚の民がおるぞ。わしと、そなたが救えなかった、あわれな者どもが。蛇の邪法が諸悪の根源なれど、それに気づかず、民を苦しめたのは、わしと、そなただ」
すると、信貞は崖のしたへむかって両手をつき、悲痛な声をもらした。
「なんということだ。……私が、あの者たちを救えなかったのか」
そうするはしから、まだまだ新たな亡者が現れ、斜面を転げるようにくだっていく。
「ならぬ! そちらはだめだ!」
信貞は止めようとするのだが、虚しくも地の底は人々を呑み込んでいく。やがて、信貞がひとりの亡者に抱きついたまま一緒に転げ落ちようとしたとき、鬼神が動いた。
なんとか信貞は担ぎあげられ、転落を免れた。
自責の念のために嘆き叫ぶ信貞にむかって、静まれい、と一喝した鬼神は、さとすようにいった。
「このままでは、どうすることもできん。汕舵の民が、事態を解決するための鍵を握るだろう。そなたは、汕舵の民に助けを求めよ。して、そこな若人」
突然水を向けられた鹿彦は、思わず口ごもった。
「はい……。なんでしょうか」
「そなたは、見たところ、まったくもって壮健な様子。しかるに、家臣の手引きで信貞を救いにきた者とみるが、いかに」
「ああ。簡単にいうと、そういうことです。おれは、家老の田山様に脅されて、ここまできたんですよ。考えてみれば、ご挨拶もなにも、まだでしたね。おれは、鹿彦という旅のものです。協力しなければ、斬り捨てるつもりだったんです。きっと」
鬼神は口元を釣り上げ、苦笑をもらした。
「あやつの忠義は岩より堅く、火より熱い。どうか許されよ。すまぬが、愚息をここより連れ帰るのを助けてやってくれぬか? こやつときたら、歩くのもやっとのようなのだ」
「あなたさまの拳と刀も、相当にこたえたようですが。――いえ。きちんと連れて帰りますよ」
鹿彦は信貞の手をとり、ほら行きますよ、と声をかけた。
信貞はその手を振り払ってから、申し訳なさそうに口をひらいた。
「すまぬが、なにからなにまで、周りの者にすがりたくはない。自分で歩かせてはくれぬか?」
鹿彦はうなずいた。
「わかったよ。無理はしないでくれよ」
そこで鬼神の声がした。
「そなたの髪、肌の色。――もしや、家臣たちはすでに、汕舵の助けを得たということか?」
鹿彦は首をふった。
「いいや。さっきもいった通り、成り行きでこうなっただけです」
「そうか。いずれにせよ、旅人は神人、という言葉の通り、旅人には奇しき縁がまつわるもの。これも、良き縁と思いたい。――どうか、信貞を救ってくだされ」
「できるだけ、そうするつもりです。けれど、自分でしか、自分を救えませんよ」
そのとき、鹿彦の耳に奇妙な声がひびいてきた。
銅鐸の音は始終響いているのだが、そうではなく、濁った重々しい声だった。
『うぬが、ここへくるとは、なんの縁か』
はじめ鹿彦は、鬼神がなにかをいったのかと思った。しかし、そんな様子でもない。
『生きておったのか』
その声は、鹿彦に激甚な頭痛をもたらした。声のひとつひとつが釘のごとく頭に刺さり、頭蓋にひびを入れてくるようだった。
『わが…………よ。うぬは、生きておっては、ならぬのだ』
頭をおさえてうずくまっていると、信貞が心配そうにたずねてきた。
「どうした、鹿彦。なにかあったか」
「いいや。……平気です。それより、早く常世を出ましょう」
そこで、鬼神の声がした。
「なんなのだ、あれは!」
その声におどろいて、鹿彦はふりかえった。なんと、崖の底から巨大な蜥蜴が迫ってきていたのだ。一体とはいえ、大きさは象ほどもある。
濡れたように体を黒光りさせる大蜥蜴は、みるみる斜面をのぼってきた。
やがて蜥蜴は真っ赤な大口をあけて、鹿彦に喰らいついてきた。鹿彦はそれをかわしたものの、なおも蜥蜴は鼻息を荒げてせまりくる。
そのとき、鬼神が鹿彦のまえにおどりでて、蜥蜴に立ちむかった。
「そなたらは逃げよ。早う!」
鬼神は蜥蜴の頭へ太刀を振りおろした。しかし蜥蜴は怯むことなく、鬼神へ体当たりをした。鹿彦はなにもできずに立ちつくしていた。信貞も呆然としている。鬼神は蜥蜴の頭を抱えこみ、なんとか押さえつけている。
「なにをしておる。ゆかぬか! そなたらは生きて帰り、民を救わねばならん」
谷底の方で甲高い声がしたため、鹿彦はそちらへ目をむけた。すると、こんどは大小さまざまな蜥蜴が押しよせてきていた。
鹿彦は決心して、信貞の腕をつかんだ。
「今は逃げましょう。急いで!」
鹿彦は信貞を連れて、斜面をのぼり続けた。
背後で蜥蜴たちの鳴き声がしたが、振りかえらずに走り続けた。
「どうしておれは、いつもいつも、蜥蜴に追い回されるんだ」
そんな嘆き声をあげながら、出口を目指した。
蜥蜴は鹿彦の尻や腕や脚に飛びついて、牙を立ててきた。信貞も同じように全身へ傷をつくりながら、懸命に走っていた。
やがて斜面がなだらかになると、次第に周囲に草木が見えるようになった。そのうち、馬稚国の宿場通りと似た場所にいきついた。
ほどなく巨大な木製の門のまえにやってくると、鹿彦は頭から飛びこんだ。
鹿彦が目をあけると、蝋燭の光が部屋の天井をくすぐっているのが見えた。
傍らには沙耶が座っていた。なにか話しかけようと、鹿彦は朦朧とした意識のままうめき声をあげた。
「もどったのですね」
と沙耶が近づいてきた。
「ああ。それよりも」
鹿彦は体を起こして、横に眠る信貞の顔を見た。心配そうな沙耶の声がする。
「どうなったのですか? 信貞様は……」
「わからない……。門のまえまで一緒にきたんだけど……。最後は見失ったんだ。すまない」
「どうして?」
「仕方ないだろ? 蜥蜴のやつらが、どういうわけか、襲ってきていたんだよ。おれだって、死に物狂いだったんだ!」
そのとき、襖がひらいた。話し声を聞いた田山が、顔をのぞかせたのだ。
「鹿彦殿! ……殿は、どうなったのだ?」
そういうと、田山は部屋の中に入ってきた。鹿彦はたじろぎながらも答えた。
「わかりません。もし無事なら、目を覚ますはずですが……」
田山は信貞の枕元に駆けより、
「お目覚めくだされ! どうか、お目覚めを……殿!」
やがて、信貞のまぶたが細かくふるえだした。規則正しかった呼吸が、次第に乱れはじめた。
「殿……。どうかお目覚めを!」
田山は両手を宙におどらせ、いまにも信貞につかみかからんばかりだった。
ついに、信貞の目がひらいた。
蝋燭の光をうつす瞳は、朝日のように輝いた。
「う……む。……ここは」
「殿! ついに! ……お、お」
なおも田山は両手を宙でこわばらせ、小刻みにふるわせていた。信貞を抱きしめようとするおのれを、すんでの所で制しているようだった。
信貞は枕に頭を載せたまま、弱々しくも、安らかな声でいった。
「田山か」
「さようでございます!」
信貞は満面の笑みをたたえる田山を見て、痩せた顔をほころばせた。
「すまぬが、ちと、顔が近いな」
「これは、とんだご無礼を……!」
田山は袴を整え、距離をとって平伏した。沙耶も同じように畳へ伏す。
鹿彦には、この光景がどうにも、滑稽で大げさな芝居のように思われた。それにも関わらず、あえて芝居に加わる心地で、鹿彦も頭を下げた。
信貞は咳ばらいをしてから、ゆっくりと話しはじめた。
「みなの者、よくぞ私のために、尽力をいたしてくれた。心より礼をもうすぞ。特に鹿彦。そなたは、縁もないこの私を、命を賭して守ってくれたな。まことに、心強かったぞ。――して、そこな巫女。むろん、そなたの術がなければ、常世をさまようわしの元へ、鹿彦を送りこむことが叶わぬかっただろう。このうえなき大儀である。重ね重ね礼をもうす」
そのうち、畳に顔を向けた鹿彦の耳に、何者かのすすり泣きが聞こえてきた。沙耶にしては野太いため、田山のものであるらしかった。
信貞は一堂に、夢の中でのできごとを語った。
父の信成が鬼神となって民や自身を守ろうとしたこと。魔性の存在が、銅鐸を使って民をおびき寄せていること。冥土の西の果てにある、おそるべき領土のこと。
半信半疑であった田山だったが、信貞の真剣な様子を見ていくうちに、顔を青ざめさせていった。
「まさか……。そのようなことが起きているとは」
鹿彦と沙耶は、田山が手配した上等な旅籠に泊まった。
翌日あらためて駕籠で城にいくと、やはり同じ屋敷に案内された。
田山に従って縁側から中に入ると、羽織袴を身につけ、髷を結った信貞がいた。
信貞の顔は青白く、頬も痛々しくこけている。しかし目には、しっかりとした意思の光があった。
信貞が部屋の奥に敷かれた座布団に腰をおろすと、ついで田山がその右手に、鹿彦と沙耶が正面に座った。
田山は信貞にむかって会釈をすると、咳ばらいをひとつして、こういった。
「さて、巫女様、ならびに鹿彦殿のご助力を賜ったこと、ここにあらためてお礼もうしあげます。――きょう、こうして、内々に談義の席をもうけましたのは、他でもない、眠り病のことについてお話をするためにございます。幸いにも殿の身はお救いできましたが、例のお話が本当ならば、まだまだ問題は残っております。本来ならば家臣たちにも問題をつまびらかにし、国を上げて立ち向かうべきなのですが……」
そこで田山はいい淀んだ。信貞は助け舟をだした。
「うむ、よい。……迂闊なことをもうせば、私が乱心したと思われるのが、おちだ。動くにしても、秘密裏に、ということになろう。――しかし、巫女殿」
はい、と沙耶は返事をした。
「いったい今、なにが起きているのだろう。あの、地の果ての光景は、なんだったのだろう……」
「わたしには、まだはっきりとはわかりません。しかし、大変なことが起きている、ということに間違いはございません。このままでは、馬稚どころか、この地に住むあらゆる者が、死にたえるかもしれません」
「おお! たしかにその通りだ。冥土の坂道には、様々な者がいたぞ。南方の背が高い者。北方の色白の者。大人子供、貴賎を問わず。……あれを止めることはできるのか?」
「信貞様のお話によると、魔性の者は銅鐸を使い、人々を呼び寄せている、ということでした。それに、銅鐸は汕舵の民に関わるものだ、ということでしたね」
「うむ。そうだ。そのように、あの鬼神――父上がいっていた」
「縁とは奇しきものです。わたしたちは、元より汕舵の地を目指していたのです。明日にでも、ふたたび旅にでるつもりです。なにかわかったことがありましたら、お耳にいれましょう」
「そうか……。なにもできず、すまぬな。この恩は忘れぬ。なにかできることがあれば、遠慮せずにいうがいい。せいぜい、私は気を引き締め、常世などに引き込まれぬようにしよう」
沙耶はなにかをいいかけた。しかし思いなおしたように、口をとじてしまった。鹿彦は不思議に思ったが、あえて問うこともしなかった。
やがて一堂は惜しみながら、別れの挨拶をかわした。
宿についてから、開口一番に鹿彦は尋ねた。
「あんたは、さっき、なにをいおうとしたんだい?」
沙耶は遠慮がちに答えた。
「いえ。まだ確信がありませんから」
「そうか……」
「ええ。汕舵の地に至れば、明らかになることです」
「だから、それはどういうことなんだい?」
「まだ、はっきりとはわかりません」
それっきり、沙耶は口をとざした。
「考えてもみれば、沙耶さん、あんたが馬稚の人々のために労力をはらって、汕舵の民に助けを求めにいく必要があるのかい? まあ、おれについては、出生のことや蜥蜴のことについて聞いてみたい、っていう理由があるけれど……」
「そうですね……」
沙耶はそれ以上語ろうとはしなかった。
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